(情報出典:NHK「日曜美術館」(12月9日放送)「“決闘写真”を撮った男林忠彦」。番組HP )
太宰治といえば、人々が思い出す写真がある。
バーのカウンターで、くつろいだ様子で笑いながら話している一瞬を捉えた一枚。
前髪をたらしスツールに足をあげ、ネクタイにベスト、それに不釣合いな兵隊靴。場は異常な盛り上りを見せていた。これほど完璧な決定的瞬間があるだろうか―。それは誰も 見たことのない太宰だった。(※1)
太宰の作品に心動かされたことのある人は、写真の中の彼の、才能に似つかわしい魅力ある風貌と、人懐こい笑顔に引き付けられると同時に、それが酒の場であり、酔いを愛し、酔いから離れられなかった彼の生きざまと死があまりにも有名であるために、そこにかすかに終わりの気配を見る。
この作品を撮影したのは、写真家、林忠彦(1918〜1990)。
林は、川端康成、谷崎潤一郎、坂口安吾や、多くの作家、芸術家の素顔を、「決闘」の覚悟とともに切り取って残した。
(※1)周南市美術博物館 かるちゃあ通信『花畑』「生誕100年 林忠彦展」No.284 2018年12月号(筆者:周南市美術博物館館長 有田順一)
(「ルパン」の太宰治)
1946(昭和21)年12月4日。
林は、作家や編集者たちの集う銀座のバー、「ルパン」で、偶然居合わせた若き作家、織田作之助のポートレートを撮影していた。
電灯の下、煙草を片手に、明るく笑う織田作之助の姿を撮っていた時、店の一番奥から、酔った声が響いた。
「織田作ばかり撮ってないで、俺も撮ってくれよ」
「あれ、誰ですか?」
うるさい男だと困惑する林忠彦に、顔見知りの編集者がそっと教えた。
「あれは今売り出し中の太宰治」
あれも撮っておいたほうがいいよ。
その時、残っていた照明用の閃光電球は一つだけ。
ただ一枚しか撮れないという条件下、林は、太宰が背の高いスツールにあぐらをかいている姿に目を留め、それを強調するために、下から撮ることにした。
しかし、奥に細長い作りの店で、ほとんど距離を取ることができなかったため、林は、太宰の席の傍にあったトイレに入ると、便器にまたがり、カメラを構えた。
そして、太宰の目線をカメラに向かせることなく、文学仲間たちと酔いに任せて気ままに話し込む姿を、一枚、狙い撃ちにした。
太宰は、この写真を、亡くなる前、自ら机の上に飾っていたという。
(写真に撮られた頃の太宰)
1946年11月14日、太宰は疎開していた津軽の生家から自宅の三鷹に戻ってきており、写真はそれから二十日後に撮影された。(※2)
この年の太宰は、戦争帰りの男が戦争の悪に気づく瞬間を描いた秀作「雀」(新潮文庫『津軽通信』収録)など、優れた短編を執筆。翌3月には代表作の一つ『ヴィヨンの妻』を発表している。
津軽に疎開中の太宰は、彼の度重なる不祥事が原因で、一時はほぼ絶縁状態にあった長兄、津島文治と同居した。
文治は、太宰達の父亡き後、東北の名家であった津島家の家長となり、父の基盤を引き継いで政治家となったが、1937年、衆議院選挙に当選した際、選挙法違反の罪に問われ、議員の他、公の立場を退き、約10年、自邸に籠って暮らしていた。
太宰が、文治の家で暮らしたのは、この、兄の長い不遇の時期のことであった。
(この同居生活の中で、兄に抱いた緊張感と敬意を題材にしたと思われる短編「庭」(同『津軽通信』収録)が、1946年1月に発表されている。)
1946年、文治は、再び衆議院選挙に立候補、同居していた太宰も、兄の選挙運動を手伝い、4月には当選。文治はようやく表舞台に返り咲いた。(※3)
畏怖の対象であり、しかし、父のような拠り所でもあった文治、そして実家の再びの成功は、(かつて、その周囲から浮きたった裕福さを痛烈に恥じていたとはいえ)やはり太宰にとっても喜ばしい出来事だったのではないだろうか。
終戦後、いまだ混乱の中とはいえ、作家としては円熟期にあり、実家にさした光を見届けてから東京に戻ってきた太宰。
その、つかの間の明るさが、写真にとどめられているようにも見える。
(写真家、林忠彦について)
太宰の写真が評判となり、林は雑誌『小説新潮』の依頼を受け、以後2年にわたり、様々な作家の写真を撮るようになった。
書斎の坂口安吾を写した一枚は、林の代表作の一つである。
(ちなみに、先述の太宰の写真はトリミングされたものであり、当初、太宰と談笑する坂口安吾の背中が映っていた。)
2年は掃除しなかったという埃の積もった部屋に、万年床。いたるところに散乱し、堆積した書き損じの紙。その上に煙草の吸殻入れと蚊取り線香が無造作に置かれており、火事にならなかったのは、ただ運が良かったからとしか言いようのない散らかりぶりの中、白い綿シャツ姿の安吾が、執筆をしながら、真顔でカメラを一瞥している。
坂口安吾はこの強烈な一枚について、随筆「机と蒲団と女」で、撮影の経緯を生き生きと書き残している。(一部不適切な表現があるが、引用部は原文のままとさせていただく。)
「ルパン」を事務所代わりにしていた林と、そこの常連だった安吾は数年来の飲み仲間だった。
太宰同様、安吾も「ルパン」で林に撮影してもらったことがあり、そのうちの一枚が「凄い色男」に撮れていたので、喜んだ安吾は大量に焼き増ししてもらい、雑誌社などに写真の提供をするときには、撮影を断ってその一枚を渡すことにしていた。
林忠彦は、これが気に入らない。あれは全然似ていないよ。坂口さんはあんな色男じゃないよ。第一、感じが違うんだ、と云って、ぜひ、もう一枚うつさせろ、私は彼の言い方が甚だ気に入らないのだけれども、衆寡敵せず、なぜなら、色男の写真が全然別人だというのは定説だからで、じゃアいずれグデングデンに酔っ払って意識せざる時に撮させてあげると約束を結んでいたのである。
ところが彼は奇襲作戦によって、突如として私の自宅を襲い、物も言わず助手と共に撮影の用意をはじめ、呆気にとられている私に、
「坂口さん、この写真機はね、特別の(何というのだか忘れたが)ヤツで、坂口さん以外の人は、こんな凄いヤツを使いやしないんですよ。今日は特別に、この飛び切りの、とっときの、秘蔵の」
と、有りがたそうな呪文をブツブツ呟きながら、組み立てゝ、
「さア、坂口さん、書斎へ行きましょう。書斎へ坐って下さい。私は今日は原稿紙に向ってジッと睨んでいるところを撮しに来たんですから」
彼は、私の書斎が二ヶ年間掃除をしたことのない秘密の部屋だということなどは知らないのである。
彼はすでに思い決しているのだから、こうなると、私もまったく真珠湾で、ふせぐ手がない。二階へ上る。書斎の唐紙をあけると、さすがの林忠彦先生も、にわかに中には這入られず、唸りをあげてしまった。
彼は然し、写真の気違いである。彼は書斎を一目見て、これだ!と叫んだ。
「坂口さん、これだ!今日は日本一の写真をうつす。一目で、カンがあるもんですよ。ちょッと下へ行って下さい。支度ができたら呼びに行きますから」
と、にわかに勇み立って、自分のアトリエみたいに心得て、私を追いだしてしまった。写真機のすえつけを終り、照明の用意を完了して、私をよびにきて、三枚うつした。右、正面、その正面が、小説新潮の写真である。
この写真の発表後、安吾に見知らぬ人からこんな年賀状が届いた。
(前略)しかし、先生は正直ですね。おだてるのではないが、全く、正直ですよ。そのショウコが、昨年三十一日、私は小説新潮を見ました。モウレツな勢いで机に向っているのが出ていました。写真がですよ。(中略)私は見ているうちにニヤニヤしました。やってるな、なかなか、いいぞ。あのフトンの上に女の一人も寝ころばしておけば、まア満点というもんだが、安吾もそこまで手が廻らんと見える。けれども、とにかくいいぞ。度の強い眼鏡の中の鋭い目玉、女たらし然と威張った色男。ちょッといけますな。この意気、この意気。
先生の小説が騒々しいのによく似てる。ガサツな奴は往々にして孤独をかくしているという、それなんですね、先生は。
あれは天下一品の写真だから買おうと思いましたが、二十円だから、やめました。(後略)
差出人は自ら安吾より二十数年年下と前置きしており、おそらくは18才位。
安吾は若者の「あのフトンの上に女の一人も寝ころばしておけば、まア満点」という小憎らしくも鮮やかな言い回しにしてやられつつ、広く物議をかもした林の写真の威力に、自分としても照れざるをえないと、文を結んでいる。
安吾を部屋ごと撮ることで、その個性と生きざまが、観る者に一瞬で伝わる写真を生み出した林。
林は、こうした人物写真のことを「決闘写真」と呼んだ。
「相手と対峙し、短い時間の中で、最もその人らしい瞬間を切り取る」という意味だった。
どうやって、「決闘」に臨むのか。林は、生前、NHKのインタビューに語っている。
写真を撮るまでがね、僕は長いんですよ。
色々とセットをして、セットをしている間にね。「ああ、この人どういう人だな。どういう雰囲気の中に一番合うな」とか、「この顔がいい」とか、「しゃべっているときがいい、黙っているときがいい」とか、「目に光があるのがいいな」とかね、そういうのを観察する時間がわりに長い。
それで、そこにたっぷり時間をかけていって、支度しながらね、もう、観ているわけですよ。
撮りだしたらね、もう、一気にね、10分かからないです。
そんな「決闘」に長けた林が長年対峙しても、素顔を掴めなかったのが、川端康成だった。
(林撮影の川端康成の写真を表紙に用いた評伝、この写真も川端の高い美意識をうかがわせるが、林にとって満足のいく出来ではなかった。)
後にノーベル文学賞を獲る文豪、卓越した鑑賞眼で一級の美術品を集めた収集家、「葬式の名人」と言われるほど、少年時代から数多くの死を見届けてきた人。
その大きな瞳、硬直したような表情の奥にあるものを捉えようとしても、緊張が、互いの間に壁となって立ちはだかっていた。
川端との精神的隔たりが、そのまま、被写体川端とのファインダー越しの距離となり、長年それを縮められなかった林だったが、最初の撮影から20年以上が経過した1970年(昭和45)に、ようやく川端との決闘に勝利する。
中庭にいた川端に対し、わずか50pの距離から撮った一枚。
風雅な庭を背にした川端の、大きな瞳に光が映った。
その一瞬の、鷹のように光る目。それを切り取るために、林はそれまであった距離を一気に詰めた。
ここ(出会ってから二十年間に撮った写真)までは返り討ちにされたような写真なんですよ。父にとっては。ここで初めて決闘して、相手をグサッと切り取ることができた。その決定的な写真でしょうね。自分から相手をグサッと切りつけたという実感が持てた写真。(中略)それくらいに自分にとっては完ぺきな仕事が出来た。(四男で写真家の林義勝氏のインタビュー)
林は芸術家たちの他、戦後を生き抜く人々の姿をとらえ、やがて風景へとカメラを向けていった。
晩年の林は、肝臓がんによる脳内出血が原因で右半身が不自由になり、車椅子を使うようになっていた。
息子の義勝氏に車椅子を押され、余命を覚悟しつつ、カメラを構える林。
治療をするとその後の二日間ぐらいは薬の副作用で、もう本当に具合が悪いわけですよ。
二日後には少し体調がよくなる。よくなるときにタイミングを合わせて撮影に出る。だけどよくなったといっても普通の人からみたら具合が悪いくらいの体調。それを絶対言わない。これは自分の仕事で、東海道に挑んでるのだから、そんな顔をスタッフに見せたら申し訳ないと思うんでしょうね。だから弱音は絶対はかなかった。
番組のインタビューで、父の仕事ぶりを語る義勝氏の声と表情からは、家族として、同じ写真家としての、林に対する深い尊敬の思いがにじみ出ていた。
1990年(平成2)、五年の歳月をかけて撮った東海道の写真集が完成した。
そして、その三か月後、林は七十二年の生涯を閉じた。
「日曜美術館」は、いつも作品と作者について丁寧に魅力を伝えてくれる番組だが、この林忠彦の回は中でも名作だった。もし、再放送の情報を入手したら、当ブログで改めてお知らせさせていただきたい。
【補足】
1,展覧会情報
山口県周南市美術博物館 「林忠彦生誕100年 林忠彦の世界 それは昭和だった」※2018年12月24日まで
(同「林忠彦記念室」での展示「林忠彦の仕事V」は12月28日まで展示)
2,林忠彦の略歴と代表作の一部が見られるHP
「MINI Gallery “AmbitionU”」「林忠彦」(※「作品」部クリックで写真表示)
【資料】
・周南市美術博物館 かるちゃあ通信『花畑』「生誕100年 林忠彦展」No.284 2018年12月号(筆者:周南市美術博物館館長 有田順一)