2023年04月22日

(おすすめ漫画)『犬神家の一族』(長尾文子作画)原作の世界観を、往年の挿絵画家たちを思わせる圧倒的画力で再現

(漫画『犬神家の一族』表紙)

(犬神家の人々の姿をした菊人形の中に「あるもの」をみつけた金田一耕助)
菊人形 - コピー - コピー.jpg

 戦後まもなく、信州の旧家「犬神家」で起きた連続殺人事件を描いた横溝正史の代表作『犬神家の一族』(1951)

 謎の覆面男「スケキヨ」や、湖面から逆さに両脚を突き出した死体など、衝撃的なビジュアルで、繰り返しドラマや映画、漫画化されている。

※NHK BSドラマ『犬神家の一族』放送予定(※当ブログNHK版ドラマご紹介記事はこちら)
再放送決定】2023年5/21(日)、5/28(日)午後4時〜5時29分<前後編>BSプレミアム


(戦争で顔を負傷した佐清(すけきよ)が犬神家の人々の前で頭巾をとる場面。その下はさらにゴム製のマスクで隠されていた。)
頭巾を外す佐清 - コピー.jpg

 長尾文子作画版漫画『犬神家の一族』は、横溝正史と同時代を生きた挿絵画家たちを思わせる、緻密で美麗な作画と、原作に忠実な展開が見どころの作品だ。


 横溝正史と、彼の先輩江戸川乱歩が活躍した時代、推理小説の傑作たちには、トリックの謎とともに、もうひとつの謎があった。

 身の毛がよだつほど恐ろしいのに、凶悪な出来事が起きているのに、作品としてはどこかで「美しい」と思わされてしまう、得体のしれない世界観。

 それは現実の犯罪より、魔性の気配に似ている。
(その後、松本清張が、徹底した取材で、現実社会の様相をより色濃く反映した作品を産み出した)

 市川崑監督版映画『犬神家の一族』(1976)にもその謎めいた魅力が充満しているが、それよりも先に、彼らの小説の世界観を目に見える形にしたのが、同時代の挿絵画家たちだった。

【参考】
(岩田専太郎(1901〜1974)の作品集表紙 横溝正史と乱歩の挿絵を手掛けた画家のひとり。美人画でも人気を集めた)

 当時の挿絵画家の多くは、着物や、当時の風俗、人々のこまかな仕草まで、日常として目に焼き付けてきた。

 そして何より、彼らは、作家や登場人物と同じ、命が今よりもはるかに儚く、潔癖も退廃も極端な時代の空気を吸って生きていた。

 そういう画家たちが描いた挿絵は、線が自在で、闇が濃く、こちらの視線が否応なく吸い込まれるような鮮烈さと緊張感があった。

 もう、現代では観ることができないタイプの絵だろうと思っていたのだが、この漫画の絵には、そうしたかつての挿絵に通じる迫力がある。

 しかもそれが一コマ一コマ展開していくのだから、横溝正史や乱歩の挿絵に魅了されたことがある読者には、とても贅沢な眺めだ。


 (とくに、欲望と憎悪渦巻く人々が集結する場面の、張り詰めた空気が見事)
一族 - コピー.jpg


佐清をかばう松子 - コピー.jpg
(着物の皺や、全員の立ち居振る舞いも細部まで描きこまれている)

 物語の恐ろしさと美しさの核である、女性たちの描写(とくにまなざし)も素晴らしい。

(佐清の母、松子)
松子 視線の動き - コピー.jpg
手形の拒否 - コピー.jpg


(犬神家の莫大な遺産をただ一人相続することになった美女、珠世)
珠代 - コピー.jpg

(珠世が佐清に時計を見せる場面 伏せた目に気品と艶が漂う)
時計を見せる珠代 - コピー.jpg



 金田一耕助は冴えない風貌のはずが美青年ではないかというのは、「そんなこと言ったら石坂浩二も二枚目だ」ということで……この顔がたまにコミカルになって、原作の愛嬌を表現している。

手紙を読む金田一 - コピー.jpg
(髪の線の描き方に昔の版画の彫りのような趣がある)

(ドラマや映画ではよく省略される、ある重要な場面での金田一のスキーの腕前も、この作品では見ることができる。クライマックスを目前に挟まる、ちょっとかわいいシーン)
スキーをする金田一 - コピー.jpg

 長尾文子さんが漫画化した横溝正史の最高傑作『獄門島』は、現在入手困難らしいが、ぜひとも読んでみたい。

(もうひとりの横溝正史漫画の名手、JETさん版の『獄門島』も素晴らしいけれど、ドラマが何回も作られるように、作者によってそれぞれの良さがあるはずなので、復刊を本当に心待ちにしている) 





【補足】
 長尾文子さんの作品には、横溝正史などの推理もののほか、中国の昔話や、日本の歴史ものなどがある。




(表紙とタイトルが怖いけれど、中身は芥川龍之介の「杜子春」のような中国の伝奇物語集)






posted by pawlu at 13:28| おすすめ漫画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年09月19日

『サザエさん』の作者長谷川町子さんのコーギー(エリザベス女王のご愛犬の親戚)


(長谷川町子さんが描かれた「エリザベス女王のご愛犬」のコーギー)
長谷川町子さん作エリザベス女王のご愛犬 - コピー.jpg



(長谷川さんの飼っていたコーギー「エリカ」、「エリザベス女王のご愛犬のまたいとこ」だった)

長谷川町子さんのコーギー子犬のころ - コピー.jpg

(エリカの可愛さに悩殺される長谷川町子さん〈笑〉)
コーギーの可愛さに悩殺される長谷川町子さん - コピー.jpg


 動物好きだった、『サザエさん』の作者長谷川町子さんは、知人から「エリザベス女王のご愛犬のまたいとこ」の可愛らしいコーギーを紹介され、飼われていた。

 エリカの正式名称は「クラフト・フラッシュ・グッド・エリカ・ロイヤル・ウェイ」。由緒正しいだけあって名前も立派だった。

  尻尾が短いぶん「感情をうったえる瞳は表情にとみ、そのかわいさにいっぺんにのう殺されました」

と、長谷川さん。

 ただ、エリカは、先住犬の柴犬「コマ」との折り合いが悪く、「嫁姑の間に立った亭主の気苦労がわかった気がした」とも書かれている。

(しつけやコマの性格の問題というより、昔の犬は番犬なので、今の家犬より気が強かったのが原因だろう)

 エリザベス女王は、1933年に父ジョージ6世(映画『英国王のスピーチ』の国王)が、(おそらく幼い娘たちの遊び相手として)コーギーを飼われて以来、熱烈にコーギーを愛され、18歳のお誕生日に贈られたコーギーの「スーザン」と、その子犬たちを長年にわたり育てられた。

(エリザベス女王と愛犬スーザン〈かわいいだけでなく見るからに聡明そう〉)
エリザベス女王とスーザン3 - コピー - コピー.jpg
(Image credit:Youtube)

 この女王陛下の愛犬の血縁の犬が、めぐりめぐって、日本の長谷川町子さんのお宅まで来て、漫画に描かれたのだ。

【補足】

 浦沢直樹さんの名作漫画「マスターキートン」にも、「女王陛下様の愛犬の血縁の犬」が登場する。(作品の舞台は1990年)

マスターキートン5太助とコーギー - コピー.jpg

 主人公の太一・キートンの父で、動物学者の太平の飼い犬「太助」(器量はいまひとつだが、嗅覚は抜群)と相思相愛のコーギー、ジェシカちゃん。

マスターキートン5エリザベス女王のコーギーの親戚 - コピー.jpg
 ジェシカの飼い主で、都議会議員の妻であることを鼻にかけた近所の女性に、ジェシカは「英国女王様の愛犬の血筋を引く犬」なんだから、雑種が近づくんじゃない、と、いかにも「ザマス」な感じ悪さでくぎを刺されている。

MASTERキートン 完全版 デジタルVer.(5CHAPTER9「豹の檻」p.233より) 




 長谷川町子さんのエッセイ漫画『サザエさんうちあけ話 サザエさん旅あるき』には、長谷川町子さんの家や、旅先で出会った動物たちがしばしば登場する。

(飼い猫のフィリック〈シャム猫、容姿端麗なジェントルマン〉)
長谷川町子さんのシャム猫 - コピー.jpg
(同上「どうぶつ記 13」p.56)

(秋田犬のジロー〈長谷川さん宅の修理に来る大工さんたちが大好き〉)
長谷川さんの秋田犬大工さんが来ると飛び出てくる - コピー.jpg

長谷川さんの秋田犬輪に加わる - コピー.jpg
(同上「どうぶつ記 13」p.59)

 長谷川町子さんのユーモラスなタッチで描かれた彼らは、とてもかわいらしく生き生きとしている。





(参照)

A brief, adorable history of Queen Elizabeth II’s royal corgis l GMA



Susan ウィキペディア記事


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2022年08月12日

MLB「フィールドオブドリームスゲーム」と映画の名場面「皆、やって来るよ」(おすすめ動画)

(トウモロコシ畑の中で不思議な声を聞いたレイ・キンセラ(ケビン・コスナー)〈映画「フィールド・オブ・ドリームス」(1989年)より〉
不思議な声を聞いたレイ - コピー.jpg
(Image Credit:Youtube)

(2021年、MLBの「フィールド・オブ・ドリームスゲーム」に登場したケビン・コスナー)
2021年球場に現れたケビン・コスナー - コピー.jpg
(Image Credit:Youtube)



 2022年8月11日(日本時間12日)ケビン・コスナー主演の映画「フィールド・オブ・ドリームス」(1989年公開)に登場したトウモロコシ畑の中の野球場で、アメリカのメジャーリーグ(MLB)の公式戦が開催された。

 (2021年に引き続き2度目の開催となった今回は、日本人選手の鈴木誠也選手が活躍したことでも話題となった)

 映画は、アイオワの農夫レイ・キンセラが、トウモロコシ畑で「それを作れば『彼』はやって来る」という不思議な声を聞いて、声に導かれるまま畑の中に野球場を作り、そこに、今は亡き悲運の名選手、シューレス・ジョーら、天国の野球選手たちが現れるというストーリー。

(シューレス・ジョー)
シューレス・ジョー - コピー.jpg
(Image Credit:Youtube)


(映画のトレイラー)

 トウモロコシ畑の中の野球場は、映画撮影終了後も保存されていたが、2021年から、ここでMLBの公式戦が行われるようになった。
(※2023年は球場メンテナンスのため休止の予定。)

 2021年の「フィールド・オブ・ドリームス・ゲーム」開催時には、試合開始前にケビン・コスナーがゲストとして、トウモロコシ畑から登場、出場する現役メジャーリーガーたちも彼に続いた。

(トウモロコシ畑から現れた選手たち)
2021年選手たちの背中 - コピー.jpg
(Image Credit:Youtube)

2021年選手たちの登場2 - コピー.jpg
(Image Credit:Youtube)


(映画紹介動画、声を聞いたレイ)
If You Build It, He Will Come - Field of Dreams (1/9) Movie CLIP (1989) HD

(2021年MLB公式戦動画、ケビン・コスナーと選手たちの登場)

 


 このイベントと、彼らに歓声を送る人々の姿は、映画後半のある名場面を思い出させる。

(※以下、映画の重要シーンネタバレご注意)

 トウモロコシ畑を潰して野球場を作ったために、レイの農場は経営難に陥ってしまう。

 レイの妻の兄、マークから「妹のために家は残してやる、畑は手放せ」と、売却を迫られるレイ。
(マークには、目の前で試合をしている、天国から来た選手たちが見えていない)

 売却のための書類を突き付けられたレイに、娘のカリンは、畑を売ることはない、と言った。

 「みんな、来るわ」

 お金を払って野球を見に来てくれる。

 マークはカリンに取り合おうとしないが、カリンと一緒に野球を観ていたもう一人の人物が、言葉を続けた。

「レイ、皆、やって来るよ」

 往年の有名作家、テレンス・マン。(『ライ麦畑でつかまえて』のサリンジャーがモデル)

 すでに作家業は引退していたが、レイに強引に野球場に連れてこられ、この不思議な出来事を目の当たりにしていた。

 テレンス・マンは、低く静かだが、力強い響きの声で、レイに語り続けた。

何かにひかれてアイオワに来る。
なぜかわからず君の家を目指し、
無心な子供に立ち返って、過去を懐かしむ。

君は言う「遠慮せず、どうぞごゆっくり」
一人、20ドル。
皆、当たり前のように払うよ。

金はあるが、心の平和がないのだ。

彼らはここに座る。
素晴らしい天気の午後、シャツ姿で…。
そして…ベースラインの近くに席があることを思い出す。
子供のころ、そこから自分たちの英雄たちを応援した。
そして試合を観る。
魔法の水に身を浸している気分でね。
手で払いのけるほど濃い思い出が甦る。

皆、やって来るよ、レイ。

長い年月、変わらなかったのは野球だけだ。
アメリカは驀進する。
スチーム・ローラー。
すべてが崩れ、再建され、また崩れる。
だが野球はその中で踏みこたえた。
野球のグラウンドとゲームは、
この国の歴史の一部だ。

失われた善が再び甦る可能性を、
示してくれている。

皆、やって来るよ。
間違いなく、やって来る。

 テレンス・マンの背後に、いつの間にか、選手たちが集まっていた。

野球について語るテレンス・マン - コピー.jpg
(Image Credit:Youtube)



 野球場を売らなければ、すべてを失う。

 マークにそう告げられながら、レイは、天国から来た人々の向こうに、シューレス・ジョーの姿を見た。

 彼だけが、遠くにいた。

 そして、グローブをこぶしでたたくと、レイを見つめながら、両ひざに手を付き、身をかがめた

 球が来るのを待っていた。

 野球場の運命を決める、レイの決断を。



(テレンス・マンの言葉と、レイを見守る選手たち)
Field of Dreams (5/9) Movie CLIP - People Will Come (1989) HD




 「皆、やって来るよ。間違いなくやって来る」

 この言葉は30年以上の時を超えて、実現した。

 2021年の公式戦セレモニーに登場したケビン・コスナー。

 そのまなざしは感慨深げだった。

 トウモロコシ畑の中の球場、あえて手作りらしく作られた素朴なデザインのスコアボード、そして観客席に「やって来た皆」が、そこに存在していた。

2021年観客席 - コピー.jpg
(Image Credit:Youtube)

 この映画と若き日の彼の演技が、何を成し遂げたか、当時は予想もしなかった苦しい時を生きる、今のアメリカの人々に、どれだけ希望を与えたかが、その瞳に映っていた。

 トウモロコシ畑を超えて登場した選手たちの表情も印象的だ。

「すべてが崩れ、再建され、また崩れる。だが野球はその中で踏みこたえた。野球のグラウンドとゲームは、この国の歴史の一部だ。失われた善が再び甦る可能性を、示してくれている」

 この言葉に、自分が歩んできた野球人生を誇らしく思う人も、この映画を観たころの思い出を振り返る人もいたことだろう。

 テレンス・マンの言葉は、2022年の「フィールド・オブ・ドリームス・ゲーム」のイントロでも語られている。

 彼の言葉は、アメリカに限らず今も驀進する世界が、心の平和がないまま、刻々と破壊しているものを考えると、当時以上に突き刺さる。

 だが、この映画も、すべてが崩れていく中で、忘れ去られることなく、今まで踏みこたえた。

 そして、緑のトウモロコシ畑のように、30年の月日をくぐりぬけ、メジャーリーグの公式戦として、現実の世界に現れ、多くの人々の心を動かした。

 その事実は、野球と、試合を観に、本当に野球場にやって来た「皆」の存在とともに、失われた善が再び甦る可能性を、示してくれている。




 当ブログ関連記事 




(関連動画)〈※ネタバレ注意、映画の結末、重要シーンを含む動画あり

・2022年「フィールド・オブ・ドリームス・ゲーム」の動画

(イントロ)
2022 MLB on FOX Field of Dreams Game Intro

(ともに野球選手として活躍したケン・グリフィーJr.と父(シニア)が登場したシーン)
Ken Griffey Jr. & Sr., Reds & Cubs emerge from corn for 'Field of Dreams' game | MLB on FOX



・2021年「フィールド・オブ・ドリームス・ゲーム」の動画


(関連動画)
(動画ロングバージョン、ケビン・コスナーのナレーション付き)
Kevin Costner leads Yankees and White Sox from cornfield onto the Field of Dreams | FOX SPORTS



(映画「フィールド・オブ・ドリームス」動画)

If You Build It, He Will Come - Field of Dreams (1/9) Movie CLIP (1989) HD


Field of Dreams (5/9) Movie CLIP - People Will Come (1989) HD

CREDITS: TM & c Universal (1989)
c Major League Baseball, Fox Sports






(参照記事)
[2022年8月12日4時46分]日刊スポーツ


[2022年8月12日10時18分]日刊スポーツ


MLB at Field of Dreams game 2022年のMLB記事

posted by pawlu at 18:42| おすすめ漫画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年03月08日

NHK「アナザーストーリーズ」で漫画「この世界の片隅に」特集を放送

すずさんに口紅を塗ってあげるリンさん - コピー.png

 NHKのドキュメンタリー番組「アナザーストーリーズ」で、第二次大戦中の人々の暮らしと戦争を描いたこうの史代さんの名作漫画「この世界の片隅に」が紹介される。





(NHK HP「アナザーストーリーズ」紹介文)
2007年1月に漫画雑誌で連載が始まり、コミックスの発行部数が180万部を超えた漫画『この世界の片隅に』。アニメ映画化もされ社会現象となった。原作者は広島出身のこうの史代。戦争の悲惨さを描くよりも、戦時下でもひたむきに生きる女性や家族、隣人たちの日常を見つめた異色の作品だ。それは次世代の漫画家たちに影響を与え、新たな戦争表現の可能性を切り開いていく。戦後世代が描く“戦争漫画”がもたらした衝撃とは


『この世界の片隅に』予告篇

『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』予告編


 2016年公開の映画も記録的ヒットを飛ばした美しい名作だが、原作には、漫画ならではの表現と、登場人物たちの恋や過去にまつわる描写で、日本の漫画の最高峰とも言える名場面があるので、未読の方は番組と併せておすすめしたい。

この世界の片隅に 桜の舞い降りた紅.png

(原作に描かれ、映画版『この世界の片隅に』では省略されたシーンは、2019年公開の映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』で観ることができる。)

 また、こうの史代さんが、戦後間もない時代と、現代の広島の人々を描いた『夕凪の街 桜の国』も素晴らしい作品だ。



 当ブログの、こうの史代さんの漫画「この世界の片隅に」「夕凪の街、桜の国」紹介記事はこちら




 『この世界の片隅に』と『夕凪の街 桜の国』をご覧になった方には、こちらの作品もおすすめだ。

『南の島に雪が降る』(加東大介著・主演)


 第二次大戦中、徴兵され、ニューギニアのマノクワリに送られた人々は、戦闘に備え長期間の待機を命じられた状況で、飢えやマラリア、空襲に苦しめられていた。

 終わりの無い戦争に疲れ切った彼らの心を癒すために、俳優の加東大介らが「マノクワリ劇団」を結成する。

 ジャングルに劇場を建て、何もない中で、化粧やかつら、衣装などを作って舞台に立つ劇団の人々の奮闘と、舞台に遠い故郷と愛する家族を重ねる観客の思いが描かれている。

 加東氏の名文による本も、ご本人と豪華役者陣の映画も、戦争の悲しみだけでなく、苦しくても笑うことを忘れまいとする人々の逞しいユーモアや、平和な日常への愛が詰まった傑作だ。



・『あとかたの街』(全5巻)


 作者、おざわゆきさんが、お母様の名古屋での戦争体験をもとに、少女「あい」から見た戦争を描いた漫画。

(最終巻の第五巻にこうの史代さんとの対談「戦争の時代を漫画で描くということ」が収録されている。またおざわさんのお父様のシベリア抑留の記憶をテーマにした漫画『凍りの掌』も重厚な作品だ)

 戦時下の少女たちの思いや、家族の日常生活、空襲の過酷さのほか、市民が名古屋城の焼失に大きな衝撃を受けたことや、軍事工場で勤労奉仕をしていた少女たちが、空襲で狙われる危険に怯えながら作業をしてたことなど、戦時下の人々の心情がつぶさに描かれている。

 夫が戦死した女性が、食べるつもりで飼っていたニワトリのたくましさに、生きることへの執念を見て、彼を大切にするシーンが心にしみる。


当ブログのそのほかの関連記事:
(そのほかの戦争や社会の問題に関連した話題のご紹介記事)










この世界の片隅に : 上 (アクションコミックス) - こうの史代
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この世界の片隅に : 中 (アクションコミックス) - こうの史代
この世界の片隅に : 中 (アクションコミックス) - こうの史代


この世界の片隅に : 下 (アクションコミックス) - こうの史代
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2021年09月12日

「みる?」(名言・名場面ご紹介〈漫画『動物のお医者さん』カンガルーの営業部長〉)

ハムテルを呼ぶ手 - コピー.jpg

 獣医学部の学生ハムテルと、ハスキー犬のチョビが主人公の名作漫画『動物のお医者さん』の名場面をご紹介。

(白泉社「花とゆめ」コミックス版12巻収録)

動物のお医者さん 12 (花とゆめコミックス) - 佐々木倫子
動物のお医者さん 12 (花とゆめコミックス) - 佐々木倫子

(※当ブログの作品・キャラクターご紹介記事はこちら




 北九州市の学会に出席したハムテルと親友の二階堂。

 夕食までまだ時間があったので、同級生の中川が勤めている「カンガルーワールド」に行ってみる。

 できたばかりの「カンガルーワールド」はまだ人手不足で、中川にとっつかまったハムテルと二階堂はフンの掃除などの雑用係をやらされる。

 働くハムテルの手に伸びる小さな手(前脚)。

 みる?

みる? - コピー.jpg

 つぶらな瞳のカンガルーのおかあさんが、フレンドリーな笑みをうかべて、お腹の袋にいるかわいい盛りの我が子を見せてくれた。

 「あ、営業部長、客じゃないから(サービスしなくていいから)」

 あ そ

 中川に声をかけられた「営業部長」は、即座にハムテルに背を向けた。


「カンガルーが営業部長なのか」

「愛想のいいやつなんだ」

 ハムテルと中川がそんな会話をしている間も、「営業部長」はカップルのお客さんに、みる?とやって、お客さんをときめかせていた。 

あそ - コピー.jpg

(「人手不足もここにきわまれり」と説明がついていたが、有能かわいい。)


 この「カンガルーワールド」編、途中までは(ハムテルたちが半強制的に働かされている以外は)、人懐こいカンガルーたちの姿がほほえましかったのだが、ハムテルたちが彼等の生態に不案内だったために、二階堂がメスをめぐるオス同士のけんかに巻き込まれてボカボカと殴られたり、大きな音にびっくりしたカンガルーたちが、開けっ放しになっていた扉から別エリアに逃げ出し、出会ってはいけないボス同士が対峙してしまったりと、ある種の緊迫感がある回だった。

(本来はトラブルが起きないように、争いの種になる発情期の個体を隔離したり、柵でテリトリーを区切ったりしているのだが、ハムテルたちが各注意点を全部間違えた。)


(カンガルーにボカボカされる二階堂。争っていたはずのカンガルーまで、「すけだち」側にまわって、一緒に二階堂を殴りはじめる〈何故〉)

すけだち - コピー.jpg


 (しかし、二階堂には気の毒だが、リアル描写のカンガルー(まつげ長い)が、昭和な怒りの青筋マークを浮かべ、むっ こいつ なまいきにたちあがりやがって と、フキダシ外で思うコマは、「営業部長」とは別の意味でカワイ味わい深い)

なまいきにたちあがりやがって - コピー.jpg



【補足情報1】

  みる? とお客さんにサービスしてくれる、かわいい「営業部長」同様、動物園や水族館には、お客さんを喜ばせるのが好きな動物が実在する。

 (例)男鹿水族館のゴマフアザラシ「こまち」ちゃん。お客さんが来るとパチパチと拍手のしぐさをしたり、わざと水槽にぼよんとぶつかって、めりこみパグ顔を見せたりする。




【補足情報2】

  みる? といえば、『動物のお医者さん』にはもうひとつ名場面がある。(白泉社コミックス10巻収録)

動物のお医者さん 10 (花とゆめコミックス) - 佐々木倫子
動物のお医者さん 10 (花とゆめコミックス) - 佐々木倫子

 当時「コワい顔」と人々をおののかせたハスキー犬(1990年代前半の日本では珍しい犬種だった)の中でもとくに強面と言われた「プチ」(魚屋さんのお嬢さん、悪魔顔)が、犬小屋に大切にしまっている鯛のお頭の骨を見せてくれる場面。

みる?(骨を見せてくれるプチ) - コピー.jpg

(めったに食べられないお肉を食べさせてあげると、お礼のつもりか手に乗せてくれる。)

 ただしあくまで見せてくれるだけなので、くれたのかと思って骨をしまおうとすると、フンッと鼻を鳴らして手を広げさせて回収する。

(そうとは知らず、ハムテルの後輩小泉が、犬嫌い克服のための肝試しで、骨を奪って走り去ってしまったためトラブルに発展する。)

あ、ひどい(骨を奪われたプチ) - コピー.jpg


 リアルかわいい絵で描かれた動物たちが活躍する『動物のお医者さん』。


 今、ネットで世界各地の動物のニュースに心癒されている人々にもおすすめだ。



動物のお医者さん 1 (花とゆめコミックス) - 佐々木倫子
動物のお医者さん 1 (花とゆめコミックス) - 佐々木倫子

動物のお医者さん 10 (花とゆめコミックス) - 佐々木倫子
動物のお医者さん 10 (花とゆめコミックス) - 佐々木倫子

動物のお医者さん 12 (花とゆめコミックス) - 佐々木倫子
動物のお医者さん 12 (花とゆめコミックス) - 佐々木倫子


動物のお医者さん全12巻 完結セット (花とゆめCOMICS) - 佐々木 倫子
動物のお医者さん全12巻 完結セット (花とゆめCOMICS) - 佐々木 倫子


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2021年05月16日

弥助と利休(漫画『へうげもの』より)(※一部ネタバレ)

(『へうげもの』の弥助と千利休)

利休と弥助の対峙 - コピー.jpg

 ハリウッドでの映画化も計画されている、織田信長に仕えたアフリカ系侍「弥助」。

 戦国時代、武と数奇(すき)の頂点を競った人々を描いた漫画『へうげもの』には、この弥助が、当時、日本最高の美意識の持ち主だった茶人、千利休と、茶室「待庵(たいあん)」で対峙する場面がある。

 この緊迫の瞬間には、弥助の孤高の存在感と、利休が追い求めた数奇の理想が凝縮されている。

へうげもの(4) (モーニングコミックス) - 山田芳裕
へうげもの(4) (モーニングコミックス) - 山田芳裕


 (当ブログ関連記事)

NHKドキュメンタリー「Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助」

漫画「へうげもの」ご紹介(展覧会「茶の湯」と「茶碗の中の宇宙」によせて)


1.『へうげもの』の利休と「黒茶碗」



 千利休(宗易)は天下人である信長や秀吉に茶をたてる立場にあり、武将たちから畏敬の念で見られていた。

 優れた茶碗は何城にも値したこの時代、武将たちは利休の生み出すものに魅了され、数寄者として自分の美意識に磨きをかけるため、利休に教えを請うた。

 (主人公の古田織部は利休の弟子のひとりで、利休の偉大さに何度も打ちのめされながらも、独自の数奇を極めようと奔走する。)

利休に圧倒される織部 - コピー.jpg


 武将たちも畏れる数奇の巨人、利休。彼が至高の美としたのが「黒」だった。

(戦国屈指の猛者、福島正則を圧倒する利休)

利休に圧倒される福島正則 - コピー.jpg

 (このコマは利休の存在感の大きさを示しているが、甲冑から推測される利休の身長は180pを越えていたらしい。弥助の身長は182pほどと伝えられていて、二人とも当時の日本人の中では際立った体格の持ち主だった。(註1、註2)


 利休が名工、長次郎とともに、黒茶碗を完成させた日。

 姿を現した黒茶碗に瞠目した利休は、窯から出たばかりの茶碗の、皮膚を焼くような熱にも気づかず、それを震える両手で掴んでつぶやく。


なんと……なんという黒

一切の無駄がなく、黒であることすら主張せず……

ただ……ただここに在る

 (1巻 第八席)

なんという黒 - コピー.jpg

ただここに在る黒茶碗 - コピー.jpg



 利休は、

 「器は今ここに極まりました」

 「この黒茶碗は世のあらゆるものに優れております」

 と、自分の理想の黒の誕生を喜ぶ。



 信長に仕え、茶の湯では利休の弟子だった秀吉は、一対一で茶を立てながら、黒にこだわる利休に理由を尋ねる。

 利休は「それが私の業にございます」と答えた。


 万事何事も続けていれば、無駄を見つけてうるさく感じるものです。

 その無駄を省いて省いて省き込みますと……最後はこの色のごときものになるのです。

 この黒こそが私の理想とする色であり、理想の生き方なのでございます。

 (1巻 第八席)

理想の黒 - コピー.jpg


 今、「名物(名品)」とされているものは全て他国から来たもの、その価値を破壊してでも、黒こそが至高だと証明したい、それがやむにやまれぬ業。

 秀吉は目を見張った。

 新しい価値観を天下に押し付けるつもりか。

 「信長様のもとではそれは叶いませぬ」

 利休にはわかっていた。

 絢爛豪華なものを愛し、自分の権力の象徴として、膨大な数の名物を所有する信長が天下人のままでは、黒の至高を世に広めることはできない。


(栄華を誇る織田信長)

信長の栄華 - コピー.jpg


 「信長以外の人間」に、天下を獲らせるしかない。



2.『へうげもの』の弥助、信長との関係


(弥助)

「へうげもの」弥助 - コピー.jpg

補足:
 『へうげもの』の弥助の容姿は、ジャズ界の帝王、マイルス・デイビスがモデルだという指摘がある。(註3)

 利休が理想の黒茶碗を生み出す重要回、第八席(1巻収録)のタイトルは「カインドオブブラック」、デイビズのアルバム「カインドオブブルー」のもじりなので、この指摘と重なっている。


 信長は天下統一の後は、外国まで支配することを目指していた。

 織田家に力を集中させ、戦で勝利しても、家臣たちに豊かな領地を褒美として与えない信長に対し、ひそかに不満が高まり始めていた。


 そんな中、公家たちとの会見のために京都へ向かう信長。

 道行く人々が、巨象に乗った信長に目を剥く。

象に乗る信長 - コピー.jpg

 弥助は、ゾウの地響きのような足音も人々の視線も意に介さず、ただ鋭いまなざしで、長髪をひるがえし、小姓の森乱らとともに、信長の側を歩いていた。


 小姓衆三十人しか護衛がいないことを案じる森乱に、信長は、武力に頼らなくとも、運んできた名物だけで公家を圧倒することができる、のう、弥助、と声をかけた。

 弥助は前を向いたまま口を開いた。


 ……昔……、カルタゴという国、象に乗った大将軍いた

 おまえ、似てる。

(2巻、第十八席)


 「ほう……その将軍はどうなった?」

 「戦に敗れ、死んだ」

 弥助は、ローマ軍と戦ったハンニバルの悲劇を淡々と告げた。

おまえ、似てる - コピー.jpg


 信長は一瞬険しい目をしたが、南蛮帽の大きなつばの陰でクックッと笑った。

 「俺はそうはならん、なぜなら俺は将軍も、王をも超える存在になるからだ」

 象にまたがり、太陽を背負って輝く信長の高笑い。

 弥助は同じまなざしのまま、何も言わなかった。




3.本能寺の変


天下の物豪 - コピー.jpg

 本能寺で公家たちに名品の数々を披露した信長。

 公家たちは「天下の物豪」信長の力に圧倒される。

 だが、これが信長最後の華だった。


 戦で疲弊した武将たちを顧みない信長に対し、重臣の明智光秀が反旗を翻し、本能寺を急襲した。

 (『へうげもの』の光秀は、風流を愛し、平和のためなら命を惜しまない人格者として描かれている。)

鬼の覚悟を決めた明智光秀 - コピー.jpg

 しかし、明智軍が信長を見つける前に、謎の大爆発が起こった。

 爆風とともに天に舞い上がる、砕け散った名物たち。

 自邸にいた利休は、家々の向こうに吹き上がった煙を、静かに見つめていた。

 「華は咲き乱れるのではなく、一輪あらばよろしいのです」

 その手にあったのは、「世のあらゆるものに優れた」、あの黒茶碗。


 明智の襲撃がはじまった直後、弥助は火をかけて逃げ去ろうとする、武士のいでたちではない男二人を見つけた。

 刀を抜こうとした一人の首を折り、その男の持っていた包みを手にする弥助。

 逃げ去ったもう一人の男は、傘をかぶっていたが、夜目でも弥助にはその顔が見えた。

 包みの中には、本能寺に集結した信長の名物がいくつか入っていた。


 翌朝、信長と名物の行方を確かめにきた古田左介(のちの古田織部)と信長の弟長益を、明智軍から救った弥助は、


この国のこと俺には係わりない

だが信(ノブ)には世話になった。

その借りを返す

(3巻23席)

ノブへの借りを返す - コピー.jpg


 そう言って、昨晩の曲者から取り戻した名物の一部を、信長の形見として二人に渡すと、残りを織田家の人間に届け、逃げた曲者を探すために本能寺を去った。




4.数奇の要塞「待庵」 わびの時代の到来



 明智の謀反は秀吉によって鎮圧された。


 利休は、信長の葬儀に尽力した左介を茶室「待庵」でもてなす。

 待庵に入った左介は、そのあまりの小ささ、簡素さ、暗さにとまどう。

 しかし、暗さは所作のみを鮮やかにみせるため、狭さは緊張感のみを増すために計算しつくされたものだと見抜いた左介は戦慄する。

 ここは、目を凝らさねばわからぬ恐るべき数奇の要塞なのだ。

 黒茶碗に入った茶は、手に取ると、驚くほど軽かった。

 まるで水だけを持っているような。


 安土の夢は、狂い咲きのように華やかだった信長の葬儀とともに終わった。

 やがて来る秀吉の時代は、利休の「侘び」の時代になるだろう。

 そう予感している左介は、「ようやく黒茶碗の魅力がわかって参りました」、と、利休に話す。

 椀の見栄を消し去り、茶のみを浮き立たせる良さが……


 利休は言った。


 私はこの国の在り方をすべて待庵に込めたのです。

 あらゆる民の指標となるようにと。

待庵 - コピー.jpg

(4巻 三十四席)

 左介は、利休の美意識が新しい時代の頂点を極めるだろうと思いつつ、それが「あらゆる民」まで行きわたるかどうかは疑問に思う。

 しかし、利休は、しがない魚問屋だった自分ですらわかるのだから、いずれ誰にも伝わるでしょう、と、答える。


 左介へのもてなしの終わりに、利休は両手をついて礼を言った。

 「今日は私のわがままで弥助様をお連れ頂きありがとうございました」


 本能寺の変が治まったのち、弥助は南蛮寺(教会堂)に預けられていた。

 命の恩人を案内するのは何でもないことだが、なぜ弥助殿を客に?

 「あの方をもてなすことで、亡き信長様を偲びとう存じまする」



5.利休と弥助 眼光と恍惚


待庵の弥助と利休 - コピー.jpg

 左介が去った後に入ってきた弥助。

 待庵の茶室はわずか二畳余り。

 共に大男の利休と弥助の距離は、畳の縁を隔ててわずか。

 粗末な土壁に小さな窓、薄暗がりだった待庵から、無駄なものが全てそぎ落とされて消えていく。

 漆黒の中、見えるのは、茶釜からかすかに立ち上る湯気、その先に鋭く光る二つの大きな眼、茶を立てる自分の手。

待庵の弥助と利休2 - コピー.jpg

 利休は悦びにうち震えた。

 待庵の漆黒に溶け込んだ弥助が、利休に言った。

 ノブを殺した男の正体。

 そして

 「おまえも……手を貸したのか?」

 命も、国も揺るがすような問い。

 だが、うつむいた利休は、ただ内側から湧き上がる幸福を噛みしめるように微笑んでいた。

 闇に大きく開いた眼は、その微笑みの意味を見届けた。

 「いずれにしろ……俺はノブへの義は果たした。もはやこの国に係わりはない」

 柄杓が茶釜に当たって小さな音を立てた。

 「失礼……あまりの嬉しさに手元がぶれてしまいました。」

 もしも、異国へお戻りになることがあらば、今日のことをお伝えください。

 利休は弥助に黒茶碗を差し出した。

なんの野心も……

なんの衒いもなく……

ただ在られるあなた様を待庵に招き……

私の生涯を賭した美が完成したということを

美の完成 - コピー.jpg

(『へうげもの』4 第三十四席)

 射貫くような眼光を、利休は陶然と浴びた。

 「黒く侘びた世が今ここから誕生するということを。」

 黒茶碗の波紋の中心に、利休の至高の黒に染めあげられたこの星が宿っていた。

 


6.孤高の弥助 利休の理想



 弥助は信長に対し「世話になった借りを返す」と言って、本能寺でも謀反鎮圧の動乱でも、命を賭けている。

 だが、一方で信長を「ノブ」と呼び、権力をほしいままにする信長にハンニバルの話をして「おまえ、似てる」と言い、問われるままにハンニバルの敗北と死まで語っている。

 弥助は自分を取り立てた信長に「借り」を感じているが、他の人間たちのように信長をあがめても恐れてもいない。

 信長個人への借りは命がけで返し、犯人を見届けても、「もはやこの国に係わりはない」と言い、本能寺で手にした名物の数々を、左介や織田家の人間に託し、その後の権力争いにも関わらずに去っていく。

 「なんの野心も、なんの衒いもなく、ただ在られるあなた」

  利休が弥助を言い表した言葉は、

 「なんと……なんという黒、一切の無駄がなく、黒であることすら主張せず……ただ……ただここに在る」

 という、利休が長次郎の黒茶碗を手にした時の言葉に重なる。


 無駄を省いて省いて省き込んだ果てに、ただ在る至高の黒。

 利休にとって弥助は、黒茶碗の、自分の理想の化身だった。

 日が落ちて薄暗がりから完全な黒に包まれた待庵に溶け込む弥助。

 際立つ弥助の鋭く大きな眼、淡々とした声は、まるで至高の世界そのものからの問いかけのようだった。

 それが自分の罪を問うものだということは、利休にはどうでもよかった。

 理想の化身である弥助が、待庵にただ在る。

 その弥助に、黒茶碗で茶を差し出す。

 それが利休の美の完成だった。


 だが、弥助の存在に震えるほどの悦びを感じながら、弥助の問いを思考の外に置く利休の矛盾が、この後、彼自身と周囲の人間を翻弄していく。

 そして、暗闇に開いた弥助の眼は、利休自身ですら気づかなかった、やがて思い知らされることになる罪を見抜いて映し出す鏡のように、透徹して光っていた。

弥助のまなざし - コピー.jpg


 天下人の信長にも、数奇の巨人である利休にもひるまず、巨万の富である名物も、日本の権力闘争も自分には関わりないものとして切り捨て、「ただ在る」ことを貫いた弥助。

 そういう新たな弥助像を生み出し、彼の存在感と、極限まで無駄をそぎ落とした黒茶碗の「わびの美」を重ね合わせた、作者、山田芳裕さんの洞察と発想は本当に見事だ。

 (個人的には、今後どのような「弥助」が描かれたとしても、この黒茶碗の化身のような弥助像が究極だと感じている。)

 「弥助」に惹かれるすべての方に読んでいただきたい、圧巻の名作だ。


(『へうげもの』の弥助と利休の対峙までのいきさつは、1〜4巻に収録されている。)









(註1)千利休 - Wikipedia

(註2)弥助 - Wikipedia

(註3)クラブシーンの「へうげもの」小林径インタビュー


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2021年05月12日

NHKドキュメンタリー「Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助」

漫画『へうげもの』に描かれた弥助
「へうげもの」弥助 - コピー.jpg

NETFLIXアニメ「YASUKE」に登場する弥助
NETFLIXアニメの弥助 - コピー.jpg


 NHKBSプレミアムとBS4Kで、織田信長に仕えたアフリカ系侍「弥助」についての番組が放送される。


 [BSプレミアム] [BS]4K2021年05月15日 午後9:00 ~ 午後10:30 (90分)

 織田信長に仕えたなぞの黒人侍、弥助(やすけ)。その人となりが近年の研究で明らかに。ハリウッドで映画化も進むなど、今世界中から注目を集める、弥助の生きざまに迫る。

 織田信長に仕えた黒人侍、弥助(やすけ)。イエズス会の宣教師に同行していた弥助を信長が気に入り、家臣に取り立てたのだという。2人の主従関係は「本能寺の変」によりわずか1年3か月で終わったが、その前後の弥助の足取りはこれまでなぞに包まれてきた。しかし近年の研究により、アフリカからアジア、日本へ到る弥助の人生が次第に明らかに。ハリウッドで映画化も進むなど、今世界中から注目を集める、弥助の生きざまに迫る。(番組HPより)


 弥助は「信長公記」にも登場した実在の人物だ。

 現代語訳 信長公記 (新人物文庫) - 太田 牛一, 中川 太古
現代語訳 信長公記 (新人物文庫) - 太田 牛一, 中川 太古


 信長に対面したときの弥助は、26、7才に見え、長身で頑健そうな体格、十人力の持ち主だったという。(註1)


 歴史学者のローレンス・ウィンクラー氏によると、弥助は1579年に当時の首都だった京都に到着。彼を一目見ようと大勢が互いの上によじのぼる騒ぎで、中には押しつぶされて死ぬ人もいたという。

 来日から1年もしない内に、弥助は侍としての身分を手に入れた。間もなく弥助は日本語を自在に操り、信長のお供として戦場に出るようになった。

 (略)

 ウェブ氏とディスノー氏(ブログ筆者補:フロイド・ウェブ、デボラ・ディズノー両氏、弥助のドキュメンタリー映画を製作した)によると、弥助は日本に到着した直後に織田信長と出会った。信長は、弥助の巧みな話術に興味を引かれたのだろうという。

 弥助についての著書がある研究者のトマス・ロックリー氏は、弥助は当時すでに日本語を少し喋れるようになっており、信長とは馬が合ったようだと説明する。

 ロックリー氏によると、弥助は訪日前にアフリカやインドで生活した経験があり、こうした地域の話を信長に聞かせて楽しませたのだという。

(出典:BBC NEWS JAPAN記事「アフリカ出身の侍がいた 戦国時代の数奇な人生、ハリウッド映画へ - BBCニュース」

トマス・ロックリー氏の著書

信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍 - ロックリー トーマス, 不二 淑子
信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍 - ロックリー トーマス, 不二 淑子


 弥助を気に入った信長は彼を召し抱え、ゆくゆくは城主にしようと考えていたという。

 本能寺の変で、信長が襲撃された際、弥助は二条御所に行って異変を知らせたのち、信長の後継者信忠を守って戦い、最後には投降した。
 明智光秀は彼を処刑せず、キリスト教の宣教師たちのもとに送ったと考えられている。(註2)

 この、信長との出会いから本能寺の変までの出来事以外、彼の生涯は長年謎とされていたが、番組では、近年明らかになりつつある空白の期間の謎を紐解いていくようだ。

 NETFLIXでも、彼をモデルにした、アニメ「YASUKE」が2021年4月から配信されている。




 弥助についてもっと知りたいという方には、こちらの記事がおすすめだ。
 (弥助の生涯、信長との関係、弥助の登場する作品、出版されている資料などが紹介されている記事)
 (史実のほか、海外の研究者やドキュメンタリー制作者の意見が紹介されている記事)
 
 (弥助のハリウッド映画化計画についての記事【英語版】)


【弥助を紹介した動画(英語版・字幕付き)】



 また、数奇(すき)の世界に魅せられ、武力と風流を競う戦国武将たちの世界を描いた漫画『へうげもの』に登場する弥助は、信長にもおもねらず、千利休にもひるまない孤高の人物として、重厚な存在感を放っている。(2〜4巻に登場)

「へうげもの」弥助2コピー.jpg

 独自の弥助像を堪能できる名作だ。






(註2)弥助 - Wikipedia

(当ブログ弥助関連記事)



【参照URL】


posted by pawlu at 19:57| おすすめ漫画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月30日

『灼熱カバディ』漫画紹介、アニメ放送情報

燃える世界 - コピー.jpg



(「灼熱カバディ」アニメ本PV〈プロモーションビデオ〉)


 テレビ東京ほかで2021年4月2日(金) よりアニメ「灼熱カバディ」が放送される。

   (原作漫画『灼熱カバディ』武蔵野 創(はじめ)作。アプリ「マンガワン」、ウェブコミック配信サイト「裏サンデー」で連載中)

 ・「裏サンデー」試し読みページ

 ・「灼熱カバディ」テレビ東京公式情報


<放送情報>

・テレビ東京:4月2日(金)スタート 毎週金曜深夜1時23分〜

・テレビ大阪:4月2日(金)スタート 毎週金曜深夜2時10分〜

・テレビ愛知:4月2日(金)スタート 毎週金曜深夜2時05分〜

・AT-X :4月4日(日)スタート 毎週日曜夜10時30分〜


<イントロダクション>

宵越竜哉は『不倒の宵越』と呼ばれるサッカーの名選手だったが、 高校入学を機にスポーツと縁を切ってしまう。 そんな彼のもとへ、とある運動部が勧誘にやってくる。 その競技は、 仲間と協力し縄張りに侵入する敵を捕らえ 、引きずり倒す事で勝利へと繋げる… 言うなれば『走る格闘技』。 競技の名は……カバディ!!

 (Youtube解説部より


【期間限定情報】

※2021年4月7日まで、Kindleで1~3巻の期間限定無料お試し版が読める。

 2巻から登場の天才攻撃手(レイダー)王城(2巻表紙右)と宵越の対決シーンは必見。

灼熱カバディ(1)【期間限定 無料お試し版】 (裏少年サンデーコミックス) - 武蔵野創
灼熱カバディ(1)【期間限定 無料お試し版】 (裏少年サンデーコミックス) - 武蔵野創

灼熱カバディ(2)【期間限定 無料お試し版】 (裏少年サンデーコミックス) - 武蔵野創
灼熱カバディ(2)【期間限定 無料お試し版】 (裏少年サンデーコミックス) - 武蔵野創



 日本ではまだマイナーなスポーツ「カバディ」の魅力と、それに挑む「不倒の宵越」ら、個性豊かなキャラクターたち。

 カバディのエネルギーを伝える画力と、深い心理描写、そして思い切りのいいギャグが混然一体となった作品だ。

 普段あまりスポーツ漫画を読まない人、世代や境遇が違うから10代のスポーツ選手には感情移入しないだろうと思っている人にこそおすすめしたい。



作品の見どころ@ 絵の力

 1,構図

不倒宵越 - コピー.jpg

 カバディは、敵味方に分かれたコートの中で行う「ドッジボール」と「鬼ごっこ」を合わせたような競技だ。

 狭い空間の中でスピードとパワーを駆使して戦い、指先一つ、つま先一つのタッチが得点や自陣への生還につながる。

 「灼熱カバディ」は、そうした緊迫感を、独特の奥行きや高低のある構図で表現している。

 それは、どんな激戦も一ミリの狂いもなく見極める、極限まで集中した「審判の目」のようだ。

畦道の生還 - コピー.jpg

 これが、観客がその場にいたとしても観ることのできない、現時点ではどんなカメラも追いきれない、「カバディ」独自のエネルギーを表現している。


 2,心理描写

 武蔵野先生は、作画にデジタルを取り入れていらっしゃるようだが、このデジタルならではの、層を重ねて作られた奥行きや陰影のある画面が、プレイヤーの心理や視界を巧みに再現している。

 (例)宵越が数々のプレッシャーの中、敵陣に向かうシーン。

宵越の視界 - コピー.jpg

 彼の目に見えている現実の光景と、頭を占める情報が、透けたりぼやけたりしながら、交錯している。

 視力とは別に、人間の脳が映像としてとらえるものは、精神状態で大きく変わる。

 そうした意識を反映した視界が、読者が追体験できるほどに克明に描かれている。

 字が視界に浮かぶ表現は、漫画ならではだと思うが、こういう重要な場面はどうアニメで表現されるのか、注目したい。

(この「大山律心戦」は本当に名作なので、是非ここまでアニメ化してほしい。)



作品のみどころA キャラクターたちの背景

 なぜ彼らはカバディを選んだのか。

 作品の中でも、日本国内でのカバディはマイナースポーツとされている。

 野球やサッカーのように、トッププレイヤーになれば、社会的地位や高収入が得られるようなシステムは、まだ存在していないのだ。

 それでもカバディを選んだ。そこには、選手たちそれぞれの人生がある。


 幼いころからカバディと共に生きてきた者。

どうしてカバディをやっている - コピー.jpg


 カバディと将来収入を得る仕事は別だとはじめから割り切っている者。

神畑の言葉 - コピー.jpg


 そして、なんらかの事情で、メジャースポーツから離れ、カバディに足を踏み入れた者。

大和の切換 - コピー.jpg


 宵越は将来を嘱望されながら、周囲の嫉妬や指導方針に馴染めずにサッカーから離れたし、そのほかにも故障や、才能の壁を実感して、最初に抱いていた夢をあきらめた選手たちがいる。

スポーツ嫌い - コピー.jpg


 幼いころから夢に向かって努力していても、10代後半には、その夢に見切りをつける決断を迫られる。

 そして、それは多くの場合、持って生まれた肉体の限界や、環境など、個人の情熱だけではどうにもできない要素で決められる。

 スポーツの世界には、そういう独特の残酷さがある。

 作品の登場人物たちは、そういう経験に対し、自分たちで折り合いをつけてカバディに臨んでいるし、ときに、(実体験に基づいて)非常に冷静な目でスポーツ界の事情を見据えている。

 それでもカバディは彼らの心をとらえ、彼らは渾身の力を込めて試合に臨む。

 最初はカバディ部の勧誘を迷惑がっていた宵越は、カバディの魅力に気づいたとき、「この燃える世界は、気持ちがいいんだ」とつぶやく。

 自分の持てる力のすべてを尽くす者同士がぶつかり合い、火花を散らす。

 彼らはその「燃える世界」に立つために、競技の有名無名を超えて、カバディに没頭する。

 天才プレイヤーで普段はチャラ男な高谷煉は、好敵手佐倉学との激突で、自分の才能を全力で発揮できた時、「…超ォ〜…………生きてる……!!」と言った。

高谷煉 - コピー.jpg

 彼らにとって「生きてる」ということは、外からどれだけ利益を得るかではなく、自分の内側にある、エネルギーを燃やし尽くすこと。

 おそらく人生をカバディに捧げる者も、途中で違う道を進むことを覚悟している者も、「燃える世界」で「生きてる」実感を求めている。

 そして、そうした彼らの群像劇が、スポーツに限らず、「燃える世界」で「生きてる」人間や、その生きざまに憧れる読者の心も、熱くするのだ。




作品のみどころB ギャグ

 手に汗握る戦いの合間に、ギャグシーンがふんだんに盛り込まれている。

 (特に作品途中から登場する、最強の防御手(アンティ)にして情報が多すぎる人、久納監督がいい味出している。)

 (久納監督(かっこいい←しかしそれだけでは全く語りつくせない人物))

久能監督 - コピー.jpg

 また、自他ともに認める長身イケメンの宵越は、「スポーツ以外は残念な人」のため、なぜか女性ファンがつかない。

 代わりに彼の才能にほれ込んでいるサッカー部の監督と選手たちが、勧誘兼見学と称してしょっちゅう試合を観に来ていたが、途中から「不倒の男 宵越」という応援旗まで振り回すようになり、もはや普通に大ファンだ。

不倒の男の旗 - コピー.jpg


(『スラムダンク』の名シューター、三井寿の友人たちが結成した応援団の旗「炎の男 三っちゃん」へのオマージュと思われる)

炎の男 三っちゃん - コピー.jpg


 作者の武蔵野先生はスラムダンクの大ファンとのことで、単行本を読むと各話の後ろに一コマギャグが入っている(そして本筋ではかっこよかったシーンを平気でぶち壊す)スタイルも、スラムダンクを思い出させる。

単行本おまけ一コマ - コピー.jpg

スラムダンク おまけ一コマ - コピー - コピー.jpg

 (武蔵野先生がカバディのことを知らず、連載を躊躇していたときも、「スラムダンクも当時メジャーでもないバスケを扱った」と担当さんに説得されて、挑戦を決意されたそうだ。〈単行本一巻あとがきより〉)

 この惜しげもない緩急が、「感動」と「笑い」を互いに引き立てあっているところも、作品の魅力になっている。



 アニメ放映に先立ち、Youtube予告動画のコメント欄には、カバディが国技のインドからも、「いちインド人として、カバディのアニメ化にとても興奮しています!」「インドのアニメファン達へのギフト!」「待ちきれない!インドのスポーツだ!インドからみなさんにたくさんの愛とパワーを込めて」など、たくさんの応援コメントが届いている。

 アニメがどこまでこの漫画のたくさんの魅力を活かしてくれるか、アニメならではの魅力をみせてくれるか、楽しみだ。


【補足】
(インドのプロプレイヤーたちの試合動画。現地の熱狂と1:10頃の大技に注目)
(大技を披露したパワン・クマール・セラワット選手は、プロ最強の攻撃手の一人)





posted by pawlu at 19:27| おすすめ漫画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月20日

おすすめ本『まんがでわかる自律神経の整え方』(身近なところからはじめられる心と体の健康漫画)


ゆっくり動く - コピー.png


まんがでわかる自律神経の整え方 - 小林弘幸, 一色美穂
まんがでわかる自律神経の整え方 - 小林弘幸, 一色美穂


 コロナ問題に揺れる今、多くの人が健康について考えている。


 ウィルスから自分を守る「免疫力」はどうしたらつけられるのか。


 そして、この複雑で先の見えない時代に、ストレスとどう向き合えばいいのか。


 『まんがでわかる自律神経の整え方』は、順天堂大学教授小林弘幸先生監修のもと、心と体の健康のカギを握る自律神経について、わかりやすく解説してくれている。


 「自律神経って?」「自分は病院で自律神経が悪いと言われたことはない」という人にも役に立つ情報が多く、とくに今この時期、読む価値がある一冊だ。





1、自律神経とは


 自律神経には次のような特徴とはたらきがある。

 ・自律神経はすべての内臓や血管をコントロールしていて、この働きが安定していれば質の良い血液が全身に行きわたり、心と体の状態が安定していく


 ・自律神経には人の心や体を活動的にする「交感神経」と休ませる「副交感神経」の二種類があり、一日のうちで優位になる時間帯が異なる。


 ・交感神経と副交感神経の働きのバランスが崩れると、心や体が不健康になる

交感神経と副交感神経 - コピー.png

 漫画の中では、作者の一色美穂さんが次のような不調を抱えている。


・疲れやすい
・朝起きられない
・焦る、イライラする
・忘れ物など失敗が多い



 こうした、心と体両方の不調も、実は自律神経の乱れから来ていて、生活習慣を変えることで、改善していくことができる。



【ブログ筆者個人の体験】

 数年前、心身疲れていた頃、夜寝ようとして蒲団に入った途端、足にじんましんが一気に浮かびあがるという症状に悩まされたことがある。

 それが毎晩必ず「蒲団に入った瞬間」だったのが不気味で、病院に駆け込んだところ、お医者様に「多分、虫刺されが軽いアレルギーを起こしている」と言われた。


 その病院の先生は、じんましんの発生時間と状況が決まっていることについて

「他の時間は緊張して交感神経がアレルギー症状を抑え込んでいるが、(布団に入り)気持ちが安心して、副交感神経が優位になると出てくるのだろう」

 と、自律神経の仕組みを教えてくださった。


 先生の、真顔だが丁寧で理路整然とした説明が、自律神経を落ち着かせてくれたのか、じんましんはその日のうちにみるみる改善。

 それと同時に、自分の意志とは無関係に働く「交感神経」「副交感神経」の存在をはじめて意識した。

 (人の体が、ある瞬間を境に、こんなにブレーカーが落ちたみたいに、はっきり切り替わるものかと、本当に驚いた)



2、自律神経と腸

 自律神経は、腸の状態と深く結びついており、腸が元気なら、自律神経も一緒にうまく働けるようになる。

 腸を良くする食材を取るなどして腸内環境を良くすることで、心も前向きになり、エネルギーが回復する。

 さらに、腸は体の免疫機能の70%を担当していて、感染症やがんなどを遠ざけてくれる働きもある。


腸と免疫力 - コピー.png


 実は脳に負けず劣らず複雑で知的で、大切な仕事をしてくれている腸。


 そんな腸に良い食材として、小林先生がおすすめするのは、ヨーグルト。乳酸菌が腸の状態を整えてくれる。(一日200g(カップのヨーグルト2個分目安)を、朝晩に分けてとると、より効果的。)


 本の中では、その他の腸に良い食材、食事のとりかたについても詳しい解説がある。





3、笑顔

 落ち込みそうになったときでも、意識的に笑顔を作るといい。

 作り笑いでも顔の筋肉がほぐれ、リラックスできるので、副交感神経が活発になってくれる。

(背筋を伸ばし顔を上向きにするとさらに効果的。)


 笑顔になれば、免疫力を高める「ナチュラルキラー(NK)細胞」の数も増えてくれる。


笑顔の効用 - コピー.png




4、深呼吸

 落ち着こうとして深呼吸をするのは、誰でも無意識にやることだが、これにも、自律神経の働きを整える働きがある。


 「4秒かけて息を吸い、8秒かけて息を吐く」と、より効果的に自律神経を安定させることができる。

呼吸法 - コピー.png



5、ゆっくり動く

 日常の動作のスピードを普段の6割くらいの速さに落としてみる。

 このくらいのスピードの、流れに身を任せるような自然なゆっくりとした動きは、不必要な緊張をとり、自律神経を安定させてくれる。


 こうした自律神経が整った状態のゆっくりとした動きは、動きに一切の無駄がない分、実は焦っている人の動作よりも早いし、ミスも減って、落ち着いた対応ができるようになる。

ゆっくり動いたほうが早い - コピー.png

【個人的補足】

 この本の中で自分が一番即効性を感じられたのは、この「ゆっくり動く」と、「深呼吸」の組み合わせだった。

 焦ってバタバタしている時は、心と体がばらばらに動き、それを力づくで制御するので、どうにか状況を乗り切れても、後でどっと疲れて動けなることがある。

 また、失敗が多いと、動く前から見通しが暗くなり、だるさや、先延ばししたい気持ちが、はじめの一歩をさまたげてしまう。

 「ゆっくり動く」と、一挙一動に気持ちが向き、その動きに必要がない思考のもつれが薄まってくれる。


 私は寝ながらでも焦ってしまい「翌日の予定」「過去の後悔」と「将来の不安」などを一挙に考える非常に悪い癖に悩まされている。

 一度この暴走が発生すると、思考がすさまじい勢いで右往左往し、何から手をつければいけないのかわからなくなってしまうし、何もないうちからとても疲れる(そして夜は眠れず、朝は起きたくなくなる)のだが、ゆっくり動くと「蒲団をはがす」「体を起こす」「目覚ましを止める」と、動作を順序立てて考えられ、動くのがそこまでおっくうでなくなる。

 大問題だった「先延ばし」も減りつつある。

 「今ここ」に意識を集中して脳疲労を癒す瞑想法として注目される「マインドフルネス」や、先延ばし防止策の「課題の細分化(大きな作業を細かい動作に分けて少しずつこなす)」にも「ゆっくり動く」ことはつながっていると思う。


(瞑想に関する脳科学の研究でも、「ゆっくり動くこと」が瞑想に代わる行動として勧められている。

「スローモーションで動くことによって、「今この瞬間の体験に注意を向ける」こと、そして「思考や感情から自分を解き放つために必要なこと」を学べる」そうだ。




6、怒りや愚痴と自律神経

 人が怒りを感じた時、自律神経が乱れ、血管が損傷して、老化が加速する。


怒りの悪影響 - コピー.png

 そして、自律神経の乱れは、攻撃的で余裕の無い態度を通じて、周囲に伝染するから、自分の身近な人の健康までむしばまれてしまう。

自律神経は伝染する - コピー.png

 自分の苦しみを「誰かのせい」だと考えてしまうと、自分ではどうしようもないと感じ、自律神経は乱れたままになってしまうが、自分でなんとかするしかないとあきらめたら、逆に自律神経が安定し、ストレスが消えていく。


あきらめると自律神経は安定する - コピー.png

 愚痴や弱音などマイナスな言葉を口にせず、周囲に対して感謝の気持ちを持つと、自律神経はさらに安定していく。


感謝で自律神経は安定する - コピー.png


 小林先生のこうした言葉は、今、自律神経の不調に悩んでいなかったとしても、全ての人がより良い人生を送るため知っておくべき、大切なことを教えてくれている。


 人が完全に怒らないことは難しい(特に今、世界中が余裕をなくし、暗いニュースばかりだから、誰だって怒りを爆発させたくなる)が、怒りや愚痴が自律神経、ひいては免疫力に悪影響を及ぼすということを知っていれば、怒る前に踏みとどまれるかもしれない。

 そして、それが自分自身と大切な人の健康を守ることにつながるのだ。





7、感想(何度も読み返したい「永久保存版」の本)

 このほかにも、本の中では、自律神経を整えてくれる習慣として、「早起き」「湯船につかること」「適度な運動」などが紹介されている。


 実は、この本の中に書かれている「自律神経を整えるコツ」は、生活習慣から対人関係の心掛けまで、昔、聡明で健康的なお年寄りが言っていたようなことが多く、多くの人が「知識」としては既に知っていることだ。


 だが、その理由が、そうしたほうが「いい人になれる」とか、「出世できる」とか、「ほめられる」などといった外からの評価ではなく(それは必ずしも期待通りに評価してもらえるとは限らないし、いかなかったとき落ち込む)「そういう行動を選ぶと自律神経が整い、心と体が健康になるから」と、自分自身の利点につなげて解説されているところが、この本の大きな魅力だと思う。

 実際には、「落ち込み」「疲れやすさ」「やる気の低下」といった問題は、自律神経の乱れであると同時に、その人の過去の心の傷や、周囲の環境が影響していることが多い。


 こうした問題を「心を癒す」という方向からケアすることももちろん非常に大切だが、「心」というつかみどころのない存在の、「過去」「環境」など簡単には動かせないものに根差した不具合を修復するには、長く複雑な道を歩まなければならない人もいるだろう。


 一方、「動作」「呼吸」「食事」「生活習慣」などから、肉体を整えていくことは、とてもシンプルで、はじめやすい。


 ポジティブに活動的に暮らす自分になっている未来をすぐには想像できなくても、ヨーグルトを食べ、ゆっくり動いている自分になら今、この瞬間からなれる。


 まずここから、自分を大切にしてみる、そういう気持ちにさせてくれる本なのだ。


 そして、この本が、漫画であることの意味もとても大きい。

 正直に言うと、私自身、この本を読んですぐ、すべての習慣を変えられたわけではない。今も(だいぶ改善されたものの)やる気のなさや、睡眠の質の悪さ、良い睡眠の敵であるブルーライトを発する電子機器への依存などと戦っている。

 いわゆる「病気」ではないこうした問題は、目立った症状が無い分、つい後回しにしてしまうし、どんなにやりたい(あるいはやめたい)と思っていても、まさに自律神経が乱れているときは、なおさらぼんやりとして、自分を大切にできず、元の不健康な習慣に流されてしまう。

 結局、健康になるための生活習慣も心がまえも、子供のころの勉強と同じで、身につくまでは、何度も学習しなければいけないものなのだ。

 漫画の作者であり、小林先生から自律神経について学ぶ生徒でもある一色美穂さんは、

 「どこか体調が悪かったり、生活リズムが乱れていたり……そんな時は何かを忘れていたり、さぼっていたりしてますので、この本を読み返して思い出そうと思います」

読み返して思い出す - コピー.png


 と、あとがきで書いていらっしゃるが、この「何度も読み返して思い出す」ことが、自律神経を整える生活習慣を定着させるための、もう一つのとても大切なポイントだと思う。

 疲れていても手に取りやすく、頭に入ってきやすい漫画であること、そして、先生の解説にすっきりとしたかわいい絵がついていて、読んだ内容をイメージとして思い出しやすいこと、それが、自律神経が乱れてぼんやりしているときに、健康的な習慣に立ち返るための手助けをしてくれる。

 (怒りで血管がどんどん損傷して老化が進んでいる怖い絵と、ゆっくり動いたほうがむしろ早く行動できるという解説のコマは心に刻み付けたし、だいぶ脳内に定着して、「あ、そうだった」と思い出して行動を修正できるようになってきた。)


怒りの悪影響 - コピー.png

ゆっくり動いたほうが早い - コピー.png


 「一応知ってる」健康になるための知識を「そうだと思える」「やってみたい」に変えてくれる解説と、「思い出す」「読み返す」を助けてくれる漫画が心と体のセルフケアをサポートしてくれる優しい構成。

 ずいぶんお世話になったし、これからも、何度も読み返したい健康漫画の名作だ。



posted by pawlu at 20:05| おすすめ漫画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月20日

木炭パーマと口紅(「あちこちのすずさん」と漫画『この世界の片隅に』)

 NHKが、戦時中の人々の暮らしを、視聴者の方々から募集し、番組やHPで紹介する「あちこちのすずさん」というキャンペーンを実施している。


 「すずさん」は、こうの史代さんの漫画『この世界の片隅に』の主人公の名前だ。

この世界の片隅に : 上 (アクションコミックス) - こうの史代
この世界の片隅に : 上 (アクションコミックス) - こうの史代


 漫画の中のすずさんのように、戦争中も、人々は働き、食事をし、縫物をし、日々の暮らしを紡いでいた。

 そうした人々の体験談の中に「木炭パーマ」の話があった。

(「あちこちのすずさん」のアニメは、映画版「この世界の片隅に」の片淵須直監督が手掛けている)





 戦時中、パーマは「贅沢」「電力の無駄遣い」と言われ、厳しい目で見られていた。

 しかし、それでも、女性たちはパーマをあきらめなかった。


 埼玉県の美容師、大塚良江さんは、少女のころ、母親の美容院に集まるお客さんたちを見たことがきっかけで、自分も美容師になった。

 そして84歳(2019年8月当時)になっても現役で、女性が美しく、元気になれるこの仕事に誇りを持っている。


 戦時中、空襲警報がやむと、山の中に避難していた女性たちは、町に戻ってきてすぐに、吉江さんの母親の美容院に列を作っていた。

美容院に並ぶお客さんたち - コピー.png


 パーマといっても、電気を使う機械は使えないので、当時できたのは「木炭パーマ」。


 炭火にトタン板を乗せ、その上に金属のクリップを置いて温めたものを巻いて、パーマをかけるというもので、木炭は、お客さんが自分の家から持ってくるきまりになっていた。

木炭で温められたクリップ - コピー.png

木炭とパーマの道具 - コピー.png


(ちなみに、当時、前髪を長く伸ばしてカーラーを縦に巻くスタイルが流行り、女性たちはこの髪型のことを「土管」と呼んでいた。サザエさんはこのヘアスタイルをしていたようだ。)

「土管」ヘアスタイル - コピー.png


 木炭も自由に買うことはできず、配給されたものを家事に使うことになっていたが、女性たちは、家事にはススキなどを代用してでも、木炭でパーマをあてていた。


すすきで煮炊きをする女性 - コピー.png




 パーマをかける1時間半の間、お客さんは 色々な話をしていた。

 「空襲で明日死んでもいいように、きれいな髪形でいたい。」

 「息子が戦死して、気持ちを張らなければ、家事もできないわ。」

 お客さんたちの髪を整えながら話を聞く良江さんのお母さんは、ときに涙を浮かべながら、うなずいていた。


パーマをあてるお客さんと話を聞くお母さん - コピー.png


 女性たちの中には、ほほを白く塗っている人もいた。

小麦粉のおしろい - コピー.png

 水で溶いた小麦粉を、おしろい代わりにしていたのだ。

 もちろんおしろいのようにきれいには塗れず、むらができてしまうが、それでも、お化粧をしたいと思う女性たちの、おしゃれへの執念が、少女だった良江さんの心にも強く残った。


 「女性は、美しくなると本当に喜びを満面にする。私もそれを見たときに、『絶対に学校を卒業したら美容師になろう』と思った」

 良江さんはこの話を家族に大切に語りつぎ、今では良江さんの妹、子供、甥の六人が、美容の仕事をしている。

 「美しさを求める心は、生きる力を生む」

 この信念は、ご家族にも、受け継がれている。




 この「木炭パーマ」のエピソードを番組で観たとき、漫画版『この世界の片隅に』のある場面が思い出された。

 (※2016年の映画版では省略されているが、2019年の映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』では追加されている)



 主人公のすずさんは、お花見に出かけたとき、娼館で働く友達のリンさんに出会い、桜の木の上で、語り合う。


桜の木の上のすずさんとリンさん -.png

 すずさんは、以前、リンさんに会うために娼館を訪ねたときに言葉を交わした「赤毛のねえさん」の風邪は治ったか、と、尋ねる。


 「ああ、テルちゃんね」

 桜の枝に腰かけたリンさんは、うつむいた。

 「テルちゃんは死んだよ、あの後肺炎を起こしてね。」



 すずさんとテルさんが窓の柵越しに言葉を交わしたのは、雪の積もった日。

 その雪もとけないうちのことだった。

 お客だった水兵さんを気の毒に思って、一緒に川に身を投げ、二人とも死に損なって、自分は風邪をひいてしまった。

 そう、笑って話していた人だった。

 南のお国ことばで話し、すずさんが雪に描いた南国の絵を見て、「よかねー」と、熱に赤いほほで、にこにこあどけなく笑っていた人だった。

すずさんとテルさん - コピー.png




 言葉もないすずさんに、リンさんはふところから口紅が入った蓋つきの器を取り出した。

 「会えて良かった。すずさんこれ使うたって。」

 そう言いながら、紅器の蓋を開き、指先を染め。

 「テルちゃんの口紅。ほいできれいにし。」

 紅をのせた細い薬指が、すずさんの唇を優しくなぞった。

 「みな言うとる、空襲に遭うたら、キレイな死体から早う片付けて貰えるそうな」

すずさんに口紅を塗ってあげるリンさん - コピー.png


 すずさんの脳裏に、ついこの間見かけた、がれきの下じきになったままの誰かの死体がよぎった。

空襲後の遺体 - コピー.png


 「ありがとう」

 すずさんは、小さくつぶやいた。





 らんまんの桜の中で、美しい人が友達に紅を塗ってあげる姿と、空襲に遭った死体の記憶が重なり合う場面。


 遠からず死体になっても早く片付けてもらえるように、今は死者となった人の紅を塗って、きれいにすることを勧める。


 平和なら友達には言わない不吉な言葉だが、リンさんのすずさんへの気持ちは、絵が物語っている。

 長いまつげのやわらかい目の運びと、手と指先のこまやかな動きが、「空襲による死の話」の本来持っているはずの重苦しさをぬぐいさり。

 リンさんは、ただ、自分にも、すずさんにも、現実に起こりうることを話している。


 客に同情して起こした心中未遂で、命を落としてしまったテルさんのように、戦争による死は、空からでも、他人の絶望からでも、どこからでも、人々に降りかかってくる。


 精一杯明るく日常を紡いでも、無事に今日を終わらせ、明日を迎えられるかはわからない。

 大切な家族が、自分にはどうにもできないはるか遠くで死んでいく人もいる。


 自分と大切な人が、寿命の尽きるまで安全に生きられるという、平和な時代なら、たぶん叶った願いが、もう、誰にも約束されていない。


 そんな時代、女性たちは、他人に褒められるためよりも、自分が生きる力を得るために、美を求めた。

 そして、自分の死のためにも、美しくあろうとした。

 美しい自分として死に、まだその亡骸が美しいうちに埋葬されたいという願いも、戦時下では「生きる力」の一部だった。


 美を求める心が、「今日も明日も生きられると信じる心」に代わって、彼女たちの生きていくための芯となり、うなだれかけた顔を上げさせた。

 女性たちは、そうやって、せめて、命以外の「自分」は、大切にし、守りぬこうとした。


 戦争に命を奪われたとしても、美しさと、それを求める気持ちは、奪わせない。

 だから、パーマや、化粧は、誰かに非難されても、やめない。

 紅や小麦粉の汁を塗り、家事のために配られた木炭を、そっと脇にとっておき。

 そうやって、彼女たちは、日々、「戦争」と戦っていたのだ。



 女性たちのまるく巻かれた髪、地肌を透かす小麦粉の白、紅を塗る指先に宿る、決して折れまいとする、心の芯。


 美容に関わる仕事をされているご家族に受け継がれた木炭パーマの思い出と、リンさんがすずさんに紅を塗る姿は、戦争中の女性たちが持っていた、いじらしさと、静かな強さを私たちに伝えている。


 だが、それは同時に、こんな人たちの上に、爆弾は繰り返し落ち、思うことを口にする自由もなく、少ない物をかき集め、ひそかに装うことでしか、自分と家族の命を脅かされる日々と戦えなかった、戦争の圧倒的暴力も伝えている。



 戦後75年、夏が来るたびに、戦争の記憶がさまざまな形でクローズアップされてきた。

 コロナ禍の今年は、戦争はないが、今までとは違う夏だ。

 私たちは一年前には当たり前だった日常を無くし、世界はもう元の姿には戻らないとも言われている。


 苦しい時代だが、今、戦争について知り、当時の人たちの思いを知る意味が、これまで以上にあると思う。

 日常の一部が欠けた今の私たちだからこそ、日常を奪う戦争について、今までよりも真剣に考えることができる。


 一年前を思うと悲しいが、七十五年前を思えば、残されていることは、まだ沢山ある。


 今も、国同士、人同士の利害がぶつかり、ささくれだって不安な時代だが、今以上に生きることが過酷だった時代に、美しくあることを生きる力にしようとした、心に芯を持つ人たちがいた。

 全員ではないかもしれないが、一つの町の美容院に、列を作るほどに、いたのだ。


 戦争の恐ろしさ、それでも失われなかった人々の「生きる力」、今の時代にまだ残されている、自由の価値。

 そういったことを、今この時代に、実感し、覚えていられれば。

 何もかも当たり前だと思って見過ごしていたこれまでよりも、私たちは、より多く、人の心や世界の美しさに気づくだろう。

 取り戻せないものもあるが、気づく力が、自分たちの内側には、芽生える。

 それもまた、これからの私たちの心の芯、「生きる力」になってくれるはずだ。




 補足:当ブログ内、漫画『この世界の片隅に』関連記事

(※ネタバレあり)この世界の片隅に 映画で語られなかった場面(1)ノートの切れ端とリンドウのお茶碗

(※ネタバレあり)「この世界の片隅に」映画で語られなかった場面(2) 雪に描かれた絵と、桜の花びらの舞い降りた紅


この世界の片隅に : 上 (アクションコミックス) - こうの史代
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この世界の片隅に : 中 (アクションコミックス) - こうの史代
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この世界の片隅に : 下 (アクションコミックス) - こうの史代
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posted by pawlu at 18:20| おすすめ漫画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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