2024年09月17日

星新一原作のNHKドラマ「処刑」(原作を忠実に再現しつつ新たな視点を示した作品)


「処刑」男と銀の装置 - コピー.jpg
(Image credit NHK/youtube)

星新一作「処刑」は、罪を犯した「男」が、荒れ果てた星に、ある機能を持つ銀の玉とともに放置される物語。

罪への罰として「生きて地球へ帰る道」を完全に奪われた男は、ゆるやかに死へと追い詰められていく。



(前編)総合 2024年9月18日(水) 午後10:45〜午後11:00
(後編)総合 2024年9月19日(木) 午後10:45〜午後11:00




【「処刑」あらすじ】

機械化が進んだ地球の文明に適応できなかった男が、衝動的に犯した殺人。

めまぐるしい日常の中で、自分の苛立ちも他人の命も認識できなくなっていた男は、水の無い処刑の星に送られて、はじめて自分の命の残り時間を凝視する。

「処刑」赤い星の大地 - コピー.jpg
(Image credit NHK/youtube)

銀の玉は、その星で唯一、男に水を与えてくれる装置。

だが水を産み出すボタンは、同時に銀の玉を爆発させるランダムな起爆スイッチだった。
銀の玉は、「その時」がいつかはわからないことで、水と引き換えに恐怖を与え続ける、残酷な処刑装置だったのだ。

(誰かの銀の玉が爆発した瞬間を見る男)
「処刑」爆発 - コピー.jpg
(Image credit NHK/youtube)

男は、水を手にして今この瞬間を生き延びるために、自分を爆死させる処刑ボタンを押し続けることになる。

「処刑」ボタン - コピー.jpg
(Image credit NHK/youtube)



(小説版「処刑」より)
(罪を犯した理由について)説明はできなくても、原因はあった。それは衝動とでも呼ぶべきものだった。
 朝から晩まで単調なキーの音を聞き、明滅するランプを見つめているような仕事。それの集った一週間。それの集った一か月。その一か月が集った一年。その一年で成り立つ、一生。
 しかし、それに対して、不満をいだきはじめたら、もう最後なのだ。逃げようとしても、行き場はない。機械はそのうち、そのような反抗心を持った人間を見抜き、片づけてしまう。片づけるといっても、機械が直接に手を下すわけではない。その人間に、犯罪を犯させるのだ。
 いらいらしたものは、少しずつそんな人間のなかにたまる。酒やセックスでまぎらせるうちは、まだいい。麻薬に走るものもでる。麻薬を手にいれることのできないものは、どうにも処理しようのない内心を押さえ切れなくなって、ちょっとしたことで爆発させる。
   (略)
裁判所の機械は冷静に動き、決して誤審のない、正確きわまる判決を下す。脳波測定器、自白薬の霧、最新式のうそ発見器は、組み合わされた一連の動きをおこなって、たちまちのうちに、事実を再現してしまうのだから。

(ドラマの中の処刑を宣告される瞬間。「男」の額に自動裁判のための装置がつけられている)
「処刑」判決の瞬間 - コピー.jpg
(Image credit NHK/youtube)

ちくしょう。地球め。彼は地球を、彼をこんな羽目においやった文明を、心の底からのろい、なんの役に立たなくても、あの青い星めがけて憎悪の念を集中してやろうと思った。しかし、青は、すぐ水を連想させ、雨、雪、霧、しぶき、流れ、あらゆる種類の豊富な水に連想が飛び、それはできないのだった。
(「処刑」同上)

機械文明が人間性を蝕んでいき、そしてついに、既になけなしとなった人間性を、衝動的に放棄する人々。

その者たちの罪を、正確無比の「組み合わされた一連の動き」で暴き、裁く機械。

ほころびから零れ落ちていく人間を冷笑し、より苦痛の多い刑罰を望む、今はまだ、機械文明の網に絡まることができている人々。

1959年に、こうした社会の実像をとらえた作家星新一の、冷たいメスの刃のようなまなざしは、この作品では、人間の心と肉体からほとばしる、生き延びたいという文字通りの渇望にも注がれている

そのまなざしが、破滅へと背中を押し続ける文明の、そびえたつ無限の無言の壁のような硬質と、後戻りを許されない人間のあがきのたうち、それぞれを、克明に追う。

そして、その息詰まる時間の先に、そこをくぐりぬけた果ての世界が広がる。


ドラマ版では、原作にある、星をさまよう男の、詳細な心の呟きは省略されているが、物語の道筋となる言葉と、孤立した男の心によぎる、銀の玉からのささやきは、ほぼ原作通り。

そして、少しだけ描写の角度を変え、原作の世界観が秘めていた新たな側面を、浮かび上がらせている。

それは、地球から切り離された男が思い描く、美しい女性。

(「男」が、美しい女(SUMIRE)と、夢の中でよりそう場面は、原作には無い静けさがある)
「処刑」美しい女 - コピー.jpg

そして、結末の男のしぐさと、ことば。

これらが、既に原作を読み、その鋭さと結末を「名作」として記憶している者にも、少しだけ違う感触を残す。

この「少しだけ」が、両方の作品に触れた人に、そのはざまで、もう一度、物語の意味を考えさせるのだ。



ドラマ版では、この「男」の怒りと虚無の渦巻くあやうさを、窪塚洋介が完璧に再現。

処刑「前編」サムネ - コピー.jpg

「処刑」男の表情 - コピー.jpg
(Image credit NHK/youtube)

同じ星に輸送されるさなか、錯乱と怯えにうかされながら、銀の玉の恐ろしさを語る囚人をROLLY、
処刑 囚人の表情リサイズ - コピー.jpg

一切の感情も同情もなく、銀の玉を「男」に渡す職員を野間口徹が演じた。
処刑 職員の表情2リサイズ - コピー.jpg
(ごく短いシーンを名脇役が固め、それぞれの表情が、これからはじまる処刑の、絶対的閉塞感を伝える)



原作に忠実な場面も、実写の圧でその意味に気づかされ、1959年から現代までの間に、描かれた息苦しい未来がほぼ現実となり、これからますますそこに近づいていくだろうという、観る者自身の実感が、ドラマの引力と融合していく。

ドラマを観た人は原作に、原作を読んだ人はドラマに、手を伸ばしてほしい。



【「処刑」収録のDVD】



出演:窪塚洋介 / ROLLY SUMIRE 野間口徹 / 島本須美
【脚本・演出・撮影】柿本ケンサク【プロデューサー】乗富巌、伊藤嵩【助監督】秋山真二【制作担当】佐野裕哉、加藤勇人【照明】森寺テツ【録音】中野雄一【美術】延賀亮【ドローン】西尾隆【劇用車】河村章夫【衣装】タカハシエイジ【メイク】内藤歩【記録】丹羽春乃【編集】久保雅之【映像技術】辻高廣【カラーグレーディング】西田賢幸【CG】山内太【音楽】Akeboshi、山田勝也【サウンドデザイン・MA】渡辺寛志



(後編の予告動画)



星新一の不思議な不思議な短編ドラマ PR動画


星新一の珠玉の作品を映像化したシリーズ [星新一の不思議な不思議な短編ドラマ] | 夜ドラで8/26 (月) 放送スタート!| NHK







(デンマークの画家ハマスホイの室内画と、星新一の短編をご紹介した記事)
欲望の城挿絵 - コピー.jpgInterior,_Sunlight_on_the_Floor - コピー.jpg



(参照URL)
・星新一公式サイト

・星新一作品一覧「ホシヅル図書館」

1、ショート・ショートタイトル一覧と、どの作品集に収録されているかがわかるページ

2、刊行順全著作リスト

3、作品の初出情報がわかるページ


「処刑」を収録した文庫本(その他の作品も読みごたえがありおすすめ)

【星新一を紹介した書籍】
最相葉月『星新一 −一〇〇一話をつくった人』
 星新一の生涯と作品の関係を詳しく紹介した名著。手塚治虫、江戸川乱歩、小松左京、筒井康隆らと星新一の交友関係も知ることができる。

(ハードカバー版)
(文庫版 上下巻)


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2023年08月17日

NHKで『獄門島』ほか金田一耕助ドラマ再放送

NHK画像獄門島1 - コピー.jpg



(NHK番組情報)
終戦直後、瀬戸内の孤島を訪れた金田一耕助(長谷川博己)。僧の了然(奥田瑛二)の案内で島の実力者・本鬼頭家にやってきた金田一は、そこで美しい女性・早苗(仲里依紗)と出会う。さらには島に似つかわしくない奇抜な風体の3姉妹にも。そしてある晩、末妹の姿が消える…。金田一耕助再起動! 数々のミステリー・ランキングで1位に輝く横溝正史の最高傑作! 封建的な島で繰り広げられる怪奇な連続殺人の謎に金田一が挑む!
NHK画像獄門島2 - コピー.jpg



 敗戦後、戦地から日本に帰る復員船の中で、マラリアの熱に蝕まれて死んだ友、鬼頭千万太(きとうちまた)が、金田一に託した奇妙な遺言。


むんむんするよう な復員船の熱気のなかで、 腐った魚のように死んでいっ た鬼頭千万太。その千万太が、最後の呼吸とたたかいながら、あえぎあえぎ、くりかえしくりかえし言い残していったことば……。
「死にたくない。おれは…… おれは……死にたくない…… おれがかえってやらないと、三人の妹たちが殺される…… だが…… だが…… おれはもうだめだ。金田一君、おれの代わりに…… おれの代わりに獄門島へ行ってくれ……」

(小説『獄門島』より)

 なぜ、千万太が生きて戻らなければ、彼の妹たちが殺されるのか。

理由を聞けないまま、彼の妹たちを守るために、千万太の故郷の「獄門島」を訪れた金田一耕助だが、悲劇を食い止めることはできなかった。

 最高傑作とも言われる原作を、極力忠実にドラマ化しつつ、虚ろさの陰にかつてないほど激しい怒りを秘めた金田一像が描かれている。

個人的には、あの作品には、横溝正史の文章だけが表現できる凄みがあると思うし、過去に観た時には、ドラマの解釈はやや過剰なような気がしていた(映像版では石坂浩二の優しい目をした金田一が好きだったのもあって)。

 でも、コロナや世界情勢の変動を経て、あのドラマ版を顧みると、身勝手な考えで他人の命を軽んじた犯人への怒りは、戦地に送られ、見捨てられた金田一本人と、死んでいった友人の、どうしようもない無念でもあったのだと気が付いた。
(彼は帰国して間もなく獄門島に向かっている。あの殺気だった危うさは、心の傷がまったく風化していないからかもしれない)

 今なら「あの金田一の怒り」が、よくわかる。


 ドラマと併せて、ぜひ原作もおすすめしたい。


 戦中を生き抜いた横溝正史の名文が描き出す、過酷な時代と風土が招いた悲劇。
その重厚な迫力と哀切は、推理トリックの妙以上に読者を圧倒する。

 また、横溝正史ファンのJETさんが手掛けた漫画版も、独特の妖艶な不吉さの漂う絵で、原作の空気を巧みに表現している

漫画版獄門島三姉妹の登場(部分) - コピー.jpg
(金田一の前に姿を現した、鬼火をまとうような美しい三姉妹)

 とくに、結末部の衝撃、「背後にあった運命が目の前に現れ、すべてを絡めとってさらっていく」ような光景は、原作にも無く、漫画だけ、美しさと恐ろしさがたゆたうJETさんの絵だけが表現できる迫力があった。





市川崑監督、石坂浩二が金田一耕助を演じた映画版


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2022年07月24日

星新一「鍵」あらすじ(NHK「星新一の不思議な不思議な短編ドラマ あの時の”未来”を生きる私たちへ」でドラマ化)

(NHKドラマ版「鍵」画像 「男」は謎めいた鍵を拾う)
星新一「鍵」NHKドラマ画像 (2) - コピー.jpg

 「鍵」は、不思議な鍵を拾った男が、その鍵に合う鍵穴を探し続ける物語。

 ショート・ショートの名手、星新一(1926〈大正15〉〜1997〈平成9〉)の最高傑作のひとつであり、異色作でもある作品だ。

 (鍵(妄想銀行)――「ミステリマガジン」1967年3月号初出)※星新一40歳のときの作品



 NHK「星新一の不思議な不思議な短編ドラマ あの時の”未来”を生きる私たちへ」で、ドラマ化された。

 【NHKドラマ版「鍵」情報】 

初回放送日:BSプレミアム 2022年7月26日(火)午後9:45 

ある日、男が拾ったひとつの鍵。とりつかれたように男は、その鍵に合う鍵穴を探すのだが…出演:玉山鉄二 / 塚本晋也 / フレデリック・ベノリエル / 川原瑛都 塩田朋子 / 松原智恵子







星新一「鍵」NHKドラマ画像鍵穴 - コピー - コピー.jpg

 ドラマ版では、鍵穴を探す主人公の長い旅路の物語は、澄んだ少年の声で語られ、ノスタルジックな衣装の上品な人々、美しい建物や部屋、ミニチュアの街並み、明るい風景とともに展開する。




 原作に比べると、古き良き絵本のような趣だった。


 星新一は、国も時代も曖昧な文明社会とそこに生きる人々を、どこか醒めた眼差しで描いた。

 ショート・ショート(超短編)で整然と展開し、完結する作品世界には、べたついてどろどろした人間の思いを見抜いた上で冷静に切り捨てる鋭さと、その裏返しの、さらりとした軽妙さがある。

 「鍵」は、そういう無機質で奇妙な味わいの、典型的な星新一作品に比べると、より繊細な情緒を含んだ作品だ。

(この情緒が作者自身の中にあったからこそ、文明社会への醒めて鋭い視線が生まれ、どちらの味わいを持つ作品も、時代を超越している)

 ただ、主人公を「男」とだけ表現し、どこの誰で、どんな境遇だったかの情報を含まない、星新一らしい省略はこの作品でも使われている。

 そしてこの省略により、主人公は、抽象化され、記号のような存在となり、だからこそ誰でも主人公と自分を一体化させられる。

 そして、読者は、星新一の、鋭さと繊細さを併せ持つ、こうした文章の中に、自分自身の思いを見つける。

 その男の人生はとくに恵まれたものだとは呼べなかった。いままでずっとそうだったし、現在もまたそうだった。といって、食うや食わずというほど哀れでもなかった。
 こんな状態がいちばんしまつにおえない。なぜなら、恵まれていれば、そこには満足感がある。哀れをとどめていれば、あきらめの感情と仲よくすることができる。しかし、そのいずれでもない彼の心は、ひでりの午後の植物が雨を求めるように、いつもなにかを待ち望みつづけていた。


限りない回数の試みがくりかえされ、限りない回数の失望を味わった。だが、男の執念はさらに高まるのだった。この鍵で開くものを見つけさえすれば、万事が解決する。多彩で豊富な、はなやかなメロディーの流れる、信じられないようなべつな世界が、そこに展開するはずなのだと。


 多分、この世の誰も、完全に恵まれていると満足していることはないし、あきらめを完全に抱きしめることもできていない。
 そして、鍵が開いてくれる「万事が解決する」「べつな世界」を夢見て、心がさまよっている。

(「食うや食わず」までは追い詰められていないときほど、「今ここ」から、ふと目をそらして)

 人生をかけて、謎の鍵で何かを開くことを求め続けた(誰だかはっきりとはわからない、誰でもありうる)「男」が、最後につぶやく一言は、星新一が、自身の人生の葛藤の果てにたどりついた思いと重なるとも言われている。(※)


 「鍵」が収録されている『妄想銀行』は「鍵」や表題作「妄想銀行」をはじめとして名作ぞろいだし、ショート・ショートで気軽に読めるが、その内容は今の時代と人の心を見事に予言している。
(1967年に、約55年後の「あの時の未来」を。)

 また、同じくドラマ化された「処刑」(2022年8月9日、16日BSプレミアムで、前・後編放送予定)と、収録本の『ようこそ地球さん』も名作だ。

(「鍵」と「処刑」は、主人公の思いに重点が置かれているので、無機質な味わいの他作品に比べて、実写ドラマに向いている)

(NHKドラマ版「処刑」画像 「男」は、荒れ果てた星に、ある残酷な装置とともに放置され、ゆるやかに死へと追い詰められていく)
星新一「処刑」NHKドラマ画像 (2) - コピー.jpg

星新一「処刑」NHKドラマ画像爆発 (2) - コピー.jpg






(参照URL)

・星新一公式サイト

・星新一作品一覧「ホシヅル図書館」

1、ショート・ショートタイトル一覧と、どの作品集に収録されているかがわかるページ

2、刊行順全著作リスト

3、作品の初出情報がわかるページ



(※)最相葉月『星新一 −一〇〇一話をつくった人』第九章「あのころの未来」p.364(ハードカバー版)より

 星新一の生涯と作品の関係を詳しく紹介した名著。手塚治虫、江戸川乱歩、小松左京、筒井康隆らと星新一の交友関係も知ることができる。

(ハードカバー版)
(文庫版 上下巻)

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2020年01月04日

沢村貞子さんと加東大介さん(『貝のうた』と『南の島に雪が降る』より)

 加東大介さんと沢村貞子さん -.png

 現在NHKのミニ番組「365日の献立」で、改めて注目されている名女優、沢村貞子さん。

 黒澤明監督作品の常連役者、加東大介さんは、沢村貞子さんの弟で、二人は仲の良い姉弟だった。

 沢村さんは名文家としても知られているが、加東さんも『南の島に雪が降る』という、実体験を題材にした本を世に送り出しており、二人の作品は、強い絆とともに育ち、戦争をくぐりぬけた家族の姿を、お互いに描き出している。




(加東大介さんの本が原作の映画版)



【芝居漬けの家に生まれた姉と弟】

 沢村家の父で座付き作家だった伝太郎は、役者になる夢を親族の反対で断たれた人だった。

 実際、伝太郎は非常に男ぶりがよく、芝居を観にきた女たちが、楽屋口で役者よりも伝太郎が出てくるのを待ちかねていたほどだったという。

 そんな父は、自分の悲願を継いで役者になってくれる男の子を熱望していて、自分似の端正な顔立ちの長男、国太郎さんが生まれたときは、小躍りして喜んだ。

 しかし、女の子には全くの無関心で、国太郎の前に生れた長女せい子さんは産まれて一ヶ月もたたないうちに自分の妹に里子に出してしまい、その後生まれた沢村さんにも不満気だった。


 それから三年して生まれたのが加東大介さんだったが、その顔を見るなり、「なんだ、鼻が低いじゃねえか。俺にまるきり似てねえぜ。もし役者になれなかったらどうするんだ」と、お産直後の妻マツをなじったという。(※1)

 しかし、加東さんは、子役としてすぐに頭角を現した。

 彼はどうやら生まれつきの役者だったらしく、いかにも自然な台詞やしぐさは、初日から客の涙をしぼり、たちまち、名子役と評判された。(※2)


 沢村さんは小学二年生になると、母に代わって加東さんの付き人役を果たした。

 学校から帰ると、弟のためにお弁当を作って持っていき、それまで付き添っていた母と交代して、芝居の出番までの間、幼い弟の面倒を見た。
(沢村さんは兄弟の世話に追われる母に仕込まれ、小学校に上がる前には夕飯の支度をこなしていた。)

 根っからの芝居好きとはいえ、まだやんちゃ盛りの加東さんは、楽屋ではしばしば沢村さんを困らせたが、沢村さんが途方に暮れてしまうと、
 「おれ、大きくなったらいい役者になって、姉ちゃんの好きな果物、毎日食べさせてやるからさ――泣くなよ、な、な」
と、よく言っていたという。(※3)

(※1)『貝のうた』「おいたち」
(※2)『南の島に雪が降る』「後記」沢村貞子
(※3)『私の浅草』「役者バカ」沢村貞子



【役者として苦悩した加東さんと、弟を支えた沢村さん】

 才能も熱意もあった加東さんだったが、歌舞伎の世界では家柄がものを言う。

 名門の役者の子でなければ、決していい役はもらえないという「門閥」の壁が、加東さんにも、兄の国太郎さんにも立ちはだかった。

 悩んだ末、後に国太郎さんは映画の道へと進んだが、兄のようには容姿に恵まれなかった加東さんは、子役の年齢を過ぎると、とたんに出番を無くし、ふさぎこむようになる。

 行く末を案じた沢村さんは、役者にも学問は必要だと言って、加東さんを中学に入れるよう、両親を説きふせた。

 兄の名題試験に奔走する両親に代わって、受験から入学手続き、父兄会まで、女学生の沢村さんがかわりに出るのを、教師たちは不思議そうに見ていた。

 加東さんも必死だった。黒子をしながら、舞台袖で、先輩たちの芝居を食い入るように見つめ、日本舞踊を学び、またたくまに上達した。しかし、それでも、役はまわってこなかった。

 「姉ちゃん、おれ、役者をやめるよ」
 そう、沢村さんの手を握って、悔し涙を流したこともあったという。

 手の付けられないわんぱく者だった少年は、こうした苦労を経て、「たいていのことはじっと我慢する、おとなしい人間」になっていた。(※1) 


 そんな加東さんの苦労と人柄が報われる出来事が、ようやく一つ、訪れた。妻、真砂子さんとの結婚だ。

 松竹少女歌劇のスター、「京町みち代」だった真砂子さんとは、「初恋のまま結ばれ、以来、片時も離れたことのない、おしどり夫婦」だった。(※2)

 「勝気で利口な下町娘」だった真砂子さんは、沢村さんや義母と肉親のように気が合い、弟夫婦は、その頃には既に女優になっていた沢村さんの家に、両親と一緒に住むことになった。

 沢村さんは自身の結婚では繰り返し失望を味わっていたが、それでも後に最後の恋を実らせるまで、誰かを心から愛したいという願いを、決して捨てなかった。

 それは、加東さんと真砂子さんという睦まじい一対の夫婦を、間近に見たからなのかもしれなかった。

(※1)『私の浅草』「役者バカ」
(※2)『貝のうた』「戦争がはじまる」



【加東さんの出征】

 1943年、加東さんが役者として軌道にのりはじめた矢先、第二次大戦で召集令状がきた。

 楽屋で召集を知った加東さんは、自分でも意外なほど冷静にその話を受け止めたが、舞台に出て、花道で役の道具であるマトイ(江戸の町火消しが持った飾りのついた竿)をトーンとついた瞬間、その衝撃が電流のように指先から胸に突き刺さり、こみあげるものがあったという。

ああ、「板(舞台)」の上で芝居をするのも、この一瞬で、もうおしまいなんだ……!
(中略)
舞台は、役者にとって血のかよった地面だ。その「板」とも別れなくてはならない。(※1)

 加東さんは、涙をこらえ、走って舞台から引っ込んだという。

 加東さんは、興行をしていた大阪から、東京の沢村さんの家に戻ってきた。

 頭を刈る前に、ひとさし舞ってくれないか、と言われ、加東さんは真砂子さんと日本舞踊の「鶴亀」を舞った。

夫人と舞う加東大介さん -.png

 舞が終わると、沢村さんは、あらたまった顔で、加東さんに言った。

「これ、あたしが大事にしている扇子なんだけど、あなたにあげます。いいものだから、なにかになるでしょう」
女房と踊った記念に――とは言わなかったが、姉の気持ちはそうだったに違いない。ありがたく舞扇をちょうだいすることにした。(※2)

 出征の日、加東さんは沢村さんに黙って深く頭を下げた。


何にもいわなくても、その声は私にハッキリきこえていた。
(中略)
愛妻は、大きな目からこぼれる涙をふきもせず、じっと夫によりそっていた。下町娘らしい勝気さで、歯をくいしばって声も立てないこの妹が、私はいとしくて、弟が帰るまで、どんなことをしても守ってやりたいと思った。
 あの日の母の姿も忘れない。豪徳寺の集合所まで弟を送って帰ると、いきなりもろ肌をぬいで、庭の隅に造った小さな家庭菜園の真ん中に素足で立ち、黙って鍬をふり上げた。打ち下ろすたびに、ごぼうのような細い大根がポロポロとちぎれてあたりに飛びちった。いつまでたっても、母はその姿勢を変えなかった。どうしようもない相手に対する怒りが母をかり立てているようだった。父はただ、おろおろと家の中を歩き回っていた。(※3)

 加東さんは南方に行ったという知らせの後、まもなく消息がわからなくなった。

妹の首すじは日増しに細くなっていった。それでもこの人は泣き声を立てなかった。
「こんな思いをさせられているのは私ひとりじゃないんだから……でも、どんなことをしても生きて帰ってもらいたいわ……片脚、片目がなくなっても……」
台所で、うすいおかゆを作りながら、妹はひくい強い声で、そっと私にささやいた。(※4)

(※1、2)『南の島に雪が降る』「さようなら日本」
(※3、4)『貝のうた』戦争がはじまる



【ジャングルに生まれた演芸分隊】


 加東さんたちは、ニューギニアのマノクワリにいた。

 西部ニューギニアに位置するマノクワリは、当初、日本軍の防衛の要所となるはずだったが、アメリカ軍は、東部を制圧すると、そのままフィリピンへの進行をはじめた。

 結果、マノクワリにいた兵士たちは、直接戦闘を避けられたが、日本軍からの援軍も満足な補給もなく、定期的な空襲と飢えとマラリアに苦しめられることになる。



 仲間たちが次々死んでゆき、いつ戦闘がはじまるかもわからない。そして、「勝っても負けても決着には百年かかる」と信じられていた状況下、どんな形にしても、自分も生きて帰れないことは決まっている。そう考えた兵士たちは荒んでいった。

 兵士たちの心を少しでも明るくするために、結成されたのが「演芸部隊」だった。

 加東さんらを中心に、芝居や音楽に携わっていたプロ、アマを集めて生まれた「マノクワリ歌舞伎座」は、衣装やセットも乏しい物資の中から作り上げ、公演を始めた。

 娯楽に飢えていた兵士たちは、三味線の音色に胸を熱くし、女形の姿に妻や母を重ねて涙を流した。

 「なにいってやがんでぇ、どうせ死ぬんじゃねぇか」

 そう言ってあらゆることでいがみあっていた兵士たちは、舞台の上に、彼らが引き離された日本の平和な日常を見た。芝居に宿る故郷の面影が、あともう少しで壊れそうなほど深く走った心の亀裂に染みわたり、痛みを癒した。


 加東さんは食糧確保の農作業、劇場の建設作業、芝居の稽古と、一日中働いた。プロの役者は加東さん一人、事実上の座長だったので、休む暇はない。


 しかし、劇場が完成間近となったとき、加東さんは呼び出しを受けた。上官の転属に付いて、マノクワリを離れてはどうかという話だった

 どこへ行くのかという話は聞かされなかったが、加東さんはうすうす、申し出を受けたほうが生き残れる可能性が高そうだと気づいていた。(実際、赴任先は仙台だった。)

 しかし、自分がいなくなれば、演芸分隊はどうなるのか、そして、あれほど次の公演を待ちわびてくれている兵士たちは……。

 加東さんは、その夜、完成間近の劇場の中を一人歩いた。静まり返った舞台には、加東さんたっての願いで、既に花道もつけられていた。

 その花道の七三(花道のなかで、役者が見せ場の演技をする位置)のあたりに差し掛かった時、加東さんの脳裏に、召集を受けた日の記憶がまざまざと蘇った。

 あの日、まさに舞台のこの位置でマトイを突き、その手ごたえとともに、「板」に立つのはこれが最後なのだと覚悟した。

少なくとも、ここには「板」がある。
とっさに気持ちはきまっていた。
よし、芝居をやろう。(※1)

 「わたしは、残ることにしました」

 加東さんが決意を伝えると、それまでも加東さんたちの活動を支えてくれていた苦労人の老大尉は、優しい目をまたたかせた。

「よかった、ありがとう。きみのことだから、残ってくれるとは思っていたんだが……。残れ――と、たのめるものではなし、祈っていたのだよ」(※2)


 完成した劇場には、兵士たちが詰めかけた。

 病で余命僅かと思われた兵士も、次の芝居を見ずに死ぬ気かと励まされて持ちこたえ、やせ衰えた兵士たちも、数日前から体力づくりをしてジャングルの川を泳いでまでも芝居を観にきた。月替わりの演目が、いつ終わるともしれない苦しい日々を送る人々の「生きるためのカレンダー」になっていた。

 加東さんたちは、高熱が出ようが、ケガをしようが、体の動く限り、声の出る限り、休まず公演をした。公演中、空襲警報が鳴り響けば避難し、危険が去れば、演者も客も劇場に戻ってきて、芝居を続けた。

(※1、2)『南の島に雪が降る』「別れの〈そうらん節〉」




【大阪空襲】

 沢村さんが公演で大阪に滞在していた時、大規模な空襲があった。

 宿から一人で避難した沢村さんは、どこへ逃げたらわからないまま走った。なぜか、火にまつわる芝居の場面がいくつも頭をよぎった。


この炎は、本物である。運動靴の裏も、頭巾の中の髪の毛も、焦げそうに熱くなってきた。どうやら、私の一生もこれで終わりらしい。なんだか、ウロウロして、おかしな一生だった。でも、私としては一生懸命生きてきたのだから、あきらめなくちゃ……それにしても、人間はなぜ、戦争をしなければならないのだろうか。戦争をする、と決めた人たちは、ひとりも、こんな死に方はしないのだろうな……。(※1)

 気が付くと、沢村さんの目の前に十人あまりの人が立っていた。

 道の先にガソリンスタンドがあり、そこには、七、八個の重油入りのドラム缶が積み上げられている。あたりの熱気で、ドラム缶がひとつずつ破裂して、火の雨をまき散らしながら重油が道に流れ出すのが見えた。

 火がまわれば、このあたり一面は火の海になる。

 立ちすくむ人の中、沢村さんは、ドラム缶が一つずつ破裂するのに、間があることに気づいた。
 一つ破裂してすぐに飛び出せば、油を浴びずに、ガソリンスタンドの前を抜けられるかもしれない。

 次のドラム缶が爆発した瞬間、沢村さんは、「この間に逃げましょう!」と叫んで、隣の女性の手を掴んだ。熱い油に足を取られながら走り、彼女たちに何人続いたかはわからない、振り向くと、ガソリンスタンドに火が回り、大きな火柱が上がるのが見えた。



 焼け残っていた電車で京都まで帰ってきた沢村さんは、なじみの宿にたどりつくと、糸が切れたように倒れて眠ってしまった。

 夜、ようやく目をさまして、京都に住んでいる兄の国太郎さんに電話をすると、国太郎さんは、なぜすぐに無事を知らせなかったのかと、泣きながら怒っていた。

 空襲を知った国太郎さんは、大阪に駆け付け、沢村さんを必死で探した。そして、妹は助からなかったのだと、ついに諦めて帰ってきていた。

 「おれの気持ちも知らないで、寝てるなんて……バカヤロー……」

 国太郎さんの取り乱した声が、受話器越しにいつまでも聞こえていた。



【陰膳と終戦】

 東京も空襲が相次いだため、沢村さんたちは、京都に移住した。父は国太郎さんのもとに行ったため、沢村さんは母と義妹真砂子さんの女三人暮らしとなった。


 真砂子さんのもとには、加東さん戦死の噂が届いたが、真砂子さんは何も言わなかった

 沢村さんは、その知らせを聞いた夜、隣の布団にいる真砂子さんが、ただ、大きな目で、じっと、天井を見つめているのを見た。

 母もまた、乏しい食材ですいとんを作り、加東さんへの陰膳を供え続けた。彼女たちは、加東さんが生きて戻ってくる望みを捨てなかった。


 八月、沢村さんたちは、近所のラジオで敗戦を知った。

 呆然とする人々の中、真砂子さんの目はパッと輝いた。

 沢村さんたちは家に駆け戻った。

「終わったのよ、終わったのよ、私の旦那様が帰ってくるのよ」
私と義妹は手を握って家の中をぐるぐると踊り回った。
(中略)
「……でも、日本が敗けたんじゃ、これからがたいへんだろう」がっくりすわりこんでいた母が、心配そうに声をひそめた。
「そりゃあ、たいへんよ、きっと……でもいくらたいへんでも、戦争して殺しあっているよりましでしょ」
「そうよ、私もそう思うわ」そう言いながら、義妹は、いきなりバケツをもち出して掃除をはじめた。私も勢いよく、廊下の雑巾がけをはじめた。母までが「よいしょ」と立ち上がって、窓のガラスを、グイグイふき出した。みんな、なんとなく、からだをうごかさずにはいられなかった。(※)

 青い顔で駆けつけた国太郎さんは、三人の様子にあっけにとられた。

 「日本が敗けたっていうのに、何してるんだ……。」

 敗戦をラジオで知った国太郎さんは、部屋にあった器を全部庭にたたきつけて号泣し、青酸カリを飲んで死ぬ覚悟をした。

 しかし、最期に母たちの様子を見に来たつもりが、三人がいそいそ掃除をしているので、死ぬ気がそがれてしまったという。

 母とお茶を飲んで話し込み、今後のことはよく相談しよう、と、立ち上がったときには、いつもの優しい国太郎さんに戻っていた。

(※)『貝のうた』「一生懸命生きてみたい」




【イギリス人隊長と沢村さんの舞扇】

 ニューギニアの加東さんたちは、数日遅れで敗戦を知った。

 生きて帰れる望みはでてきたが、敗戦の打撃と、いつ帰れるのか、あるいはどこかに連れて行かれるのではという不安が、兵士たちに重くのしかかった。

 上陸した連合国軍のイギリス軍隊長が、劇場の存在に気づいた。

 「マノクワリ歌舞伎座は興行を続行すべし、ただし、連合国軍将兵の観覧を妨げざること」

 隊長は、今の日本兵たちには演芸が必要であるという、加東さんたちの説明に理解を示してくれた。

 それからは、他国の兵士たちも劇場に来た。

 パプワ兵たちは手品に湧き、イギリス兵は三味線で奏でられるイングランド民謡の「埴生の宿」に大合唱した。

 「マノクワリ歌舞伎座」が、ついこの間まで敵同士だった兵士たちを、劇場に集う人と人へと戻していった。

 加東さんたちの帰国が決まってから、イギリス軍の任務を引き継いだシラジ大尉という人物も、加東さんたちを尊重してくれた。

 「君たちは捕虜ではない、日本へ帰すために、ここにあずかっているだけだ。筋の通らない使役には応じなくてよろしい」

 それよりも、帰国の前に、もう一度演芸をやってほしい。日本兵と、パプア兵のために。

 シラジ大尉はそう言って、帰国前の苦労から演芸分隊をかばってくれた。

 恩人であるシラジ大尉になにかお礼をしたい。

 加東さんたちは話し合い、出征前の加東さんに沢村さんがくれた舞扇を贈ることにした。

 「いいものだから、なにかになるでしょう」
 沢村さんが弟を思って持たせた舞扇が、演芸分隊の気持ちを乗せて、イギリス人隊長のもとへと渡っていった。

 「そんなに感謝してもらえるとは、わたしはしあわせである。ありがたくいただく」

 大尉は目を輝かせて扇を受け取ったという。




【加東さんの帰国】

 終戦から約一年後、ようやく京都にたどりついた加東さんはその晩倒れた。戦地で感染したマラリアの再発だった。

 一週間、生死の境をさまよい、加東さんはようやく意識をとりもどした。

やっと目をあけたとき、なにか黒いボンヤリとしたものが正面に浮いていた。長い時間かかって、どうやらピントが合ったと思ったら、家内がわたしの顔をのぞきこんでいた。
結婚してから今日まで、あのときくらい、女房がきれいに見えたことは、ちょっとなかったような気がする。
「お帰んなさい」
ポツンと妻がいった。
「ウン、ただいま」
これが二人の第一声だった(※1)


 片目、片脚を失ってでも生きて帰ってきてほしい、そう願い続け、戦死の噂を信じず、敗戦の日にも、「私の旦那さまが帰ってくる」と明るい目をして家を磨き上げた真砂子さんが、初恋の男、加東さんを、しっかりと取り戻した瞬間だった。

 知らせを聞いて、沢村さんたちも加東さんの枕元に集まってきた。

彼は、のぞき込む家族たちに、嬉しそうな声で言った。
「ボク……ニューギニアで、芝居してた」
まだ、熱があるらしい――と皆、顔見合わせて不安だったが――日がたつにつれて元気を取り戻した彼は、戦地の飢えの辛さより「マノクワリ歌舞伎座」の話に夢中だった。私たちは感動して――声も出なかった。
「ボクは、しあわせだよ、あれほど皆に喜んで貰える芝居ができたんだから……」
それはもう、生死を越えていた。〈これだけの観客を捨てて……役者が舞台から逃げ出せるか……〉たった一度の内地送還のチャンスも、彼は自分から捨てた。(※2)


 どんなに努力をしても役が貰えないつらさに、もう役者をやめると姉の手をとって泣いた加東さんは、戦地の芝居で、人々の心と命をつなぎとめるという、どんな役者にも生涯まわってこないような大役を果たした。

 その幸せを噛み締める弟の姿を描く沢村さんの文章からも、静かに湧き上がる誇りがにじみでている。


 沢村さん、加東さん、国太郎さんは、「オレの目の黒いうちに、一度でもいいから、きょうだい三人そろった舞台をみせてもらいたいなあ」という父の願いを叶えるため、京都で芝居をした。

 演目は「瞼の母」。加東さんが、マノクワリで故郷の家族を思う兵士たちのために演じた作品だった。



 はじめは家の中にも男女の差、兄弟の差があった。

 世の中に出てからは、役者としての家柄など、もっと冷たく理不尽な壁がいくつも立ちはだかった。そして、戦争という最悪の暴力に見舞われた。

 情熱があっても、努力しても、人生は平等でも平和でもなかった。

 それでも沢村さんも加東さんも、家族を思い、一生懸命生きることをやめなかった。

 沢村さんの『貝のうた』、加東さんの『南の島に雪が降る』。

 二つの作品を併せて読むと、姉と弟が、それぞれの人生の苦難と真剣に戦いながら、支え合って生き抜いた姿が浮かび上がってくる。

 その誠実さと聡明さに裏打ちされた名文で、人生と時代を描いた二つの作品は、どちらも一歩もひかない傑作の迫力を持っている。

 そして、互いの目に映る姉と弟の姿は、まなざしをそそぐ者からの、感謝と、家族としての誇りに暖かく縁取られ、優しい輝きを、放ち続けている。


(※1)『南の島に雪が降る』「七千人の戦友」
(※2)同上、「後記」




(参考文献、映画)

(映画版、加東さんご本人のほか、伴淳三郎、森繁久彌、西村晃、渥美清ら、名優揃いで笑いあり涙ありの傑作)
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2019年12月28日

沢村貞子さんと献立日記

 沢村貞子の献立日記 (とんぼの本)
沢村貞子の献立日記 (とんぼの本)


 現在NHKで女優沢村貞子さんの献立帳を紹介するミニ番組「365日の献立」が放送されている。

 名脇役として女優業をこなしながら、最愛の夫、大橋さんのために心づくしの料理を作り続けた沢村貞子さん。

 彼女の料理は、沢村さんの、悲しみも愛情も深かった人生と、分かちがたく結びついていた。




【5才のころからはじめた料理】


 沢村貞子さんは、1908(明治41)年、浅草に生まれた。

 親類の反対で役者になれなかった父伝太郎は、座付きの作家をしつつ、自分の子供はみんな歌舞伎役者にするという夢にとりつかれた人だった。

 そんな父は、生まれたばかりの沢村さんの性別を知るなり、「チェッ、女か」「フン、がっかりさせやがる」と言ったという。


 兄(沢村国太郎、津川雅彦の父)と弟(加東大介)が子役として劇場に通うようになると、その付き添いで忙しい母マツは、まだ5才の沢村さんに徹底的に家事を仕込んだ。

 幼い沢村さんは、小さな体で苦心しながら釜の米をとぎ、小学校一年のころにはもう、家族5人分の食事いっさいを作れるようになっていたという。(※1)

 悪い人ではなかったものの、妻と娘を家政婦のように見なす父と、愛情深かったが兄弟の世話に追われ、女の子の沢村さんにだけ家の仕事を任せる母のもと、沢村さんは自分を「いわばおまけ」(※2)と感じるようになっていた。

 女優の仕事がどんなに忙しくても、様々な料理を作り続けることができた沢村さんの腕前は、こうした子供時代を経て磨かれたものだった。


(※1)『貝のうた』「おいたち」

(※2)『老いの道連れ』「女優の仕事と献立日記」




【三度目の結婚でめぐりあった「半身」】

沢村さんと大橋さん -.png

 沢村さんは最愛の夫、大橋さんに巡り合うまでに、二度、結婚に失敗している。

 大橋さんと出会ったときには互いに既婚者だったが、大橋さんは、仕事を辞め、京都から東京まで、沢村さんを追いかけてきた。

 (二人が夫婦として入籍したのは、大橋さん側の離婚が正式に成立した、約二十年後、沢村さん60歳の時のことだった。)


 父のたび重なる浮気に耐える母の姿や、芝居の世界と花柳界の近かった浅草での、男女の愛憎を見てきた沢村さんだったが、彼女のうちには深い愛情があり、苦い経験を経てもなお、それを捧げられる相手を探し求めていた。

 ハマグリは二枚に分けても、元の貝同士以外、ほかのどの貝ともぴったりと合わせることができない。そのため、昔からむつまじい一対の伴侶になぞらえられてきた。沢村さんは、その話を噛みしめ、自分の半身であるもう片方の貝が、この世のどこかにいるはずだと信じていた。



 ほとんどの人が、その半身にめぐりあわずに、一生を終わってゆく。

 もし、「この人こそ、私の半身、私の地貝だ」と思う人を見つけられたら、どんなに幸福だろう。私は一生その人を愛し、その人に仕えよう……。その人がもし、許してくれるなら……

 私が可愛げのない女だということは、自分でもわかっている。理屈っぽくて潔癖で……自分にも人にもきびしすぎて……。でも、もし、私の地貝にめぐりあえれば、そのときこそ、私は、女らしい女になれるような気がする。素直でやさしく、可愛い女に……。私の白く硬く冷たい心のすぐ下に、うすく色づいた弾力のあるやわらかい心があることを、私は自分で感じている。好きな人にあいたい、恋をしたい、もう三十代も終わりに近いというのに、女の喜びを何も知らなかった胸をかきあわせて、ひとり、しきりに求めた。

   (『貝のうた』「一生懸命生きてみたい」)      

                      

 そう、沢村さんが、まだ見ぬ半身に焦がれたのは、戦争ただ中の時。

 恋はおろか、生きのびることすらあきらめかけ、空襲と敗戦をくぐりぬけた果てに、沢村さんはようやく「半身」大橋さんを見つけた。




【沢村さんの献立日記】

沢村さんの献立日記 -.png

 東京に出てからの大橋さんの収入は不安定なもので、稼ぎ頭は沢村さんのほうだった。

 大橋さんの家族にお金を送るためにも、仕事は数をこなさなければならない。しかし、体の弱い大橋さんのために、変化に富んだ、栄養のある料理を作ってあげたい。

 多忙な中で、日々の献立に苦労をした沢村さんが考え出したのが「献立日記」だった。

 紙切れにその日の献立のメモをつけることからはじまり、それはやがて、大学ノートに清書されるようになった。



 一頁ごとに横四段にしきって四日分とし、縦三本の筋をひいて、左は日付、天候、温度、来客その他、食事に関係のある出来ごと、真中はわが家の一番重い食事――つまり夕食の献立を書きこんだ。右のかこみの中は朝の献立、その下には、昼食代わりの軽いおやつも忘れないように……

(中略)今夜は何にしようか……といい考えが浮かばないとき……去年の今日、おととしの今日は何を食べたかしら、とその中の一冊をひきぬいてページを繰れば、

「あーもう蕗(ふき)が出ているはず……

 とか、

「そろそろ鰤も脂がのっている頃」

 などと、夕方市場へ行けない私に季節の野菜や魚をそっと教えてくれる。(※1)

                 


 この日記は「せめてものおしゃれ心」で芹沢_介の民芸カレンダーのカバーがつけられ、沢村さん57歳から84歳までの27年間、一日もかかさず、36冊書き続けられた。そして、そのほとんどの表紙には、達筆で知られた大橋さんが題箋を付けている。(※2)



(※1)『わたしの台所』「献立日記」

(※2)『沢村貞子の献立日記』(とんぼの本)





【「女優」として「妻」としての沢村貞子】

 こうした沢村さんの奮闘に、現代の人々は違和感を覚えるかもしれない。

 沢村さんが稼ぎ頭なら、家のことでまでこんなに苦労するのはおかしい。大橋さんがするべきだ、と。

 たが、一つには時代が違った。「男子厨房に入らず」という言葉があった時代、ほとんど何の経験もない大橋さんと、小学生から家族全員の食事を作っていた沢村さんの家事能力には雲泥の差があった。

 (沢村さんのマネージャーである山崎洋子さんが、大橋さんから、「わしの鯛茶をご馳走しよう」と言われたが、全て沢村さんたちが下ごしらえしたものに、大橋さんがただ厳かに湯を注いだだけだったという話がある。(※1)


 そして、何よりも大きかったのは、沢村さんの「女優」と「妻」としての心構えの違いであった。

 今も語り継がれる名女優としての地位を築いた沢村さんだが、沢村さんにとって女優という仕事は、どれほど充実していても、成功を収めても、生涯、生計を立てる手段のままだった。

 沢村さんは、彼女を「母さん」と呼んで慕っていた黒柳徹子さんに「私は、父さん(大橋さん)がいるから、仕事30%、家のことは70%でやっているのよ。」と打ち明けたことがあるそうだ。(※2)

 手を抜いていたわけではない。時間を守り、台詞を完ぺきに暗記し、NGを決して出さず、沢村さんは女優の鏡というほどプロに徹していた。

 それでも、沢村さんの中には常に、「女優であることは途中でやめるかもしれないけれど、あの人の妻であることはやめない」という強い思いがあった。(※3)


 沢村さんは女優としての自分を生涯「脇役」と思っており(本人は、自分の容姿に限界を感じていたから、とだけ語っているが)そこには、おそらく様々な理由があった。

 最初の夫とは、演劇の世界に足を踏み入れたときに出会い、半ば強制される形で結婚した。そして、沢村さんは彼らに巻き込まれるようにして、社会運動にも参加することになる(当時は犯罪行為とみなされた)。

 しかし、その夫は自身の逮捕後、あっけなく沢村さんの居場所を警察に知らせてしまい、逮捕された沢村さんは、過酷な拷問の果てに刑務所に入れられた。

 ようやく釈放され、離婚した沢村さんを、兄、国太郎が手助けし、映画女優として生きることになったが、その世界でも、当時、異例の高学歴女性であった沢村さんは、周囲からしばしば疎まれた。

 また、沢村さんは、幼いころから芝居を熱愛し、努力を重ねていた兄、国太郎と弟、加東大介が、役者の家の生まれでないことを理由に、良い役をもらえず、悔し涙を流す姿も近くで見ていた。

 こうした経験が、沢村さんを、女優に没頭する道から遠ざけたのではないだろうか。

 素晴らしい仕事だし、やるからには真剣に臨むが、自分の全身全霊をひたむきに捧げる相手はほかにある、そういう人生を沢村さんは選び、その相手が大橋さんだった。


 マネージャーの山崎さんは、外で真剣に撮影に臨む沢村さんを間近に見ており、その沢村さんが帰ってもなお、甲斐甲斐しく大橋さんに尽くし、仕事の面でも大橋さんの意向を尊重する姿を見ると、大橋さんに意見をしたくなることもあったようだが、そんな山崎さんの気持ちを察してか、沢村さんはよく彼女にこう言っていたという。


「あたしがわがままにしちゃったのよね。だけどね、大橋が、仕事もなにも、みんな捨てて、あたしのところに来てくれたことを、とてもありがたいと思っているの。だからどんなことをしてでも、大橋の気持ちにむくいたいのね」(※4)

    


 また、はた目はわかりにくくとも、大橋さんも沢村さんを大切に思っていた。

 珍しく沢村さんが体調を崩した時には、大橋さんのほうが動揺してしまい、これならば食べられるのではと山崎さんが用意したお刺身を、山崎さんの制止も聞かず、沢村さんのお皿いっぱいに積み上げてしまうような人だった。

 そんな大橋さんは、沢村さんの帰りが遅くなる日は、電話を受けると、車が家に着くよりずっと前から外に出て、沢村さんのことを待っていたという。


(※1)山崎洋子著『沢村貞子という人』「わしの鯛茶」

(※2)『沢村貞子の献立日記」黒柳徹子「初心を貫いた人――わたしの『母さん』」

(※3)『老いの道連れ』「〈対談〉父さん 母さん 黒柳徹子/沢村貞子」 

(※4)山崎洋子著『沢村貞子という人』「仕事を決める話』




【大橋さんの死と、残された原稿】


 大橋さんは84歳で突然世を去った。

 体調不良を感じてから一ヶ月半も断たないうちのことだった。

 死の直後、集中治療室を出た沢村さんは、椅子に崩れ落ちて泣いた。共に付き添っていた山崎さんはそう記している。


私は、慟哭という言葉を知ってはいたが、はじめてその姿を見た。(※1)

             

 この時期、共に文筆家であった沢村さんと大橋さんは、結婚50年を迎える前に、夫婦としての道のりを二人で書いてみようと約束していたが、その第一回目を書き始めた矢先の出来事だった。

 黒柳さんは、そのときの沢村さんの悲しみを目の当たりにした。

母さん(沢村さん)は、「もう、何も書けない」と泣きじゃくった。私が「母さんが死んだら、父さんに会える?」と聞くと、母さんは「そりゃ、会えるよ」と、心から信じている顔で肯(うなず)いた。「なら、次に父さんに会った時、『あの一回目の続きは?』って聞かれたら、何て言うの?」。母さんは気を取り直し、一年後、『老いの道連れ 二人で歩いた五十年』という本を書き上げた。(※2)                 



 この本を書くために、大橋さんの戸棚から原稿用紙を借りようとした沢村さんは、その間に、何気なくはさまれていた大橋さんの原稿を見つけた。

 「別れの言葉」と題されたその原稿には、大橋さんから、沢村さんへの思いがつづられていた。



わたしに、こんな楽しい老後があるとはおもっていなかった。あなたに巡り遭えたということ、そして、二人で寄り添って生きてきたこと、いろいろな苦労があったけれど、わたしは幸せだった。あなたも幸せだった、と思う。(中略)「どちらが先になるかはわからないけれど、先立った者が待っていて、来世も一緒に暮らしましょ、来世もこうしておしゃべりをして、おいしいものを食べて、楽しく暮らしましょ」貞子は最近この言葉をよく口にするようになった。暗記している台詞を正確におもい出すように、ひとことの狂いもなかった。

 (中略)

 二人のうちの一人が、生きる張り合いを失い、泣きながら「永い間お世話になりました。ありがとう。さようなら」を言わなければならない。その日は、二人がどうもがいても、叫んでも避けられはしない。

(中略)

 そして、その葬送の日のたった一つの心の寄りどころは(来世)という想像もつかない虚空の一点で、今日と同じ笑顔で、今日と同じやさしい眼で、今日と同じ見慣れた着物を着て待っていてくれる人がいることを、信じるほかはないのだ。

(中略)

 生来、愚鈍な上に学も無い、貧しくて小心な落ちこぼれ人間でしかなかった私が、戦後、無一文のどん底から、なんとか生きのびてこられたのは、唯ひとり、貞子という心やさしく、聡明な女性にめぐり遭えたからである。

 その意味で、これは、一人のハンパ人間が、思いもかけぬ幸運に恵まれた(ある果報者の軌跡)といえるかも知れない。……ありがとう。(※3)

                                       

 見てもらえるかも定かでない形で、照れ屋の大橋さんがそっと忍ばせ遺しておいたその言葉に、沢村さんは涙が止まらなかったという。


 若い頃「一生懸命働いている人たちがみんな幸せになれるように」という思いから身を投じた社会運動は、最初の夫の裏切りによる逮捕という苦い結末を迎え、挫折してしまった。



 でも――一人だけ、しあわせにすることができたのですよね、あなた、一人だけ……うれしいわ、お閻魔さまに、そう言わなけりゃあ……(※4)


 大橋さんは、社会的成功という意味では、生涯沢村さんの陰にいた。

 身内に名声や経済力がある場合、周囲の嘲笑や嫉妬は常に付きまとう。

 まして、妻が経済的支柱であることが今以上に珍しかった当時、大橋さんの精神的重圧は大変なものであったはずだ。(実際、大橋さんは何度も友人達から心無い言葉をかけられていた。)


 しかし、大橋さんは卑屈になることなく、沢村さんの熱烈な愛を堂々と一身に受け、のびのびと甘えた。生来の不器用なまでの生真面目さと、沢村さんへの愛は決して失わずに。

 これもまた一つの愛情の覚悟であり、できる人間は少ない。

 そして、大橋さんは、沢村さんを「心優しく聡明な女性」と称え、深い感謝の言葉をしたためた恋文をしのばせ、先立った。

 その言葉は、幼いころから「おまけ者」「脇役」と思い生きてきた沢村さんの、苦労の多かった人生の、全ての時間に報いた。

 「うれしいわ」

 それが、大橋さんからの恋文を抱きしめた、沢村さんの万感の思いだった。


(※1)『沢村貞子という人』「大橋さん逝く」
(※2)『沢村貞子の献立日記』黒柳徹子「初心を貫いた人――私の「母さん」)

(※3)(※4)『老いの道連れ』「別れの言葉」



【「献立日記」の終わりと双眼鏡】


 大橋さんの死後、沢村さんは80年近く続けてきた料理をやめてしまった。


 『老いの道づれ』を出版した沢村さんは、「徹子の部屋」にゲスト出演をし、大橋さんとの思い出について語った。

 その帰りの車中で、沢村さんは、長年彼女の運転手を勤めていた人に言った。


「ああ、これで全部、終わったね……二週間も食べなければ、死ねるかね?」(※1)


 半年後、大橋さんの三回忌を済ませた直後、沢村さんは床に臥せった。駆けつけた黒柳さんのために起きあがってスープを飲んだのを最後に、彼女は一切の食事をとらなくなった。



 父さんの没後、母さんが新しく買ったものはたった一つ。ドイツ製の大きな双眼鏡だけ。ベランダに面したリビングの一隅に三脚を立て、その上に双眼鏡を乗せて、二人の骨を撒くのはどのへんがいいかと、相模灘をしょっちゅう眺めていた。(※2)

                       

 双眼鏡で海を眺める沢村さん -.png

  1996年、沢村さんは87歳で亡くなった。


 死顔は、本当に満足そのものの顔つきだった。母さんの甥の津川雅彦さんが、「これは、もう会えた顔だなあ」と、私につぶやいた。母さんも父さんも信じたように、二人は会えたのだ。(※3)


 二人の遺骨は、黒柳さん、津川さん、山崎さんらの手で海に散骨された。

 船から、波に花を散らし、二つの骨壺の遺灰を撒いたときの様子を、山崎さんは、こう記している。

 骨は両手の間から落ちるとき美しく光ったが、海面に届くと、ほんの少しの間波に揺れると、花々の間をすりぬけて沈んでいった。

(中略)

 二つの壺に入って居たのが、今、二人はまじり合い、たわむれあい、そそくさと恥ずかしげに花の陰に隠れてしまう。

「さ、早く行きましょう」

 沢村さんが、大橋さんの手を引っ張っているようだ。

「そんなに急がなくてもいいじゃありませんか」

 と、私は言った。

「これでいいのよ」

 と、沢村さんの声が聞こえた。(※4)


 黒柳さんは、形見として、沢村さんの双眼鏡をもらい受けた。



 幼いころから「おまけ者」の思いを片隅に、家族のために料理を作り続けた沢村さんは、ようやく巡り合えた「半身」大橋さんのために、忙しいながらも幸せな気持ちで、献立日記をしたため、料理の腕を振るった。

 そして、大橋さんの死とともに、それは終わった。

 料理を作ることからも、食べることからさえも遠ざかり、ただ、約束通りもう一度大橋さんに会える日を待ち続け、旅立った。


 沢村さんの料理は、沢村さんの人生そのものであり、大橋さんへの愛情そのものであった。

 36冊の「献立日記」もまた、沢村さんの、大橋さんへの、日々書きつらねられていった、「恋文」だったのだ。


 私も「千秋楽」をむかえて、あなたの傍へ行ったら……またせいぜい、おいしいものをこしらえてあげますよ、あなたの好きな、うなぎの蒲焼、車えびの天ぷら、鯛茶もね。(※5)



(※1〜3)『沢村貞子の献立日記』黒柳徹子「初心を貫いた人――私の「母さん」」

(※4)『沢村貞子という人』「散骨の日」

(※5)老いの道づれ「女優の仕事と献立日記」







【参考資料・文献】

NHKアーカイブス「あの人に会いたい」沢村貞子

(ご自身の人生を語る沢村貞子さんの映像が観られます。声もたたずまいもとても美しいので是非ご覧ください。)

https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0016010092_00000


沢村貞子の献立日記 (とんぼの本)
沢村貞子の献立日記 (とんぼの本)


貝のうた (河出文庫)
貝のうた (河出文庫)


老いの道づれ: 二人で歩いた五十年 (ちくま文庫)
老いの道づれ: 二人で歩いた五十年 (ちくま文庫)


わたしの台所 (光文社文庫)
わたしの台所 (光文社文庫)


沢村貞子という人 (新潮文庫)
沢村貞子という人 (新潮文庫)



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2018年04月12日

象のインディラと落合さん(中川志郎作『もどれ インディラ!」より ※結末部あり)

(ゾウ舎から脱走したインディラと、駆け付けた飼育員の落合さん)
上野動物園Twitter -.png








 本日は上野動物園にいた象のインディラと飼育員の落合さんのお話を、中川志郎さんの中高生向け書籍『もどれ インディラ!』をもとに、ご紹介させていただきます。




 象のインディラが上野動物園にやってきたのは1949年。


 日本がようやく敗戦から立ち直りはじめた時のことでした。


 戦中に、空襲で檻が壊れ、象が暴れるかもしれないという理由で、都の命令に従い、三頭の象を殺処分せざるをえなかった動物園にとって、象の来日は特別な出来事でした。

 (この戦時中の悲劇は絵本『かわいそうなぞう』や、ドラえもんの「ぞうとおじさん」の原案になりました。)


 インディラはインドのネール首相から贈られた象で、日本に来る前は材木運びをしており、穏やかで賢く、インドで縁起の良い象とされる容姿の特徴を全て備えていました。 

 (『インディラとともに』川口幸男作 p.59より)




 はるばる日本まで来てくれたインディラを、落合さんは大切にし、インディラも落合さんによくなつきました。


 インディラが重度の便秘になったときは、皆でやぐらを組んでインディラに浣腸をし、結果、苦しがるインディラのお尻を必死でおさえていた落合さんが、頭から大量のフンをかぶったことがありました。


 それでも、落合さんはその姿のまま、「良かった良かった、ホントに良かった」と、インディラに笑い、インディラは鼻で落合さんを引き寄せ、お礼のように甘えていたそうです。



「「よかったなあ、インディラ……」


 鼻をだくようにして、インディラに話しかけている落合さんの顔は、たしかに真っ黒によごれているのですけれど、でも、美しい光にみちているように見えます」


 (※『もどれ インディラ!』中川志郎作 p.37)





 この出来事以来、インディラと落合さんはさらに結びつきを強めましたが、落合さんとインディラが出会ってから約18年後、落合さんが癌をわずらい、療養のために休職することになりました。


 そして落合さんが休職してから七ヶ月後、1967年の三月に、事件が起こりました。


 一緒に暮らしていた象のジャンボとインディラが喧嘩をし、ジャンボに堀に突き落とされたインディラが、鼻で手すりを掴んで壁をよじのぼり、ゾウ舎から脱走してしまったのです。


 急いで見学者を遠ざけ、インディラの足に鎖を巻いてゾウ舎に連れ戻そうとしましたが、インディラはびくともしません。


 そのうち、騒ぎを聞きつけたマスコミのヘリコプターが上空を飛び始め、その音に驚いたインディラが興奮しはじめました。


 飼育員二十三人がかりで鎖を引きますが、インディラの力はすさまじく、全員手や膝が擦り傷だらけになって鎖をつかんでも、インディラを動かすことができませんでした。


 困り果てた動物園は、自宅で療養中だった落合さんに、どうすればインディラをなだめられるか聞くために、車を走らせました。


 ところが、その知らせを聞いた落合さんは、「よし!すぐ行く!」とベッドから飛び起きました。


 体重が四十キロほどまで減り、立ち上がってもよろけるほどでしたが、むしろ、動物園の人たちをうながすようにして、車に乗り込んでしまいました。




 インディラのもとに駆けつけた落合さん。


 寝巻着姿のままで、ひどくやせて、動物園の職員たちですら、あれが落合さんだろうかと思うほどの変わりようだったそうです。


 インディラも、歩み寄ってきた落合さんに、はじめは誰だか気づけなかったようでした。


 インディラが今にも落合さんに背を向けて、走り出しそうに見えたその時、落合さんが口を開きました。


 「インディラ、俺だよ!」


 周囲も驚くような、病人とは思えない力強い声。


 そして、インディラにとっては、いつも自分を呼んでくれた声。




 「インディラのうごきがぴたりととまりました。



  目をしばたくようにせわしなくうごかし、じっと落合さんをたしかめるように見ます。



 たちまちインディラのぜんしんからきんちょうがきえていくのがわかります。


 聞きおぼえのある声でした。


 なつかしい落合さんの声――。


 大きな耳がくずれるようにたおれ、おどろきとなつかしさがいっしょになってインディラの心をみたします。


 あの大きなからだをちぢこめるようにして落合さんのそばによっていきます。


 ぐるぐる、ぐぐぐ……。


 インディラののどのおくで不思議な音が起こりました。


 あまえ声です。


 インディラが落合さんにあまえる時、いつもだすふしぎな声でした。


 (中略)


 インディラは頭をさげ、いつもそうしていたように落合さんにほおをすりよせます。


 あまえたかったのです。


 しばらくぶりでお母さんに会った子供のようにあどけないしぐさでした。


 そのとき、落合さんの体重はわずか四十キロ、インディラの体重は四トン。


 奇妙なとりあわせでしたけれど、インディラと落合さんにとって、そんなことはぜんぜん問題ではなかったのです。


 「そうか、そうか、よしよし、かわいそうにな……」


 落合さんのやせた手がインディラの鼻をなで、そっとからだをよせてやります。


『もどれ インディラ!』再会 -.png


 じっと立ち尽くすインディラ。


 「さあ帰ろう、もどるんだインディラ、おうちにもどるんだよ、インディラ……」


 落合さんの右手がインディラの耳をとらえ、ゆっくりと歩き始めます」


 (同著p.68〜72)




 インディラが歩きました。


 二十三人の男性が、鎖で引いてもびくともしなかったインディラが、細い体の落合さんと一緒に、静かにゾウ舎に帰って行きました。


 落合さんが動物園に駆けつけてから、わずか十分足らずのできごとでした。 


 見物人、警察官、職員たちにわき起こる歓声の中、戻ってきた落合さんは、皆に頭を下げました。



 「ホントにめいわくかけちゃって!うちのむすめがこんなにめいわくかけるなんて……」



 家へ帰る車に乗り込もうとしたとき、疲れが出たのか、落合さんの体が大きくよろめきました。


 車が走り出そうとしたとき、インディラが大きな声で鳴きました。


 落合さんは少し窓を開け、目を閉じたまま、しばらくじっとその声を聞いていました。


 やがて落合さんは、両手で耳をふさぐようにして、車を出してくれるように頼みました。




 その後、インディラは元通りジャンボと仲良く暮らし始めました。


 しかし、脱走の日以来、ただひとつ、変わったことがありました。




 「午後二時ごろになると、インディラがきまってそわそわしはじめるのです。


 からだをのりだすようにのばし、じっと飼育事務所の方を見ているのです。


 目をこらし、耳をそばだてるようにしながらじっとうごかない時間をすごすのです。」


 (同著 p.83)





 インディラは、あの日、落合さんがインディラを助けにきた時間、歩いてきた方角を見つめて、落合さんを待っていたのでした。


 落合さんの後輩でゾウ係である中井さんは、インディラの思いに気づいて彼女の鼻を撫でてやりました。


 きっと落合さんはまた来てくれるから……。


 実際、動物園が脱走事件の翌日にかけたお見舞いの電話に対し、落合さんの奥さんは、落合さんは元気にしているから心配はいらないと言ってくれていました。


 その時の奥さんの明るい声と、あの日の落合さんの力強い活躍を見ていた中井さんは、その言葉を信じていました。





 脱走事件から八日後の朝。


 飼育事務所に入ってきた人たちは、事務所の黒板を見て、言葉を失いました。


 そこには、落合さん逝去の知らせが記されていました。


 座り込む人、涙する人、やり場のない思いに机を叩く人……。




 落合さんは、動物園からの帰宅後、もうほとんど動けなくなりながら、奥さんに頼み事をしていました。


 動物園から電話がかかってきたら、自分は元気にしていると言ってほしい。


 そう言わないと、みんなが心配するから。


 そして、みんなが心配すると、インディラにもわかってしまうから……。


 落合さんの奥さんはその気持ちを受けて、動物園からの電話に、つとめて明るい様子で落合さんの無事を伝えたのでした。




 亡くなる前、落合さんは奥さんの手を握って言いました。


「俺はしあわせ者だよ。さいごにインディラのめんどうをみてやれたもの、ほんとうにしあわせ者さ……」


 奥さんの目にも、落合さんは心から幸せそうに映ったそうです。



 「あんなにこうふんし、目を血ばしらせていたインディラが、落合さんのことばをすなおに聞き、ことばどおり部屋にもどってくれたということが、落合さんの心をとてもゆたかにしてくれていたにちがいありません。


 それは、二十年近くにわたっていっしょに生き、よろこびもくるしみも共にしてきた人と動物の、心のむすびつきが、どんなにつよいか、をよくあらわしていたからです。


 桃の花がちっていました。


 落合さんの家にある一本の桃の木の花が、かぜもないのにヒラヒラとちっています。


 ゆっくりとまいながら、大地にすいこまれるようにおちていきます。


 それは、生まれてやくめをおえ、しぜんにかえっていくいのちのすがたでした。


 その夜、いしきのうすれていく落合さんのくちびるがかすかにうごきます。


 奥さんがその口もとに耳をよせますと、かすかなつぶやきが聞こえました。


 「インディラ……」


 「インディラのやつ……」


 「ほら、こっちだよ、インディラ……」


 それが、落合さんのさいごのことばだったそうです。


 桃の花びらだけが、音もなくちりつづけています――。」



『もどれ インディラ!』結末部 -.png



  (同著p.91〜結末)




 2017年3月、上野動物園の公式Twitter上で、50年前の出来事として、このインディラの脱走事件が紹介され、インディラと落合さんの結びつきが、再び話題になりました。


 写真の中の落合さんは、時代を感じさせる着物の寝間着に草履で、痩せた体ながらしっかりとした足取りで、インディラに歩み寄っています。


 落合さんと気づいた後らしく、インディラも穏やかな目をしています。



 残りわずかな命となってもインディラを気遣い、最後にインディラを呼びながら世を去った落合さん。



 脱走後、落合さんが来てくれた時間になると、その方角を見つめて耳を澄まし、じっと落合さんを待っていたインディラ。


 離れていても、落合さんとインディラはお互いに深い絆で結ばれていました。


 そして、そんなインディラを慰める後輩飼育員の中井さんと、落合さんの気持ちを汲んで、気丈に明るく振舞った奥さん。


 インディラと落合さんには、彼らの絆に心を打たれ、支えてくれる人たちがいました。




 この、インディラの脱走事件について記された絵本、『もどれ、インディラ!』の作者、中川志郎さんは、元上野動物園園長だった方です。


 ご自身が、初来日したパンダの飼育にあたった優秀な飼育員でもあった中川さんの文章は、落合さんの飼育員としての情熱と、落合さんに心を開くインディラのしぐさを生き生きと描いています。


 専門家がその分野について、愛情を込めて記した文には、どんな物書きも及ばない特別な魅力がありますが、この『もどれ、インディラ!』も、子供向けの優しい語り口の中に、同じ飼育員経験者ならではの観察眼と、彼らへの敬愛の念がにじみ出ています。


 中川さんは、「この出来事を通じて『本当の愛情は、人と動物の垣根さえ超えさせてしまうものだ』ということを学びました。」と語っています。

 (絵本「ありがとう、インディラ」あとがき部より)


 中川さんの目を通して描かれた落合さんの、インディラのフンを全身にかぶりながら、インディラの回復を喜ぶ笑顔も、桃の花の散る季節に、インディラの名を呼びながらこの世を去る姿も、深い絆をはぐくんだ者を守り、愛した人の「美しい光」に満ちています。


 特に、生まれ、精一杯生き、死んでゆく命のめぐりを、舞い落ちる花びらに重ね合わせた、落合さんの死の場面は、静けさの中に神々しさの漂う名文です。


 ひらがながやさしいたたずまいを醸す文と、温かみのあるタッチで描かれた挿絵の、思い出の中でインディラの背に揺られながら、奥さんに見守られ、微笑んで世を去る落合さんの姿が調和した、結末の見開きページには、心を打たれずにはいられません。




 名著ながら現在絶版中なのが惜しまれますが、図書館などではまだ比較的目にできると思われますので、是非ご覧ください。


 読んでくださってありがとうございました。


(補足)当ブログの象にまつわる記事








 (参考文献)

・「もどれ、インディラ!」中川志郎 作・金沢佑光 絵 佼成出版社 1992年




・『ありがとう インディラ』香山美子 文・田中秀幸 絵 チャイルド本社 1999年

(『もどれ、インディラ!』を元に作られた低学年向け絵本。中川さんがあとがきを寄せている。落合さんの休職中に、寂しくてふさぎこむインディラの表情が切ない。)



・「インディラとともに」川口幸男著 大日本図書株式会社 1983年

(落合さんの後輩で、インディラの飼育係となった川口幸男さんの著書。インディラ来日時の様子や、落合さんの川口さんに対する指導、その後のインディラの生涯など、現場の話が数多く記されている。インディラは、川口さんらの手厚い飼育のもと過ごし、この本が出版される直前、四十九歳で世を去った。)


【参照WEBページ】

 (上野動物園公式ツイッター2017年3月13日〜14日記事)







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2018年03月23日

(※結末部あり)短編小説「レキシントンの幽霊」(村上春樹作)あらすじ紹介

 本日は、村上春樹の短編小説「レキシントンの幽霊」についてご紹介させていただきます。

 「レキシントンの幽霊」(1996年、同名の短編小説集に収録)は、村上春樹氏本人を強く意識させる物書きの「僕」が、アメリカで暮らしているときに出会った紳士の家で遭遇した不思議な現象と、紳士から聞いた、彼の人生に起きた出来事を描いた作品です。


レキシントンの幽霊 (文春文庫) -
レキシントンの幽霊 (文春文庫) -



(あらすじ)
※結末までご紹介しているのでご了承ください。
 
 「これは数年前に実際に起こったことである。事情があって、人物の名前だけは変えたけれど、それ以外は事実だ。」

 物書きの「僕」は、そう前置きして、その「事実」を書き記していく。



 2年前、「僕」がアメリカのマサチューセッツ州に二年ほど住んでいた時、ある建築家と知り合いになった。

 五十をすぎたばかりのハンサムで半ば白髪の紳士。名前はケイシーとしておく。

 ケイシーは同じ州のレキシントンという町で、青ざめて無口な青年ジェレミーと一緒に、古い屋敷で暮らしていた。ジェレミーはおそらく三十半ば、調律師で、ピアノも上手かった。

 ケイシーは、「僕」の英訳された作品を読み、「僕」に会いたいと手紙を送ってきた。

 「僕」は、ふだんあまりそういう手紙に反応しないようにしていたが、その文面から知性とユーモアが感じられたこと、偶然、家が近かったこと、そして何よりも、彼が古いジャズ・レコードの見事なコレクションを持っていることに惹かれ、彼に会ってみることにした。

 ケイシーの家は、築百年は経っているであろう立派な屋敷で、高級住宅街の中でも異彩を放っていた。

 玄関には大型犬のマスチフがいて、僕に向かって少しだけ義務的に吠えた。

 出迎えてくれたケイシーは、趣味の良い服装をし、教養ある、話し上手な人物だった。そして仕事は持ってていたものの、必要に迫られて働いているようには見えなかった。

 ケイシーの父は著名な精神科医で、彼の素晴らしいジャス・レコードのコレクションは父親が揃えたものだった。

 ケイシー自身は、さしてジャズを好んでいたわけではないが、亡き父に対する愛情から、今もそのコレクションを完璧に管理していた。彼には兄弟がおらず、屋敷もレコードも、すべてケイシーが継いでいた。



 月に一度程度ケイシーの家を訪ねるようになってから半年ほどした頃、ケイシーは「僕」に一週間の屋敷の留守番を頼んできた。

 ケイシーは仕事でその間ロンドンに行かねばならず、一緒に住んでいるジェレミーは、遠方に住んでいる母が体調を崩してしまったために、少し前から実家に戻ってしまっていたので、その間、屋敷と犬を見る人間が必要だった。

 犬の食事以外は、レコードを好きなだけ聴いて好きに過ごしてくれていい。

 ちょうど、自宅そばの工事の騒音に悩まされていた僕は、その話を快諾し、ノートPCと少しの本を持って、ケイシーの家にやって来た。

 「僕」はレコード・コレクションのある音楽室で書き物をしてみた。

 屋敷はどこも年月を感じさせ、持ち込んだPCが浮き立つほどであった。中でも音楽室は、ケイシーの父の死後、何一つ手をつけなかったらしく、清潔だが、時が留まっているような、あるいは神殿や遺体安置所のような気配がした。

 ケイシーの犬、マイルズは、大きいが寂しがりやで、キッチンで眠るとき以外は、「僕」に体の一部をそっと付けていた。

 家の調度はいかにも代々裕福な家らしく、良い品と思われたが、派手さはなく、その落ち着いた部屋に音楽が沁み込んでいった。

 「僕」はその音楽室で極めて居心地よく仕事をし、夜、眠るために二階の客室に上がっていった。



 夜中、「僕」はふいに目が覚めた。

 そして、なぜ目が覚めたかに気付いた。

 階下から、音がする。

 誰かが下で話している。それもかなりの人数。

 かすかに音楽まで聞こえてくる。そして、ワイングラスらしきものを鳴らす音。

 それはパーティーの物音だった。

 いったい誰が、いつの間に。

 それはわからなかったが、音楽と話声は、明るく楽しげで、なぜか危険を感じさせなかった。

 足音をしのばせて玄関ホールへ降りてゆくと、「僕」が寝る前に開けたままにしていたはずの居間への扉がぴったりと閉ざされていた。

 パーティーの賑わいはそこから聞こえてきていた。

 キッチンに行き、念のため、護身用のナイフを取り出そうとしたが、あの楽しそうなパーティーの中に、ナイフを持って入ることがためらわれ、それを引き出しに戻した。

 そのとき初めて、キッチンで寝ているはずの犬がいなくなっているのに気づいた。
 どこに行ったのか、なぜ吠えなかったのか。

 玄関ホールに戻った「僕」は、まだ聞こえてくるパーティーのさざめきに耳をすました。

 しかし、その話声はやわらかに混ざり合い、どうしても、何を言っているのか聞き取れなかった。

 ふいに、気付いた。

 あれは、幽霊だ。

 彼らは生きた人間ではないし、どこからも入ってこなかった。だから、犬は吠えなかったのだ。

 「僕」は恐怖を覚えたが、怖さを超えた、何か不思議な感覚も覚えた。

 それからそっと二階に戻っていった。

 話声と音楽は夜明け近くまで続いていたが、「僕」はやがて眠りに落ちた。

 朝、再び一階に降りていくと、居間への扉が開いていた。

 パーティーの形跡など何もなく、犬はキッチンで寝ていた。



 パーティーの気配はその晩一度きりで途絶えた。

 「僕」の心のどこかに、あのさざめきにもう一度巡り合うことを期待する思いがあったが、夜中、犬と一緒に居間でしばらく待っていても、もう二度と、何も感じられなかった。
 


 ケイシーが一週間後に帰って来た時、「僕」はあの夜のことを話さなかった。なんとなく、彼には何も言わないほうが良い気がした。



 それから半年、ケイシーには会わなかった。

 電話で聞いたところでは、ジェレミーの母親があのまま亡くなり、彼は、ずっと、母親のいた町に行ったきりだということだった。

 
 最後にケイシーに会ったとき、散歩中、カフェテラスで偶然出くわしたのだが、彼は、十歳は年をとったように、急に老け込んで見えた。

 伸ばしたまま整えていない髪、目の下のたるみ、手の甲にまで皺が増えていて、あの身綺麗でスマートな彼からは想像もつかないくらいだった。

 ジェレミーはもうレキシントンに帰ってこないかもしれない。

 「僕」と一緒にコーヒーを飲みながら、ケイシーは沈んだ声で言った。

 無口だったあの青年は、親の死んだショックで、人が変わってしまったようだった。

 ケイシーが電話をしても、ほとんど星座の話しかしなくなった。星の位置によって今日一日行動を決めるというような話をだけを。そんな話は、レキシントンにいるときにしたことがなかった。

 気の毒に、と、「僕」は言った。だがそれが誰に対する言葉なのか、自分でもよくわからなかった。


 ケイシーは、十歳で亡くした母親の話をはじめた。

 ヨットの事故だった。父より、十以上も年下で、誰もそのとき母が死ぬなんて考えていなかった。でも、煙のようにいなくなってしまった。

 美しい人で、サマードレスを風に揺らし、綺麗に、楽しそうに歩いた。

 父は、母を愛していた。おそらく息子であるケイシーよりずっと深く。

 父は、自分の手で獲得したものを愛する人だった。彼にとって、息子は、自然に、結果的に手に入ったものだった。 
 
 母の葬儀が終わった後、父は、三週間眠り続けた。誇張ではなく事実として。

 もうろうとベッドから出てきて、水とほんの少しの食べ物を口にする以外、鎧戸をぴたりと閉めた部屋で、微動だにせずに眠り続けた。ケイシーは、父が生きているか何度も確かめた。おそらく夢すらみていないであろう、深い眠りだった。その間ずっと、ケイシーは、屋敷でたった独り取り残されたような恐ろしさを感じていた。

 十五年前、父が亡くなったとき、死んでいる父の姿は、眠り続けたときの彼とそっくりだった。

 ケイシーは父を愛していた。尊敬以上に、精神的、感情的な強い結びつきを感じていた。

 それから、ケイシーは二週間の間、眠り続けた。母を亡くした父と全く同じように。

 眠っている間は、現実が、色彩を欠いた、虚しく浅い世界に思えた。戻っていきたくなかった。母を失ったときの父の気持ちを、ケイシーはようやく理解できた。

 
 「ひとつだけ言えることがある」

 ケイシーは顔を上げ、「僕」に穏やかに笑った。

 「僕が今ここで死んでも、世界中の誰も、僕のためにそんなに深く眠ってはくれない」



 「僕」は、ときどきレキシントンの幽霊を思い出す。そして、あの屋敷に存在したものを。

 閉ざされた暗い部屋で、「予備的な死者」のように眠り続けるケイシーと彼の父親、人懐こい犬のマイルズ、完璧なレコード・コレクション、ジェレミーの弾くピアノ、玄関前の青いワゴン車、そんなものを。

 ついこの間のことなのに、それはひどく遠く思え、その遠さのために、「僕」は、あの奇妙な出来事の奇妙さを感じられないでいる。



(完)




 留守番中に聞いた幽霊のパーティーの音と、洗練された紳士であったケイシーの、青年との別れ。

 片方は「僕」が経験したことであり、片方はケイシーが経験したことでありながら、その二つは、同じ気配を醸して交錯しています。

 「僕」が聞いたパーティーのさざめき。

 それは、個別に死を迎えた、元人間である幽霊たちの集いというより、一塊の空気のように描かれています。

 「古い楽しげな音楽」は蒸気のように僕の眠る部屋に立ち上り、扉の向こうの会話は混然一体として、何をいっているのか聞き取れない。

 「僕」は、この現象に遭遇しているときの気持ちをこのように表現しています。

 「(扉を開けて入っていくというのは)難しい、また奇妙な選択だった。僕はこの家の留守番をしているし、管理にそれなりの責任を負っている。でもパーティーには招待されているわけじゃない。」

 「(混然一体となった会話は)言葉であり、会話であることはわかるのだけれど、それはまるでぶ厚い塗り壁みたいに僕の前にあった。そこには僕が入っていく余地はないようだ。」

 やがて「僕」は、そのさざめきが生きた人間の発する者でないことに気付き、恐怖を覚えますが、それを超えた茫漠とした感覚も覚え、寝室に戻っていきます。

 その後、一抹の恐怖を覚えつつ(だから犬を連れて)、しかし、心のどこかで期待しながら、夜中に居間で、あのさざめきを待ってみたものの、もう二度とそれが訪れることはありませんでした。

 レキシントンの幽霊。

 それは、おそらく、百年を超える屋敷が今もひっそりと抱く、過ぎ去った華やかな時代の空気のようなものだったのではないでしょうか。

 かつて、本当にその居間で、時代の繁栄を謳歌していた裕福な男女が集い、笑って語らいながらグラスを傾け、音楽の中で踊っていた。

 その記憶が、あるいは余韻が、ケイシーという屋敷の主の不在時に、現れた。

 そのさざめきの明るさ、そして「僕」が不可解な現象を恐れつつ、不吉を感じなかったこと、それでいて、どうしてもその中に入る気持ちになれなかったのは、それが、現代ではない時代の空気そのものであり(話し声だけでなく、音楽も、グラスの音も一体化した塊であり)、今生きている人間が、搔き分けて入り込める性質のものではなかったからではないでしょうか。

 一方、ケイシーは、それまで一緒に暮らしていた青年ジェイミーを、距離的に、人格的に失います。

 ケイシーとジェイミーの関係は明らかにされていません。恋人、友人、いずれにせよ、ケイシーは、その後も レキシントンの屋敷でジェイミーと共に生きていくつもりで、しかし、その未来は失われました。

 妻を失い、眠り続けた父。父を失い、眠り続けたケイシー。
 
 ケイシーは自分たちのあの長い眠りを、「ある種のものごとは、別のかたちをとる。それは別の形をとらずにはいられない。」と語りました。

 愛する者を亡くした世界で、目覚めたまま流す涙や、叫びや、言葉や、そういったものでは、欠落感を紛らわせることができなかったケイシー親子は、夢も見ずに眠るしかできなかった。そういう愛し方をする血統だった。

 ケイシーは自分の死のときには、ジェイミーがいてくれると思っていたけれど、彼は母親の死に打ちのめされて、いなくなってしまった。

 今、ケイシーの死を、自分と父がそうしたように痛切に悼む人間はもういない。

 ケイシーは、その実感を、「僕が今ここで死んでも、世界中の誰も、僕のためにそんなに深く眠ってはくれない」と語りました。

(ケイシーの犬のマイルズは、愛情深く寄り添う存在ですが、原則、人より先に世を去る犬である以上、ケイシーを見送る存在として認識されず、逆にこれから訪れるであろうケイシーの人生の空白が強調されます。)


 ケイシーのジェレミーとの別離は、このセリフによって、「レキシントンの幽霊」の気配と重なり合います。

 たしかにあった、美しくぬくもりある過去、しかし、自分はその扉の外にいて、その明るい、曖昧なさざめきに、耳を澄ますことしかできない。

 「レキシントンの幽霊」と、「ケイシーの父母の記憶」は、今を生きる人間とは違う輪の中に在るという意味で共通しています。

 「時代の空気」であるか、「個人の記憶」であるかという違いだけで、どちらも、既に過ぎ去り、現在、生きた人間は、決してその輪に入ることができないという意味では、同じ性質のものです。

 それでいて、明るく美しいさざめきだけは聞こえてきて、人を扉の外に佇ませる。



 いつか、既に「誰も眠らない」人間になったケイシーは、屋敷で、あの居間にたちのぼる「レキシントンの幽霊」のさざめきを聞く日があるのか。

 彼は、あの「レキシントンの幽霊」の明るく華やかな気配を、居間の外で、どんな思いで聞くのか。

 扉を隔てて、「死んでいる」のは、誰なのか。

 そんな想像は、傍観者の「僕」がケイシーから遠ざかってゆくことで、語られずに終わります。

 幸福なさざめきと、ケイシーの最後の言葉がまざりあい、読者の中の思い出と欠落感を風のように揺らす、印象的な短編です。

 是非お手に取って、この不思議な、忘れ難い感覚を味わってみてください。

 読んでくださってありがとうございました。

posted by pawlu at 23:14| おすすめ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月03日

「猫年の女房」(女優、沢村貞子著『私の浅草』より)

 新年あけましておめでとうございます。


 お正月なので、今回は干支にちなんだお話をご紹介させていただきます。


 黒柳徹子さんに「かあさん」と慕われた名脇役女優、沢村貞子さん。




 エッセイストとしても活躍した彼女が、自身の生まれ育った浅草の思い出をつづった『私の浅草』の中に、こんなお話がありました。





 沢村さんが16才ごろのこと、近所に「おすがさん」という女性が住んでいました。


 沢村さんよりひとまわり年上の、申年(さるどし)の28才。


 やせ型で、髪を無造作にひっつめて結い上げ、地味な着物に化粧ッ気のない顔。


 大きな目と形の良い口元で、沢村さんのお母さんに言わせれば十人並みの器量でしたが、その年齢まで浮いた話がまったくない人でした。


 というのも、おすがさんの父親が、浅草男の悪い癖で、さんざん遊んで家族を泣かせた挙句に早死、母親もあとを追うように死んでしまい、まだ十五、六のおすがさんが、弟二人の面倒を見ることになったからでした。


 同情した沢村さんのお母さんのつてで、お母さんの姉が営む仕立て屋の仕事につき、弟たちの仕事の目途もついた頃には、当時の婚期を過ぎていました。


 もう今更お嫁に行く気なんてありません。一生仕立て物をして暮らしていきます。


 不運と戦ってきたために、そんなふうに言い切る表情にも口調にも愛想が無く、男たちの間で話題にもならないおすがさん。


 沢村さんのお母さんは、どうにかいいご縁を見つけられないものかとはがゆがっていました。


 「まあ、無理だな。年齢もなんだが、あの子は色気がなさすぎるよ。年中ギクシャクして、うっかりさわると、カランカランと音がしそうだ。」


 いい男だと芸者衆にもてはやされ、おすがさんの父より輪をかけて道楽者の沢村さんのお父さんは、女を見る目には自信があるとばかりにばっさりと切り捨てていました。




 ところが、ある日、お父さんは、ほおずき市で、おすがさんと大工の仁吉さんが寄り添って歩いていたのを見かけ、目を丸くしました。


 「……はじめは人違いかと思ったよ。銀杏返し(いちょうがえし:日本髪の一種)に結っちゃって……。声をかけたら振り向いて真っ赤になって、仁吉のかげにかくれたりして……色気があるんだよ、これが、――どうなってるんだい。」


 夕飯時のお父さんのそんな噂話に、お母さんは真面目な顔で向き直りました。


 仁吉さんは、無口だけど気のいい働き者で、栗の実のような丸顔と小さな目が人懐っこく、親方からも可愛がられている人でした。




 仁吉さんをおすがさんに引き合わせたのはお母さんでした。


 沢村家の台所の修繕に来ていた仁吉さんと、たまたま家に訪ねてきたおすがさんに、一緒にお茶を飲んでいくように勧めたお母さん。


 弟と同じ年頃、同じ大工という仁吉さんに、おすがさんも珍しく気を許し、仁吉さんの仕事話を熱心に聞き入っていました。


 仁吉さんは、その場でおすがさんに浴衣の仕立てをお願いし、それを仁吉さんの家に届けにいったおすがさんが、震災で身寄りを失くし、一人暮らしだった仁吉さんの部屋を掃除してあげたことから、仁吉さんの好意が深まったようでした。


 「あんまり汚いんで見かねたんでしょう。優しい人ですね。年齢は……私より二つ三つ上ですかね。」


 台所修繕の合間に、おすがさんの話をする仁吉さんに、五つ上と言いだしかねて、お母さんは、さあね、いくつになったかしらと空とぼけていました。




 「ちょっとお話が……」


 ほおずき市のすぐ後、見違えるほど優しい風情になったおすがさんが、しかし、思いつめた様子で、沢村さん母娘を訪ねてきました。


 「……仁吉さんのことかい?」


 うつむいてもじもじしているおすがさんに、お母さんがそう促すと、


 「……実は、あの人と一緒になりたいんですけど……」


 消え入りそうに絞り出した声にも、それまでにない甘さがありました。


 「けっこうじゃないか。あの子は働き者で人間もしっかりしてる。お前さんさえその気なら、いくらでも力を貸すよ」


 おすがさんは急に顔を上げました。


 「おかみさん。お願いですから、あの人にきかれても、私の本当のとしを言わないでください。お貞ちゃんより、ひとまわり上の申だなんて――」


 一緒になろうと申し込まれたとき、仁吉さんに、つい「あなたより一つ上の子(ね)年なのに、それでもいいの」と、言ってしまい、今更引っ込みがつかなくなってしまったそうです。


 あんたの弟さんも子年なのに……。そもそも仁吉さんは、年上なのは承知なのだから、そんなに気にしなくても……。と、お母さんがいくらなだめすかしても、


 「五つも年上だなんてわかったら、あの人がっかりします。私だってきまりがわるくて――そんなこと知れたら死んでしまう……」


 果ては、泣き出してしまいました。


 仕方がないので、弟さんにも二つさばをよんで、寅年ということしてもらおう、ということに。


 でも、区役所の届でわかってしまう。


 はっとしたお母さんに、届なんか出さなくったっていい、子供も産みませんと、きっぱり言い切るところに、昔のおすがさんの名残が見えました。


 そのくせ、お願いです、このことは言わないで……と、女っぽいしぐさで、沢村さんたちをおがみ、おすがさんは帰っていきました。




 約10日後、仁吉さんが、あいさつに来ました。


 式の前に届を出してくると聞いて、お母さんは慌てましたが、仁吉さんはその様子に気付き、笑って首をすくめました。


 「あの人がいくつだっていいんです。わたしは学もないし、ああいうしっかりした姉さん女房が好きなんです。ねずみだの申だのってオタオタ言ってるから、いっそのこと、猫年の女房ってことにしようって、ゆうべよく言いましたから……」



 秋になり、赤ちゃんができたらしい、と、報告に来たおすがさん。


 若妻らしく、丸髷(まるまげ:既婚女性の結う日本髪)に結い上げた髪を、淡い桃色の手絡(てがら:結った髪に添える布)で飾り、


 「でも、五つ上っていっても、私は十二月末だし、うちの人は一月の十日だもの、正味、四つと十五日しか違わないんですよ」


 明るく笑うおすがさんの、口元にもっていった左手の薬指に、指輪が光っていました。



(完)



 ちょうど、先日再放送していた大ヒットドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」で、主人公みくりの叔母、「百合ちゃん(石田ゆり子)」と、十七歳下(※)の風見さん(大谷亮平)の恋の行方が話題になりました。

(※原作漫画では二十五歳差)



※原作の「百合ちゃん」




 今も年上女性が、好きな人にアプローチされても引け目を感じるという話があるわけですが、沢村さんが少女時代(戦前、1920年代半ば)は、もっと厳しかったようで、今の読者からすれば、そこまで気がねしなくてもと思う状況でも、本人は泣くほど悩んでいます。


(伊藤左千夫の小説「野菊の墓」〈1906年〉では、女性が二才上という理由で、想い合う従姉弟同士が、血縁者たちに引き裂かれてしまいます。)







 そんな、今なお女性を閉じ込める、見えない檻から、苦労人の朴訥誠実な青年が「猫年の女房ってことにしよう」と、柔らかく連れ出してくれている、心温まるエピソードです。


 『私の浅草』ではこのほかにも、浅草の人々の暮らしや悲喜こもごもが、歯切れよく情緒ある文で綴られていて、とても魅力的なエッセイ集です。


 (花森安治さん編集の「暮らしの手帖」から刊行されていて、花森さんの温かな挿絵やカラフルな装丁も味わい深いです。)


 是非、お手にとってみてください。

 (このブログでもいずれもう少しこの本の内容や、そのほかの沢村貞子さんのエッセイをご紹介させていただく予定です。)


 読んでくださってありがとうございました。

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2017年08月26日

大岡昇平作『野火』小説あらすじご紹介(※結末部あり)




 『野火』は、第二次大戦時、敗戦を目前としたフィリピンの地で、病のために孤立した兵士田村が、飢餓の中で、兵士たちが互いを食うため殺し合うという、極限状態に直面する物語です。


 目を覆う惨状を題材としながら、極限状態でも「思考する人」であり続ける田村を通じて描かれる世界は、独特の静けさと重厚さを持ち、「人間を食べない自分」を保とうとする田村の葛藤や、彼が偶然出会った瀕死の日本兵の、彼に対する赦しの言葉が、人間に残された最後の魂の力を感じさせます。


 最初に読んだときは、その惨禍に衝撃を受けましたが、思考することをやめず、状況に抗い、他者からの赦しを忘れられない一人の人間のありようが描かれていることに気づいてから、光景への恐怖よりも、その心の動きに胸を打たれました。


 以下、あらすじをご紹介させていただきます。


(結末部まで書かせていただいていますので、あらかじめご了承ください。また、一部現代には不適切な表現がありますが、作中の言葉を使用させていただいています。)




 第二次大戦時、日本の敗北が決定的となったフィリピン戦線で、「私」田村一等兵は、肺を病みながら、数本の芋だけを食料として渡され、隊から追放される。


 入院しろ、断られたら、手持ちの手榴弾で死ね。


 それが、隊長からの命令だった。


 病院の外には、「私」と同じように栄養失調で消耗しながら、物資不足と患者の多さから、入院を断られ、死を待つしかない人々が大勢いた。



 病院がアメリカ軍に攻撃されたので、「私」は熱帯の山の中に逃げ込んだ。


 自分の死を確信しながら、「私」が逃げたのは、死が決まっている自分の、孤独と絶望を見極めようという、暗い好奇心のためだった。




 独り、山をさまよっていた「私」は、自分が生きているのか死んでいるのか、時折わからなくなったが、現地の住人の畑を見つけ、そこで、つかの間、食料に不自由しない日々を過ごす。


 畑近くの海を見に行った「私」は、林の向こうに教会の十字架を見つけた。


 そこへ行ってみたいという気持ちをおさえられなかった「私」は、村人に見つかる危険を承知で、十字架のある場所へ行った。


 村は既に無人で、食料を奪おうとして殺されたのであろう日本兵たちの朽ち果てた死体だけが残されていた。


 教会に入り、イエスの処刑の絵と、十字架上のキリスト像を見た「私」は泣いた。


 救いを求めて教会まで来た自分の見たものは、日本兵の死体と出来の悪いキリストの絵だった。


 少年時代に教わった、聖書の言葉が口をついて出たが、答えは無かった。


 自分の救いを呼ぶ声に応える者は無い、と、あきらめた「私」は、この時、自分と外界の関係が断ち切られたのを感じた。




 村に残された食料を探していた「私」は、塩をとりに戻ってきた若い男女に出くわし、騒がれたので、女を撃ってしまった。男は逃げた。


 「私」は、銃を持っていたために反射的に女を撃ったが、銃は、国家が兵士としての「私」に持たせたものであり、もはや、兵士として用の無い人間になった自分が、罪の無い人を撃つために持つべきものではない。そう気づいた「私」は、銃を捨てた。




 畑に戻った「私」は、退却中の日本兵たちに会った。彼らの中には、病院の外で話した日本兵たちも混じっていた。


 彼らとともにパロンポンまで退却できれば、軍に戻り、生き延びられる可能性がある。


 「私」は再び銃を支給され、彼らとともにジャングルを進んだ。


 ゲリラの攻撃、食糧難など、その道のりは非常に過酷なものであり、アメリカ兵に降伏したくても、それは上官によって固く禁じられていた。


 その途中、「私」は、仲間の一人が、過去に別の戦場で、食料が無かった時に、人の肉を食べたらしいといううわさを聞く。


 アメリカ軍の攻撃を受け、隊からはぐれ、再び銃も失くしてしまった「私」は、アメリカ兵を見つけ、いっそ降伏しようかと考えたが、彼の隣にいたフィリピン人の女が、自分が村で殺した女に似ていたため、降伏をためらう。


 その間に別の日本兵が降伏しようと出て行ったが、彼は女に撃ち殺された。


 「私」は、村の女を殺した自分は、やはり誰かに救われることは無いのだと思って、その場を引き返す。




 持っていた食料も塩も無くなり、本格的な飢えが「私」を襲い始めた。


 日本兵の死体はいたるところに転がっている。


 いっそ、話に聞いたように、自分も人を……という考えが浮かんだが、「私」には、人類の歴史で、厳しく禁じられているその行為をすることは、どうしてもためらわれた。


 その時から、「私」は、死体を見るたびに、自分が「見られている」という意識にとらわれるようになる。


 その意識が、「私」の行動を支配し、「私」は、日本兵の死体に手をかけることができなかった。




 飢えもいよいよ限界となった「私」は、死にかけている一人の将校を見つける。


 丘の頂上の木にもたれかかって座り、空を仰いでいる彼は、栄養失調から重い病気にかかり、意識ももうろうとして、「私」にもほとんど気づかないように、あるときは笑い、あるときは「俺は仏だ」、「日本に帰りたい」と、うわごとを言い続けていた。


 「私」は、彼のそばに座り、彼が眠っていた間も、「待っていた」。


 夜明けがきたとき、ふいに彼ははっきりとした意識を取り戻した。


 そして、警官のような澄んだ目で、「私」を見つめて、言った。


「何だ、お前まだいたのかい。可哀そうに。俺が死んだら、ここを食べてもいいよ」


 彼は、左手で右腕を叩いて示した。




 「私」は、息をひきとったその将校の死体を、草木に覆われた陰に運んだ。


 そこでようやく、誰にも見られていない、と、思うことができたが、「私」は、瀕死の将校を見つけたときから計画していた、彼を食うという行為を、どうしても実行できなかった。


 「食べてもいいよ」


 あの、死の間際の、恩寵的な許可が、却って「私」を縛っていた。


 将校が食べることを許した腕に、あの村で見た、十字架上のキリストの腕が重なった。


 自分は罪の無い人間を既に殺していて、もう、人間の世界に帰ることはできない。


 だが、この将校は病のために死んだのであって、自分には責任がない。そして、死んでしまえば、残された体は、「食べてもいいよ」と言った魂とは別のものである。


 そう考えた「私」は、彼の腕にナイフを突き立てようとしたが、そのとき、「私」のナイフを持った右手を、左手が掴んで止めた。


 「汝の右手のなすことを、左手をして知らしむるなかれ」


 「私」には、そう言う声が聞こえた。


 「起(た)てよ、いざ起て……」


 「私」は、死体を置いて、その場を離れた。


 死体から離れるとともに、右手を抑える左手の指が、一本ずつ離れていった。


 歩く「私」を、雨上がりの野の万物が見ていた。「私」は、故郷で見た谷に酷似した場所へやってきた。「帰りつつある」という感覚が「私」の中に育っていった。


 花びらを広げかけた南の花が、ふいに、「私」に言った。


 「あたし、食べてもいいわよ」


 「私」は飢えに気づいたが、また、左手が右手を掴んだ。手だけではなく、右半身と左半身が別物のように感じられた。飢えは、右半身だけが感じていた。


 左半身は理解した。今まで、生きている植物や動物を食べてきたが、それは、死んだ人間よりも食べてはいけなかった。


 「私」の目には、空からも、同じ花が光りながら降ってくるのが見えた。


 野の百合は何もせずとも生き、神によって華やかに彩られる。人間は野の百合以上に、神から必要なものは与えられている。


 そんな聖書の教えが、花の上に声となって立ち上っていた。「私」は、これが神であると思ったが、祈りの言葉を発せなかった。体が二つに分かれていることが、それを阻んだ。


 「私」は、自分の体が変わらなければいけないと思った。



 ある日、「私」は、白鷺が飛び立つのを見て、自分の魂も、一緒に飛び去るのを感じた。分かたれた右半身の自由を感じ、飢えながら駆けていった「私」は、将校に出会った窪地で、再び「彼」を見た。


 彼は巨人となっていた。


 腐敗して膨れ上がった彼は、もはや食えなかった。


 神が、飢えた「私」がここに来る前に、彼を変えていた。


 彼は神に愛されていた。おそらくまた「私」も。




 餓死が迫り、ただ、河原で横たわっていた「私」は、人の足が一本、そこに転がっているのに気づいた。


 この足は「彼」のものではない、切ったのは「私」ではない。


 そう思っている「私」に、足が近づいてきた。


 自分が足に向かって這っている。そう気づいたとき、「私」は、また、誰かが見ている。と感じた。


 「私」は力を込めて、自分の体を繰り返し転がし、足から遠ざかろうとした。


 そのとき、「私」は、実際に自分を見ている目と、向けられていた銃口に気づいた。


 目の主は「田村じゃないか」と「私」を呼んだ。


 病院に入れずにいたときに、言葉を交わしたことのあった若い日本兵、永松だった。


 永松は、動けない「私」に水を与え、何かの干し肉を口に押し込んだ。


 「私」は、己に禁じたはずの肉を口にした自分に悲しみを覚えながら、同時に、分かたれた左右の体が、一つに戻っていくのを感じた。


 「猿」の肉だ。


 撃った奴を、干しておいた。永松は横を向いてそう言った。


 永松は、病院で親しくなった、安田という年上の兵士と、今も行動を共にしていた。


 「私」を寝起きする場所に迎えた二人は、なぜか離れて寝ていた。安田は銃を失くしており、永松は、その銃を安田にとられることを恐れていた。「私」は、自分も永松に気をつけなければいけないような気がしたが、何に気を付けなければいけないのか、よくわからなかった。


 しばらく続いた雨がようやく止んだある日、永松は、食料が尽きたからと猿を撃ちに行った。


 病気で足が不自由になったという安田とともに、残された「私」は、自分は銃を失くしたが、まだ手榴弾を持っていることを口にする。


 安田は手榴弾がまだ使い物になるか見てやる、と、言ってそれを手にした後、「私」にそれを返さなかった。返せ、と、手を伸ばすと、剣を抜かれた。「私」には、安田がそんなことをする理由がわからなかった。


 銃声が響き、安田が「やった」と叫んだ。


 「私」が、銃声の方角に走ると、弾から逃れて駆けてゆく日本兵が見えた。


 これが「猿」だった。


 「私」は、それを予期していた。


 「私」が、かつて足首を見た場所に行くと、いくつもの足首や、体の様々な部分が、捨てられていた。


 「私」は、驚かなかった。神を感じていた。ただ、自分の体が変わらなければいけなかった。


 永松が「私」を銃で狙っていた。


 永松は、「猿」を見た「私」を、お前も食べたんだ、と言った。「私」は、「知っていた」と答えた。


 永松は、「私」が、安田に手榴弾を盗られたことを知ると、安田に殺される前に、二人で安田を殺し、彼を食料にして、投降できる場所まで行こう、と、持ちかけた。


 「私」は、助かろうとは思っていないことを告げたが、永松とともに、安田のいる林へ向かった。


 永松の呼ぶ声を聴いた安田は、確かに手榴弾を投げてきた。「私」は破片で飛ばされた、自分の肩の肉を食べた。


 その後、三日間、「私」たちは安田を見つけられなかったが、水場で待ち伏せていた時、安田が姿を現した。


 永松は安田を撃ち、彼の両手足首を素早く切り落とした。


 「私」は、その光景を予期していたが、それを目の当たりにしたとき、吐いた。そして怒りを感じた。


 人が飢えた果てに食い合う生き物なら、吐き、怒ることができる自分は、天使だ。ならば、神の怒りを代行しなければいけない。


 「私」は、永松が銃を置いた場所まで走り、「私」を笑いながら追ってきた永松に銃を向けた。


 「私」の記憶はそこで途切れた。


 撃ったかどうかは思い出せない。しかし、確かに食べなかった。




 あれから6年後、「私」は東京郊外の精神病院にいた。


 戦場で記憶を失っている間、「私」は後頭部を何者かに殴られ、アメリカ軍の野戦病院に収容され、やがて日本に帰ってきた。


 フィリピンの野戦病院にいる間「私」は、与えられた、かつて生きていた食物に、頭を下げて詫びるという行為をし続けた。それは、「私」以外の力がそうさせていた。


 日本に戻った「私」は、妻と再会したが、戦場で経験したことの記憶が、彼女と自分を隔て、愛情を感じることができなくなっていた。


 「私」は孤独を求めるようになり、一度は止まった、食べ物に詫びるという行為は、やがて、あらゆる食物を食べないという事態に至った。


 こうして精神病院に収容された「私」は、医者の勧めで、自分に起きたことを振り返る手記を書いている。


 世間は、再び戦争に向けて動き出しているようにも見える。


 かつてのように、戦争を操る少数の人間たちに騙された者たちは、「私」のような目に遭うしかない。戦争を知らない人間は、半分は子供である。


 妻は、「私」を見舞うことをやめた後も、「私」を担当する医師と関係を持っている。


 その医師は、「私」の手記を、「大変よく書けている」と言って、媚びるように笑う。


 「私」の感情はそのどちらにも動かされなかった。




 「私」の中で、記憶の空白が蘇り始めた。


 あの日、「私」は、草やもみ殻を焼く、野火の煙の立ち上るのを見て、そこへ向かって行った。


 そこには、神を苦しめる人間たちがいるはずだった。


 だが、天使であるはずの「私」は、悲しみと、何かを間違えているかもしれないという不安と恐怖を感じていた。


 野火の側に、確かに人間がいた。「私」はそれを撃った。


 弾は外れ、人間は逃げて行った。


 ほかの人間たちの姿を見て、「私」は再び狙いを定めた。


 この時、「私」の後頭部を誰かが打った。




 そうして、「私」は今、東京の病院にいる。


 あの打撃で、自分は死んだと「私」は思う。


 夢と現実の狭間で、「私」は死者の世界に行き、「私」が殺したフィリピン人の女や、永松や安田が「私」に近づいてきた。


 彼らは「私」に向かって笑っていた。それは、恐ろしい笑いであったが、笑っていた。


 「私」は思い出した。彼らが笑っているのは、「私」が彼らを食べなかったからだ。


 戦争や、神や、偶然といった、「私」以外の力が作用して「私」は彼らを殺したが、「私」の意志では食べなかった。だから今こうして、共に死者の国にいられる。




 しかし、もしかしたら、野火に向かって人間を探しに行った「私」は、天使として人間を裁くつもりで、本当は彼らを食べたかったのかもしれなかった。


 もしも、「私」が傲慢によって、その罪を犯す前に、誰かが「私」を打って止めたのなら、そして、その何者かが、自分を食べてもいいと言った、あの巨人となった日本兵で、彼が「私」のために、神から遣わされた、キリストの化身であるなら。


「私」は、思う。


「神に栄えあれ」




  (完)










(補足)

以前、当ブログで、戦争を題材にした舞台「War Horse」と併せて、大岡昇平の『俘虜記』を一部ご紹介させていただいた記事はこちらです。
「ロンドンの舞台「War horse」A ある名場面と、その他のおすすめ作品。」


(参考文献)

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2017年03月29日

室生犀星と猫のカメチョロ

 先日、金沢出身の文豪室生犀星と、火鉢に手をかざす猫ジイノについてご紹介しましたが、引き続いて、犀星の娘朝子さんが書かれたエッセイ「うち猫、そと猫」より、犀星と彼が最も愛した猫カメチョロのエピソードを少し書かせていただきます。

 『室生犀星作品集・57作品⇒1冊』 -
『室生犀星作品集・57作品⇒1冊』 -

うち猫そと猫 (1982年) -
うち猫そと猫 (1982年) -


「ふるさとは遠くにありて思うもの」という詩で有名な室生犀星は、小説や詩で名を成してから、東京大田区の馬込と軽井沢に家を持ち、行き来をしましたが、その縁で、ある猫と出会いました。

軽井沢の家を建てた大工の棟梁が、避暑に訪れた犀星に、自宅の三毛が産んだ子猫を「夏の間寂しいでしょうからこの猫と遊んでください」と連れてきたのが、犀星と猫のカメチョロの出会いでした。

カメチョロはその日の午後にはもう犀星に懐き、軽井沢の家を、生まれながらの自宅のようにゆったりと歩き回り、犀星が庭に出れば後をついて歩いたそうです。

犀星は家や庭に、自身の高い美意識を反映させた人でしたが、この子猫には、彼が顔が映り込むほどに磨き上げた紫檀の仕事机の上や、手づから世話をする庭を歩くのを許したそうです。

(ちなみにカメチョロという不思議な名前は、信州の言葉で「トカゲ」を意味し、この子猫が庭を好きに飛び回る姿が、同じく庭を闊歩する、美しく銀青色に光るトカゲに似ているからという理由で名づけられたそうです。)

こうして、1年目は避暑の間だけ犀星と過ごしたカメチョロは、2年目の犀星の軽井沢訪問時も彼をよく覚えていて、大工さんがカメチョロを入れていた箱を飛び出すと、すぐに犀星に身をこすりつけて懐き、夏が終わるころ、ついに犀星の猫となって東京に連れてこられました。

カメチョロは母に似ず、大きくなってからはペルシャ猫の血を引くことを感じさせる雉虎柄の長毛で、目が大きく、犀星好みの長くふさふさとした尾を持つ雄猫でした。

「うち猫そと猫」にはカメチョロの写真がありますが、畳に優雅にねそべるカメチョロは、黒目がちで、モノクロの写真であっても、淡いピンクであったのではと思わせる愛嬌のある口元が、微笑んでいるようにふんわりと上がった、大変可愛らしく美しい猫です。

個人的には、一目見て、手塚治虫の描く、まつ毛の長い大きな目の、情深く妖艶ですらある美猫を思い出しました(カメチョロは男の子ですが、ブラックジャックの名作「猫と庄三と」の牝猫にちょっと似てる。)。

ブラック・ジャック 7 -
ブラック・ジャック 7 -


美貌でゆったりとした性格のカメチョロは、犀星に「わしの猫だからわしが世話をする」と宣言させた、おそらく数多くいた室生家の猫の中でも、犀星に最も素直になつき、犀星も溺愛した猫であったようです。

 「うち猫、そと猫」の中には、帽子をかぶり羽織姿の背筋の伸びた犀星を、笹の垣根づたいに追い、やがて寂しそうに見送るカメチョロや、犀星が丁寧に掃き清めて世話をする庭を悠々と歩くカメチョロと、自身はしゃがみこんでせっせと庭の手入れをしながらも、そういうカメチョロを好きにさせている犀星の写真が載せられています。

 朝子さんによると、犀星はブラシ代わりに軍手をはめて撫でることで、長毛のカメチョロの毛並みを整えてやっていたそうで、はじめはいやがっていたカメチョロもすぐに犀星の意を汲み、天気の良い日に犀星が軍手を持って出てくると、「犀星より先に縁台にとびのり、ごろりと寝るようになっていた」そうです。

しかし、このカメチョロは、冬のある日、伝染病にかかり、急死してしまいました。

その夜、犀星の部屋には遅くまで灯りがともっていたそうです。

朝子さんは他の飼っていた動物たちのように、カメチョロをお寺に葬るつもりでしたが、犀星は、「カメチョロをそんな遠くに葬るわけにはいかないよ。庭の杏の木の下に埋めなさい」と、朝子さんに頼みました。

 朝子さんたちが、埋葬の穴を掘っていた時、犀星はふいに庭に出てきて、彼女にカメチョロの遺髪を切ってほしい、と言いました。

 朝子さんにとっても非常につらい作業でしたが、犀星はカメチョロの埋葬を見ることすらできなかったようで、書斎にこもってしまい、朝子さんが持ってきた遺髪を黙って受け取ったそうです。

  東京に連れてこなければ、空気のきれいな軽井沢にいれば、カメチョロがこんなに早く死ぬことはなかったかもしれない。そう思ったのか、犀星は「ほんとに可哀想なことをした」と、悲しそうに言っていたそうです。

 カメチョロの死んだ前年の昭和34年に、長く療養していた妻のとみ子さんを亡くした犀星は、軽井沢に自分で「室生犀星文学碑」を建て、奥さんの遺骨の一部を、文学碑の傍らに置いた俑人(死者とともに副葬する人形)の下に埋葬していました。

(参照、「避暑地の散歩道 室生犀星文学碑&俑人像」軽井沢life http://karuizawa-style.net/kyukaruizawa/muroosaisei/)

 そして、朝子さんを連れて、散歩で文学碑を訪れたとき、なにげないふうに、
「わしが死んだら、ここに骨を埋めてほしい、そのために穴も大きく作っておいたからね」と、言いました。

 昭和37年3月26日、72歳で犀星は世を去りました。

 色々な片付けが済んだころ、朝子さんは、犀星が手元にのこしていたはずのカメチョロの毛を探しましたが、几帳面に整理されていた引き出しのどこからも見つかりませんでした。

 その年の夏、犀星の遺言に沿って、朝子さんは、犀星の分骨を携え、軽井沢の文学碑へと赴きました。

 大工の棟梁(最初にカメチョロを連れてきた人)に手伝ってもらい納骨を終えた朝子さんは、俑人の後ろに植えられたかんぞうの葉陰に、石燈籠の宝珠がおかれているのに気づきました。

 本当なら灯篭の一番上に置かれている石が……、と不思議がる朝子さんに、棟梁が、
「去年、先生があそこになにかを埋めて、その目印のためにあの石を置いたのですよ。先生はいったい何を埋められたのでしょうね」と、言いました。

「犀星が埋めたものは、あれほど軽井沢に返してやればよかったと言っていた、カメチョロの遺髪だったのだ。誰にも言わずに、わざわざ目印に宝珠まで置いたのは、愛した小さな生命に対しての、犀星の最大の供養だったのである。」

 朝子さんは見つからなかったカメチョロの遺髪と、棟梁の話とを結び合わせて、そう父の思いを振り返っていました。

 複雑な生い立ち、幼い我が子の死、愛妻の病など、波乱の多い人生を送り、厳格で気性の激しいところもありながら、年代を問わず多くの才能ある詩人たちとその家族に慕われ、心のこもった交流をしていた犀星。

 彼の文章からは、類まれな美意識や観察眼だけでなく、こうした人柄の奥行きがありありと感じられます。

 なぜこう強靭で、それでいて優しいのか。

数多くの文学者が鋭敏さと引き換えに傷つきやすく生きづらい精神を持っていたのに比べると、圧巻の文才と、優しさと、率直さの全てを持っていた犀星の存在は謎ですらあります。

 どうして苦労の連続ながら、それにのまれずに、人としても文学者としてもこういう境地に辿り着いただろうか、その過程を、私は、まだよく知りませんが、愛妻の死後、妻と自分が眠る場所を静かに整え、カメチョロの魂の一部も、カメチョロのふるさとであり、やがて犀星も眠る場所へ連れて行ったという話は、まさにこうした犀星の強靭さと優しさを物語っていると思いました。

 ジイノとカメチョロの話のおかげで、もともと稀代の名文家と思っていた犀星をますます好きになりましたので、また折をみて、彼の作品についてもご紹介させていただきたいと思います。

 読んでくださってありがとうございました。

posted by pawlu at 22:31| おすすめ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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