先日、蚊の話でもご紹介させていただいた、椎名誠さんの名作エッセイ『わしらはあやしい探検隊』より、椎名さんたちが遠泳に行った際に起きた事件を描いた「恐怖の神島トライアングル」「垂直デスマッチ」についてご紹介させていただきます。

わしらは怪しい探険隊 (角川文庫) -
椎名さんと沢野さんでなければもしかすると死んでいたのではという状況(二人とも運動神経が良い)なのですが、椎名さんの独特の比喩と妄想がさく裂し、申し訳ないけれど人の大ピンチに大笑いさせられてしまう名文です。
以下あらすじご紹介です。
(ネタバレですのであらかじめご了承ください。当然原文のほうが全然断然面白いので、読んでない方は先に是非そちらをお読みください。)
前に椎名は10km泳げるって言っていたよな。神島一周なら約4kmだから余裕だろう。
そんな話をキャンプの同行者にされた椎名さんは、つい「できる」と答えてしまいます。
そして同じく泳ぎが得意だと言っていた沢野さんとともに、遠泳に旅立つことに。
(実はこの出発の二日前、参加者全員が数百万匹の蚊の大群、通称「蚊柱」に襲われ、テント内でリアルに命の危険を感じながら死闘を繰り広げたというのに、翌日は襲われずよく眠れたからと4km泳ごうとする丈夫な人々。)
島のへりはそのほとんどが崖に囲まれているとはいえ、歩ける浜辺は歩いていいというルールでスタートしたので、当初は海に落ちる滝などの奇観を楽しみ、世間話をしながら探検気分を味わっていました。
(このとき沢野さんは頭にタバコとライターをくくりつけていたので、頭を濡らす泳法はできず、泳ぎながらも言葉を交わせる、比較的ゆるやかな進み方でした。この持参品が後の運命をわけることになります。)
やがて、崖がけわしくなり、泳ぐしかなくなったころ、事件は起こりました。
岩場にたたきつける波を避けようと、少しだけ陸を避けて泳いでいたつもりの二人が、ふと振り返ると、いつのまにか、思っていたよりはるかに沖に流されていたのです。
驚いて陸に向かって泳ぎだした椎名さんの全身を恐怖がつきぬけました。
まるで川の流れに逆行するような明らかな水の抵抗を感じたのです。
伊勢海と太平洋の真ん中に位置する神島は、実は非常に複雑な潮流の中にあり、二人はまさに今その渦中を泳いでいたのです。
こういうときは、抵抗しても疲れておぼれてかえって危険なので、流されるだけ流された方がいい、と、退廃的な人生のような助言を聞いたことはあるけれど、どうしてもそのとおりにする気にはなれない。
だってそのまま流されていったら行きつく先は太平洋かもしれないのだから。
そんな風に予備知識と生理的にどうしようもなくこみげる恐怖の間で葛藤していた椎名さんでしたが、奇跡的に「肩先から腰をくるみ、足の先まで重苦しくのしっかかっていた潮の圧力が急にこそげとったように消えてなくなり、体がいっぺんに軽くなったような感じ」がする瞬間が訪れました。
(この辺体感した人ならではの説得力のある文だなあと思います。)
「おい、今だぜ!」
同じ感覚があったらしき沢野さんがそう声をかけ、猛然とクロールで陸に向かって泳ぎだしたのを慌てて追いかけた椎名さん。
「生涯の力をありったけ絞り出すようにして」ようやく二人とも無事に岩場にたどりつくことができました。
しかし、そこから先はせりだした崖、背後もまた垂直の崖(背後の崖を泳いで避けようとして流された)。
しかも、激しくたたきつける波によってえぐられた洞窟から、老いた怪獣の咆哮のような不気味な音が聞こえてくる。
後で聞いたら、この洞穴は島の西側まで貫通しており、船が難破してこの中を仮死状態で流され、それで助かったものもいるが、そのまま追ってきた荒波によって西側の海まで吐き出されて行方知れずになった者もいるという、正真正銘の危険地帯だったそうです。
そうとは知らず、思い切って泳いでこの地点を超えてしまおうかといったんは思った椎名さんでしたが、とにかくその咆哮が尋常でないので怖くて断念。(泳いだらその洞窟に吸い込まれる可能性があった。)
結局、前後の海に戻るというのはあり得ないので、崖を登るしかない。比較的傾斜がゆるやかで「ガレ場」と呼ばれる岩と土がまじりあう部分と、枯れ沢で形成された部分があるからそこを行こう、という意見で合意した二人。
幸運にも二人ともロッククライミングの経験があるけれど、裸に裸足なのがどうにも(二つの意味で)痛い。
(お二人のロッククライミング歴については「ハーケンと夏ミカン」で読めます。面白いし、装備の重要性もよくわかります。)

ハーケンと夏みかん (集英社文庫) -
そもそもザイル(ロープ)がないので、二人でロッククライミングをするときの利点、一人が滑落しても、一人がロープで体を確保する、というのができない。下の人間が落ちていったら、ただ見ているしかできない。
しかもその下に待ち構えているのは、あのぎざぎざの岩場と怒涛の波間。
(以下引用)
「おーやだやだ」
と、俺は言った。神島一周などという身の程を知らぬばか気に満ちた挑戦などせず、ベースキャンプでカレーライスの下ごしらえとか四の字固めの練習でもしていればよかった。長老とにごり眼(補:友人のあだ名、相変わらず〈特に後者は〉失礼なネーミングセンス)におだてられてこんなところで抜き差しならぬ状態になっている自分が情けない。
……確かに、別に大切な使命があったわけでもないどころか、特にやりたかったわけですらないことをきっかけに、下手したら太平洋まで流されていたかもしれないところを生還してもなお、海パンいっちょうで岩登り(吹き上げる咆哮海風つき)をしなければならないとくればしみじみと嘆かわしいことでしょう。しかしこの目の前の状況としては相当危険というタイミングで笑いを挟んでくるのが椎名さんのセンスです。
しかし嘆いていても始まらないので、二人はクライミングを開始します。
二人が選んだルートは、足場となる石がたくさんあり、経験者の二人としてはやりやすかったのですが、反面かなりもろく、いつ足をかけた石を踏み外すかわからない場所でした。
(本人が足を滑らすのも、上から石が落ちてくるのも怖い。)
休憩をはさみつつ、どうにかこうにかある程度登ると、しかし、二人ともその高さに青ざめます。
こういうとき、登るより下りる方がはるかに難しく、もはや後戻りができないとよくわかっていたからです。
そうなると、もしこれから先、身動きがとれなくなったら、はてしなくその場にくぎ付けにされてしまう……ここからまた、心底危険なのに、なぜかそういうときほど不毛な妄想が延々とさく裂する椎名作品の真骨頂が展開します。
(以下引用)
そんなのは厭だ。たぶん、こんなところにはめったに島の人もやってこないだろう。クギづけになってしまい、やがてそのまま朽ち果て、白骨になってしまうだろう。
そうして何年かたったある日、島の人が偶然変わり果てたおれたちを発見する。(中略)すると島の人たちは一様に首をかしげるに違いない。
俺たち二人は水泳パンツしか身に着けていない。すなわち、その崖の中腹に貼りついていたふたりの白骨死体は、なぜか黄色と緑のシマシマパンツ(炊事班長〈沢野さん〉のもの)と赤茶、市松模様のパンツ(おれのもの)しか身に着けていなかった。この二人はこんな崖の真ん中でいったい何をしていたのだろう――ということが永遠の謎となるはずだ。
どうせならなにかしらの謎を残して死ぬ、というのはわるくないが、しかしこの程度の謎というのではちょっとロマンがない。つまり早い話があまり恰好がよくない。そんなのはいやだわ、いやだわ、
……この切実なんだか悠長なんだかわからない妄想は、沢野さんの「早く来いよ!」という檄によって断ち切られます。
その後、ロッククライミングの基本姿勢は三点確保(手足計4本のうち3つで体を支え、残り一つで手がかり、足がかりを探す)だけれど、厳しい場所(今)だとどうしても四点確保(両手足でその場にしがみつく)になってしまう。最も安全だけれど、このままだと何時間たっても進めない。四点確保がロッククライミングの主流にならないのは、実にここのところの問題が未解決であるからだ、とか、さっきの「白骨パンツのミステリー(←笑)」についてだが、考えてみれば死んだ時点で崖から落ちるからは成立しないんだな、とか考えながらじりじり進んでいた椎名さんでしたが、あと少しであのクマザサが生えた手がかりの多い楽なルートにたどりつける、という希望が、沢野さんの叫び声に断ち切られます。
突然滑り落ちてきた沢野さんを、椎名さんの左手と付近の石が止めましたが、そんな腕力に長けた椎名さんが、沢野さんの次の発言に震えあがりました。
「へびだよ、蛇……」
沢野さんの目の前を、ヘビが素早く横切り、驚いて足を滑らせてしまったのです。
考えてみれば蛇がいないほうがおかしいような状況。遭遇したのがまむしだったかもしれないというのがいっそう不気味でした。
(ここでまたしても妄想〈以下引用〉)
これが、よく小説やドキュメンタル述べるに出てくる豪胆の探検家であれば、
「まむしごときにおののいていたら地球のデコボコはどこも制服はできない、おのれ、まむちゃん!」とか言ってすばやくひっつかまえ、花結びにして海に放り投げてしまうのだろうが、おれたちはどちらかというと「全日本蛇よりも蜘蛛が嫌いな会」というものよりも、「全日本蜘蛛よりも蛇が嫌いな会」の方の会員になりたいと思っている人々なのである。
しかし、それじゃあ大蜘蛛中蜘蛛小蜘蛛蜘蛛蜘蛛たくさんうじゃうじゃいる穴ぼこと、赤蛇青蛇まだら蛇がのたくりからまる穴ぼこがあってじゃあ蜘蛛穴にはいんな、といわれたら即座に「全日本どちらの穴にも入りたくない会」に加入してしまうヒトでもある。
ま、しかしこれは当たり前のことであろう。
……というわけで、荒海を泳ぎぬいても、崖を海パンで登れても、大の大人の滑落を支えても、蛇にだけは遭遇したくない椎名さんは、今回お前が助かったのはお前より10kg重い俺が下にいたからで、逆だったら二人そろって落ちてただろ、だからやっぱりお前が先に行け、と主張するも、同「全日本蜘蛛より蛇が嫌いな会」加入予定の沢野さんは、ずっと俺がトップだったんだからこんどはお前が先に行け、と、譲らず、「あまり論理的でない会話」の果てに、二人同時に極力物音を立ててヘビを威嚇しながら進もうという結論に達し、とにかく平地の藪の中までたどり着くことができました。
とはいえ、こんなところにこそまむしが大量にいそうだと思った二人は「そこで再びまたあまり論理的でない、どちらかというと感情的な部類に入る会話をした。」(←笑)
しかし、ここで、あの、海を流されかけた時ですら沢野さんが落とさなかったタバコとライターが役に立ちました。
蛇はタバコの煙が大嫌いらしい、という予備知識を思い出した二人。
じゃんけんに負けて先頭を行くこととなった(笑)椎名さんは、湿気たタバコを激しくふかし、後ろに続く沢野さんは枯れ枝を握りしめて、
「こらあ、ヘビ、くるんじゃねえぞ」「こら、こらあ!」
等簡潔に叫びながら「完全無欠なおよび腰」でじわじわと進むこと30分(辛長)。
ようやく、すり傷だらけになりながら、確かな道にたどりついた二人は、すわりこんで安堵の笑いを交わしました。
……椎名さんと沢野さんでなければ大変なことになっていたのではという場面が3度ほどありましたが(泳ぎが得意でロッククライミングができて、腕力とタバコを手放さない執念があって初めて生還が果たせた。)、そんな窮地を肌身に迫るような具体的な感覚と、よくそんなことを思いついたというか、むしろピンチのときほど人はいろいろ余計なことを考えるのか思わせるほど壮大な妄想を織り交ぜて描いた名文です。
隅から隅までこうした独特の名調子が楽しめる名作なので、是非ご覧ください。
当ブログ椎名誠さんご紹介記事一覧は以下の通りです。よろしければ合わせてお読みになってみてください。
「私のかわりに大地にあおむけに寝てください。そして、天を眺めてください」(椎名誠と井上靖。「砂の海(楼蘭・タクラマカン砂漠探検記)」より)
蚊の話(椎名誠「わしらは怪しい探検隊」より)
(ネタバレあり)「垂直デスマッチ」(椎名誠『わしらはあやしい探検隊』より)
読んでくださってありがとうございました。