2021年04月05日

三浦春馬さんの、ミュージカル『キンキーブーツ』への思い(パンフレットと動画より)

(『キンキーブーツ』でローラを演じた三浦春馬さんを偲ぶトリビュート動画、春馬さんの作品にかける思い、シンディ・ローパーをはじめとするブロードウェイの制作陣からの追悼、一部日本版『キンキーブーツ』のパフォーマンス映像などで構成されている)

(※以下、ブログ内画像出典:Youtube

 三浦春馬さんは、2016年と2019年の2回、ミュージカル『キンキーブーツ』で、主人公のドラァグクイーン、ローラを熱演した。

 「この舞台は美しく華やかな舞台に立つローラと保守的で倒産の危機にある靴工場の従業員たちが困難を乗り越え再生していく物語です。困難な中でも自分らしく生きることの大切さを教えてくれる、互いを受け入れ、自分が変われば世界も変わる、というメッセージ性の強い舞台でした。三浦さんは、このメッセージに強く共感したそうで『仕事をしていく上で、何か別のものが見えたような気がする』ということを仕事関係者と話していました」

(AERA dot. 2020.7.18 記事より)


 2013年、まだキンキーブーツの日本版上演が決まっていないときに、ブロードウェイで本場の「キンキーブーツ」を観た春馬さんは、動画内で、当時の感動を語っている。(動画0:50頃)

ブロードウェイの感想を語る春馬さん - コピー.jpg

 「主演のビリー・ポーターさんが現れた瞬間に、雷に打たれたような感覚に陥り、もう……一言じゃ…言葉にならない衝撃を受けました。」


 そして大役をつかんだ春馬さんは、全身全霊でローラを演じた。

 春馬さんのローラの素晴らしさを、ブロードウェイのスタッフの方々はこう振り返っている。


赤いドレスのローラ - コピー.jpg

「キンキーブーツでの彼は圧巻でした」

 (Director/Choreographer  Jerry Mitchell氏のコメント

「彼はその美しさと繊細さ、笑いと喜びをローラという役柄にもたらしました」

 (Music Supervisor/Orchestrator/Arranger   Stephen Oremus氏のコメント) 

「それまでの作品で知られていたイメージから彼は脱皮したのです。(略)彼の望みはベストを尽くすことでした。(略)持てる熱意、喜び、精神のすべてをこの作品に注ぎ込みました。(略)稽古を重ね、ついに開幕の夜、彼は私たちの前に現れました。輝きと活気に満ちたローラとしてです。私たちは皆、驚くべき魔法を目にし、魅了されました。」

 (Associate Choreographer  Rusty Mowery氏のコメント


白いドレスのローラ - コピー.jpg


 春馬さんは、「キンキーブーツ」、そしてローラという役にかける思いを、2019年版公演パンフレットの中で次のように語っている。

 僕にとってはひとつの夢であり目標だった『キンキーブーツ』のローラ役。初演の千穐楽は「必ず再演したい」という前向きな思いの中、幕を閉じたんです。幕がとじてから再演までの2年半は実に早かった!

 この間にブロード・ウェイではオリジナルキャストのビリー・ポーターさんの復帰公演が行われました。再び拝見したビリーさんのローラは、ブロードウェイで頂点に立った人の風格と威厳がありました。先日のアカデミー賞でもビリーさんのタキシードドレス姿が評判になりましたよね。『キンキーブーツ』でトニー賞を取ったことが自信となって世界に影響を与える存在となった。アートやエンターテインメントは人々の心に寄り添って、ジェンダーレスな考え方に寛容さをもたらす力があるんだと改めて思いました。

 僕個人としては、留学したことも大きかったかな。『キンキーブーツ』に出演して世界の広さに触れてみたいと感じたし、ブロードウェイの舞台で実力者が集まってプライドを持って自分を主張する姿に憧れました。留学して海外で生活して「主張しないと自分を見てもらえないんだ」と感じました。僕は子役時代、現場で大人の顔色をうかがって過ごしてきたこともあってか、本当のことが言えなくて我慢してしまうタイプだったんです。でも、留学から帰って仕事でもプライベートでも「自分はこう思う」と言えるようになった。日本でも生きやすくなったかもしれないですね。

 今回の『キンキーブーツ』再演では今の自分が作り出すローラを演じたいと思っています。一つひとつの台詞やキャラクター同士の関係性をもっと見つめたいし、もっとシンプルにこの作品のテーマが伝わりやすい芝居をしたいですね。稽古中の今、自分が思う課題は芝居かな。もっとブラッシュアップしていきたい。それは僕だけが変わっても機能しないので、この作品のテーマと同様に「受け入れるから皆も変わっていくんだ」ということを大事にしながら、カンパニー全員で取り組みたいです。

 ローラは父の望みと本当の自分とのギャップに苦しんできた。葛藤があったからこそ、ありのままの自分でいようという強さを見つけられたんだと思う。彼がどう傷つき、不安の中を歩いてきたのかをしっかり表現したいし、苦しんだからこそ今の強さがあるんだということを伝えていきたい。2年半前の若い僕が演じたローラではなく、もう少し凛としたローラを作っていけたらと思います。

 2度目の出演となった今も、僕にとって『キンキーブーツ』は夢であり目標です。挑戦できる環境にいるのはとてもありがたいし、幸せなことだなと思います。もし僕の希望が叶うならば、この後も再演を続けて2年か3年に一度、「夢をつかみたい」と思う自分を見つめ返せる場所になったらいいなと思います。


 また、パンフレットの中で、春馬さんは、もう一人の主人公、チャーリーを演じた小池徹平さんと、作品について語り合っている。


稽古中の小池さんと春馬さん - コピー.jpg


春馬さんと小池徹平さん(ローラとチャーリー) - コピー.jpg

 (※以下、パンフレットインタビュー部抜粋、敬称略、画像出典:Youtube


 ──初演から継続してのメンバーが多い、再演の稽古に入ってみていかがですか?

三浦 元々仲がよかったカンパニーだから、再演の稽古が始まって「そうそう、この感じ!」って。再演としてすべてが新鮮なんだけど、ファミリーとしてまたここにいるんだということがうれしくてホッともしています。徹平君くんは?

小池 去年、FNS歌謡祭で『キンキーブーツ』メンバーほぼ全員で出させていただいたのが大きいなと思う。あそこで久しぶりの集合があって「いよいよ来年また始まるね」という話をして。稽古が始まって、「皆がこの日に照準を合わせてきたな」という感じも伝わったし、かといって力も入りすぎていない。だから、馴染みやすかったよね。

三浦 そう、馴染みやすい。いい作品で戻ってきたワクワク感と高揚感が本当に幸せなことだなと思う。再演だからこそ、もう関係性ができてるしね。この間徹平君に「春馬は初演の時より構えてないからやりやすい。信じてくれてるし、頼ってくれてる」と言われたんですね。お互いに力まず、相手に任せられるというのが、初演と全然違う。初演の時はこのフィールドに立つことが夢であり目標だったから、肩に力が入っていた。

小池 今回の春馬は「カンパニーをよくしていかなきゃ」とか芝居以外のことを考える必要がないから、ローラを演じることに専念できている。周りも春馬という人間が分かっているから、気さくに話しかけられるしね。誰も気を遣わない環境を作れているのが大きいと思うな。このカンパニーは座長っぽく振る舞う必要がないんだよ。

三浦 カンパニーのみんなは徹平君のことを冗談で「社長、社長」と呼んでるけど(笑)。でもリーダーとして柔らかいムードの中で士気を保とうとしてくれているんだと思う。

小池 僕もひょっとしたら肩の力が抜けているかもしれない。

三浦 徹平君だけじゃなく、みんなが楽しもうとしているのが一番かな。


 ハイスピードで進む稽古

小池 稽古が始まって1週間だけど……。

三浦 1週間で1幕全部終わっちゃったよね(笑)。

小池 めちゃめちゃ早いよ。1幕最後の「EVERYBODY SAY YEAH」のナンバーが2時間くらいで終わっちゃったもの。

 (ブログ筆者補:動画12:34頃。理想のブーツが生まれ、靴工場の皆で喜び合っているシーンのナンバーのこと。)


トレッドミルのシーン  リハーサル - コピー.jpg


トレッドミルのシーン - コピー.jpg

三浦 複雑な動きなのに、やっぱり体の動かし方を覚えているものだよね。最後、トレッドミルの上で二人で複雑に動かなきゃいけないところも、1回でできたし。

小池 いきなりやったけど、二人とも何の躊躇もなかった。トレッドミルの上で回るのもすぐできたね。

三浦 若干おっかなびっくりではあるけど(笑)。僕は小心者だから。怖さが取れれば何の問題もない。

トレッドミルのシーンの春馬さん - コピー.jpg

小池 初演はトレッドミルに乗るところから練習したよね。

三浦 そう、歩く練習から。

小池 この場面に限らず、最初は「こんなだっけ?」と思うけど、やってみたら「ああ、こうだった」と思い出す。ブーツをぽんぽん投げるのも「ああ、こんなことをやっていたな」って。そういえば初演の時、よく1回も落とさなかったなと思う。

三浦 ノーミスだったよね。1回も落としてない。

小池 それは本当にすごかったなと思う。

三浦 初演でミスしたのって……ローラの登場の時にコケたくらいかな。ドレスの裾を踏んでツルっと尻もちをついてすぐに立ち上がったんだよね。


 二人の絆はさらに深まった

小池 久しぶりに『キンキーブーツ』のナンバーを歌って、楽しいのは楽しいけど、「こんなにスタミナを使うんだ」と思うね。

三浦 難しいよね。

小池 まだ『キンキーブーツ』の喉になってないんだなと思って。今は、喉の筋肉痛です。

三浦 あははは。

(略)

三浦(略 小池さんのチャーリーについて)僕はどっちかというと安定性がなくて、いつも違うことをやってて波があるんだけど、徹平君は本番が始まったらブレない。

小池(略 春馬さんのローラについて)春馬のブレは悪いブレじゃなくて、感情に流されているところがローラにとって大事だなと思ってる。あばれ馬くらいがちょうどいい。(略)もちろんパフォーマンスは最高基準なんだけど、不安定さがキャラクターに合っているし、守ってあげたくなる。そこが春馬のローラが人を動かすところだと思う。春馬が好きなだけあばれられるように、僕は下で支えるから。

三浦 誰だったっけ、チャーリーのことを屋台骨だって言ったのは。ブロードウェイの演出チームだったかなあ。でも本当にそうだと思う。チャーリーがしっかりいてくれるから、みんなが自由にやれている。

小池 ペース配分は考えているかな。テンポ感とブロードウェイ演出チームに言われたことを守りつつ、日本のみんながやりたい芝居や面白みを踏まえて、僕がそれを楽しんでできたら、再演はいいのかなと思ってる。春馬とは初演の時から同じ方向を向いているし、初演を乗り切ってさらに絆は深まったと思うんだ。



 現場から寛容性を実行していきたい。

──この作品のテーマのひとつである「寛容性」について、どのように考えていらっしゃいますか?

三浦 年を重ねれば重ねるほど考えることかなと思います。経験が増えると、個人のプライドも高まって自分は意識しなくても威厳を保ちたくなるのかもしれない。自分から折れて、相手の意見に寄り添ってあげるのはとても難しいことだけれど、それを超えた先にお互いの理解があるよね。「受け入れる」というテーマを届けなければいけないこのカンパニーの中でも素直になれないことってあると思うんです。でも、僕らプレイヤーやスタッフがまずラインを超えないことには、実のあるテーマを何の嘘もなく届けることができないから。現場から寛容性をちゃんと意識していかないと、自分の成長につながらない気がしています。今回、スタッフの方たちも寛容性というテーマをしっかり持ってくれているのが嬉しいなと思って。顔合わせのあいさつでプロデューサーが「一緒に作っていきましょう」と言ってくれたのが「ああ、本当にそう思ってくれてるんだ」と感じました。でも、僕はコミュニケーションが下手だから…。

小池 いや、そんなことないよ。

(略)

春馬さんと小池徹平さん - コピー.jpg

三浦 この作品のテーマとなっている寛容性、特にジェンダーの問題は2年半前よりも関心を持たれるようになっている気がする。演劇はお客様と一緒に作るものだから、反応も2年半前とは変わってくるかもしれないね。でも、お客様に「こういうふうに観ていただきたい」ということではないんですよね。

小池 そう、好きなように感じてほしい。ただ、みんなに楽しんでもらいたいなという気持ちでやっていますね。こんなハッピーなミュージカルってなかなかないから。

(略)


──お二人にとってミュージカルに出演する意味は?

三浦 ミュージカルに出演する意味? 何だろう……喜びかな。ストレートプレイに出演することも喜びなんだけど、自分を解放できる感覚はある。

小池 ミュージカルは自分が持っているものを全部吐き出さないとできない。芝居しながら歌うことも簡単にはできないし、今まで勉強したことをすべて使わないと歌えない。アーティストとして歌っていた時とは別次元だし、生の芝居が終わった後の拍手はリアルに伝わってくるから、喜びはすごく感じます。

三浦 『キンキーブーツ』は特に、リアルタイムでお客様の歓喜を感じやすい演目じゃないかなって。ブロードウェイの演出チームが「感情が踊りになり、歌になる」と言ってたけど、シンプルな表現がなんてエネルギッシュで気持ちいいものなんだろうと思う。ミュージカル、好きよね?

小池 うん、好き。やめられないもの。

三浦 ミュージカルにどっぷり関わらせてもらったのが『キンキーブーツ』でよかったなと思います。集まってきてくれるみんなが素敵だし、楽曲とストーリーが素晴らしいから、ブロードウェイの求めるクオリティに追いつけるように頑張りたいと自分なりにストイックになれたんじゃないかなと思う。


小池 『キンキーブーツ』で一番好きなところは?

三浦 一番好きなところは、ブーツ。ヒールですよ。

小池 ああ、さすが!

三浦 ブーツを履けば、ヒールを見ればトランスミッションを上げてどこまでも高揚できるというキャッチーなテーマ。ヒールはジェンダーの問題にも人を受け入れるというテーマにも連れていってくれるじゃないですか。だから、一番好きなのはヒールと言っていいかな。徹平くんは?

(補:春馬さんお気に入りのナンバー「SEX IS IN THE HEEL」のナンバー、動画10:00頃

SEX IN THE HEEL2 - コピー - コピー.jpg

SEX IS IN THE HEEL - コピー - コピー.jpg


小池 そうだなあ。一番最後かな。みんなで手をつないで、ビューティフル〜♪と歌って、あんな最高の気分で暗転を迎えるってすごく幸せだなと思って。

三浦 そんなミュージカル、ほかにないんじゃない?

小池 ないと思う!その後、カーテンコールでお客様まで踊ってくださるものね。日本のお客様がここまでノリノリになるのを初めて見たよ。

三浦 あれは楽しいよね。本当に幸せです。

ミュージカルラストシーン - コピー.jpg


 素晴らしい作品、作品を愛し情熱を注いで一緒に作り上げていく仲間、リアルタイムで歓喜し、拍手する観客。

客席と一体になるラスト - コピー.jpg

 そのすべてが集結する舞台のために、全てを捧げた春馬さん。

 彼の才能と誠実な心を最大限に輝かせ、作品と作り手たちと観客が響きあう、舞台、とくにミュージカルという場が、彼とともにあれば、悲劇は起きなかったのではないか。

 ローラについて語り、力いっぱい演じる春馬さんの笑顔を観るたびに、そう思う。

笑顔でローラを演じる春馬さん - コピー.jpg



 春馬さんは舞台について、別のインタビューでこうも語っていた。

「近年、舞台が面白いなと感じています。 この間『キンキーブーツ』をやらせていただいて『舞台を見たことがきっかけで、ミュージカル鑑賞が趣味になった』という話を聞くと、こんなに嬉しいことはなくて──。理屈じゃないんですよね、リアルに自分が歓喜する瞬間って。そんなこともあって、少しでも自分が日本におけるミュージカルシーンを活性化していく一つの大きな歯車になれるように──。そのためには、もちろんドラマや映画などの映像の現場でも頑張っていかなきゃいけない。日本ではまだ著名人を観に行くという感覚の割合のほうが高いと思うから。スキルや作品性を楽しむお客さまも増えてきてるとは思うけど、やっぱり名実ともに大きな存在にならなきゃいけないなっていうところで、できる限りのことをしていきたい」

(略)

「今では舞台の上で表現したいと思うとき、何かスゴイものを観ていただきたいなという気持ちが一番なんです。そのためにも、いい存在になりたいです」

(略)

「10年後も舞台の上に立っていたい。ミュージカルでやりたい役もいっぱいあるんですよ。例えばジキルとハイド、ジーザス・クライスト・スーパースター、昨年のトニー賞を総なめにしたディア・エヴァン・ハンセンとか──。日本で再演する時は、絶対にオーディションを受けたい。でも、日本でお客さまを呼ぶにはネームバリューがいつでも必要。だから、しっかり映像でもいい芝居して──。まだまだ経験的には浅いですし、いろんなジャンルの監督と出会い、学ばせてもらい勉強していきたいです」

(「ヌメロ・トウキョウ(Numero TOKYO)」インタビュー 2018.9.12)


 『ジーザス・クライスト・スーパースター』は、十字架にかかる運命が迫るイエス・キリストと、キリストを裏切るユダの最後の日々を描いた作品だ。

ジーザス・クライスト・スーパースター (字幕版) - テッド・ニーリー, カール・アンダーソン, イヴォン・エリマン, バリー・デネン, ボブ・ビンガム, ラリー・T・マーシャル, ノーマン・ジェイソン, メルヴィン・ブラック, ノーマン・ジェイソン, ノーマン・ジェイソン, ロバート・スティグウッド
ジーザス・クライスト・スーパースター (字幕版)


 春馬さんが演じたかったのは、キリストだったのだろうのか。

 それとも、本当はキリストの孤独を誰よりも理解していた、ユダだったのだろうか。

 物語の中のキリストとユダは、共に、人間という生き物が持つ、宿命に気づいている。

 人々は、苦しみの中で救いを求め、輝く存在に熱狂し、だが、その陰で払われる犠牲の痛みには気付かない。

 そして、世の中が移り変われば、それまで熱狂した存在をいとも簡単に見捨て、罵りさえして、気づかないうちに、自分たち自身も、ほかの誰かの思惑に流され、飲み込まれていく。

 そんな人々を悲しげに見つめ、それでもユダは人々の命を、キリストは人々の魂を救おうとして、違う形で犠牲になる。


 どちらの役だったとしても、春馬さんなら忘れがたい輝きを放っただろう。

 あの素晴らしい作品を演じる春馬さんを観たかった。


 春馬さんが亡くなった後、本棚にあった『キンキーブーツ』のパンフレットを手に取ったら、何かが固い音を立てて、床に落ちた。

 春馬さんの最後の舞台、コロナ禍のため、2020年3月、上演期間半ばで公演中止となったミュージカル「ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド 汚れなき瞳」のチラシだった。

ホイッスルダウンザウィンド - コピー.jpg

 まだ上演が1年近く先だったから、出演者の写真もなく、物語の説明もほとんどない、裏は白紙。

 だから、『キンキーブーツ』の客席でそれを眺めたあと、なにげなく二つ折りにして、パンフレットに挟んだきりだった。


 そのときの気持ちを思い出した。


 春馬さんは、これから舞台に積極的に挑戦するつもりなのか。

 今、日本の人気のある役者さんたちに、そういう動きが増えてきている。

 とても素敵なことだ。演じる人にとって、舞台で、観客の前に立つ素晴らしさは、やはり特別なものだというから。

 そして、春馬さんは2年か3年おきには、『キンキーブーツ』を再演したいとパンフレットの中でコメントされている。

 それは毎回、絶対観に行こう。小池徹平さんとのコンビは本当に最高だから。絶対にこのお二人の『キンキーブーツ』をまた観たい。

 自分を取り巻く状況がどうなっていても、それを楽しみに頑張ろう。


 そう思っていた。


 世の中の平和や安全が当たり前でないことや、どんなに容姿や才能が優れ、表面上成功していても、その陰で、真剣で優しいからこそ悩み、それでも努力して輝きを放ち、人々を笑顔にしようとしている、春馬さんのような人が存在していることを、そういう人の苦しさや痛みを、少しも想像していなかった。

 自分のことだけで、頭が一杯だった。


 折り曲げられた最後の舞台のチラシの、固く尖った音が、それが何か気づいた瞬間、耳の奥に、心臓に、突き刺さって、今も残っている。

 それを消したいとは絶対に思わない。


 でも、どうしても心が痛むとき、春馬さんへの追悼として動画で語られていた、ブロードウェイ版副監督のD.B.Bonds氏の言葉を思い出す。

 彼との思い出をいつまでも忘れない最善の方法は、「キンキーブーツ」で語られていることを実行することかもしれません。

 ご存じ6つのステップです。

 1:真実を追いかけること

 2:新しいことを学ぶこと

 3:自分を受け入れ 他人も受け入れること

 4:愛を輝かせること おそらくこれが最も重要なことです

 5:プライドを掲げること

 6:自分が変われば世界が変わる

   (※動画19:23頃「JUST BE」の歌詞)

 6つのステップを続けることを、春馬も願っているでしょう。



笑顔の春馬さん - コピー.jpg


 引用出典:

・2019年日本版『キンキーブーツ』パンフレット

  「ローラ 三浦春馬」コメント部

  「JAPAN CAST SPECIAL TALK SESSION with 小池徹平as チャーリー×三浦春馬asローラ 」

Youtube「Kinky Boots Haruma Miura Tribute movie」

・AERA dot.「三浦春馬さんが周囲に語っていた「何か別のものが見えた」という言葉と「ストイック」すぎた素顔」(2020.7.18記事)

 https://dot.asahi.com/dot/2020071800026.html?page=1

・ヌメロ・トウキョウ(Numero TOKYO)「三浦春馬インタビュー「怖がらずにもがき苦しんでいきたい」」

 (2018.9.12up)

https://numero.jp/interview107/


当ブログ 三浦春馬さん関連記事

三浦春馬さんのミュージカル『キンキーブーツ』

三浦春馬さんのCD「Night Diver」発売(Youtube動画内のコメントと劇評記事リンクご紹介)

三浦春馬さんが語ったこと(「生きるべきだ」という言葉と「想像力」の意味 NHKドラマ「太陽の子」のインタビュー動画より)

三浦春馬さんの、ミュージカル『キンキーブーツ』への思い(パンフレットと動画より)

posted by pawlu at 18:35| 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月12日

三浦春馬さんが語ったこと(「生きるべきだ」という言葉と「想像力」の意味 NHKドラマ「太陽の子」のインタビュー動画より)


 2020年7月8日、三浦春馬さんは、NHKの戦後75周年記念ドラマ「太陽の子」の完成会見に柳楽優弥さん、有村架純さんと登場した。(NHKホームページ内動画はこちら


(NHKドラマ版予告編)


(映画版「太陽の子」予告編 2021年8月6日(金)公開)



(映画版「太陽の子」公式HP)

「太陽の子」特別インタビュー動画内画像 - コピー.png


 春馬さんは、日本の原爆開発に参加していた科学者の弟で、病気の一時療養のために家族のもとに戻ってきた陸軍下士官、裕之の役を演じていた。


太陽の子 Youtube予告動画 - コピー.png


 このインタビューの中で、春馬さんは「生きる」ということと、彼らが作り上げてきた「作品」が人々に与える影響について触れていた。

 その、真摯な一言一言に、彼の葛藤と、俳優として「作品」の持つ力を信じる思いが宿っていた。



「生きるべきだ」という言葉と、噛みしめられた唇


 春馬さんは、ドラマのインタビューの中でこう語っている。

 (以下引用:「朝日新聞デジタル」7月10日「柳楽優弥が原爆開発の研究者に 戦後75年、感じた恐怖」


【役作りについて】

 (裕之は)戦地で神風として散っていく仲間を目の当たりにした経験から、自分も散る運命にあることを一瞬たりとも忘れていなかったと思う。

 その中で、家族に対して、せっちゃん(世津〈補:裕之が想いを寄せている幼馴染の女性〉)に対して、心配させないように笑顔でいることのつらさ。言葉で言い表せないような苦痛だったと思う。

 本当はつらいんだけど、心配させたくない、自分を弱く見せたくないっていう思いが膨張して、破裂する時に、自暴自棄に走るという経験が、少なからず皆さんあると思うんです。

 うそをつき続けて自分の心を締めつけるという苦しみを、画面を通して届けられれば。


【演じ終えた後、戦争への思い】

 今、僕たちはいろんなことで、人生を諦めたいと思う瞬間もある。

 けど、その空しく生きた一日が、当時あれほど生きたいと思っていた一日。

 一日は変わらないじゃないですか。そんなことを胸に、生きていきたい。


 そして、インタビュー動画「ドラマを通じて伝えたいこと」の中でも、春馬さんは、やはり、「生きる」ということについて触れている。(動画1:26頃)

 (柳楽さんたちと撮影の思い出について話すときは、時折いつもの優しい笑顔をのぞかせていたが、このときの春馬さんは、今になってみれば、やはり、非常に思い詰めているように見える。)


 僕たち俳優、スタッフができることというのは、(作品を観る人の)想像力を増幅させ、大きな惨事を生まないということ。

 どの時代もきっとそのために作られているというのはあると思うんです。

 戦争をしないということを心に留めて、みんなが生きるべきだということを、きっとこの作品は伝えられるのではないかと、撮影を通して感じました。



「太陽の子」特別インタビュー動画内画像2 - コピー.png


 春馬さんは、うつろにも、透き通っても見える、不思議なまなざしで、そう語った。

 それから、かすかにうなずき、唇を噛みしめた。



 「本当はつらいんだけど、心配させたくない、自分を弱く見せたくないっていう思いが膨張して、破裂する時に、自暴自棄に走る」

 「人生を諦めたいと思う瞬間もある。けど、その空しく生きた一日が、当時あれほど生きたいと思っていた一日」

 「みんなが生きるべきだ」


 これらの言葉の中には、役柄を超え、春馬さんご自身が抱いていた激しい心の痛みと、それでも生きようと必死に自分に言い聞かせている葛藤がにじみ出ている。


 「生きるべきだ」と言った後、きつく唇を噛みしめた、その閉ざされた内側にあった思い。

 そこに、何度押し殺しても湧き上がる、「うそをつき続けて自分の心を締めつけるという苦しみ」があったのではないだろうか。

 あの噛みしめた唇を開いて、「それでも、やはり、本当は、つらい」と言いたかったのではないだろうか。


 一体、何が、そこまで彼を苦しめたのか。

 そして、一体何が、あの、真剣に生きようとした、作品を通じて人に感動を伝えることに深い意味を感じていた人から、苦しい時には、自分の本当の気持ちを打ち明け、誰かに助けを求めていいという思考を奪ったのか。

 唇を、あんなにきつく、噛みしめさせたのか。

 それは、わからない。


 ただ。

 「本当はつらい」と思っていることを隠すこと。

 「うそをつき続けて自分の心を締めつけるという苦しみ」。

 本心を押し殺すということ。

 それは、本当に自分自身の命を奪うほど、危険な、痛みに満ちたものだった。


 こういう苦しみは、戦争の無い時代にも存在する。

 そして、彼のような、まじめで、他の人に対して思いやりのある人ほど、独りで、その苦しみを背負う。



 このときの春馬さんの言葉の中で、もうひとつ、考えさせられたことがある。

本当はつらいんだけど、心配させたくない、自分を弱く見せたくないっていう思いが膨張して、破裂する時に、自暴自棄に走るという経験が、少なからず皆さんあると思うんです。

 多くの人は、つらいことがあったとき、「心配させたくない」からと独りで耐えて、自暴自棄になるほど苦しむ前に、重荷を減らして軽くするか、誰かに助けを求める。

 逆に、「自分を弱く見せたくない」という思いが、攻撃的な感情に変わり、他人に重荷を背負わせたり、八つ当たりしたりすることで、つらさをまぎらわそうとする人間もいる。


 春馬さんの思い描く「皆」は、本当に我慢強く、優しい。

 そういう人は、確かに存在すると思う。

 (彼がそういう人だったのだから。)

 しかし、「皆」ではない。


 もしも、春馬さんが、自分自身のように、「皆」も、ただ独りで人生の重荷に必死に耐えているのだから、助けを求めてはいけないと、心のどこかで思っていたのなら、その優しさは素晴らしいが、どれほど寂しく、苦しかっただろう。


 こういう、春馬さんの、ご自分を基にイメージする世界と、現実との隔たりもまた、彼を孤独に追いやったのかもしれない。


 自分の心の痛みに気づき、それを押し殺さないこと。

 それは決して自分勝手ではない。

 自分の心の痛みは、自分にしか、一番深い部分はわからない。

 休息を必要としているのか、誰かに話せばいいのか、環境を変えればいいのか、あるいは専門家のサポートが必要なのか。

 どんな方法をとれば、痛みを軽くできるのか、それを自分自身が知るために、どんな外部の情報も、どんな他人や自分の「べきだ」という思考も、一度、脇に置いて、自分の心が痛み、苦しんでいることを、まず、認める。

 そして、自分は、自分自身だけは、自分の助けを求める声を、無視したり、押し殺したりしない。

 そうやって、自分の心と体を生き延びさせなければ、誰かを思いやり続けることもできなくなってしまう。



 残念ながら、他人は、その人自身が心の痛みを押し殺して笑っているうちは、その人の心の内側にある苦しみに、なかなか気づけない。

 それどころか、笑っていることを「余裕がある」と勘違いして、その人に、よりいっそうの重荷を持たせようとすることさえある。


 苦しいなら、それを押し殺さずに、一度しっかり向き合い、苦しいと誰かに伝えることは、自分を守るために、必要なことなのだ。




 こんなふうに、人間は、時に他者の心の痛みに対して鈍感で残酷だが、一方で、たった一人では生きていけない生き物だ。

 だから、誰かの、とくに、他の人を「心配させたくない」と思うような、優しすぎるほど優しい人の苦しみを知ったら、それを悲しく思い、不安になる人もいる。


 心に痛みを抱え、それでも思いやりを見失わない人が、誰にも助けを求められず、孤独に沈む。

 そういう現実の残酷さを知ると、自分も傷つき、自分たちの生きている世界を、信じられなくなる。

 (今回、春馬さんの死と、それに続くようないくつもの悲しい出来事が、私たちにそれを痛烈に教えた。)


 自分の苦しみを押し殺さないで、助けをもとめること。

 それは、自分自身を守るために必要であり、また同時に、不安や痛みを抱えて生きている、ほかの誰かのためにも、大切なことなのだ。




「作品」と「想像力」の意味

 春馬さんは、「太陽の子」について語る際、「想像力」という言葉を、繰り返し使っている。

以前、広島に足を運んだ際に(被爆者の)話を伺って印象深かったのは、人間は想像力を欠如した時にむごいことをする、ということ。「原爆が悪い」と言われるが、一番悪いのはやっぱり戦争。戦争を進めていくうちに人間の想像力が欠如する。僕たちの仕事は、想像力を皆様に届けること。想像力を膨らませていく大きなきっかけになればいいなということで、皆様の元に届けられたらうれしいです。

「朝日新聞デジタル」7月10日


 確かに、戦争は、最も恐ろしい暴力だ。

 敵に勝つために、敵の命を奪うために、もともとは思いやりがあっただろう人々からも、想像力を奪って、暴力に参加させる。


 春馬さんの「想像力」についての思いを読み、「太陽の子」と同じく、戦争を題材にした、漫画『夕凪の街、桜の国』(こうの史代作)の中の、ある台詞を思い出した。

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス) - こうの史代
夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス) - こうの史代



 嬉しい?

 10年経ったけれど、原爆を落とした人はわたしを見て、「やった!また一人殺せた」とちゃんと思うてくれとる?

(「夕凪の街」)


 原爆投下から10年後、被爆の後遺症で衰弱してゆく女性が、原爆を落とした誰かに対し、心の中で語りかけた言葉。


 だが、戦争により、大勢の人間が想像力を失った結果起きた彼女の死に、「嬉しい」という感情は存在しない。

 殺したことにも気づかない。

 その人が、生きていたことも、知らない。

 一人の人が、残酷な暴力を全身に浴び、深く苦しんで命を落とすのに、その人が、生身の人間として、夢を抱き、心の痛みを抱えて、生きようとしていたことを、想像力の欠如した、あるいは奪われた多くの人たちは気づかない。


 ただ、そういう状態に陥った人々が、少しずつ動き、その動きが絡まりあって凶暴なうねりの嵐になり、一人の人の存在、それ自体に気づかないまま、命を奪っていく。

 それが、戦争。


 戦時、個人の思考は様々な圧力でコントロールされる。その、冷酷な計画性、組織的な力の強大さが、戦争の最も恐ろしい一面だ。

 しかし、人が無意識に想像力を失うのは、戦争の時だけではない。


 外部から圧倒的な操作を受けなくても、人が想像力を失う理由は沢山ある。

 今、生きていくうえで避けられないストレス、過去の心の傷。

 それらに加えて、現代はネットを介して、他人に関する膨大な数のネガティブなニュースが、絶え間なく押し寄せてくるようになった。

 積み重なった暗い記憶と、膨大な情報が織りなす、灰色の鈍い視界の中で、想像力も、苦しみを背負う他者の存在も見失って、不用意に誰かを傷つける。

 そうした危険性は、戦争のない現代でも、続いている



 この時代、自分の中の「想像力」を守り育てることは、これまで以上に必要なことになっている。

 ある出来事や人物について、広く、深く伝え、受け手に、他者の感覚や感情を、想像させる

 そうした「想像力を増幅させる」力は、現在進行形で無数に飛び交う短い「情報」よりも、ドラマや舞台、小説や漫画といった、「作品」のほうが、より多く持っていると思う。

 (爆発的に発信される「情報」の多くは、ある意味広告宣伝のようなもので、「即座に大勢の目を引き、目を離されない時間内に、鮮烈に印象づける」ことを目的としている。)

 丁寧に作り上げれた「作品」は、外から見て明らかな、「記録」や「事件」や「歴史」になる出来事だけではなく、その出来事が起きるまでの、そこに生きている人々の「暮らし」や「心の中」についても描いているからだ。



「太陽の子」特別インタビュー動画内画像4 - コピー.png
「太陽の子」特別インタビュー動画内画像3 - コピー.png

夕凪の街2 - コピー.png

夕凪の街 - コピー.png

夕凪の街3 - コピー.png


 たとえ、描かれた出来事や、人物が架空のものであっても、「作品」を通じ、様々な時間や感情を追体験することで、受け手は、他の誰かの思いを、自分の心の内側で、感じることができるようになる。

 「思いやれる」ようになる。


 そして、それは同時に、自分自身の心に気づく瞬間でもある。

 自分が何に心を動かされ、何を美しいと思い、何を悲しいと思うのか。

 丁寧に作り上げられた「作品」は、触れた人の心に響き、揺さぶり、胸の内を震わす共鳴の感触は、その人自身の心の在り処と形を教える。


 集団の中に生き、記憶と情報が錯綜する灰色の視界をさまよう私たちが、普段見失っている、自分の心の奥深い部分にあるもの。

 自分が一番大切にしたいものが、本当は何なのかを、教えてくれる。


 情報の受信と発信に費やすエネルギーが、膨大になりつつある今、優れた「作品」に触れ、さらに、それを心の深い部分で受け止めて、想像力を育てる時間や心のゆとりは、減ってきているのかもしれない。

 だが、人と人が心を通わせ、自分の心に気づき、不用意に他の誰かを傷つけないために、「想像力」は必要だ。

 体が生きていくために、食べ物が必要なように、情報が氾濫し、(コロナ問題でいっそう)心が不安になっている今、「作品」と「想像力」は、自分と、ほかの誰かの心を生かすために、本当は、なくてはならないものなのだ。


 春馬さんは、ご自身の最後の舞台「ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド」の千秋楽で、「僕はこの(演劇という)産業は、とても血の通った仕事だと自負しています」と語っていらした。

「文春オンライン」2020年7月22日記事より)

 この血の通った仕事がいつか、観る人の気持ちを高めてくれると信じている。

 コロナによる非常事態宣言で、公演期間半ばで終わらせなければならなかった舞台。

 それでも、春馬さんは演劇の持つ力について、誇りと希望を語っていた。



 「作品」には、観る人の心を動かす力がある。

 そして、その感動が、自分の心を見つめ、他人の心を「想像」する力を養う。

 それが、人々が生きている世界を悲劇から守り、もっと思いやりのある場所に変えていくことにつながる。

 それは、遠い、時間のかかる流れだ。

 「作品」と「想像力」が、世界をどう変えたかを、目に見える形で証明することもできない。

 原因と結果のつながりや利益が、すぐに、はっきり出ることが求められる世界に生きる私たちは、こういう長く遠い流れを信じることができず、「余計なもの」「無いもの」と思いがちだ。

 しかし、それは確かに存在する。

 そして、とても大切な、必要なものだ。


 今回、多くの人が、春馬さんの死に衝撃を受け、悲しんだ。

 そして、彼の心の痛みを思い、こんな悲しいことがもう二度とないようにと願い、そのために自分にできることを考えはじめた人もいる。

(残念ながら、その後も悲しい出来事がいくつも続いてしまったが。)


 春馬さんと直接言葉を交わしたことはなくても、彼の死は、これほど大きな影響を人々の心に与えた。

 それは、春馬さんが、まだ若く、真面目で人柄の良い、美しい人だったからという理由、それだけではない。

 今まで、彼が、数々の「作品」を通じて、たくさんの人の心を動かしてきたからだ。

 (私自身、春馬さんのミュージカル「キンキーブーツ」を観ていなければ、ここまで彼の死について考えることはなかった。)

 ここにも、「作品」と「想像力」が、私たちの生きる世界を、もっと平和で穏やかな場所に変えていくまでの、長く遠い流れが、人々の悲しみを透かして、かすかに、だが確かに、見えている。


 春馬さんのような人が、心の痛みを押し殺してしまわないように。

 平和を願う、真面目で優しい人が、穏やかな気持ちで生きられる世界に、少しでも近づくように。

 そして、理不尽で残酷だが、一方で、彼のような人も確かに存在している、この世界を構成する一人である自分自身が、他の誰かを思いやる人間に、ほんの少しでも近づけるように。


 春馬さんが信じていた、「作品」の持つ力と、「想像力」をはぐくみ育てることの大切さを、心に刻み付けておきたい。




(引用元)

柳楽優弥、有村架純、三浦春馬 特別インタビュー 3人が語った“ドラマを通して伝えたいこと”」(NHKホームページ 速報・会見 2020/8/7)

「柳楽優弥が原爆開発の研究者に 戦後75年、感じた恐怖」(朝日新聞デジタル 2020/7/10)

「この“産業”は、血の通った仕事だと自負しています」三浦春馬が最後の舞台公演で語ったこと 舞台『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド』(CDB「文春オンライン」2020/7/22)


(参照記事)


posted by pawlu at 00:22| 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月26日

三浦春馬さんのCD「Night Diver」発売(Youtube動画内のコメントと劇評記事リンクご紹介)

 三浦春馬さんのCD「Night Diver」が8月26日に発売された。







 夜をさまよう孤独な魂の軌跡を描いた、もの哀しい歌詞と、暗闇の中、白いシャツ姿で、金色の水飛沫をまき散らしながら踊る三浦さんの姿が、彼の死が心から離れない人々の心を揺さぶっている。

 その情感溢れる歌声も、繊細さと力強さを併せ持つダンスも、こんな悲しい出来事がなければ、作品の完成度それ自体で、人々を驚かせ、感動させたに違いないと思う。



 夢に向かって真剣に積み重ねてきた日々が、確かにこの映像に結実している。



 「Night Diver」のYoutubeコメント欄には、作品に感動し、三浦さんの死を惜しむ声とともに、生前の彼にお会いしたという人たちからの、その優しい、飾らない人柄をしのぶ声が沢山寄せられている。

数年前、新幹線の車中で大きな荷物を荷物棚に乗せようとして悪戦苦闘していた時、スッと背後から手が伸びて、荷物を持ち上げるのを手伝って下さった男性が三浦春馬さんでした。その時は全く気付きませんでしたが、席を立った時に2つ後ろの座席でサングラスと帽子を取った姿で彼だと分かりました。


ラストシンデレラの頃からずっと大ファンで、隣にマネージャーらしき方がいらっしゃいましたが、プライベートでの移動かもしれないと思い、その時は握手すらお願いできませんでした。



先に降りる彼に再度お礼の言葉と「ファンです、これからも応援しています」とお伝えしましたら、あの笑顔で丁寧にお辞儀をしてくださったのが忘れられません。


容姿にも恵まれ、歌も演技も踊りも素晴らしいですが、彼が多くの人に慕われ、応援されていたのは、何よりもお人柄が魅力的だったからのような気がします。彼が旅立った天国では、抱えていた多くの苦しみから解放され、笑顔で過ごしていることを願って止みません。



1週間経ちましたが今も喪失感が消えません。


大学生の時の学祭に三浦春馬さんが私の大学にトークショーで来てくれたのを今でも覚えています。

その時に私はトークショー係として20人位いた学生スタッフの中の1人だったんですが、終わる時間が少し押してしまって…。

最後に三浦春馬さんと学生スタッフで集合写真を撮らせてくださいとお願いすると、三浦春馬さんのスタッフ側が時間が押してるから無理です、一言。

しかし三浦春馬さんはせっかく大学側さんが呼んでくださったのにそれはないでしょう、僕は皆さんと写真撮りたいですとスタッフさんを説得してくださって集合写真を撮る時間を作ってくださいました。また最後に1人1人と握手をしてくださって(私は医療系大学だったのですが)人の命のために頑張って下さいと言ってくださいました。その時に三浦春馬さんの人柄にずっと惹かれておりました。

今でも医療の道で頑張っていますが、あの時の頑張って下さい!と元気をもらえたことをここ1週間思い出していました。


今の医療現場はとても厳しい状況ではありますが、少しでも世の中が落ち着いてくれることを願うばかりです。


三浦春馬さんゆっくり休んでくださいね。




 こうしたコメントの裏付けをとることはできないが、そういう行動をとっている三浦さんを、自然に想像できるし、書いた方たちのお気持ちがにじみ出た文章だと思う。

 (そして、これらのコメントに、三浦さんの姿を書いてくれたことに対する感謝の声がさらに連なっている。)


 こんなに沢山の人がまだ受け入れられていなくて、自分だけじゃないんだって思える。 外にいると周りを見渡せばみんな普通にいて不安になる時がある。何をしていても彼の事が頭から離れず、自分だけがおかしいのでは、とさえ思える。でもここに来ると同じ人が沢山いてホッとします。




 私自身、一生忘れられないと思っている。

 幸運にも観に行くことができたミュージカル「キンキーブーツ」での、三浦さんの美しい、本当に生き生きとしたローラが、忘れられない。





 忘れるわけには、いかない。あの感動を頂いた者が、この悲しみを忘れたら、それは人として最低限持っていなければいけない心を失くしたということだ。




 前回、当ブログ記事「三浦春馬さんのミュージカル「キンキーブーツ」」でも触れさせていただいたが、3月、コロナによる緊急事態宣言を受けて途中閉幕となってしまった、三浦春馬さん、生田絵梨花さん主演のミュージカル「ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド」の劇評記事と、三浦さんの追悼記事が、とても印象的だったので、再度ここにリンクを貼らせていただく。是非、お読みいただきたい。



posted by pawlu at 21:33| 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月29日

三浦春馬さんのミュージカル『キンキーブーツ』


キンキーブーツフォトスポット - コピー.jpg
(2019年、ミュージカル「キンキーブーツ」劇場フォトスポット)

 ※三浦春馬さんがミュージカルパンフレット内で語っていたことや、キンキーブーツのダイジェスト動画については、「三浦春馬さんの、ミュージカル『キンキーブーツ』への思い(パンフレットと動画より)」でご紹介しています。





 2020年7月18日、俳優の三浦春馬さんが、まだ30歳の若さで亡くなられた。


 多くの人々がその死に衝撃を受け、悲しみに沈んでいる。私も、その一人だ。

 打ちのめされるという言葉でも足りない。

 あんなに真剣に舞台を愛していた人が、輝いていた人が、私たちに感動をくれた人が、その陰で、深く悩み苦しんでいたのかと思うと、本当に心が痛む。


 私は、2019年春、三浦春馬さんと小池徹平さん主演のミュージカル「キンキーブーツ」を観に行った。








 「キンキーブーツ」は、1990年代のイギリスで、亡き父の跡を継ぎ、倒産寸前の靴工場の社長となった青年チャーリーが、ドラァグ・クイーンのローラと出会い、「ドラァグ・クイーン専用の美しいブーツ」を開発するという、実話をもとにした作品だ。

 (最初にイギリスで映画化され、その後ミュージカルとなって世界各国で上演された。)

 主人公のローラは、自分らしく生きたいという思いを父親に理解されず絶縁状態になってしまい、ドラァグ・クイーンとしてステージに立つようになってからも、偏見と闘っている。

 (日本人のイメージからすると、イギリスは日本より性的マイノリティに理解がある国に見えるが、1990年代、特に地方では、まだ「男らしさ」が非常に重視され、ローラも子供のころから生きづらさを抱えていた。)


 私は最初にこの作品の映画版を観たのだが、心に傷を負い、陰で涙をぬぐいながら、伸びやかに力強く、ユーモアにあふれ、男女の隔てなく優しいローラは、私の理想のキャラクターだった。



 そして、世界中のミュージカル俳優がローラを演じている中、春馬さんのローラは間違いなく「世界で最も美しいローラ」だった。


 小池徹平さんの、どこか若い頃のマイケル・J・フォックスも思い出させる、少年のような可愛らしさと、人の良さのにじみ出た、さわやかな笑顔のチャーリーと、そのチャーリーを振り回す、勝気で自由奔放、ゴージャスな長身美女の三浦春馬さんのローラの組み合わせは絶妙で、もう日本版はこの二人以外考えられないと思わされた。


 ローラは、高いヒールを履いてパワフルなダンスと歌を披露する難役だが、春馬さんはそれを見事にこなしていた。


(公開稽古の動画)


(公開稽古内、春馬さんのダンスシーン 動画内2:38頃)



 歌手である小池徹平さんの歌唱力は知っていたが、春馬さんには、当初、テレビで人気の若手二枚目俳優というイメージしか持っていなかったので、彼の歌とダンスの確かな実力に本当に驚かされた。

 (過去にイギリスに短期留学をされていたそうだから、すでに国際的なミュージカル俳優になるべく努力を重ねていらしたのだろう。)


 春馬さんの美しいローラは、キャラクターの持ち味である色気たっぷりの過激な言動も、どこかエレガントで、映画のローラとはまた別の魅力があった。


 ローラはドラァグ・クイーンになる前、父の願いもあってボクサーだったという異色の経歴の持ち主だ。


 だから、彼女の肉体には、格闘家の名残で、殴られれば吹っ飛ぶと一目でわかるような逞しい上半身と、華やかなブーツを愛し履きこなす、すらりと伸びた脚線美が共存している。


 2019年の再演にあたり、春馬さんは半年かけて肉体づくりをしていたそうだ。


 インタビューの中で、春馬さんは、前回はローラを演じるために大きく筋肉をつけたけれど、今年は美を追求した(曲線をきれいに見せるための体づくりをした)、と、話されていた。(下貼付動画内1:13頃)

 (この春馬さんの発言にどこからか笑いが起き、ご本人も照れ笑いをしていたが、小池徹平さんが、「おかしくない、おかしくない、大事なこと」と、春馬さんの目を見ながら真面目にうなずいていたのも、印象的だった。)






 一般人の私は、役を演じるため、その他のハードなスケジュールもこなしつつ、自分の体の各パーツを逞しくしたり細くしたりと、まるで彫刻のように緻密に創り上げる、俳優のストイックなプロ根性に圧倒された。



 物語中盤、チャーリーに、ブーツのデザイナーになってほしいと頼まれたローラは、ロンドンから、靴工場のある地方都市、ノーサンプトンにやってくる。


 無骨な男性の靴職人たちは、ドラァグ・クイーンのローラの指示を受けることに猛反発。ローラは悩んだ末に、地味な男性の服装で工場に来ることにする。

 そうなると、ショーで大胆に歌い踊っていたローラの姿はどこにもなく、自分らしくいられず、自信の無い少年だったころの彼に戻ってしまっていた。

 それでも、工場のために手を貸そうとしてくれるローラに、チャーリーと工場の女性たちは感謝するようになる。


 個性を認めてくれる人が増え、男装に華やかなロングブーツなどの折衷ファッションに変わったローラ。


 ひときわローラを毛嫌いしていた靴職人のドンは、ローラが「男らしくない」ことについて嫌味を言うが、ローラは、味方である女性たちに囲まれながら、「私は女性を尊敬しているの」と言う。


 女が男に求めるものは、思いやりと優しさ、そしてそれは、本当は女の魅力でもある。


 そうドンに言い放ったローラが、女性たちをリードしてミュージカルシーンが始まる。


 おそらく元から「男らしさ」と、「横暴」や「粗野」をはき違えた職場の男やパートナーたちに不満を持っていたであろう女性たちは、ドンの威圧的な態度には一歩も引かないが、ローラの「男らしさ」には、またたくまに魅了されて小鳥のように歌い踊る。


 とてもユーモラスなシーンなのだが、このときの春馬さんのローラは最高に魅力的だった。


 女性を尊敬し、女性の姿をしながら、自分は女性が男に求める魅力も持っているということを、偏見を持つドンに見せつけるローラ。


 それはドラァグ・クイーンの匂い立つような妖艶さと、青年の硬質な透明感、自分自身への誇りと、人への優しさの入り混じる、不思議な美しさ。

 華麗な演技とともに、春馬さんの突出した容姿から、この複雑な内面美が放射された瞬間は、目がくらむようだった。


 三浦春馬さんのローラは、演劇界でも高く評価され、「杉村春子賞」も受賞した。



 そして、ご自身もこの仕事に確かな手ごたえを感じていたようだ。


(キンキーブーツは)困難な中でも自分らしく生きることの大切さを教えてくれる、互いを受け入れ、自分が変われば世界も変わる、というメッセージ性の強い舞台でした。三浦さんは、このメッセージに強く共感したそうで『仕事をしていく上で、何か別のものが見えたような気がする』ということを仕事関係者と話していました」

「AERA dot.」7月18日記事


 私が観た舞台では、カーテンコールで全ての演者が挨拶をしたあとも、拍手がまったく鳴りやまず、三浦春馬さんと小池徹平さんが、あのブーツ姿でもう一度舞台の中央に駆け出てきて、「ありがとうございました!!」と深々と頭を下げていた。顔を上げた二人の、充実感溢れる笑顔が、心に焼き付いた。


 また、この舞台が観たい。

 2020年のオリンピックを機に、これからもっとたくさんの外国人観光客が日本に来るようになったら、その人たちにも観ていただきたい。春馬さんたちのすばらしさは、間違いなく、海外のミュージカルを観ている人々も魅了するはずだ。

 舞台を観終わった後、そう思った。

 だが、コロナが世界を襲い、この楽しい想像は、遠いものになってしまった。

 それでも、あの舞台を観に行った記憶は、コロナ以前の、一番贅沢な瞬間として留まり、何度も何度も私を力づけてくれた。

 「すぐにではないかもしれないが、いつか世界はコロナに勝つだろう。そうしたら、きっと『キンキーブーツ』は帰ってくる、三浦春馬さんと小池徹平さんのローラとチャーリーをまた観たい。二人とも若いし、あんなに舞台を愛しているのだから、きっとまた演じてくれるだろう」

 そう信じ、その日が来るのを、本当に楽しみにしていた。

 あの舞台に感動した大勢の方が、そう思っていたはずだ。


 2020年3月、春馬さん主演のミュージカル「ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド」が、コロナの影響で公演中止となった。

 緊急事態宣言の発令を受け、演者も観客も、今後いつまたこうして「舞台」に関われるかわからないまま、志半ばでの幕引き。


 その千秋楽昼の部を観た、「CDB」さんの記事(2020年5月3日「文春オンライン」掲載)は、その時の春馬さんたちの特別な気迫を、克明に書き記していた。


 5月にこの記事を読ませていただいた私の脳裏に、春馬さんのローラが蘇り、真剣に舞台に臨みながら、自分たちにはどうにもできない事情で、そこから離れなければならない彼らの無念が思われた。


 どれだけつらいだろう。

 そこまでは、考えていた。



 多分ずっと昔から、とても真面目で繊細で、そのほかいろいろな理由もあって、苦しみとともに生きてきたのだろう。


 それでも、ローラを演じているときの春馬さんは、そのプレッシャーや、血のにじむような努力を全て昇華して、本当に生き生きと輝いていた。


 苦しいけれど、人々を幸せにできる、作り手も喜びの多い仕事、それが舞台。

 「キンキーブーツ」のような魅力的な作品の、ローラのような演じがいのある役を、舞台を愛する人たちと一緒に創りあげたとき、そして、観る人々を笑顔にできたとき、確かに苦しみにまさる喜びが、春馬さんにあったのではないかと思う。


 世界が、こんな風に変わらなければ、愛した舞台が、まだ彼の側にあったら。


 「キンキーブーツ」の舞台を観に行った私たちは、あの舞台に本当に大きな感動をもらった。

 あの時、笑い、幸せな気持ちになった分だけ、今、本当に心が痛み、悲しい。


 それでも、あの渾身の舞台の記憶は、やはり、私たちの心を照らし続けている。

 世界には、人生の苦しさに寄り添ってくれる、本当に楽しくて美しい、温かいものがある。

 そして、そういう作品を創り上げるために、全身全霊をかけ、私たちにそれを届けてくれる人たちがいる。

 そのことを、「キンキーブーツ」の舞台と、三浦春馬さんのローラは教えてくれた。



 あの舞台を、もっと多くの人に観てもらうために、どうか、何かの形で、作品映像を公開していただきたいと、心から思う。ディスクでも、テレビ放映でも、ネット上でも。


 あの素晴らしさが、もう、舞台を観た私たちの記憶の中だけにしか存在しないというのは惜しすぎる。

 私たち観客は、あの日の春馬さんたちを何度でも思い出したいし、これから観る方たちにも、彼らがどれだけ真剣に作品に取り組み、素晴らしいものを完成させたかを知ってほしい。そして、それはこれから、コロナを乗り越え、舞台に戻っていく人たちの、ひとつの指針にもなるはずだ。


 訃報から何日も経ったが、どうしても、気持ちの整理がつかない。

 私たちを、幸せな気持ちにしてくれた人には、幸せになってほしかった。

 彼を昔から応援していたファンの方々、身近に彼を知っていた方たちの悲しみはもっと深いだろう。

 ただ、せめて今は、あの真面目な心が全て報われ、安らげる、もっと静かな、もっと美しい場所にいてくださることを願う。


 私は、三浦春馬さんの素敵なローラを思い出し、笑顔になることで、あの素晴らしい舞台への感謝の気持ちを、捧げ続けようと思う。










 三浦春馬さんの訃報を受け、「CDB」さんは5月の記事に続いて、新たな記事を書かれた。

(CDB「この“産業”は、血の通った仕事だと自負しています」三浦春馬が最後の舞台公演で語ったこと 舞台『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド』文春オンライン7月22日掲載


 記事は、春馬さんが、最後の舞台公演で、共演した人々にどれだけ心を配り、舞台の未来を信じる思いを真剣に語っていたか、その瞬間の彼の姿を伝えている。


「モチベーションを保つことがどの産業においても難しい時期なのかもしれません。ですけど、やっぱり僕たちが演劇を信じること……僕はこの産業は、とても血の通った仕事だと自負しています。この血の通った仕事がいつか、皆さんの気持ちを高めてくれるんじゃないかなと信じて、もっともっと、皆さんがエンターテインメントに触れる時に、そのエンタメがもっと質の高いエンタメとして皆さんのもとに届けられるように、僕たちは一生懸命にその日まで色んなスキルを身につけて皆さんに感動をお届けできればいいなと強く思います。」

(「ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド」千秋楽での三浦春馬さんの言葉 〈CDB 「文春オンライン」7月22日掲載記事より〉)


 そして、この記事の結びは、春馬さんから沢山の感動をいただいた私たちの悲しみが、どこへ向かえばいいのか、春馬さんへの感謝を、どんな行動に変えればいいのか、その道筋を、示してくれている。


少しでも多くの人が、SNSやメディアや、あるいは日常の場所で、彼の死ではなく彼の生の記憶を語り続けてくれることを望む。未来のファンたちが道に迷わないように、彼が何者であり、何者でありたいと願ったのか、彼が生きた目印をできるだけ多く残してくれることを望む。30歳で死んだ俳優としてではなく、30歳まで生真面目に、そして懸命に生きた俳優として、三浦春馬を僕たちの社会が記憶するために。 

(CDB:同記事より)




(三浦春馬さんのMV「Night Diver」)




 最後に、今回引用させていただいた「CDB」さんの二つの記事(5月の舞台鑑賞記事と、7月の追悼記事)のリンクをもう一度、貼らせていただく。

 抑えた語り口ながら、三浦春馬さん、ヒロイン役の生田絵梨花さんたちの5月当時の現状と、作品の内容を重ね合わせた鋭い分析、そして彼らへの敬意と、舞台への愛を感じさせる、素晴らしい文章だった。

 (だから、この方の5月の記事を目にした時から、どこかただならぬ空気が春馬さんに漂っていることは感じていた)。

 優れた鑑賞者の目を通して語られる、春馬さんたちの舞台に捧げた情熱と、彼の誠実な人柄を、是非お読みになっていただきたい。



・「三浦春馬のSNS炎上と演劇への「感染リスク」という烙印 舞台が復活する日は来るのか?舞台『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド』」(CDB「文春オンライン」2020年5月3日掲載)


・「この“産業”は、血の通った仕事だと自負しています」三浦春馬が最後の舞台公演で語ったこと 舞台『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド』(CDB「文春オンライン」2020年7月22日掲載)


posted by pawlu at 00:35| 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月19日

ミュージカル 「SINGIN' IN THE RAIN 〜雨に唄えば〜」アダム・クーパー特別来日 日本公演 情報



 1950年代の名作映画「雨に唄えば」でもおなじみの傑作ミュージカルが今年の春に東京の東急シアターオーブ(渋谷ヒカリエ11階)に帰ってきます。
[上演期間:2017/4/3(月)〜4/30(日)]


(LION presents「SINGIN' IN THE RAIN〜雨に唄えば〜」2017年4月日本特別公演決定!)

https://www.youtube.com/watch?v=IGPX6EO3A2A

 公式HP情報はコチラ
 ・http://www.singinintherain.jp/(ミュージカル情報) 
 ・http://theatre-orb.com/lineup/17_rain/(劇場情報)

 1920年代、映画がサイレント(無声)からトーキー(有声)へと移り変わるときに映画業界に起きた騒動と、それを解決しようと試行錯誤する映画人たちの奔走、そして彼らの恋や友情を軽やかに描いた作品です。

 見せ場の一つは、恋に落ちた映画スター、ドンが降りしきる雨の中、水しぶきをまき散らしてエレガントかつダイナミックに歌い踊るシーン。


 (2011年イギリスの「ロイヤルバラエティーパフォーマンス」より>)

 https://www.youtube.com/watch?v=-f-CqwYsyQc

 国際的バレエ・ダンサー、アダム・クーパーが2014年来日時に引き続いて主役を務めるこの舞台。
 
 私は2014年版を観に行ったのですが、アダム・クーパー演じるドン、彼が恋に落ちる新人映画女優キャシー、ドンの親友コズモの三人で歌い踊る「Good Morning」の場面では、ダンスが終わって三人が倒れこんだ時、観客の拍手があまりにも長い間鳴りやまず、アダム・クーパーが寝転がったままクスクスと笑いだすという一コマもありました。


(LION presents「SINGIN' IN THE RAIN〜雨に唄えば〜」アダム・クーパー コメントmovie)


https://www.youtube.com/watch?v=c-vDuuvm05U

 

 なお、このアダム・クーパーという方は、イギリスの名作映画(本当に名作!!)「リトル・ダンサー(原題:Billy Elliot)」の心揺さぶるラストシーンにも登場。

リトル・ダンサー [DVD] -
リトル・ダンサー [DVD] -

 彼の姿が映るのはほんの数分なのですが、その鍛え上げられた肉体と仕草がストーリーの盛り上がりと完璧に調和し、「なんという美しい人類だ…」と、何度でも感動させられます。

 (なお、2017年夏には日本版「Billy Elliot」が上演されるそうなので、そちらにご興味がある方も、映画と舞台で彼の名演をご覧になってみてはいかがでしょうか。)

 「SINGIN' IN THE RAIN 〜雨に唄えば〜」関連のテレビ番組情報は以下の通りです。

 
 ◆3月4日(土)午後3時30分から TBSにて放送 
 「天海祐希が嫉妬した12トンの雨が降る!?ミュージカル「雨に唄えば」公開直前SP」

 ◆2月19日(日)午後2時30分から BS-TBSにて放送 大ヒットミュージカル!
「雨に唄えば」の魅力 舞台裏徹底レポート

 ◆TBS「アカデミーナイトG」放送予定 2月21日(火)深夜3時09分から

 読んでくださってありがとうございました。
posted by pawlu at 15:17| 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月23日

War horseウォーホース(戦火の馬)日本公演 感想3 結末部(ネタバレ注意)

 いよいよ2014年8月24日千秋楽となってしまいましたが、今回も東京シアターオーブで上演中の舞台「War horse ウォーホース(戦火の馬)」について、今回は最大の見どころを書かせていただきます。
シアターオーブの公式情報はコチラです。


 第一次大戦期、軍馬(ウォーホース)としてイギリスからフランスへと徴用された馬ジョーイと、彼を追って戦場へ向かった少年アルバートを中心に描かれる、戦争に翻弄された人と馬の物語です。



ロンドン公演のものですが、あらすじ等の情報はよろしければ以下過去記事をご参照ください。
ロンドンの舞台「War horse」@ あらすじと見どころご紹介
ロンドンの舞台「War horse」A ある名場面と、その他のおすすめ作品

最大の見どころ=結末部ネタバレなので、今後日本でも他国でも観に行こうと思って居る人は絶っっっ対に!!!お読みにならないでください。勿体ないから。

(「だいじょーぶ、映画観たから終わり方知っている」と思われるかもしれませんが、映画と舞台は相当味が違います。)

 この場面も、原作小説、映画、舞台それぞれ少しずつ描き方が違っていて、私は舞台版が一番好きです。

 






……では、既にご覧になった方のみ以下概要をどうぞ。(おおまかな場面描写なので、あらかじめご了承ください)

【見どころシーンその@】ジョーイが鉄条網に脚をとられる場面

イギリス軍の軍馬としてフランスに渡ったジョーイ、しかし、戦局の中で、彼と相棒の黒馬トプソンはドイツ軍の所有となり、大砲やけが人を運ぶために過酷な労働を強いられる。

その後、イギリス軍戦車からの攻撃を受け、孤立したジョーイは、銃弾飛び交い、ぬかるむ戦地をやみくもに走り、馬にとって最大の脅威である鉄条網に突っ込んでしまう。

鉄条網から逃れようと暴れ、からみついたとげを歯ではがそうとするジョーイ。しかし、もがけばもがくほど、鉄条網はジョーイに食い込んでいく。

 繰り返される悲鳴のいななき。
 やがて、ジョーイは力尽きて、どうっとその場膝を降り、倒れこんでしまう。
 全身を襲う激しい疲労と痛み。
 もう、動けない。
 動けない。
 荒かった鼻息も次第に小さくなっていく……。

【舞台としての見どころ】
 美しい等身大のパペットジョーイが、恐怖におびえるいななきと激しい息をつき(パペット操作の役者が声帯模写)激しい砲弾音と音楽と光の中、舞台を駆け回ります。

 このとき、数名の役者が鉄条網を手に舞台に駆け出てきて、暴れまわるジョーイに鉄条網を絡め、後ろ足で立ち上がるジョーイを中心に、銀色のとげが、舞台四隅に、大きなXの形に広がります。(ジョーイが鉄条網にとらわれてしまったという表現)

「上演中に人間が舞台装置を運ぶ」、「音楽のクライマックスと共に舞台全体を一枚絵のように固定する」という表現方法は、ともに歌舞伎によく観られるものです。
(舞台装置を運ぶ人間を「黒子」と呼び、この一枚絵のような瞬間、役者は音に合せて「見栄(大きくポーズをとること)」を切り、舞台の構図を完成させます。)
 この舞台の文楽の影響は明言されていますが、歌舞伎も参考にされているのかもしれません。
 痛切ながら視界に焼付く表現でした。

【見どころシーンそのA】倒れたジョーイを見つけたイギリス兵とドイツ兵のやりとり

 鉄条網に絡め取られ、動かなくなったジョーイを、塹壕に潜んでいたイギリス軍兵士が見つける。

 「中立地帯に馬が……」

 時を同じくして、中立地帯を挟んだ先のドイツ軍側もジョーイに気づく。
 
 汚れた白い布を巻き付け、一時停戦の合図の旗としてひらひらと振ると、両軍から兵士が一人ずつおそるおそる這い出してくる。

 状況を知らない兵がドイツ側に発砲、撃ち合いを避けるために、イギリス兵が叫ぶ。
「やめろ!」

 まだ息のあったジョーイを、イギリス兵もドイツ兵も「よしよし、いい子だ。」と互いの言葉でなだめ、ジョーイの脚を持ち、巻き付いた鉄条網を切っていく。
 
「医者に見せないと」
「出血がひどい」
 両軍の兵はそれぞれに呟きつつ、やがてどうにか鉄条網を外す。

 戦争において馬は大切な動力だ。放っておいて敵側に渡すわけにはいかない。

 そう思って塹壕を這い出てきたのだが、お互い身振り手振りで共同作業をすることになってしまった二人の間に、さて、ことが済むと、なんとも言えない沈黙が流れる。

「……この馬はこちらでもらう」
「我が軍の陣地にいたのだから(そう?)こっちのものだ」
 と、声高に主張し合っても、いかんせん言葉が通じない。

 らちが明かないので、ドイツ兵が硬貨を取り出す。
「コイントスで決めよう。表(頭)か裏(尾)か選べ(※)」
(※コインの「裏か表」を、「頭か尾か」と呼ぶ)
「……何?」
「だから!」
 ドイツ兵は自分のヘルメットを叩き、ドイツ語で、
「頭!(Kopf)」
 それから、イギリス兵に突き出したお尻をペチペチ叩き、
「尾!(Zahl)」
「あっ、『Head or tail』か!」

「この皇帝の顔が描いてあるのが『尾(裏)』だ。で、逆が『頭(表)』」
 イギリス兵にコインの裏表の図柄を確認させた後、ドイツ兵の投げたコインが宙を舞う。
 イギリス兵は「頭!」とコールする。
 ドイツ兵は抑えたコインを抑えた手のひらを開くと、イギリス兵にそれを見せた。
 仏頂面で、イギリス兵にジョーイの手綱を渡すドイツ兵。
 と、同時に、への字口のまま、ばっ!と突きつけるように差し出された、ドイツ兵の右手。
 あっけにとられ、一瞬ためらったが、イギリス兵はそれを握りしめ、互いに、不器用だが固い握手を交わし、二人は互いの陣地へと戻っていった……。

【舞台としての見どころ】
 名場面中の名場面です。

 過去記事で、「映画『西部戦線異状なし』主人公(ドイツ兵)と彼が刺したフランス兵とが一対一で塹壕に取り残される場面」や「大岡昇平作『俘虜記』で日本兵の『私』が部隊からはぐれた際に、若いアメリカ兵を発見し、しかし、彼のあまりの無防備さと若さに撃つことができなかった場面」を思い出させる、と、書かせていただきましたが、この「War horse」の兵士二人は、言葉の違う敵同士ながら、身ぶり手ぶりを加えてなんとか相手とコミュニケーションをとろうとしています。

 しかもさっきまで互いに撃ちあっていたのに、ジョーイを助けた後に流れる「……ええっと……」みたいなビミョーな空気感や、「ワタシエイゴワカリマセン!(憮然)」や、お尻ペチペチ。

 この(言葉はほとんど通じていないけれど)対話と、ユーモアは、傑作の誉れ高い上記2作にすら描かれていない、「War horse」だけが到達した高みです。

 戦局の変化でジョーイと行動をともにすることとなったドイツ兵フリードリヒが、主人公アルバートと双璧をなすほどに丁寧に描かれている点と、このジョーイを助けるためにイギリス兵とドイツ兵が協力する場面があること。

 それを、「馬」という国を超えた存在を中心に据えることで自然に表現したこと。

 それがこの舞台「War horse」の最も偉大なところだと思います。

 以前も書かせていただきましたが、この場面、小説ではドイツ兵が片言ながらかなりの英語を話します(児童向け小説にドイツ語が出てきても、単なる嫌がらせになってしまうので小説表現としてはこれでいいのでしょうが)。

 また映画版でも若いインテリ風のドイツ兵士が出てきて、やはり主たるやりとりは英語です。

 お尻ペチペチとぶっきらぼうな握手の味わいは舞台版だけのもので、「笑いながら胸が熱くなる」というとても不思議な感動があります。
 

 以下、いよいよ究極のネタバレとなってしまいますが、書かせていただきます。


【見どころシーンそのB】ジョーイとアルバートの再会

 負傷したジョーイが連れてこられた病院。

 そこには、毒ガスで一時的に目が見えなくなっていたアルバートも運び込まれていた。

 地獄のような戦闘の中、無二の親友デイビットを失い、もはやジョーイも生きてはいまいと無気力に座り込んだアルバート。

 その近くで、治療を受けるジョーイ、しかし、傷は思いのほか深く、この場で完治させることは不可能と判断されたジョーイは、安楽死させられることになる。

 「助からない馬が銃殺される」
 今までに何度もそんな場面にでくわしてきた。
 アルバートは肩を落としたまま、ジョーイの思い出をかみしめる。
 そして、両手を口で覆う独特の口笛をそっと吹く。
 フクロウの鳴き声のような音。
 幼いころからジョーイに聴かせてきた。
「この音を聴いたら、それは僕だ。僕のところに来てくれ」
 そう言って。そしてジョーイはいつも嬉しそうに駆け寄ってきてくれていた。
 
 アルバートの背後が騒がしくなる。

 傷ついて大人しかった馬が急に暴れている。それを聞いたアルバートは激しい胸騒ぎを覚える。
 まさか………。
「ジョーイ、お前なのか?」
 周囲の制止を振り切ってジョーイのもとに駆けつけるアルバート。
「待ってください!」
 抑えられながらも身をよじっていななく馬に、もう一度力の限りあの口笛を吹くアルバート。
 やがて、膝をついて息を飲むアルバートに、よろよろと近づいてくる足音。
 立ち止まる蹄の音。
 アルバートは、おそるおそる、その鼻面に「ふうーっ」と息を吹きかけた。
 その馬は首を少しひっこめた後、アルバートにそっと顔を近づけ、「ふうーっ」と鼻息を返した。
 ジョーイの挨拶。
 それは、お互いのために生まれてきたジョーイとアルバートが、長年お互いだけで交わしてきたやりとりだった……。

【舞台としてのみどころ】
 この再会シーン、小説版でも映画版でも、「泥にまみれたジョーイを奇麗にすると、ジョーイの額にあった星の模様が出てきてジョーイだとわかる」という展開なのですが、クローズアップができない舞台上では、代わりに口笛が使われています。
 
 ロンドン初演版では、口笛を吹くアルバートに、人の手を離れたジョーイがいななきながら駆け寄って、鼻ヅラでドチーンとぶつかるというちょっと荒っぽい再会シーンでした。

 そして今回はひっそりと優しい鼻息語。

 どっちもいいですねえ、味が違うけれど甲乙つけがたい。

 というのも、家族との再会のときには大喜びでわりとブレーキかけずにぶつかっていく、のも鼻息を言葉代わりにするというのも、我が愛犬がよくやっていたもので……(個人的感慨〈前者は勢い良すぎて目から星が出た〉)
 
 人を愛する哺乳動物の情の濃さや感情表現の豊かさが良く出た名場面した。

 以上、ネタバレ編でした。ご覧になった方たちが舞台を振り返る一助になれば幸いです。

当ブログ「ウォーホース」関連の記事は以下の通りです。
ロンドンの舞台「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」@ あらすじと見どころご紹介
ロンドンの舞台「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」A ある名場面と、その他のおすすめ作品。
「War horse(ウォーホース)戦火の馬」 日本公演決定
「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」日本公演 感想1見どころとお客さんの反応
「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」日本公演 感想2ロンドン初演版との違い
「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」日本公演 感想3結末部(ネタバレ注意)
「史実 戦火の馬」(ドキュメンタリー番組)

 読んでくださってありがとうございました。
posted by pawlu at 15:44| 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月22日

War horseウォーホース(戦火の馬)日本公演 感想2 ロンドン初演版との違い

 残念ながら公演日も残りわずかとなってしまいましたが(2014年8月24日千秋楽)、今回も東京シアターオーブで上演中の舞台「War horse ウォーホース(戦火の馬)」について、感想を簡単に書かせていただきます。

シアターオーブの公式情報はコチラです。


 第一次大戦期、軍馬(ウォーホース)としてイギリスからフランスへと徴用された馬ジョーイと、彼を追って戦場へ向かった少年アルバートを中心に描かれる、戦争に翻弄された人と馬の物語です。



ロンドン公演のものですが、あらすじ等の情報はよろしければ以下過去記事をご参照ください。
ロンドンの舞台「War horse」@ あらすじと見どころご紹介
ロンドンの舞台「War horse」A ある名場面と、その他のおすすめ作品
今回は、私が初演時にロンドンで観たヴァージョン(およびスピルバーグ監督の映画「戦火の馬」)と今回の日本版の違いについて書かせていただきます。

戦火の馬(Blu−ray Disc)

ただ、この公演観に行くたびに場面が少しずつ変わっているので(超好き、自分史上屈指に感動した舞台なんで何度も観に行っています。)、その改変が日本公演を意識して変えたものなのか、今はロンドン版もこうなのかはちょっとわかりません、推測で分析してしまうのでその点予めご了承ください。あと観に行ったのは数年前、かつ僕のリスニングなんで記憶違いもありえますのでその点もご容赦ください(汗)。

あ、あと、結構ネタバレです。書いといてなんですが、これから観に行く方は後で読んでいただきたいです……。

@主人公アルバートと父テッドの確執

初演版では、ジョーイを魂の片割れとして深く愛するアルバートと、裕福な兄アーサーにコンプレックスを抱き、ジョーイを金銭に換算しようとするテッドとの確執がかなりはっきり描かれていましたが、今回の公演ではそこが少しゆるやかになっていました。

ただ兄アーサーへの対抗心から、農耕馬としての訓練を受けていない(ジョーイはハンターという競走馬の血を半分引いていて、体格的にそういう作業に向いていない)ジョーイに鋤(すき)を引かせるという無茶な駆けをしてしまったテッドが、言うことを聞かないジョーイにつらくあたったシーンで、アルバートが、「今度ジョーイにあんな真似をしたら許さない」というニュアンスの発言をして、「そんなことをしたらあたしがあんたを許さない」と母ローズに厳しく叱責されるという場面が、ロンドン初演版ではあったと思うのですが、そこはカットされていました。

この父と思春期の息子の対立、さらにそれを押しとどめようとする母の、夫と息子に対する大きな愛が描かれている場面が印象的だったのですが、もし、これが日本版用の改変だとすると、スピルバーグ監督の映画版「戦火の馬」を観て舞台に来た方に対する配慮だと思います。

映画では父テッドとアルバートの対立はだいぶゆるやかで、テッドがジョーイを軍馬として売り渡すのも、嵐で作物が駄目になり、借金を返せなければ路頭に迷う……というやむにやまれぬ状況ゆえであり、それをわかっていたアルバートは父にそれほど反発していません。(ロンドン初演版だと結構シンプルに、酔った勢いと大金目当て。)

え……映画あの父子の関係泣けたのに、舞台だと仲悪い……(ドン引)とならないためかな……と。

私は別に、親子だからというただそれだけの理由で無条件になにがなんでもわかりあわないとダメとは思わないので(特に父と息子には成長につれ、根底に愛があったとしても、大きな断絶があっても不思議ではないと思う)、ロンドン初演版の関係性でも不満はなかったのですが。

 この他に、記憶違いかもしれませんが、ロンドン初演版では今回日本公演で明言されている「テッドが兄と自分の農地を守るためにボーア戦争に行かなかった」という設定がなかった気がします。(映画版では戦争に行っていますし、それが同じく戦地に赴いたアルバートが父に歩み寄るきっかけとなっています。)

 Aアルバートの従兄弟ビリーの徴兵時の様子
 ロンドン初演版にではビリーを含め、村の男たちが、第一次大戦の知らせを聞いて、日本人の目からは驚くほどに、意気揚々と従軍志願をしていました。

 しかし、今回の日本公演版では、ビリーがはっきりと父アーサーに「行きたくない」と躊躇と不安を漏らしています。

 結局アーサーに、祖父も自分も従軍経験がある、お前も一族の男なら行って来いと諭され、お守りとして祖父の代からのナイフを渡されて、志願の列に加わりますが、そうやって息子を戦地に送りだしてしまったアーサーも、後に、第一次大戦からはじめて戦争に登場したマシンガンの存在を知り、息子がどれほどの危険にさらされているかを思い知らされます。

 おそらく初演版のほうが、当時のイギリス志願兵たちの感覚に近かったのではないかと思います。

 マシンガンや戦車、毒ガスや鉄条網などが登場する以前、とても極端な言い方をすれば、従軍は「危機を潜り抜けて国に貢献し、男を見せてくる」という機会としてとらえられていた部分があったのではないでしょうか(でなければ、自身も従軍経験のある人間が、訓練をしている生粋の軍人一族でもないのに我が子を率先して送り出さないと思います)。

 (※)このような「戦況を知らなかったために、率先して従軍してしまい、想像を絶する事態に直面する」という悲劇をドイツ側から描いたのが、映画『西部戦線異状なし』です。大人たちに「英雄たれ」と煽られて、理想に燃えて戦いに赴いた若者たちが生命や魂を失っていく姿が痛ましい。

西部戦線異状なし(Blu−ray Disc) 

 前回記事でも描かせていただきましたが、「自分は生きて帰れる」と信じて疑わなかった人が多かった、しかし、近代戦が幕を開けてしまったあとの現実はそうではなかった、という恐ろしさが、ロンドン初演版のほうが浮き出ていたと思います。

 もしこれが日本版に向けての改変だとすると、日本の観客のほとんどが、第二次大戦時の赤紙徴兵と、その後の戦地での地獄というイメージを持っており、あの進んで従軍する姿に違和感を覚えるだろうという配慮があったのではないかと思います。

 Bドイツ兵フリードリヒとフランス人少女エミリーとの関係

 私がこの舞台版「War horse(ウォーホース)」を是非観ていただきたいと再三再四猛プッシュするのは、舞台版でのみ、このドイツ兵フリードリヒというキャラクターが、主人公アルバート級にクローズアップされているからです。この設定は小説にも映画にも無い。というか、私の知る限り、これほど対立する国同士の人間を公平に描いた作品がそもそも無い(なんで舞台後に作られた映画版でもフリードリヒを削ったんだということについては非常に残念に思っています。あの偉大な存在を……)

 このフリードリヒは、国に妻子を持つ、既に若くはない兵士で、偶然ドイツ軍の所有となったジョーイと、ジョーイの友で、歴戦を潜り抜けてきた名馬トプソンをとても丁重に扱います。

 そして、戦地フランスでエミリーを見つけたとき、自分の娘を思い出して愛情を注ぎます。

 舞台版でのエミリーもまた、なんらかの理由で父親が不在で、フリードリヒに次第に心を許していきます。

 まず、映画版と舞台版の違いですが、映画版のエミリーは祖父と暮らしており、この祖父が結末部で重要な役割を果たしますが、舞台版の彼女は母親と暮らしています。

 次に、ロンドン初演版と日本公演版との違いですが、ロンドン初演版では、フリードリヒが、仲間の遺体から写真を見つけ出し、その兵士の子どもの数を数えて涙を流すという場面がありました。

 今回はそのシーンの代わりに、エミリーと出会ったときのフリードリヒが、怯えるエミリーを落ち着かせようと、自分の懐から娘の写真を取り出して見せ、一生懸命彼女を傷つける気はないことを伝えようとする場面がありました。

 この「エミリーの祖父の不在」さらに「フリードリヒが娘の写真を見せる」という場面で、日本公演版では、フリードリヒの「父性」がより強調されています。(さらに言ってしまえば、映画版にあるようなアルバートとテッドの和解を描かないこともまた、フリードリヒの父としての温かみを際立たせる効果を生み出しています。)

 イギリスと敵対しているドイツにも優しい父親がいて、彼もまた、望んでいないのに戦争に来なければならなかった。
 
 この戦争の悲劇、そして確かな現実を、舞台版の「War horse」だけが明確にしているのです。
この舞台版「War horse」はドイツのベルリンでも上演されているのですが、フリードリヒの存在と内面描写なくしては決して実現しなかったことだと思います(芸術の偉大さを象徴するエピソードだとつくづく思います。この作品を作ったイギリスの人々も、ドイツで上演しようとした人々も素晴らしい。)。

 日本公演版のフリードリヒは、特にエミリーたちからの信頼が厚く、彼が戦線から逃亡して、エミリーたちの農場でつかの間の平和をかみしめていたときに、エミリーの母ポーレットに促され、馬や彼女たちと一緒に戦火の及ばない地まで避難しようとします。

 Cドイツ語、フランス語の省略

 ロンドン初演版「War horse」では、かなりの部分でドイツ語とフランス語はそのまま使われていました(ドイツ兵同士のやりとりは基本ドイツ語ですし、フリードリヒとエミリーも、互いにほとんど自国の言葉でしゃべっている。〈というわけで、ある意味びっくりするくらいわかりにくい舞台でした〉)が、日本版では、大部分英語に統一されています。

 これは、日本人の観客の耳からすれば、どれもみんな外国語で、3ヶ国語を混在させてもややこしくなるだけだからでしょう。

 その結果、ロンドン版であったこの2つの場面は削られることとなりました。
 1,フリードリヒがジョーイたちにわかるようにと英語で話しかけ、それを味方に苦々しく思われる場面。
 2,エミリーがフリードリヒに教わった「Calm down(落ち着いて)」という英語で、ジョーイとトプソンの興奮を鎮める場面。

 ロンドン公演版では、この、「フリードリヒがイギリスの馬のために英語を使う、そしてそれをフランス人であるエミリーにも教えてあげる」という優しさが仇となり、ドイツ兵がエミリーたちの農場に来た際、エミリーが口走った「Calm down」という単語によって、かつての部下にフリードリヒの身元が割れてしまいます。

 日本公演版では、フリードリヒと一緒に避難しようとしていたエミリーが、ドイツ兵との遭遇時に思わず彼の名前を読んでしまうという展開に変更されていました。

 しかし、舞台版「War horse」で最も大切な場面では、日本公演版でも「ドイツ人はほとんど英語を話せない」ということがとても重要な役割を果たします。小説版にも映画版にも無い部分で、そこは多少わかりにくかろうとも英語に直さないでいてくれたことを私は心から感謝しています。(この場面については回をあらためさせていただきます)

 次回記事では、ネタバレとなりますが結末部の見どころについて書かせていただきます。
 今もし週末あの舞台を観に行こうかどうか検討していらっしゃるなら、保証します、間違いなく名作ですから是非ご覧になってみてください。

 その後で、次回のネタバレ編を読んで余韻にひたっていただければこの上ない光栄です。

当ブログ「ウォーホース」関連の記事は以下の通りです。
ロンドンの舞台「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」@ あらすじと見どころご紹介
ロンドンの舞台「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」A ある名場面と、その他のおすすめ作品。
「War horse(ウォーホース)戦火の馬」 日本公演決定
「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」日本公演 感想1見どころとお客さんの反応
「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」日本公演 感想2ロンドン初演版との違い
「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」日本公演 感想3結末部(ネタバレ注意)
「史実 戦火の馬」(ドキュメンタリー番組)


 読んでくださってありがとうございました。
posted by pawlu at 17:22| 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月20日

War horse ウォーホース(戦火の馬)日本公演 感想1 見どころとお客さんの反応


 残念ながら公演日も残りわずかとなってしまいましたが、東京シアターオーブで上演中の舞台「War horse(戦火の馬)」について、感想を簡単に書かせていただきます。
シアターオーブの公式情報はコチラです。
 第一次大戦期、軍馬としてイギリスからフランスへと徴用された馬ジョーイと、彼を追って戦場へ向かった少年アルバートを中心に描かれる、戦争に翻弄された人と馬の物語です。



ロンドン公演のものですが、あらすじ等の情報はよろしければ以下過去記事をご参照ください。
ロンドンの舞台「War horse」@ あらすじと見どころご紹介
ロンドンの舞台「War horse」A ある名場面と、その他のおすすめ作品

日本公演についてですが、わざわざ外国まで来たからか、約1か月と期限があるためか、役者さんが非常に気合を入れて演じてくれているのがわかって、練れた感じのロンドン公演(ロンドンではもう何年間も上演している作品なので)とは別の熱気があって非常に良かったです。

ロンドン版も勿論熱演ですが、既に高い評価を受けている地元でコンスタントに演じ続けるロンドン版の安定感に比べ、日本版は「とどけこの思い!!一球入魂!!おりゃあああ!!」的な気迫があった

今回はフンパツして良い席で観たので、出て来たときと挨拶のときの役者さんたちの顔がとても晴れがましい感じだったところからもそれを感じました。

ちなみにあまり混まないであろう時期のものに行ったのですが、席はみっちり埋まっていました。そして、お客さんの反応も笑って泣いての波がちゃんとあってやはりこの作品の感動は万国共通で伝わるのだと再認識しました。

あえて少しだけ難を挙げると、舞台両脇に出る台詞の字幕がたまに一部省略されたりタイミングが遅かったときがありましたね。あれがお客さんが読める速度に合わせたぎりぎりの線だったのかもしれませんが……。

それから、この作品、第一部がすごい緊迫感のある場面(ジョーイたちが銃撃を受けながら、敵陣へ突っ込んでいく)で終わるのですが、その直後に休憩のアナウンスが入って突如現実に引き戻されてしまうところがあったので、もう少し間が欲しかったです。静かに明るくなってしばらくしてから……くらいがキボウ。

あとは、この作品音楽が哀切胸に染みる感じで非常に!素晴らしいのですが(大好き、聴いているだけで泣けてくる。勿論持ってますが僕的宝物CDベスト3に入る)、輸入盤そのままで、劇場で売っているCDに日本語訳がついていないのが残念でした。上演中はちゃんと字幕が出ていたのであれをつけてもらえるとありがたかったです。

しかしまあ、そんなのは全て些細なことで、もしかしたら日本人にわかりやすいように工夫しているのかなと思わせる場面も多々あり(この作品、観るたびに細かい場面や台詞が違います。今はロンドン版もそうなのかな……とにかく最初に観たのよりわかりやすくなっていました。好き好きたと思いますが)、トータルでは大変すばらしかったです。私だけでなく終演で明るくなった際にはたくさんの人がしっとりしたハンカチ握りしめてましたよ。(どこが違ったのかは追って次回記事で書かせていただきます。)

最後に印象的だった瞬間をひとつ。

というわけで、役者さんの気合と日本のお客さんの感動が相まって、その日の舞台は大成功。カーテンコールでは役者さんたちが、ロンドン公演時の劇場の3倍はあろうかという客席を埋め尽くす人々の拍手を浴びて「うんうん」みたいな満足げな笑顔であいさつをしていました。

そしてみんなが舞台袖にもどったときのことです。

カラになった舞台に向けて拍手が降り注ぎ続けました。

駆け戻ってきたアルバートとジョーイ役(3人でパペットを動かしている)の二人、それに続いてばらばらと役者さんが集まり、もう一度、少し驚いた、しかし嬉しそうな顔で深々と頭を下げました。

あの、「時間差戻り」と役者さんたちの一連の表情について考えてみるに、おそらくあのとき、役者さんたちはお客さんの感動度合を「とりあえず日本のお客さんにも十分気に入ってもらえたようだ」くらいに思っていたのではないでしょうか。だから最初の笑顔にはなんとなく「安堵」がただよっていました。

というのも「ブラボー!!」とか口笛とかスタンディングオベーションとかがあるロンドンや欧米の反応と比べると、「拍手だけ」というのはそんなに「アツイ」反応に見えないからです。
でも日本人の、特にああいう一般的な舞台に来るお客さんはまだそういう派手なアクションをとる習慣が無いので、拍手をやめないことでなんとか自分たちが受けた「いやもう『気に入った』レベルじゃなくって、とぉっても良かったですって!!」という感動を表そうとした。

それに気づいてまず二人、慌てて戻ってきて、みんなも「おい!行こう!」となったんじゃないかなと思います。

 あの止まない拍手と、駆け戻ってきた役者さんたちの驚いたような嬉しそうな笑顔は、「確かにこの作品が、文化の違う日本でも大きな感動を与えたのだ」という事実を象徴しているようで、舞台そのものとはまた別のすがすがしい感動がありました。

 心に染みるストーリーと、美しい音楽、パペットの馬の圧倒的な質感と勇壮な美。

 どれをとってもイギリス舞台芸術の至宝と呼ぶべき名作ですので、もし迷っている方は今からでもご検討下さい。(十分混んでると思ったけど、一応チケット入手できる回もある模様)

 よくぞ来てくださった。そして、日本にまた戻ってきて欲しい。心からそう思わされる素晴らしい舞台です。
当ブログ「ウォーホース」関連の記事は以下の通りです。
ロンドンの舞台「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」@ あらすじと見どころご紹介
ロンドンの舞台「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」A ある名場面と、その他のおすすめ作品。
「War horse(ウォーホース)戦火の馬」 日本公演決定
「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」日本公演 感想1見どころとお客さんの反応
「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」日本公演 感想2ロンドン初演版との違い
「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」日本公演 感想3結末部(ネタバレ注意)
「史実 戦火の馬」(ドキュメンタリー番組)

 次回、もう少しこの日本公演について追記いたします。

読んでくださってありがとうございました。
posted by pawlu at 09:52| 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月18日

「War horse(ウォーホース)戦火の馬」 日本公演決定

 今日はちょっとコーフンしております。

 残念ながらどうも東京限定みたいですが、ついに!ついに!イギリスの舞台「War horse (ウォーホース)戦火の馬」が日本に来ます!!!
(……もしかしてウマ年にちなんで今年来日??)

舞台の宣伝動画をご覧ください(コレ美しくて大好きなんです……)



【上演期間】
2014年7月30日(水)〜8月24日(日)
・会場=東急シアターオーブ
・一般前売=3月16日(日)開始
・料金=S席13,000円/A席10,000円/B席8,000円
シアターオーブの公式情報はコチラです。

 どなたか知らないけれど連れてきてくださる方に心からお礼を申し上げたいです!!LION提供みたいなのでこちらにも大感謝、次歯磨き粉切れたらLIONのにします(非常に地味な感謝法)。

 第一次世界大戦中、軍馬(War horse)として連れて行かれてしまった馬ジョーイ、ジョーイを探して戦場に行った少年アルバート、そして、戦地でジョーイと出会ったドイツ兵フリードリヒらの、戦争に翻弄された数奇な運命を描いた作品です。

 戦争の悲惨さと、人と馬の心の交流を描いた心に染みる物語、日本の文楽のように3人遣いの等身大パペットが演じる馬の迫力と美しさと雄弁でカワイイ鼻息(どこに食いついているんだ)、イングランド南部デボンの土の匂いと風を感じさせる美しい音楽(これを機にロンドン舞台版サントラのCD発売されるといいのですが……。本当にいい音楽なんです〈私が持っている版はアコーディオン演奏ですが、公演、演者によって違い、ヴァイオリンのこともありました。〉)、どれをとってもイギリス舞台芸術の金字塔といっても過言ではありません。これ観て「イギリスすげえええ!!!!」と本気で思いました。私の知る限り、こんなストーリー構成を持つ、戦争を題材とした作品は他にありません。

 正直に申し上げてしまえば、映画版よりこちらのが好きです。以下、舞台でしか堪能できない見どころを一部書かせていただきますと……。

1,馬らしさ 

映画のが本当の馬を使っているのにと言われそうですが、パペットだからこそできる細かい演技というのがあって、それが「人と暮らしている馬らしさ」をすごく醸しているのです。
 不思議に思うと耳がひょきっと動くとか、恐縮すると体が斜めになっちゃうとか、鼻及び鼻息で人と会話するとか……人間と密にコミュニケーションがとれる哺乳動物固有の動きというのがありますが、それは本物の馬に演技させるのは難しいようです(少なくとも映画版にそういう場面はほとんどない)が、舞台では堪能できます。(いななきや鼻息もパペット遣いの人たちが担当)
 ああいう仕草からジョーイの優しくて人懐こい性格や、アルバートとの絆が見て取れて、「性格も耳ひょきひょきと鼻息で喋るとこもうちの犬ソックリ……」と冒頭から目頭が熱くなってしまいました。

2,音楽

 上記のとおりです。動画で一部お聴きになれますが、ノスタルジーに胸騒ぐ、イギリス独特の音楽が場面展開中に何度も使われています。

3,ガチョウ

 これは映画にも少し出てきていますが、カワイイのがいるんです。
舞台では足の部分が車輪、首が棒で操れるようになっているパペット。
アルバートの家で飼われていて、普段はわりと大人しく、クワクワ泣きながらカカカ……と地面の餌をついばんでいますが、ドアが開くと、家の中に入ってやろうと首を低くして突進していき、しかし、いつも鼻先、いやくちばし先でドアを閉められてしまい、「ガッカリ……」みたいにさびしく去っていくのが。シリアスな場面の多いこの作品の中で数少ないお笑い担当としていい味出してます。
カワイかったので、思わず「ほしいなー」と思ってしまいましたが(まあ、家で大の大人が畳の上で車輪キコキコ走らせて、首の棒動かして、くちばしカカカ……とかやって遊ぶのかと客観的に考えるとナシなんですが)、同じこと考えた人多かったらしく、ロンドンの劇場ではレプリカ売ってました。しかし、今日調べたら価格2500ポンド(約42万5千円)、高!「きれいなジャイアン」のフィギュア四十体分です(何に換算しているんだ)。劇場ではもっとオモチャっぽい廉価版売ってたと思ったんですが記憶違いかな……(汗)

 なお、馬やガチョウのほか、カラスや一部人間もパペットで表現されており、こちらもそれぞれ見ものです。

4,ドイツ兵フリードリヒ

「フリードリヒのいないWar horseはWar horseではない」
正直、そんな気さえします。

このブログではあまり不満を書かないようにしようと思っていますが、これだけは書かせていただきます。映画は映画で美しいし、舞台とは違う見どころもあるのですが、映画にはジョーイと、同じくイギリス軍馬トプソンと戦場で出会い、彼らを連れて故郷へ逃げようとする中年ドイツ兵フリードリヒが登場せず、私はそれがとても残念でした。

 ジョーイたちに乗って逃げようとする若い兄弟兵や、ジョーイたちの面倒を見る兵士が登場し、彼らがフリードリヒのポジションを分割して担っているようですが、舞台のフリードリヒはアルバートと対を成すといえるほど存在感があるのです。

 フランスの人々を描くために、フランス人少女エミリーや彼女の祖父を描くことにかなりの時間を割いていることも、フリードリヒ的存在をかすませる一因となっています。(舞台だとエミリーはフリードリヒと交流を持っているのですが、それもありません。)
 
私がこの舞台を観て一番感動したのは「馬を大切にする人の心を描くことによって、『イギリスもドイツも、敵味方も無く、本当は人間は分かり合える存在なのだ』ということを表現している」という点でした。

 こういうふうに、戦争中の敵味方に分かれていた人間たちを双方平等に描けた作品というのは私の知る限り非常に少ないのです(第二次大戦中の日米それぞれの人間ドラマを丁寧に描いたイーストウッド監督ですら「父親たちの星条旗(アメリカ側)」と「硫黄島からの手紙(日本側)」と二作品に分割しています)。そして、そこが「War horse」の画期的なところなのです。

 戦死した兵士の懐にあった家族の写真を見て涙し、フランスの少女エミリーを自分の娘に似ていると思って可愛がり、ジョーイたちはイギリスの馬だからと一生懸命英語で話しかけ、彼らの危機には両腕を広げて守ろうとする一人の優しい男フリードリヒがいてこそ、この作品は他に類を見ない名作となりえたのであり、アルバートと同じくらい彼の人物像が描けていないのなら、その偉大さの多くが失われてしまう。私はそう思ってしまうのです。

 実際、舞台版の「War horse」はロンドンでの成功を受けて、ベルリンでも上演されるようになりました。(War horseベルリン公演情報はコチラ)これはフリードリヒの存在あってこそ実現したことだと思います。

そして、「イギリスが作品の中で心温かなドイツ兵を描き、その作品をドイツが上演するようになった」というこの事実が、戦後、本当にイギリスとドイツが互いの心の傷を乗り越えて歩み寄ったということなのではないかと思います。

 真面目な話、公演地に「Berlin」と書いてあるのに気づいたとき、なんかよそながら泣きそうになりました……。これが真の「和解」というものなのではないかと……。

 ちなみに原作小説にはフリードリヒという名の兵士が登場しますが、こちらも舞台ほど登場していません。
 「アルバートと同じくらい重要な存在としてのフリードリヒ」は、舞台版で初めて現れ、今のところ舞台版でしか見ることができないのです。
 
 彼を通じてドイツ側の人の心を描いたことで、作品内でのある非常に重要な場面(これは映画でも観られます。ネタバレになってしまいますが、いずれ書かせていただきたいです)がより観客の心の奥深くに届くような作りになっています。私はフリードリヒの存在と、この場面の舞台での描かれ方を観て、イギリスの舞台芸術の偉大さを思い知りました。

 「『戦火の馬』なら映画を観たから知っている」とお思いになる方もいらっしゃるかもしれませんが、是非このフリードリヒというキャラクターを観に行っていただきたいと思います。

 このように、優れた人物描写、人と動物の絆と戦争の愚かしさというテーマ、文楽に似たパペット、音楽などなど、日本人の心の琴線に触れるであろう要素がたくさんあるので、是非ご覧になっていただきたいです(歌舞伎公演みたいにNHKで舞台放映されないかな……)。

 できればこれを機に「レ・ミゼラブル」みたいに日本版もやるとか、何年かに1度は来日とかして、日本に定着していただきたいと心から思います。世の中にはこんなに偉大な作品がある、そしてそれに感動する人たちがこんなにいる。イギリスでこれを観たとき、わたしはそう思って随分勇気づけられました。一人でも多くの日本の方に、この作品を知っていただきたい。そのために今後もこのブログで舞台版「ウォーホース」については繰り返してご紹介せていただく予定です。

 当ブログ「War horse(戦火の馬)」関連過去記事は下記の通りです(※一部内容が今回の記事と重複しております。)
ロンドンの舞台「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」@ あらすじと見どころご紹介
ロンドンの舞台「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」A ある名場面と、その他のおすすめ作品。
「War horse(ウォーホース)戦火の馬」 日本公演決定
「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」日本公演 感想1見どころとお客さんの反応
「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」日本公演 感想2ロンドン初演版との違い
「War horse(ウォーホース)戦火の馬)」日本公演 感想3結末部(ネタバレ注意)
「史実 戦火の馬」(ドキュメンタリー番組)
(余談)
 ところでなんで本日この公演情報に気づけたかと申しますと、当ブログアクセス解析を見ていて、なんか最近「War horse」で検索かけてきてくださってる方が増えているな……、今ボクの記事、検索サイトで何ページ目にきてるのかしらウフ。

 とかなんとか思って、まあ、ちょっとみみっちいようですが、「War horse」で検索かけてみたらこの情報を入手して、ギャー(喜)!となったわけです(あ、そういやコーフンのあまり、自分の記事何ページ目か確認するの忘れてここまで書き進めてました。まあいいか……)。ですからこのブログを見てくださった方のおかげですね……。

(さらに余談)この流れで(どの?)「Billy Elliot(映画「リトルダンサー」のミュージカル版)」ロンドン版の日本公演も実現してほしいなあ(あれは、主役が少年で労働時間が限られるとか、セットが大きいとかがネックなのかなあ……同じくイギリスの凄さが詰まった名作なんですが)。

 読んでくださってありがとうございました。
posted by pawlu at 01:03| 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月03日

ヨセフ・アンド・ザ・アメージング・テクニカラードリームコート


 東京限定の話で残念なのですが、件名のミュージカルが本日から(2011年3月3日〜14日)観られるそうです。

 ホリプロのHPはコチラ。
 ちけっとぴあの情報ページはコチラです。

 旧約聖書のヨセフ(英語ではJoseph、発音としては「ジョゼフ」に近いです。)の不思議な波乱万丈の人生を題材に、1960年末~1970独特の原色とナンデモアリ感覚が良い意味で爆発した、最高に面白い作品です。

 今回はアメリカのキャストの来日ですが、元々この作品は、作曲家アンドリュー・ロイド・ウェバー氏と、作詞家ティム・ライス氏というイギリスのミュージカルのゴールデンコンビ(※)が最初にタッグを組んだ記念すべき作品です。

(※その後、同じく聖書を題材に作られた「ジーザス・クライスト・スーパースター」は世界的大ヒットに。)

 旧約聖書のエジプトの牢獄の場面なのに、七色の光とともにアフロや超ミニのハデハデな人が、突如あふれ出てきて「Go Go  Go Joseph !Sha la la Jopseph、you’re still in your prime!(行け行けヨセフ!シャララ、ヨセフ、君は今も最高~!」と踊りまくるのを素直に「うわあ、た~のし~い!!」と思える方には非常にオススメいたします。

(というか、映画版だと、その中に、ふさふさとお花のレイを沢山かけた、長い衣に派手なサングラスのおじいさんがどさくさまぎれに一緒に踊ってるんですが、まさか…神様……?)

 逆に、「ミュージカルってなんで突然歌いだすの」的な人は、事前に頭を相当ほぐしておく必要があります。ノリにびっくりするから……本作の映画と、「ジーザス」はご覧になっておくといいかもしれません。

 しかし、たまには堅苦しい日常を離れ、度肝抜かれるのって、すごく気分いいですよ……。

(あらすじ)

 基本的には旧約聖書ヨセフの物語に忠実です。(場面の崩し方はハンパないですが)

 ヨセフは一族の長であるヤコブ(英語ではJacob「ジェイコブ」と発音しています)の息子。ヤコブは十二人の息子に恵まれましたが、今は亡き最愛の妻の面差しを継いだ、美青年のヨセフをことのほか可愛がっていました。ヨセフにだけ特別な晴れ着を作ってあげるなど、その差は誰の目にも明らか。

 (これがミュージカルでは色鮮やかな総天然色のコートになり、作品の題名にされています。)

 しかし、これが他の兄弟の嫉妬を招き、兄弟たちはヨセフを殺してしまおうとします。(聖書内では、長男ルベンは彼を助けるつもりだったと書かれています)

 いったんは穴に投げ込まれるも、命をとるのは思いとどまった兄弟たちは、通りかかった商人に彼を売り飛ばし、ヨセフはエジプトに連れて行かれてしまいます。兄弟たちは、山羊の血をつけたヨセフの晴れ着を、父ヤコブに見せて、彼は野獣に食い殺されたと嘘をつきました。
 
 ヨセフは宮廷の役人ポティファルの奴隷になり、その聡明さを買われて良い待遇を受けますが、ポティファルの妻が彼の美青年ぶりに目をつけ、誘惑してきます。

 ヨセフは応じませんが、ポティファルの妻は逆に彼を陥れ、ヨセフが自分に言いよって来たと、夫に嘘を言います。

 恩を仇で返されたとポティファルは激怒、ヨセフを牢獄に入れてしまいます。

 絶望的な状況、しかし、ヨセフには、人のみた夢から、未来を読み解くという不思議な力があり、これによって、彼の運命は大きく変化していきます。

最大の注目ポイントは聖書の超大胆アレンジです。

 この作品と「ジーザス」には、1970年前後の破天荒が、良い意味でぎうぎうに詰まっています。

 しかし、この聖書を題材にしておきながら、ノリがドタバタなミュージカルが、生誕から約40年経った今、ようやく日本に来た遠因に、アノ衝撃の最聖ぬくぬく漫画「聖☆おにいさん」(※イエス・キリストとブッダが立川のアパートでルームシェアして有給休暇を過ごすという、物凄いコンセプトの傑作ギャグ漫画。)の大ヒットがからんでいるのではとひそかに思っています。日本人もこの手のシャレがわかる(どころか大好き)と実証したわけですから。

 「ジーザス」にある、ユダの苦悩やイエスとの悲劇的な対立とは異なり、「ヨセフ」は原色カラフルで大人から子供まで無心に楽しめる展開です。

(ちなみに、ロンドン版ミュージカルでは、七色の服を着た子供たちがヨセフたちの活躍を見守っています。【ポティファルのセクシー妻が、ヨセフになんか言ってる最中はちゃんと退場している(笑)】)

 しかし、単にファミリー向け、ではなく、目を疑うほど燦然と斬新です。色あせないというか、ある意味、21世紀には生み出せないキョーレツさ……。




 例を挙げると、
(注、以下少しネタバレです。大丈夫な方だけお読みください)






  @エジプトのファラオがあの王の頭巾(ネメスというそうです)をとると、なぜかプレスリー風だ。

  A兄たちがジャマイカ風など、時代も国もまるっと超越した音楽で歌って踊っている。

  B人の生き死にに関わる話題で、わりとあっさりギャグが挟まる。

 次回、アノ独特の雰囲気について、もう少しくわしくご紹介させていただきます。

(映画「英国王のスピーチ」についても近々書かせていただきます
posted by pawlu at 06:57| 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
カテゴリ