2018年12月22日

太宰治と写真家、林忠彦(NHK「日曜美術館」「“決闘写真”を撮った男林忠彦」より)

(情報出典:NHK「日曜美術館」(12月9日放送)「“決闘写真”を撮った男林忠彦」。番組HP


 太宰治といえば、人々が思い出す写真がある。


 バーのカウンターで、くつろいだ様子で笑いながら話している一瞬を捉えた一枚。


(太宰の写真を用いた林忠彦の写真集)


前髪をたらしスツールに足をあげ、ネクタイにベスト、それに不釣合いな兵隊靴。場は異常な盛り上りを見せていた。これほど完璧な決定的瞬間があるだろうか―。それは誰も 見たことのない太宰だった。(※1)


 太宰の作品に心動かされたことのある人は、写真の中の彼の、才能に似つかわしい魅力ある風貌と、人懐こい笑顔に引き付けられると同時に、それが酒の場であり、酔いを愛し、酔いから離れられなかった彼の生きざまと死があまりにも有名であるために、そこにかすかに終わりの気配を見る。


 この作品を撮影したのは、写真家、林忠彦(1918〜1990)。 


(※林忠彦の肖像写真を表紙に用いた評伝)

 林は、川端康成、谷崎潤一郎、坂口安吾や、多くの作家、芸術家の素顔を、「決闘」の覚悟とともに切り取って残した。


(※1)周南市美術博物館 かるちゃあ通信『花畑』「生誕100年 林忠彦展」No.284 2018年12月号(筆者:周南市美術博物館館長 有田順一)






(「ルパン」の太宰治)


 1946(昭和21)年12月4日。


 林は、作家や編集者たちの集う銀座のバー、「ルパン」で、偶然居合わせた若き作家、織田作之助のポートレートを撮影していた。


(林の撮った織田作之助の写真を表紙にした本)

 電灯の下、煙草を片手に、明るく笑う織田作之助の姿を撮っていた時、店の一番奥から、酔った声が響いた。


「織田作ばかり撮ってないで、俺も撮ってくれよ」


「あれ、誰ですか?」


 うるさい男だと困惑する林忠彦に、顔見知りの編集者がそっと教えた。


「あれは今売り出し中の太宰治」


 あれも撮っておいたほうがいいよ。


 その時、残っていた照明用の閃光電球は一つだけ。


 ただ一枚しか撮れないという条件下、林は、太宰が背の高いスツールにあぐらをかいている姿に目を留め、それを強調するために、下から撮ることにした。


 しかし、奥に細長い作りの店で、ほとんど距離を取ることができなかったため、林は、太宰の席の傍にあったトイレに入ると、便器にまたがり、カメラを構えた。


 そして、太宰の目線をカメラに向かせることなく、文学仲間たちと酔いに任せて気ままに話し込む姿を、一枚、狙い撃ちにした。


 太宰は、この写真を、亡くなる前、自ら机の上に飾っていたという。





(写真に撮られた頃の太宰)


 1946年11月14日、太宰は疎開していた津軽の生家から自宅の三鷹に戻ってきており、写真はそれから二十日後に撮影された。(※2)


 この年の太宰は、戦争帰りの男が戦争の悪に気づく瞬間を描いた秀作「」(新潮文庫『津軽通信』収録)など、優れた短編を執筆。翌3月には代表作の一つ『ヴィヨンの妻』を発表している。

津軽通信 (新潮文庫)
津軽通信 (新潮文庫)

 津軽に疎開中の太宰は、彼の度重なる不祥事が原因で、一時はほぼ絶縁状態にあった長兄、津島文治と同居した。


 文治は、太宰達の父亡き後、東北の名家であった津島家の家長となり、父の基盤を引き継いで政治家となったが、1937年、衆議院選挙に当選した際、選挙法違反の罪に問われ、議員の他、公の立場を退き、約10年、自邸に籠って暮らしていた。


 太宰が、文治の家で暮らしたのは、この、兄の長い不遇の時期のことであった

(この同居生活の中で、兄に抱いた緊張感と敬意を題材にしたと思われる短編「」(同『津軽通信』収録)が、1946年1月に発表されている。)


 1946年、文治は、再び衆議院選挙に立候補、同居していた太宰も、兄の選挙運動を手伝い、4月には当選。文治はようやく表舞台に返り咲いた。(※3)


 畏怖の対象であり、しかし、父のような拠り所でもあった文治、そして実家の再びの成功は、(かつて、その周囲から浮きたった裕福さを痛烈に恥じていたとはいえ)やはり太宰にとっても喜ばしい出来事だったのではないだろうか。


 終戦後、いまだ混乱の中とはいえ、作家としては円熟期にあり、実家にさした光を見届けてから東京に戻ってきた太宰。


 その、つかの間の明るさが、写真にとどめられているようにも見える。









(写真家、林忠彦について)


 太宰の写真が評判となり、林は雑誌『小説新潮』の依頼を受け、以後2年にわたり、様々な作家の写真を撮るようになった。


 書斎の坂口安吾を写した一枚は、林の代表作の一つである。


(林撮影の坂口安吾の肖像写真が用いられた写真集)

 (ちなみに、先述の太宰の写真はトリミングされたものであり、当初、太宰と談笑する坂口安吾の背中が映っていた。)


 2年は掃除しなかったという埃の積もった部屋に、万年床。いたるところに散乱し、堆積した書き損じの紙。その上に煙草の吸殻入れと蚊取り線香が無造作に置かれており、火事にならなかったのは、ただ運が良かったからとしか言いようのない散らかりぶりの中、白い綿シャツ姿の安吾が、執筆をしながら、真顔でカメラを一瞥している。



 坂口安吾はこの強烈な一枚について、随筆「机と蒲団と女」で、撮影の経緯を生き生きと書き残している。(一部不適切な表現があるが、引用部は原文のままとさせていただく。)


 「ルパン」を事務所代わりにしていた林と、そこの常連だった安吾は数年来の飲み仲間だった。


 太宰同様、安吾も「ルパン」で林に撮影してもらったことがあり、そのうちの一枚が「凄い色男」に撮れていたので、喜んだ安吾は大量に焼き増ししてもらい、雑誌社などに写真の提供をするときには、撮影を断ってその一枚を渡すことにしていた。



 林忠彦は、これが気に入らない。あれは全然似ていないよ。坂口さんはあんな色男じゃないよ。第一、感じが違うんだ、と云って、ぜひ、もう一枚うつさせろ、私は彼の言い方が甚だ気に入らないのだけれども、衆寡敵せず、なぜなら、色男の写真が全然別人だというのは定説だからで、じゃアいずれグデングデンに酔っ払って意識せざる時に撮させてあげると約束を結んでいたのである。

 ところが彼は奇襲作戦によって、突如として私の自宅を襲い、物も言わず助手と共に撮影の用意をはじめ、呆気にとられている私に、

「坂口さん、この写真機はね、特別の(何というのだか忘れたが)ヤツで、坂口さん以外の人は、こんな凄いヤツを使いやしないんですよ。今日は特別に、この飛び切りの、とっときの、秘蔵の」

 と、有りがたそうな呪文をブツブツ呟きながら、組み立てゝ、

「さア、坂口さん、書斎へ行きましょう。書斎へ坐って下さい。私は今日は原稿紙に向ってジッと睨んでいるところを撮しに来たんですから」

 彼は、私の書斎が二ヶ年間掃除をしたことのない秘密の部屋だということなどは知らないのである。

 彼はすでに思い決しているのだから、こうなると、私もまったく真珠湾で、ふせぐ手がない。二階へ上る。書斎の唐紙をあけると、さすがの林忠彦先生も、にわかに中には這入られず、唸りをあげてしまった。

 彼は然し、写真の気違いである。彼は書斎を一目見て、これだ!と叫んだ。

「坂口さん、これだ!今日は日本一の写真をうつす。一目で、カンがあるもんですよ。ちょッと下へ行って下さい。支度ができたら呼びに行きますから」

 と、にわかに勇み立って、自分のアトリエみたいに心得て、私を追いだしてしまった。写真機のすえつけを終り、照明の用意を完了して、私をよびにきて、三枚うつした。右、正面、その正面が、小説新潮の写真である。


 この写真の発表後、安吾に見知らぬ人からこんな年賀状が届いた。


(前略)しかし、先生は正直ですね。おだてるのではないが、全く、正直ですよ。そのショウコが、昨年三十一日、私は小説新潮を見ました。モウレツな勢いで机に向っているのが出ていました。写真がですよ。(中略)私は見ているうちにニヤニヤしました。やってるな、なかなか、いいぞ。あのフトンの上に女の一人も寝ころばしておけば、まア満点というもんだが、安吾もそこまで手が廻らんと見える。けれども、とにかくいいぞ。度の強い眼鏡の中の鋭い目玉、女たらし然と威張った色男。ちょッといけますな。この意気、この意気。

 先生の小説が騒々しいのによく似てる。ガサツな奴は往々にして孤独をかくしているという、それなんですね、先生は。

 あれは天下一品の写真だから買おうと思いましたが、二十円だから、やめました。(後略)


 差出人は自ら安吾より二十数年年下と前置きしており、おそらくは18才位。


 安吾は若者の「あのフトンの上に女の一人も寝ころばしておけば、まア満点」という小憎らしくも鮮やかな言い回しにしてやられつつ、広く物議をかもした林の写真の威力に、自分としても照れざるをえないと、文を結んでいる。




 安吾を部屋ごと撮ることで、その個性と生きざまが、観る者に一瞬で伝わる写真を生み出した林。


 林は、こうした人物写真のことを「決闘写真」と呼んだ。


 「相手と対峙し、短い時間の中で、最もその人らしい瞬間を切り取る」という意味だった。


 どうやって、「決闘」に臨むのか。林は、生前、NHKのインタビューに語っている。


写真を撮るまでがね、僕は長いんですよ。

色々とセットをして、セットをしている間にね。「ああ、この人どういう人だな。どういう雰囲気の中に一番合うな」とか、「この顔がいい」とか、「しゃべっているときがいい、黙っているときがいい」とか、「目に光があるのがいいな」とかね、そういうのを観察する時間がわりに長い。

それで、そこにたっぷり時間をかけていって、支度しながらね、もう、観ているわけですよ。

撮りだしたらね、もう、一気にね、10分かからないです。




 そんな「決闘」に長けた林が長年対峙しても、素顔を掴めなかったのが、川端康成だった。

川端康成伝 - 双面の人
川端康成伝 - 双面の人

(林撮影の川端康成の写真を表紙に用いた評伝、この写真も川端の高い美意識をうかがわせるが、林にとって満足のいく出来ではなかった。)


 後にノーベル文学賞を獲る文豪、卓越した鑑賞眼で一級の美術品を集めた収集家、「葬式の名人」と言われるほど、少年時代から数多くの死を見届けてきた人。


 その大きな瞳、硬直したような表情の奥にあるものを捉えようとしても、緊張が、互いの間に壁となって立ちはだかっていた。


 川端との精神的隔たりが、そのまま、被写体川端とのファインダー越しの距離となり、長年それを縮められなかった林だったが、最初の撮影から20年以上が経過した1970年(昭和45)に、ようやく川端との決闘に勝利する。


(林忠彦会心の一枚(部分)を表紙にした本)


 中庭にいた川端に対し、わずか50pの距離から撮った一枚。


 風雅な庭を背にした川端の、大きな瞳に光が映った。


 その一瞬の、鷹のように光る目。それを切り取るために、林はそれまであった距離を一気に詰めた。


 ここ(出会ってから二十年間に撮った写真)までは返り討ちにされたような写真なんですよ。父にとっては。ここで初めて決闘して、相手をグサッと切り取ることができた。その決定的な写真でしょうね。自分から相手をグサッと切りつけたという実感が持てた写真。(中略)それくらいに自分にとっては完ぺきな仕事が出来た。(四男で写真家の林義勝氏のインタビュー)



 林は芸術家たちの他、戦後を生き抜く人々の姿をとらえ、やがて風景へとカメラを向けていった。




 晩年の林は、肝臓がんによる脳内出血が原因で右半身が不自由になり、車椅子を使うようになっていた。


 息子の義勝氏に車椅子を押され、余命を覚悟しつつ、カメラを構える林。


治療をするとその後の二日間ぐらいは薬の副作用で、もう本当に具合が悪いわけですよ。

二日後には少し体調がよくなる。よくなるときにタイミングを合わせて撮影に出る。だけどよくなったといっても普通の人からみたら具合が悪いくらいの体調。それを絶対言わない。これは自分の仕事で、東海道に挑んでるのだから、そんな顔をスタッフに見せたら申し訳ないと思うんでしょうね。だから弱音は絶対はかなかった。


 番組のインタビューで、父の仕事ぶりを語る義勝氏の声と表情からは、家族として、同じ写真家としての、林に対する深い尊敬の思いがにじみ出ていた。


(義勝氏の語る林忠彦の逸話と作品を収録した本)



 1990年(平成2)、五年の歳月をかけて撮った東海道の写真集が完成した。


 そして、その三か月後、林は七十二年の生涯を閉じた。




 「日曜美術館」は、いつも作品と作者について丁寧に魅力を伝えてくれる番組だが、この林忠彦の回は中でも名作だった。もし、再放送の情報を入手したら、当ブログで改めてお知らせさせていただきたい。




【補足】

1,展覧会情報

山口県周南市美術博物館 「林忠彦生誕100年 林忠彦の世界 それは昭和だった」※2018年12月24日まで

(同「林忠彦記念室」での展示「林忠彦の仕事V」は12月28日まで展示)


2,林忠彦の略歴と代表作の一部が見られるHP

「MINI Gallery “AmbitionU”」「林忠彦」(※「作品」部クリックで写真表示)



【資料】

周南市美術博物館 かるちゃあ通信『花畑』「生誕100年 林忠彦展」No.284 2018年12月号(筆者:周南市美術博物館館長 有田順一)

・太宰治「雀」(青空文庫)

・太宰治「庭」(青空文庫)

・坂口安吾「机と蒲団と女」(青空文庫)

「あの太宰の写真には”秘密”があった! 昭和を生きた写真家・林忠彦の展覧会が静かに話題を呼んでいます。」『Pen』2018年5月02日記事 (※2018年7月末に終了した展覧会「昭和が生んだ写真・怪物 時代を語る林忠彦の仕事」の紹介記事) 




posted by pawlu at 15:46| 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月22日

熊谷守一と『人間失格(太宰治)』の大庭葉蔵  (第四回) 守一と葉蔵の「拒否」、「顔」、「人生」

 画家、熊谷守一と太宰治作『人間失格』の主人公、大庭葉蔵。



 裕福な実家で抱いた人間不信と、画家になる夢という共通点を持っていた、実在の画家と架空の青年。


  偶然、似た境遇だった二人は、いくつかの分岐点を経て、やがて大きく隔たった人生を送ることになります。


 最終回の第四回は、守一と葉蔵、それぞれの「拒否」の意識と、彼らの「顔」、そして、自身の人生に対する思いをご紹介させていただきます。







 (守一の拒否〈文化勲章辞退〉)



 五十代後半から、ようやく絵で生計を立てられるようになった守一。


 次第に人気が高まり、1967年、守一が八十七歳のとき、守一に文化勲章授与内定の知らせが入りました。


 しかし、守一はこれを辞退してしまいます。



「お国のためにしたことはないから」


「これ以上、人が来るようになっては困る」


「もう歩けないから」


「袴がきらいだから」(※1)



 後に守一は様々な言い方で辞退の理由を語っていますが、受賞内定の報告に訪れた中津海茂氏によると、氏が自宅を訪問し、内定の旨を伝えた際、守一は、「即座に無言で席を立って、奥に引きこもり、絶対的な拒否の態度を示した」そうです。


 翌日、氏が改めて自宅を訪ねたところ、秀子夫人が応対し、「昨晩いろいろ話し合ったところ、お前(秀子夫人)がもらえというなら、という話にもなったが、やはり本人がいやがっているのはよくわかるので、断ってほしい」と言われたそうです。(※2)


 守一自身が語った辞退の理由は、いかにも守一のイメージ通りの、おおらかさや型破りな人柄をうかがわせるものですが、無言でいなくなって、二度と自分からは返事をしなかったという態度には、守一のもっと激しい思いがうかがえます。


 裕福な家に育ち、権力を持つ者とその下にいる者の裏表を見てしまったこと。


 実家の破産とともに赤貧の日々を送り、子供を守れなかったこと。


 青木繁長谷川利行ら、生きているうちに認められず、若くして世を去った才能ある画家たちの絵が、死後高値で売られ、彼らはその富を享受することができなかったこと。


 病人まで兵士として駆り出す、戦争という狂気の時代を経験したこと。


 当時成功していた画家たちが、戦意高揚のための戦争画を描くようにしむけられたこと。そして、戦後、世間がその罪を画家個人に負わせたこと。


 (守一の友人である藤田嗣治が、戦争画を描いたために戦後非難を浴びたことについて、守一は「おれは目立たなかったからそれで(描かずに)済んだが、藤田は目立ったから戦争画をかかないわけにはいかなかった」と語っています。(※3)


 こうしたことのどれか、あるいは少しずつ全てが、守一の内面に、世間から与えられる「名誉」をかたくなに嫌う気持ちを形作ったのかもしれません。


 一見ユーモラスな、「袴が嫌いだから」という理由も、幼い守一が、父の妾である養母に着飾らされた上等の着物や袴を、わざと転んで汚したという話(※4)と重ね合わせると、根の深いものを感じさせます。


袴姿の熊谷守一少年 -.png







(大庭葉蔵の拒否〈モルヒネと注射器〉)


 内縁の妻ヨシ子との関係が破綻し、ますます酒におぼれるようになった葉蔵は、喀血したことをきっかけに、酒を断つつもりで始めたモルヒネの中毒になってしまいます。


 膨れ上がる借金に追い詰められ、助けが無ければ身投げする覚悟で、父に窮状を訴える長い手紙を書いた葉蔵。


 そして、堀木とヒラメ(父の指示で葉蔵の後見人になっていた人物のあだ名)がやってきました。


 今までと違い、ひどく静かな優しい様子で、ヨシ子も付き添わせ、葉蔵を遠く離れた森の中の病院に連れていく二人。


 葉蔵は、そこをサナトリウム(結核患者などが長期療養する病院)と信じ、堀木たちのように優しげな医師に言われるままに、そこに入院することにしました。


 葉蔵に着替えを渡したヨシ子は、一緒に注射器とモルヒネを葉蔵に差し出そうとしました。

(葉蔵はヨシ子にはそれを栄養剤と偽って打っていた。)


 出会ったころのように、葉蔵の嘘を信じ切っている様子のヨシ子に、葉蔵は言いました。


「いや、もう要らない」


薬物を差し出すヨシ子 -.png



拒絶する葉蔵 -.png


実に、珍らしい事でした。すすめられて、それを拒否したのは、自分のそれまでの生涯に於いて、その時ただ一度、といっても過言でないくらいなのです。自分の不幸は、拒否の能力の無い者の不幸でした。すすめられて拒否すると、相手の心にも自分の心にも、永遠に修繕し得ない白々しいひび割れが出来るような恐怖におびやかされているのでした。けれども、自分はその時、あれほど半狂乱になって求めていたモルヒネを、実に自然に拒否しました。ヨシ子の謂わば「神の如き無智」に撃たれたのでしょうか。自分はあの瞬間、すでに中毒ではなくなっていたのではないでしょうか。


 しかし、葉蔵は、優しいはにかみ笑いを浮かべる医師に、ある病棟に連れていかれ、冷たく鍵をおろされました。


 自分が脳病院に入院させられたことに気づいた葉蔵は、自分は断じて狂ってはいなかった。ただ、堀木たちの優しい微笑に欺かれ、判断も抵抗も忘れてここに来ることになってしまったと思いながら、手記にこう記しました。


人間、失格。


もはや、自分は、完全に、人間ではなくなりました。


 葉蔵がようやく「拒否」を獲得したとき、彼は鉄格子の向こうに連れていかれ、その打撃により、彼の心から、(もとよりとても微弱だった)「人間」の世界で生きていく力が、消えていきました。





(守一の顔、葉蔵の顔)




土門拳 熊谷守一 -.jpg


(藤森武氏撮影の熊谷守一写真集『獨樂』)


 熊谷守一は、彫りの深い立派な顔立ちをしていながら、自分の容姿に全く頓着せず、床屋に行きたくないからと、若い頃からひげを伸ばし、着心地のみにこだわった独特の服装をしていました。


 そんな彼自身に被写体としての魅力を感じた写真家の土門拳と弟子の藤森武は、それぞれに彼を写真におさめました。


 守一九十四歳のころから約三年間、毎日のように自宅を訪れ、守一を撮影していた藤森武氏は、守一の印象をこう語っています。



「モナ・リザが女性肖像画のナンバーワンなら、男性肖像写真の世界一は守一先生だと、私は常に思っている。(中略)お会いしたときから、先生の人柄のとりこになってしまった。風貌がそのまんま芸術であった。何としても、この全身からにじみでてくる人間味を写真に捉えたいという強い欲望にかられたのである。」


「気負いもなく、さりげなく、淡々としていて心地よい。普通の生き方で決して誰も真似のできない生き方。あんなにも人間を生きる喜びを謳歌した人は他にはいない。」(※5)



(補足:『モリカズさんと私』でも藤森武氏と熊谷守一との思い出が語られています。)

モリカズさんと私
モリカズさんと私



 守一の風貌を形作った、守一の人生。


 裕福だが劣悪な環境だった幼年時代、極貧の中年時代を生きた守一にとって、人生は楽しいばかりのものではなかったはずですが、認められようが、認められまいが絵を描き、我が道を生き抜いてきた守一の顔は、いつしか他の誰にも無い不思議な輝きを帯びるようになっていました。


 守一は二人の写真家を、「重いものを持って仕事に来た仲間」と思って、彼らの希望にそうように時間を費やしましたが、かしこまらないのはいつもどおりで、土門拳に撮られた写真では、息子のお古の襟のほころびた剣道着を着ており(※6)、また、熱心にアングルを変えて撮影する藤森氏に対しては、「写真屋さんは犬みたいだ。上から見たり、かがみこんで下から狙う。腹ばいになって撮る。撮られている私は、それを見ているのがおかしい。」と無心に言いました。(※7)


この言葉を聞いた藤森氏は、以後「素晴らしい被写体に小細工はいらない」と思い、カメラを水平に構え、守一と対峙する形で撮影したそうです。(※8)






(大庭葉蔵の顔)


 『人間失格』は、次のような文章から始まります。


 私は、その男の写真を三葉見たことがある。

 以前、大庭葉蔵と交際していたバーの「マダム」から、彼の写真と手記を託された、物書きの男「私」は、それぞれの写真について、このように形容します。


 一枚目は、葉蔵が十歳頃の写真。


 袴姿で、親族らしき女性たちに囲まれ、池のほとりで笑っている姿。


 一見可愛い少年のようにも見えるその写真に「私」は、不自然なものを感じます。


葉蔵 一枚目の写真 -.png


 少年、葉蔵が両こぶしを固く握り、顔に無理やり皺を寄せて作った「醜い」「猿の笑顔」。


 本当は少しも笑っていない顔。


 「いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひと」なら、すぐに、この「奇妙な、そうして、どこかけがらわしく、へんにひとをムカムカさせる表情」に気づくはずだ。


 「私」は、そう感じました。


 二枚目の写真は、学生服の葉蔵が、ポーズをつけて籐椅子に座って微笑を浮かべている写真。


 おそろしいほどの美貌で、少年時代よりよほど巧みに笑っている。


「しかし、人間の笑いと、どこやら違う。血の重さ、とでも言おうか、生命(いのち)の渋さ、とでも言おうか、そのような充実感は少しも無く(中略)一から十まで造り物の感じなのである。」


 そして、「私」は、少年時代の写真と同様、その美貌の青年の笑顔にも「怪談じみた気味の悪いもの」を感じます。


 最後の写真は、「脳病院」に入れられた後、田舎に連れ戻された葉蔵らしき、白髪交じりの男の姿を写したものでした。


 「こんどは笑っていない。どんな表情も無い。謂わば、坐って火鉢に両手をかざしながら、自然に死んでいるような、まことにいまわしい、不吉なにおいのする写真であった。」


 そして、その写真には、男の顔の造形が明確に映っているにも関わらず、顔の部位すべてが「平凡」で、「印象」も「特徴」も見いだせず、目を閉じたらもう、思い出せないようなものでした。


 「画にならない顔である。漫画にも何もならない顔である。」


「所謂(いわゆる)「死相」というものにだって、もっと何か表情なり印象なりがあるものだろうに、人間のからだに駄馬の首でもくっつけたなら、こんな感じのものになるであろうか。」


 物書きの「私」は、その写真にも強い嫌悪感を覚え、同時にそのあまりの奇妙さに強く心ひかれたために、「マダム」から手記を預かることにしました。


 おそらく、葉蔵の手記は、「私」の手を経て、いずれ出版されるであろうことがほのめかされ、作品は幕を閉じています。


 葉蔵の「道化」ではない心の内が、「作品」として世に出ていく。


 しかし、それは葉蔵が願った「絵画」という形ではありませんでした。


  人間への恐怖から道化を演じ続けた葉蔵は、画家になるという夢も、一度だけ真剣に描いた自画像も隠し、彼が人間社会から隔絶したとき、道化の仮面とともに、画家としての未来と自分の顔そのものを、完全に失ったのでした。




 「俺は俺だと思っていた」守一は、父の反対を押し切って画家になり、やがて、写真家の藤森武氏に「風貌がそのまんま芸術」と言われた。


 「自分は無だ、風だ、空だ」と思いながら道化であり続けた葉蔵は、父に画家になりたいと言い出すことすらできず、転落の道を辿った挙句に、「画にならない顔である。漫画にも何もならない顔である。」と、「美醜に就いての訓練を経て来た」物書きの「私」に断じられた。


 熊谷守一という実在の画家と、大庭葉蔵という物語の登場人物に、偶然在った一致と差異。


 それは、人が自分の人生を生き、作品を生み出すために、何が必要であるか、そしてそれがどれだけ困難なものであるかを物語っています。


 裕福で裏表の激しい家に育ち、人間を信じられなくなった少年。


 守一は葉蔵のように、葉蔵は守一のように。


 いくつかの選択が違えば、その人生は変わっていたかもしれません。


 葉蔵と比べ、常に守一が勝者だったとは限りません。


 守一に、葉蔵のように依頼された仕事を選ばずにこなす器用さがあれば、家族と共に極貧を経験せずに済んだかもしれません。


   また、守一は、葉蔵と同じように、人間に利用され、彼らを嫌悪したために、極力人間との争いを避けて生きてきた人でもありました。


「父の仕事を通していろんなものが見えました(中略)人の裏をかき、人をおしのけて、したり顔のやりとりを見ているうちに、商売のこつをのみこんでいく代わりに、わたしはどうしたら争いのない生き方ができるだろうという考えにとりつかれていったのかも知れません」(※


「すべてに心掛けがわるいのです。なるべく無理をしない、無理をしないとやってきたのです。気に入らぬことがあってもそれに逆らわず、退き退きして生きてきました」(※10


 葉蔵のように人に絶望し、時に葉蔵よりはるかに不器用で、時に葉蔵と同じように何度も争いから逃げた守一と、葉蔵の差異が、(画力以外にあったとすれば、それは)なんだったのか。


  それは、他者への恐れを超えて闘う力だったのではないでしょうか。


 様々な人間の闇を見ながら、画家になりたい、と、絶対的な権力を持つ父に切り出す力。


 世間から名誉を与えられかけたとき、「いらない」と思えば、その場を去る力。


 友人から、海外に行って絵を学ばないかと言われたとき、「好きな人がいるから行かない」という力。


 その場しのぎの道化ではなく、自分の描きたいものを描く力。


 自分の本心を外へ放つ力。


 人間に失望し、何度も争いを避け、時に利用されながら、絵を描くことと、誰と生きるかについては最後まで己を貫いた守一。


 やがて、その作品が、唯一無二のものとして、多くの人に感動を与えるようになりました。


 不思議なことに、人一倍であったはずの、彼の複雑な人生や、生きづらさを感じさせない、余計なものをすべてそぎ落としたシンプルでくっきりとした画面に、何物にも揺るがされない静けさを宿して。


もっと知りたい熊谷守一 ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
もっと知りたい熊谷守一 ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)



熊谷守一 画家と小さな生きものたち
熊谷守一 画家と小さな生きものたち


 そして、そういう絵を描くために、対象を一心に見つめ、絵筆を丹念に動かしていた守一その人の姿も、絵に似た気配を醸すようになっていきました。




 人が自分の人生を生き、作品を生み出すためには、(逃げてもいい時は何度逃げても良い、しかし、)少なくとも「ここだけは譲れない」という思いがある時だけは、恐れを超えて、時に非常に残酷な他者の世界へ、自分の本心を出していくしかない。


(たとえそれが戦いとなったとしても。)


 それができない者は、自分を失っていくしかない。


 そして、そういう人間は、身を守る力が無いがために、往々にして、破滅のさなかに、それまで自分を愛してくれていたのかもしれない人たちを巻き添えにする。


 熊谷守一と大庭葉蔵の合わせ鏡のような人生は、そのことを物語っているような気がします。




 葉蔵と守一が、それぞれ己の人生について振り返っている言葉があります。


 やがて自分に訪れる「悲惨な死」の予感を常に抱いていた葉蔵は、人生に行き詰るたびに自殺未遂を繰り返し、ついに薬物中毒になったときに、こう思いました。


 死にたい、いっそ、死にたい、もう取返しがつかないんだ、どんな事をしても、何をしても、駄目になるだけなんだ、恥の上塗りをするだけなんだ、自転車で青葉の滝など、自分には望むべくも無いんだ、ただけがらわしい罪にあさましい罪が重なり、苦悩が増大し強烈になるだけなんだ、死にたい、死ななければならぬ、生きているのが罪の種なのだ。



 そして、父からの助けが来なければ今度こそ自殺するつもりでいたときに、欺かれて病院へと連れていかれ、「人間、失格」の思いとともに、余生を生きていくことになりました。




 一方、熊谷守一の親友で作曲家の、信時潔は、あるとき、守一にこう尋ねました。


「もう一回人生を繰り返すことが出来るとしたら、君はどうかね。ぼくはもうこりごりだが」


 守一は答えました。


「いや、おれは何度でも生きるよ」(※11







                                                       (完)








【出典】

(※1)『別冊太陽 気ままに絵のみち 熊谷守一』(平凡社 20057月発行)p.114115

別冊太陽 気ままに絵のみち 熊谷守一
別冊太陽 気ままに絵のみち 熊谷守一

(※2)同上

(※3)『モリはモリ、カヤはカヤ』(熊谷榧著新日本出版社 1990p5354

モリはモリ、カヤはカヤ―父・熊谷守一と私 (榧・画文集)
モリはモリ、カヤはカヤ―父・熊谷守一と私 (榧・画文集)


(※4)『へたも絵のうち』(熊谷守一著 日本経済新聞社 197111月発行)p.28

へたも絵のうち (1971年)
へたも絵のうち (1971年)

(※5)上掲『別冊太陽』「画家と写真家」p126

(※6)新装改定版 蒼蠅』(熊谷守一著 求龍堂 200412月発行)p.152153

(※7)『新装改定版 蒼蠅』p.152153

(※8)『別冊太陽』藤森武「画家と写真家」p.126

(※9)『新装改定版 蒼蠅』p.144)(※8

(※10)同上 p.22

(※11)『モリはモリ、カヤはカヤ』p69

ラベル:太宰治
posted by pawlu at 22:22| 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月21日

熊谷守一と『人間失格(太宰治)』の大庭葉蔵 (第三回)「貧困と創作」


画家熊谷守一と、太宰治作『人間失格』の主人公大庭葉蔵。




その淡々とした生きざまから「仙人」と呼ばれ、九十代まで明快な絵を描いた守一と、画家になる夢から遠ざかり、陰惨な生涯を送った大庭葉蔵には、実はその人生に多くの共通点、そして彼らのその後を分けた相違点がありました。




 第三回は、守一と葉蔵が実家の裕福さから切り離された際の、貧困との向き合い方と、この時期の創作活動についてご紹介させていただきます。


【記事一覧】※記事名クリックで該当記事にジャンプします








(大庭葉蔵の貧困)


 大庭葉蔵は、父の仕事の都合で、それまで住んでいた父の別荘から、下宿屋に引っ越すことになり、父のつけではなく、決まった額の仕送りで月々暮らさなければいけなくなった途端、貧乏に直面しました。

(女と酒に散財を重ね、ときに友人の堀木の分まで支払いを持っていたため。)


 堀木に質屋通いなど、その場しのぎの方法は教わりますが、次第に暮らしに困るようになり、軽い気持ちで参加していた非合法活動(父が議員で、その富で暮らしていたにも関わらず、堀木に誘われ遊び半分で手を出していた)も負担になっていた葉蔵は、精神的に追い詰められ、この時期に、カフェの女給(酒を出す店で客を接待する女性)ツネ子と心中未遂を起こします。


 不幸な人生に疲れたツネ子から心中を持ち掛けられたとき、同意しつつも「遊び」の気分が混じっていた葉蔵が、自殺を明確に意識したのは、自身の財布にもう小銭しか残っていないという事実に打ちのめされた瞬間でした。


 「袂からがま口を出し、ひらくと、銅銭が三枚、羞恥より凄惨の思いに襲われ、たちまち脳裏に浮かぶものは、仙遊館(下宿)の自分の部屋、制服と蒲団だけが残されてあるきりで、あとはもう、質草になりそうなものの一つも無い荒涼たる部屋、他には、自分のいま着て歩いている絣の着物と、マント、これが自分の現実なのだ、生きていけない、とはっきり思い知りました。」



下宿で困窮する葉蔵 -.png


 そして、一緒にいたツネ子に、財布の中身を覗かれ、「たったそれだけ?」と無心に聞かれた葉蔵は、その屈辱に、「みずからすすんでも死のうと、実感として決意したのです。」と語っています。


 心中事件後、一人だけ生き残ってしまった葉蔵は、女性たちに半ば寄生しながら、ただ自分の酒と煙草(のちには薬物)代を得るために、三流雑誌への漫画や春画描きをするようになり、二度と画家への道を歩むことはありませんでした。


(酒と煙草代のために猥画を描く葉蔵)
三流雑誌に猥画を描く葉蔵 -.png




(熊谷守一の貧困、息子陽の死)


 熊谷守一が美術学校に在学中(守一二十二歳、卒業まで二年半となった頃)、父が亡くなり、守一の家は事実上破産、守一にも50万円(現在の数億円に該当)の借金が負わされました。


 守一からその話を聞いたクラスメートは、


「おれだったら、首をくくるところだ。おまえ、よく平気でいられるな」と言ったそうです。(※1)


 当然、守一のところに借金取りが押しかけましたが、子供のころから裕福な暮らしに愛想が尽きていた守一は、着るものにも住む場所にもまるで頓着しない習慣が出来上がっており、そんな彼の暮らしぶりを見て、借金取りがあきれて帰ってしまったという話もあったそうです。(※2)


 守一はこの状況下でも「たとえ乞食をしても絵かきになろう」と考え、長兄や、美校の裕福な友人たちからの援助を受けつつ、画家としての活動を続けていきます。


 (娘の榧〈かや〉さんは彼の覚悟が「たとえ飢え死んでも」ではないところに、守一らしさを見ています。)


 守一には裕福で面倒見の良い友人が幾人かおり、彼らからの援助については、「やろうか」「くれ」というような適当なもので、学友だった斎藤豊作からは、厚意に甘えて月ぎめで5年間もお金を受け取っていたそうです。(※3)


 しかし、守一は、非常に寡作な画家で、夫人に懇願されてもなかなか絵を描くことができませんでした。


 そして、貧しさゆえに、子供たちが病気になってもすぐに医者に見せることができなかった時期、幼い息子の陽がわずか三歳で急死するという悲劇に見舞われています。


 「熊谷さんは、あんなに子供をかわいがっているのに、どうして子供のために絵を描いて金をかせごうという気にならないのでしょう」(※4) 


と、周囲にもいぶかしがられた守一は、当時を振り返ってこう語っています。


「仕事をしたくともできないときもあります。(中略)子供が高い熱を出して苦しんでいるのに絵を描く気など起こりようはありません」(※5) 


 子供が心配だからこそ絵が手につかなかった守一。


 美大首席の技量があれば、創作意欲に基づく仕事でなかったとしても(例えば依頼された似顔でもイラストでも)、絵をお金にすることはできたはずですが、どれほど技術があっても、貧しさが極まっても、売り絵は全く描けない人でした。




 陽の容体が急変し、死が近いと悟った守一は、添い寝をし、子守歌を歌いました。


 陽が逝き、幼い陽の亡骸を前に、彼がこの世に残すものが何もないことに気づいた守一は、その死に顔を描きはじめますが、描いているうちに、絵を描くことに没頭している自分に気づき、いやになって止めたそうです。(※6)


 未完のまま残された油絵「陽の死んだ日」は、慟哭のうねるような激しい筆致と重苦しい色彩の中に、色を失い静かに目を閉じた子供の顔が沈み、その死に顔を毛布の深紅がとりかこんでいます。



熊谷守一 陽の死んだ日 -.png


  

 守一の血を吐くような悲しみを思わせる鮮烈さで。


 我が子が死んでようやく筆が動き、未完ながら圧倒的迫力を持つ絵が生まれたという悲しい事実。


 この出来事は、天衣無縫な仙人というイメージのある守一の、繊細すぎる心理と、画家としての不器用な一面(ストレスに左右される、売り絵を描けない)を顕著に物語っています。


 陽の顔立ちは守一によく似ていて、生まれてきた彼を見た守一は、


「この子がまともな考え方をするようになったら、俺に似てさぞ生きにくいだろう」

 と、身につまされたそうです。(※7) 


 幼いころから平穏とは無縁の人生を歩み、それでも、自分を貫き通してきた守一。


 しかし、好きでその道を選んだわけではなく、守一という人は、どうしても、そういう生き方しかできなかったのかもしれません。


 それゆえに感じていた自身の生きにくさを、赤子の陽に透かし見ていた守一。


「私の二番目の子供(陽)が生まれてすぐ死んだころは、外からみればわが家の暮らしはひどいものだったのでしょうが、どうすればよかったか、どうしたらそうはならなかったか、などはひとつも考えたことはありません。」(※8)


 この強烈な響きを持つ言葉も、決して描けなかった当時の自分を肯定しているわけではなく、内面には激しい葛藤を抱えつつもあの頃の自分には「どうすれば」「どうしたら」という手段がなく、ただ、「どうしてもできなかった」という結末が、陽の死という動かせない事実とともに既に在り、それを受け入れざるを得なかったために発されたのではないでしょうか。




 最終回の第四回では守一と葉蔵の「拒否」と「顔」そして彼らが語った自身の「人生」について比較します。




 (当ブログ、熊谷守一関連の記事一覧です。(一部内容が重複しています)よろしければ併せてごらんください。)




【出典】

(※1)『モリはモリ、カヤはカヤ』(熊谷榧著 新日本出版社 1990)p.19

モリはモリ、カヤはカヤ―父・熊谷守一と私 (榧・画文集)
モリはモリ、カヤはカヤ―父・熊谷守一と私 (榧・画文集)

(※2)同上 p20

(※3)『へたも絵のうち』(熊谷守一著 日本経済新聞社 1971年11月発行)p104

へたも絵のうち (1971年)
へたも絵のうち (1971年)

(※4)同上 p115

(※5)同上 同著p38

(※6)新装改定版 蒼蠅』(熊谷守一著 求龍堂 2004年12月発行)p21

(※7)『モリはモリ、カヤはカヤ』p.38

(※8)『へたも絵のうち』p40



ラベル:太宰治
posted by pawlu at 22:32| 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

熊谷守一と『人間失格(太宰治)』の大庭葉蔵 (第二回)「画家になる夢と女性」

 画家、熊谷守一と、太宰治作『人間失格』の主人公、大庭葉蔵の人生には、偶然にも「裕福な生家」、「絶大な権力を持つ父と影の薄い母」、「幼少期に芽生えた人間不信」、「画家になる夢」という、多くの共通点がありました。







 二人の少年時代を比較した前回記事に引き続き、第二回は、画家を目指した思春期以降の守一と葉蔵の人生についてご紹介させていただきます。








(画家になる夢を隠した大庭葉蔵)


 『人間失格』の大庭葉蔵は、中学生の頃、ゴッホの自画像に、「人間に対する恐怖を、お道化などでごまかさず、正面から表現した絵」と感銘を受けて以来、画家になる夢を抱いていました。


 しかし、人間を恐れるあまり、自己表現をしないまま、思春期を迎えていた大庭葉蔵は、ゴッホに倣って描いた自画像を、周囲に馬鹿にされていた同級生の「竹一」以外、誰にも見せずにしまい込み、やがて紛失してしまいます。


 さらに、葉蔵の夢を知る由もなかった父親から、官吏(国家公務員)になるように言い渡された葉蔵は、それに逆らえず、高等学校に通いながらひそかに画塾に通いました。


父に逆らえなかった葉蔵 -.png


 そして、ここで出会った堀木という男から、酒や女を教えられ、葉蔵の人生の転落が加速します。


人間失格 堀木 -.png




(画家への道を突き進んだ熊谷守一)


青年期の熊谷守一 -.png

 一方、守一は、十七歳ごろのとき、父に正面切って絵描きになりたいと申し出ます。

 守一の父は画家という職業をまるで信用していなかったようで、そんなにやりたければ道楽でやればいいと、反対してきました。


 反対されるほど「本式にやりたい」と思い、食い下がってきた守一の執念に、父はうっかり、「慶応(の中等部)に一ヶ月だけ通ったら、お前の好きなことをしてもいい」と口をすべらせてしまいます。(※1)


 そうすれば画家になりたいという夢など忘れてしまうだろうというのが父の目論見だったようですが、守一はすかさず約束をとりつけ、慶応に一ヶ月真面目に通った後、すぐに辞めて、画塾に通い始めました。


 その後、上野の美術学校(現在の東京芸大)に合格した守一は、風変わりな早逝の天才、青木繁らとともに絵画を学び、同校洋画科を首席で卒業しました。


(青木繁)

青木繁 ウィキペディア -.jpg

画像出典 Wikipedia





(大庭葉蔵にとっての女性)


 堀木と交際するようになり、絵よりも様々な享楽に没頭しはじめた頃、たぐいまれな美青年に成長した葉蔵のもとには、次々と女性が寄ってきました。


 もとより、女は男以上に難解で恐ろしいと思っていた葉蔵は、遊びで付き合える娼婦以外の女性には、いつものお道化でその場を取り繕っていました。


 中には、お道化で覆われた、彼の暗さに気づきながら、本心から彼と生きようとした女性たちがいたらしき描写もあるのですが(『人間失格』は葉蔵の一人語りで展開するので確かなことはわかりません)、葉蔵はほとんどその気持ちに気づくことはなく、また、確固たる愛を築くこともできずに、人間への恐怖と、酒と薬物への依存に溺れていきます。


(葉蔵とツネ子 バーの女給で服役中の夫がいた。後に葉蔵とともに入水自殺をし、葉蔵だけが生き残った。)
葉蔵とツネ子 -.png

 そして、葉蔵の荒れた生活が引き金となり、当時内縁関係にあった女性ヨシ子との関係が崩壊したあと、自殺未遂をした葉蔵は、「僕は女のいないところへ行くんだ」と口走ります。


 この言葉は、後に、男しかいない「脳病院(現在の精神科病院)」に強制入院させられるという形で実現し、その後、実家の手配で、田舎で療養生活をはじめた葉蔵は、醜い老女中に世話をされながら、余生を過ごすことになります。





(熊谷守一の妻、秀子夫人)


 熊谷守一は四十二歳のとき、画学生だった秀子(二十四歳)と、1922年(大正十一)に結婚します。


 守一の二女榧(かや)さん(現熊谷守一美術館館長)によれば、以前、守一を金銭的に援助していた斎藤豊作がフランスに一緒に絵を学びに行かないか、と、誘った際、守一は秀子さんのことを思い「好きな人がいるから行かない」と言って断ったそうです。(※2)


 夫人は涼しい切れ長の目をして、年をとってもすっきりとした顔立ちの人でした。

 (守一は結婚前の彼女の姿を「某夫人像」として残しており、美しい人であったことがうかがえます。)

熊谷守一「某夫人像」 -.png

そして人柄は、守一に負けず劣らず、正直そのものだったそうです。(※3)

 実家の裕福な暮らしに馴染まず、絵を描いていたという共通点があった夫人は、貧しさの中でも「かあちゃん」「モリ」と呼び合ってむつまじく暮らしました。


 秀子夫人はいつまでも守一を熱愛しており、娘の榧さんが、守一と話し込んでいても、機嫌が悪くなって邪魔しにくることさえあったそうです。(※4)



 後年、高い評価を得るようになった守一の家には、ファンや画商らが絶え間なく訪れ、夫婦はその応対に追われるようになりますが、そんな中、守一は「かあちゃんがつかれるのが一番困る。もっと放っておいて長生きさしてくれっていうのが正直なわたしの気持ち」と、語っています。(※5)


 年をとってからは、夫婦で碁を打つのが日課だったそうで、守一と秀子夫人が碁に興じる姿が写真に収められています。

(心得のある人から見たら見るにたえないほど下手な勝負だったようですが。(※6)

碁を楽しむ熊谷夫妻 - -.png


 一方で、秀子夫人は、他者に対する守一の複雑な思いを理解していました。


 「主人はとても人好きですので、子供はかわいがりますし、お友達は多かったようですが、大事に思うことがあまりに人と違っているので、一応のお付き合いで、それ以上のふれ合いには(家族も含めて)なりにくいと思います」(※7)


 「オレだって普通の家に育っていたら、もっとかわいらしくなっていたはずだ」と、秀子夫人には自分の子供時代の鬱屈を漏らしていた守一。


 夫人は、子供時代の経験から、守一が人との深い付き合いを避けてしまうことに気づいており、しかし、そんな守一に寄り添い続けました。


 守一は九十歳を過ぎてからこんな言葉を残しています。


「私はだから、誰が相手にしてくれなくとも、石ころ一つとでも十分暮らせます。石ころをじっとながめているだけで、何日も何月も暮らせます。監獄にはいって、いちばん楽々と生きていける人間は、広い世の中で、この私かもしれません」(※8


 仙人と呼ばれた守一らしい、孤高を感じさせる言葉ですが、実際には、守一には、彼が恐ろしく貧しいときも、名声を得た時も、変わらず共に生きた秀子夫人という人がいました。


 この言葉も、彼を愛し支えてくれていた秀子夫人がいたからこそ、口にできた言葉だったのかもしれません。


 第三回では、守一と葉蔵の「貧しさ」と「絵」についての意識を比較します。



【出典】

(※1)『へたも絵のうち』(熊谷守一著 日本経済新聞社 1971年11月発行)p.50

へたも絵のうち (1971年)
へたも絵のうち (1971年)

(※2)PDF「館長Q&A『榧さんに聞いてみよう!』 http://kumagai-morikazu.jp/q&a.pdf

(※3)『別冊太陽 気ままに絵のみち 熊谷守一』(平凡社 2005年7月発行)p.114

別冊太陽 気ままに絵のみち 熊谷守一
別冊太陽 気ままに絵のみち 熊谷守一

(※4)『モリはモリ、カヤはカヤ』(熊谷榧著 新日本出版社 1990)p.66

モリはモリ、カヤはカヤ―父・熊谷守一と私 (榧・画文集)
モリはモリ、カヤはカヤ―父・熊谷守一と私 (榧・画文集)

(※5)新装改定版 蒼蠅』(熊谷守一著 求龍堂 2004年12月発行)p.159

(※6)『へたも絵のうち』p.8〜9

(※7)『新装改定版 蒼蠅』p.225

(※8)『へたも絵のうち』p.147


ラベル:太宰治
posted by pawlu at 20:05| 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月20日

熊谷守一と『人間失格(太宰治)』の大庭葉蔵 (第一回)「守一と葉蔵の少年時代」

 2018年5月19日より、画家、熊谷守一を題材にした映画「モリのいる場所」(山崎努主演)が公開されています。

 (公式HP http://mori-movie.com/sp/







 明るくくっきりとした色彩の絵と、飄々とした人柄で、今も人々に愛される熊谷守一。

独楽―熊谷守一の世界
独楽―熊谷守一の世界

 しかし、彼の生い立ちは、後に知られる彼の「仙人のような天衣無縫の好々爺」というイメージとは真逆の複雑なものでした。


 地方の裕福な家と、重苦しく裏表の激しい人間関係。


 そこで生きるうちに芽生えた人間不信。


 そして、画家になるという夢。


 それは、太宰治が自身の生涯をモデルにして描いた小説『人間失格』の世界に驚くほど似通っています。




 太宰治と熊谷守一は同時代人ながら交友は無かったようですが、「地方の、周囲からずば抜けて裕福な家、その家の下の方の子(※)」という境遇も、熊谷守一と太宰治、ひいては『人間失格』の主人公、大庭葉蔵と一致しています。

(守一は第七子、太宰は六男で、大庭葉蔵は末子の設定)


 そして、熊谷守一の生涯と『人間失格』の大庭葉蔵を比較すると、その境遇が似ているがゆえに、彼らのたどる道とその結末の差異が、鮮やかに浮かび上がってきます。


 当ブログでは、熊谷守一と『人間失格』の主人公大庭葉蔵の生涯について、その類似点と差異をご紹介させていただきます。(全四回)





(熊谷守一の生家)


(小学生の頃の熊谷守一)
袴姿の熊谷守一少年 -.png

 熊谷守一は岐阜の山間部に位置する付知(つけち)で、七人兄弟の末子として生まれました。


 生家は大地主の上、さらに製糸工場など様々な事業を手掛けた実業家一族で、守一の父は岐阜市長を経て衆議院議員まで務めた人物でした。



熊谷守一の父 - -.png


 守一はこうした実家と父の成功を、

「地主でありながら、じっと手をこまねいてはおれなかったらしいのです。何もしないでじっとしていることがいちばんだと考えている私とは大違いの性分です。」(※1)


 と、いかにも守一らしく、まるで他人事のように語っています。



 この父は、東京に出かけたり、会合に出席したりと、多忙ゆえに不在がちで、守一は幼い頃めったに父の顔を見なかったそうです。




(『人間失格』大庭葉蔵の生家)


(大庭葉蔵の記念写真〈中央の作り笑いの少年が葉蔵〉)
葉蔵一枚目の写真 -.png

 『人間失格』の主人公、大庭葉蔵の生家も、地主で、父親は後に議員を務めており、葉蔵にとって、馴染みの薄い人物でした。

(父親が東京に頻繁に出かけて滅多に会わないというところも共通しています。)


 なお、『人間失格』では、不在がちで普段子供たちに親しまない父が、東京土産を買ってこようと、子供たちに欲しいものを聞く場面があります。


 葉蔵は、このとき、父の聞きたいであろう答え(おもちゃの獅子舞)を言い損ねたことを、「父を怒らせた、復讐される」と極端に恐れ、持ち前の取り繕ったお道化で、父の機嫌を直すことに成功していますが、この場面には、葉蔵の父に対する緊張感や恐怖心があらわれています。


人間失格 獅子舞 -.png




 父の地位がもたらす富。


 しかし、それにつらなる人間の闇が、幼い子供である守一と葉蔵の前に繰り広げられ、彼らはそれぞれに深い人間不信の念を抱くようになりました。




 (熊谷守一が生家から受けた影響)


「のちになって妻などに、よく冗談めかして「オレだって普通の家に育っていたら、もっとかわいらしくなっていたはずだ」などといったものですが、これは本音に近いのです。」(※2)


 「おふくろなんかから生まれて来ずに、木の股から生まれてくればよかった。」(※3)



 守一は四歳の頃、実の父母が住む付知の家から、「岐阜の家」と呼ばれる父親の別宅に移されました。


 父が経営する製糸工場の側にあったその家には、大勢の人々が住んでいましたが、その内実は非常に複雑なものでした。


「はっきり記憶にありません。ともかく、父の妾が二人いました。そしてその子供たち。つまり私の異母兄弟に当たる人が数人。さらに妾の姉妹だとか、はっきりしない係累がごちゃごちゃとたくさんいました」(※4)

                        

 実母とも、彼を可愛がってくれた祖母とも引き離され、守一は、二人の妾のうちの一人を「おかあさん」と呼ばされることになりました。


熊谷守一の少年時代 -.png

 子供たちにはそれぞれ個別の家庭教師や乳母がつき、彼らが、自分の面倒をみている子供ばかりひいきするので、さらに家の空気は険悪になっていきます。


 加えて、父の工場の従業員たちから流れてくる、生々しく悲惨な男女の話。


 幼いうちに人間関係の裏表をすっかり目の当たりにしてしまった守一は、こんな考えを持つにいたります。


 「そんなことで、私はもう小さい時から、おとなのすることはいっさい信用できないと、子供心に決めてしまったフシがあります。子供といっても、何でも理解して確信をもって判断してしまうものです。


 今風にいうと、私は自分のカラの中に閉じこもったわけです。「守一さんはいい子だけれど、ちょっとわからんところがある」という家の中の評言は、よく私の耳にも入ってきました。」(※5)



 一方、大庭葉蔵も、周囲の人間が、父にはお追従を言いながら、葉蔵の目の前で父の陰口を言う姿を何度も見て育ちました。


 そしてその裏表の激しさから、葉蔵もまた「所詮、人間に訴えるのは、無駄である」と、深い不信と諦観に沈んでいきます。




(お道化る葉蔵と反抗する守一)


 しかし、ここで、熊谷守一と、「大庭葉蔵」はそれぞれ違う生き方を選びました。


 大庭葉蔵は、この陰鬱な状況下、「怒らせては、怖い」という、人間に対する恐怖感と、それでも彼らに立ち混じりたいという微かな情を抱え、「道化」を演じることにします。


葉蔵の道化 -.png

 美少年で、頭はいいけれどおっちょこちょい、いつもにこにこして、おどけたことをして、人を笑わせている。


 そういうキャラクターを演じ、両親や周囲の人(特に女性)に好かれることで、身の安全と居場所を確保することに終始し、それを自身の終生の生き方とすることにしました。

(そして、それは後に無意識のうちに破綻していきます。)


 「自分は無だ、風だ、空だ、というような思いばかりが募り、自分はお道化に依って家族を笑わせ、また、家族よりも、もっと不可解でおそろしい下男や下女にまで、必死のお道化のサーヴィスをしたのです。」


 こうして、葉蔵は誰にも口答えをしない、そして、何一つ本当のことを言わない人間へと成長していきました。



 一方、守一は、こうした大人に対し、自分の殻に立ち入らせないようにしながらも、不信を隠さず、猛烈に抵抗します。


 まず、「おかあさん」と呼ばされた女性に対しては、理不尽に威張っているからと、あらゆる反抗をし、また、裕福な家の子供らしく着飾らされたときは、怒って道を転げまわり、美しい着物を無茶苦茶にしました。(※6)


 また、守一は、葉蔵とは真逆に、人を信じないがために、人に嫌われることを恐れませんでした。


「私は子供のころから、こわいものはほとんどありませんでした。人に媚びたり、逆に人を押しのけて前に出ることもしなかったから、こわいと思う人などいなかったのです。」(※7)


 また、守一は、(おそらく父親に見込まれている守一を味方につけようと)様々な人間から他人の愚痴を聞かされたときも、どちら側にも加担しなかったそうです。


「俺は俺だと思っていたんですよ。そんな小さいときからね」(※8)




(守一と大庭葉蔵から見た実母)


 守一は離れて暮らすことになってしまった実母に愛情を抱くことができず、守一三十歳のころ実母が亡くなったとき、「少しもおふくろという気がしないのは妙な具合でした」と語っています。(※9)


 そして、自分が母の死にほぼ無感動であったことが、母が亡くなったことそれ自体より悲しかったそうです。




 守一と同じく、大庭葉蔵も実母に対する念が薄い人物でした。


『人間失格』内には葉蔵の実母に対する感情が全く語られておらず、父の話し相手や、父のもとに葉蔵を連れていく人間として描かれるにとどまっています。


(一方、葉蔵から見た父は、愛と許しではなく、裁きだけをもたらす古の神のような存在として常に彼の頭上に君臨し続けており、その存在感に歴然の差があります。)




 守一も葉蔵も、絶大な権力を持つ父の陰に隠れていた実母が、一人の人間として何を思っていたかを知らず、生涯を通じ、その存在に愛を感じることができませんでした。





(熊谷守一が愛した人々)



 実母とさえ縁が薄かった守一でしたが、誰にも心を許せなかった葉蔵と違い、彼は二人の人物に家族の情を抱いていました。


 一人は、守一の次兄、「梨の木の兄」でした。


 春になると庭の梨の木をさすり、幹がしっとりと柔らかくなってきたから、春が近い、と言う人で、このため、守一はこの兄のことを「梨の木の兄」と呼んでいました。


 後に家を継ぐ長兄とは違い、優しすぎるほど優しく、成績は悪くないけれど、逞しさは無い、涙もろい人だったそうです。


 ゆえに馬鹿にされもしたようですが、守一はこの兄とは親しく、後に上京しても一緒に暮らしていました。


 (この兄は、父が破産した後、なすすべくなく苦労をして、後に心を病んで早死にしたそうです。)(※10)




 もう一人は、「威張っていないほうの妾の妹」だった人でした。


 この女性は守一をよくかばってくれ、彼女になついた守一は、一緒に小川にエビや小魚をとりに行くのを楽しみにしていました。


 しかし、守一が中学生になったころ、彼女はまだ幼い我が子を残し、結核で亡くなってしまいました。


 守一を事実上の跡継ぎと思っていたのか、病の床で、少年だった守一に、「子供をお願いします」と、何度も言いながら世を去ったそうです。


 その後父は破産し、赤貧の画家となった守一には何の力も無く、守一が40才のころ、この女性の子供が、はたちくらいで亡くなってしまったと知った守一は、彼女の頼みを聞けなかった申し訳なさと、優しかった彼女の記憶がこみあげ、涙があふれて止まらなかったそうです。


「あれほど悲しく残念な思いをしたのは、生涯そう数はありません。」


守一はこの女性の子供の死について、そう振り返っています。(※11)


(余談ですが、太宰治は、彼の自伝的作品で、美貌ながら不器用な性格だった四番目の兄と親しく、また心温かな乳母の女性を慕っていたことを振り返っており、守一と似た状況であったことがわかります。〈兄との話は短編「兄たち」(新潮文庫『新樹の言葉』収録)、乳母の話は中編『津軽』で読むことができます。いずれも心に染みる名作です。〉)





 少年時代に人間不信に沈んだ熊谷守一と大庭葉蔵。


 葉蔵は道化を演じ、守一は誰にも与さず、時に反抗的な態度をとり(しかし一握りの人には親愛の情を抱きながら)成長しました。


 二人の生き方は、その後、画家という目標を前にさらに大きく隔たっていきます。

 第二回では、守一と葉蔵の「画家になる夢」と「女性」についてご紹介させていただきます。


 (当ブログ、熊谷守一関連の記事一覧です。(一部内容が重複しています)よろしければ併せてごらんください。)





【出典】

(※1)『へたも絵のうち』(熊谷守一著 日本経済新聞社 1971年11月発行)p.19

へたも絵のうち (1971年)
へたも絵のうち (1971年)

(※2)同上、p.24

(※3)『モリはモリ、カヤはカヤ』(熊谷榧著 新日本出版社 1990)p.8

モリはモリ、カヤはカヤ―父・熊谷守一と私 (榧・画文集)
モリはモリ、カヤはカヤ―父・熊谷守一と私 (榧・画文集)

(※4)『へたも絵のうち』p.22

(※5)同上、p.24

(※6)同上、p.28

(※7)同上、p.31

(※8)『新装改定版 蒼蠅』(熊谷守一著 求龍堂 2004年12月発行)p.99

(※9)『へたも絵のうち』p8687

(※10)『新装改定版 蒼蠅』p111

(※11)『へたも絵のうち』p25

続きを読む
ラベル:太宰治
posted by pawlu at 18:51| 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月07日

絵画の中の道化たち 『人間失格』の「道化」に寄せて


 先日、太宰治の『人間失格』(1948年)のあらすじを書かせていただきましたが、主人公葉蔵が常に自分をなぞらえていた「道化」について、絵画の中に描かれた道化の姿を少しだけご紹介させていただきます。


 1,ピカソとルオーの描いた「道化」

 「道化」とは、滑稽な言動で人を笑わせる芸人をさし、有名な「ピエロ」という呼び名は、クラウン(※)とか、アルルカンなど色々な道化の役どころのうちの一つだそうです。
 (※)クラウンの一種が「ピエロ」

 現代のわれわれには「道化」といえばほぼ「ピエロ」とイコールで、「ドナルド・マクドナルド」か「スティーブンキングのIT(子供を殺害する謎の禍々しき殺人ピエロ〈この映画の後ピエロ芸人の人は怖がられて大変だったんだとか〉)」のイメージがありますが、キュビスムの巨匠ピカソと、厚塗りの油絵や版画で、光を透かしたステンドグラスのような絵を描いたジョルジュ・ルオーは、それぞれのタッチで、「人々を楽しませながら、心に痛みを秘め、一たびショーが終わればつつましく生きる道化師たち」を深い敬愛と共感とともに描きました。

(ピカソ作「ピエロ」ウィキペディアより 画像提供ニューヨークMoMA美術館)
Pablo_Picasso,_1918,_Pierrot,_oil_on_canvas,_92.7_x_73_cm,_Museum_of_Modern_Art.jpg


 特に「道化師の画家」とも呼ばれたルオーは彼らに対する愛着が深く、道化師に扮した自画像や、
「我々は皆、道化師なのです」という言葉を残しました。


 一方でキリストを数多く描いたルオー。

 素朴ともとれるような太くシンプルな線で描かれ、眼を伏せてもの思いにふけるかのような道化師たちは、この世の悲しみを知り、それに傷つけられながら、人々に喜びを与えようとする聖人のような優しくも神聖な光を帯びています。

 葉蔵と暮らしていたことのあるバーのマダムは、人生を地獄と思いながら「道化」を演じ続けた葉蔵のことを、「神様みたいな良い子でしたよ」と言い、まさに葉蔵はこの「聖なる道化」の一人のようですが、作中、ピカソやルオーが描いた道化についての言及はありません。

 葉蔵が東京で暮らしていたのは、昭和5〜7年(1930〜1932)ごろという記述があり、ルオーの作品はすでに1920年代後半には白樺派によって日本に紹介されていたそうですが、洋画家志望であった葉蔵が、偶然目にしなかった、あるいは、ゴッホの絵のようには感銘を受けなかったという設定になっているのか、とにかく作品に一切登場しません。

(なおピカソは1910年代には道化の絵を描き、1920年代にはすでに画壇で大きな成功をおさめているので、こちらも画家を志す青年なら目にしていてもおかしくないのですが、特に触れられていません。)

 参照:
パナソニック汐留ミュージアム「ジョルジュ ルオー アイラブサーカス」展HP
http://panasonic.co.jp/es/museum/exhibition/12/121006/ex.html
金澤清恵 「日本におけるジョルジュ・ルオーの紹介、 あるいはその受容について」成城大学美術史 第17号
http://journal.seijo.ac.jp/gslit/student/art/pdf/art-017-03.pdf
美の巨人たち「傷ついた道化師」
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/070324/

 作中葉蔵がピカソやルオーの物哀しい優しさを称えた道化を目にする機会があったか無かったかというのは知る術がありませんが(観て共感できたなら、彼の道化や人生の質が変わったのではないかとは、一読者としてかすかに想像しますが)、なにはともあれ、この時代には、すでに、道化という言葉には、人を笑わせる芸人という本来の役割を超えて、人々のために十字架を負うキリストにも似た神聖なイメージが漂い、また、『人間失格』という作品自体にも、マダムの言葉などから、かすかにそのイメージをほのめかすような描写があります。
 (なお、太宰治は1935年に『人間失格』と同じ大庭葉蔵という名の男を語り手に『道化の華』という作品を発表しています。)
 
2、(補足)アントワーヌ・ヴァトー作「ピエロ(ジル)」

WatteauPierrot.jpg
ウィキペディアより 画像提供The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM)

 1718‐1719年ごろの貴族文化華やかなりしフランスで、大庭葉蔵の心理を微かに彷彿とさせる、あるミステリアスなピエロの絵が描かれました。

 そのはかなげな気品漂う画風で、「雅びな宴」の画家と呼ばれたアントワーヌ・ヴァトーの作品「ピエロ〈旧称ジル〉」です。

 ほぼ等身大に描かれた、白い道化の衣装を着て、所在なげに両手をだらりと下げて、穏やかだけれどメランコリックな、微かに目のふちに涙を浮かべているようにすら見える若者。

 背後には、彼より低い位置に立っているのか、喜劇の登場人物たちやロバが半身だけ姿を見せ、人々は中央のピエロをよそに、何か言葉を交わしている様子。

 モデルが誰なのか、寓意画なのかなど、はっきりしたことは何もわからないこの絵は、引退した役者が開いたカフェの看板という、異色の出自を持っていたといわれています。
 
 ヴァトーは早逝(36歳で死去)ながら、生前一定の評価を得た画家なのですが、その後、その絵の価値が忘れ去れてしまったのか、1800年代はじめに、ルーブル美術館初代館長であったヴィヴァン・ドゥノンが骨董屋でこの絵を見かけた時には、絵は安値で売られ、チョークでこんな詩が書き加えられていたそうです。

「あなたを楽しませることができたならどんなにかピエロは満足することでしょうか」

 ドゥノンは、同行していた当時の大画家ルイ・ダヴィッド(「アルプスを越えるナポレオン」等で有名)が止めるのも聞かず絵を購入し、絵は後にロココ絵画の傑作にして、ルーブル美術館の至宝とたたえられるようになりました。

アルプスを越えるナポレオン.jpg

 輪郭をギリシャ彫刻のようにはっきりと描き、歴史的で勇壮な画面を描くことに長けたダヴィッドが、この絵を高く評価しなかったというのはありそうなことですが、それでも譲らず絵を救ったドゥノン氏のおかげで、絵はこうして後世に伝えられることとなりました。

 この絵を残して間もなく世を去ったヴァトー自身の投影ではないかとも考えられているこの絵は、時代も国境も超え、周囲に溶け込もうとしても、馴染めずに、独り寂しげに佇む心地を経た人すべての心に響きます。

 先日書かせていただいたフランスの傑作映画「ピエロの赤い鼻」の中で、主人公たちに同情を寄せた心優しいドイツ兵ベルントが、上官の指示に従う周囲の兵士たちの中で、独り両手をぶらりと下げて、動かない場面があるのですが、そのポーズは非常にこの絵に似ています。
(フランスでピエロを題材にする以上、絶対に意識せざるをえない絵だと思うので、おそらく念頭におかれて撮影されたシーンなのだと思います。)

 また、萩尾望都さんのバレエ漫画『ローマへの道』(いずれご紹介させていただきます)でも、この絵に影響を受けたのではと思われるタイトルページがあります。(主人公マリオがにぎやかな踊りの輪から独り外れて、仮面を外している)

ローマへの道 (小学館文庫) -
ローマへの道 (小学館文庫) -

ローマへの道 旧表紙.png

 この絵が『人間失格』をはじめとした、太宰作品における道化のイメージに影響を与えたかどうかは謎ですが、しかし、やはり笑いよりもむしろ言い知れない孤独と寂しさを漂わせているというところが、作品世界を思い起こさせるので、補足でご紹介させていただきました。

(ドゥノン館長とダヴィッドの逸話については、エピソードが載った本のタイトルをメモしそこねてしまいましたので、近日中に確認の上、追記させて頂きます。)

 当ブログではこの後何回か『人間失格』について書かせていただく予定です。(何度か違う話題が挟まると思いますが)よろしければまたお立ち寄りください。

 読んでくださってありがとうございました。

posted by pawlu at 23:39| 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月05日

太宰治「人間失格」(原作あらすじ)



 今日は太宰治の代表作『人間失格』のあらすじについてご紹介させていただきます。

 これから何回か、この作品と、これを漫画化した作品『まんがで読破 人間失格』について書かせていただく予定です。


人間失格、グッド・バイ 他一篇 (岩波文庫) -
人間失格、グッド・バイ 他一篇 (岩波文庫) -

人間失格 ─まんがで読破─ -
人間失格 ─まんがで読破─ -

 以下、原作あらすじです。結末までネタバレですので、あらかじめご了承ください。(一部不適切と思われる用語がありますが原作のまま使用させていただきます。)
 
 物書きの「私」は、ある奇妙な3枚の写真と長い手記が記されたノートを手に入れる。

 それぞれに底知れない不吉と嫌悪感を抱かせる3枚の写真に写っていたのは一人の男。そして手記は、その不吉を発する一人の男、大庭葉蔵の生涯について語られていた。
 
「恥の多い生涯を送って来ました。」
そんな言葉からはじまる葉蔵の人生の告白。

 東北の非常に裕福な家庭に生まれ、何不自由無い暮らしだったはずだが、幼い頃から飢えを知らず、使用人と家族の間で人間の裏表を見てきた彼は、人間に恐怖し、彼らを理解できないことに苦しみ続けていた。
 
 怯えの中で、せめて人間を笑わせる道化となることに、彼らの間で生き延びる道を見出した葉蔵は、ある日彼のクラスメートで、彼の意図的な道化を指摘した竹一から「お化けの絵だよ」と見せられたゴッホの自画像に衝撃を受ける。

 ゴッホ、モジリアニ、竹一の目にはお化けや地獄の馬に見える人間を描いた人たち。

 彼らは、人間に痛めつけられた果てに、人間の中に、妖怪を見た、そしてその恐怖を自分のように道化で誤魔化さずに、見えたままの表現に努力した。そして敢然と人間をモチーフとして「お化けの絵」を描いたのだ。

 そう思って涙が出るほど感動した葉蔵は、自分も彼らのような絵描きになりたい、と、強く思うようになる。

 普段のお道化を封印して、ひそかに自画像を描いた葉蔵。

 人の思惑に少しも頼らない、主観による創造、それを心がけて描いたその絵は、驚くほどに陰惨な、満足の行く出来に仕上がったが、葉蔵はそれを竹一にだけ見せて、他の人たちには自分のこうした暗部を知られたくないという思いから、すぐにしまいこんでしまう。

 葉蔵の自画像を見た竹一から「お前は偉い絵描きになる」と言われ、しかし、葉蔵はその夢を叶えることができなかった。

 厳格な父に、父の勧める官吏ではなく絵描きになりたい、と言い出すことができず、父の別荘で、高等学校に籍を置きつつ、ひそかに画塾に通ううちに、葉蔵は堀木という男に出会う。

 美貌で遊び人の堀木から、金を無心され、酒と煙草と女を教えられ、内心互いに軽蔑しながらもその交友関係は続き、そうこうするうちに、自分が男以上に恐怖する女という生き物を引き寄せる「女達者」になりつつあるという恥ずべき事実に気づいた葉蔵は、女遊びから距離を置くようになる。

 しかし、もう一つ堀木に教えられた非合法の政治活動、これからはまだ離れることができなかった。

 一方、息子が反体制の政治活動をしているとは知る由もなかった政治家の父から、別荘を出て自活するよう言い渡されたとき、葉蔵はたちまち生活に困るようになる。

 生活苦と、遊び半分で始めたはずが抜けられなくなっていた非合法の政治活動、そして遊興の悪癖。

 それらにがんじがらめになって身動きがとれなくなっていたときに、葉蔵は人生に疲れたバーの女給ツネ子に出会い、彼女のわびしさに安らぎを覚えた果てに、深く考える間も無く、心中事件を起こす。

 女給は死に、葉蔵は助かった。

 この事件は政治家で名士の父のスキャンダルとなった。
    起訴猶予となった葉蔵は、父の世話になっていた骨董商の男(父も葉蔵もその男を「ヒラメ」と読んでいた)を身元引受人として釈放され、彼の家で寝起きをすることになる。

 ヒラメが心配するような後追い自殺の気力などなく、いたたまれなさからヒラメの家を出て堀木を訪ねた葉蔵は、そこで、雑誌社に勤める子持ちの未亡人の女性シヅ子に出会い、彼女の家に身を寄せた。

 彼女の紹介で、子供向け漫画の仕事を得て、彼女と同棲することになった葉蔵。

 同時に故郷とは絶縁することになり、憂鬱な思いの中で酒を飲みながら漫画の仕事をこなすうちに、自活したいという思いとは裏腹にまた酒代が膨れ上がり、自分がいては、この母子を不幸にする、と思った葉蔵は、シヅ子の家を黙って後にし、行きつけになったバーのマダムのもとに転がり込んだ。

 彼女の店を手伝い、漫画を描きながら無為な日々を過ごしていた葉蔵だったが、ある日タバコ屋の娘ヨシちゃんに出会い、彼女の無垢に打たれて、彼女と結婚することにする。

 束の間ヨシ子と幸せな新婚生活を送っていた葉蔵、しかし、堀木との付き合いを断ち切ることができずに、再び酒浸りの日々を送るようになり、そんな中、ヨシ子が葉蔵の漫画を買い取っていく男に暴行されるという事件が起こる。

 堀木とともにその事件を目撃した葉蔵。

 葉蔵が惹かれたヨシ子の無垢の信頼、それによってヨシ子が卑劣な男に騙された。

 この皮肉に苦しめられた葉蔵は、混乱の中で、ヨシ子の自分に対する愛情すらも疑うようになる。

 事件に巻き込まれた挙句、葉蔵から疑われたヨシ子は、自殺するつもりで催眠剤を手に入れ、それを見つけた葉蔵は、「お前に罪は無い」と思いながら、それをすべて自分で飲み干す。

 二度目の自殺未遂、しかし、またしても死に損なった葉蔵は、ますます酒を飲んで喀血し、薬を求めて入った薬局の女主人から、アルコール依存を断つために、と、ひそかに渡されたモルヒネの虜となる。

 薬欲しさに、女主人を誘惑し、それでも膨れ上がった薬代と中毒症状はどうしようもなく、ついに行き詰った葉蔵は、父に助けを求める長い手紙を書き送る。

 やってきたのは、堀木とヒラメだった。
 
 「お前は、喀血したんだってな」
 その優しい微笑みに感動した葉蔵。とにかく、病気を治さなければと説得されて、連れていかれた先は、胸の病気を治すサナトリウムではなく、脳病院だった。

 施錠された病棟。

「人間、失格」
 堀木の微笑に裏切られ、その刻印を額に打たれた心地の中、鉄格子を透かして季節の移り変わりをただ漠然と見ていた葉蔵は、訪れた兄から、父の死を告げられる。

 懐かしくおそろしかった父の死。

 苦悩さえも失った葉蔵は、兄に引き取られ、廃屋のような家に老いた女中と住まわされることになる。

「今の自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一切は過ぎていきます」

 ことしで二十七才になった葉蔵は、白髪が増えたために、周囲からは四十以上に見られている。

 手記はそんな話で結ばれていた。



 物書きの「私」は「あとがき」の中でこの数奇な写真3枚と手記を手に入れた経緯を語る。

 葉蔵のことは知らない、しかし、「私」に手記を託した女性は、おそらくかつてバーのマダムしていた人だ。

 彼女のもとに送られてきたこの手記を、彼女は「小説の材料になるかもしれない」と、私に託した。

 葉蔵の生死は知らない。ただ、手記を送られてからもう十年経つから、なくなっているかもしれない。
 そう語るマダムに、「あなたも、相当ひどい目にあったのですね」と、「私」は言う。
 「あのひとのお父さんが悪いのですよ」
 マダムは「私」に、なにげなく、そう言った。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいな良い子でした」

(完)

 人間に怯えて、道化を演じ続けた果てに、世間から孤立していった葉蔵。

 彼自身の語りの中、そして、マダムの記憶の中では、自分の苦悩を押し殺して人間を笑わせた「聖なる道化」のようにも見える葉蔵ですが、彼の語りの中に埋没した他者とのやりとりには、それだけでは片づけられない物語の奥行があり、太宰治のダイレクトな自伝であり遺書であるかのようにも思わされるこの作品が、漫画となることで、確かに作品の中にほのめかされ、しかし、重視されてこなかった要素を浮かび上がらせています。

(原作ファンにとって、他メディアのリメイクに満足がいくことは少ないのですが、この漫画は、原作にかなり忠実でありながら、漫画の特性を活かしたデフォルメがされており、原作ファンにも非常に読み応えがありました。)

 当ブログでは、何回かに分けて、この原作と漫画の比較を行い、それぞれの作品の特色をご紹介させていただきたいと思います。よろしければまたお立ち寄りください。

当ブログ太宰治関連記事は以下の通りです。併せてご覧いただければ幸いです。
「黄金風景」(太宰治短編ご紹介1)
「花吹雪」(太宰治短編ご紹介2)
「哀蚊(あわれが)」(太宰治短編ご紹介3)
「人間失格」原作あらすじ

 読んでくださってありがとうございました。

posted by pawlu at 23:57| 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月11日

「哀蚊(あわれが)」(太宰治短編ご紹介3)


本日は、太宰治のごく短い作品についてご紹介させていただきます。
(ネタバレですのでご了承ください。)

「哀蚊」(あわれが)

太宰治初期の作品「葉」の一部に「自分が過去に書いた作品」として含まれている掌編小説です。(小説集『晩年(1936年発行)』に収録)

晩年 (新潮文庫) -
晩年 (新潮文庫) -

太宰治本人を思わせる「私」の言によるとこの「哀蚊」を書いたのは、自身が19才のとき。(※1)

「それはよい作品であった。(中略)自身の生涯の渾沌を解くだいじな鍵となった。形式には、「雛(※2)」の影響が認められた。けれども心は、彼のものであった。」
と、自ら思い入れを語っている作品です。

(※1)戦前は年齢を数え年で言うのが一般的だったので、おそらく現在で言えば18歳。
(※2)芥川龍之介の短編。太宰は芥川の熱烈なファンだった。

「秋まで生き残されている蚊を哀蚊と言うのじゃ。蚊燻し(かいぶし※蚊取り線香)は焚かぬもの。不憫ゆえにな。」

そう語る、東北の富裕な一族に生きた、若き日の絶世の美貌を色濃く残す老女。

死に顔すら夏木立の影も映らんばかりに透き通り、しかし、その肌を誰にも触れられぬまま死んだ、その無念をひっそりと描いた作品です。



「おかしな幽霊を見たことがございます」

物語は本家の娘のそんな語りからはじまります。

本家の娘「私」は、幼いころ、同じ屋敷に住む、美しい「婆様」に可愛がられて育ちました。

「わしという万年白歯(※)を餌にして、この百万の身代ができたのじゃぞえ」
それが婆様の口癖。財産を分けずに済むよう、一族が結婚を禁じたのでしょう。

(※)未婚の意、昔、既婚女性は鉄漿(おはぐろ)で歯を黒く染めたため。

家の繁栄の犠牲となった美しい老女は、実の孫ではない「私」への秋の寝物語として、生き残った哀蚊の不憫を語って聞かせます。
「なんの哀蚊はわしじゃぞな。はかない……。」
幼い「私」を抱きしめ、その両足を自分の脚の間にはさんだまま、老女はそうつぶやきました。

そしてこの美しい「お婆様」を誰よりも慕っていた「私」は、ある晩、幽霊を見たのです。

やはり秋、「私」の姉の祝言の晩。騒々しかった宴会も静まった頃。
目をさますと、「私」に添い寝していたはずの「婆様」が居ず、厠に行こうと一人こわごわ部屋を出た娘の目の先に、見えたもの。

青蚊帳にうつした幻燈のようにぼんやりと、しかし確かに夢ではなく。
暗く長い廊下の片隅、新婚の二人の寝室の前に、白くしょんぼりとうずくまり、中をうかがう小さな幽霊。

「幽霊。いえいえ、夢ではございませぬ。」

(完)

確かに「」に一部似たところがあります(※没落した名家の父が、手放すことになったひな人形を飾り、夜中に独りそれを眺める姿を、娘が見つけるという内容。作品が娘の回想として語られる点、夜中、娘が家族と家の悲哀を思いがけず目撃するという部分が共通している。)しかし、こと凄味という点ではそれを上回っています。

幼い「私」を抱きしめることで独寝のわびしさを紛らわせ、自分は迎えることを許されなかった初夜を垣間見ようとする「婆様」。

太宰は実家が非常に裕福ながら、その実かなり内外に重苦しい業を重ねて財を蓄えたというのは、しばしば作品の中で語られているところです。

太宰の実家である津島家、あるいは近隣の似たような裕福な家でも、この「婆様」のように、家の財を保つために、結婚を禁じられて、大きな冷たい屋敷から出ることを許されず、本家の人間の面倒を見、彼らだけに許された婚姻を、寂しさと羨望を押し殺して眺めながら、老いて死んだ女性たちがいたのかもしれません。

(なお、作中では、同じ夜、「私」の父が祝いの席に呼んだ芸者と関係を持っていることをほのめかす場面もあり、婆様に孤独を強制しながら、淫蕩に走る本家の男たちのエゴが浮かびあがる構成になっています。)

そういう現実を念頭にしているせいなのか、「葉」自体の、いかにも太宰作品らしい、まだ若いのに人生が苦しくて仕方がないといった口調や、心が疲弊しきって現実と幻影の区別があまりつかない茫洋とした灰色の世界観の中で、この「哀蚊」の廊下の暗さや、美しい老女の肌の不幸な輝き、空気の冷たさはリアルで異彩を放っています。

もし本当に未成年のうちにこの作品をものにしたのなら、まさにおそるべき才能です。

ご存知のとおり、太宰はこれ以後も数々の傑作をものにしていきますが、これはこれで、短いながら、既にこれ以上足し引きできない完成されたものを感じさせる。

(ただ、まだ若いうちに、圧倒的富裕の裏返しとして、身近にこのような不幸とエゴを感じていたのなら、それは確かに苦しいことだったでしょう。)

これを読んで以来、この薄幸の「婆様」と、「あわれが」という言葉の響きも相まって、秋の蚊には「もう死んでしまう、しかし、いつどう死ぬのか、なんのために生まれてきて死んでしまうのか自分でも知らない、はかない、さびしい、ちいさな命」というイメージがつき、しんみりしそうになります。

(「しそうになる」だけで、しないけど。現実の秋の蚊は体が大きいし、いつ死ぬのかわからないせいか、羽音も殺気だって、どこだろうとお構いなしに刺しまくるから、ある意味夏の蚊より速やかに葬り去らないとひどい目に遭う。)

蚊の季節から秋にかけて、先日ご紹介した椎名誠さんの蚊の話(「わしらはあやしい探検隊」より)と真逆の才能として、いつも対で思い出す作品です。

ネット上の「青空文庫」でも閲覧することもできるので、よろしければご覧になってみてください。

当ブログ太宰治関連記事は以下の通りです。併せてお読みいただければ幸いです。
「黄金風景」(太宰治短編ご紹介1)
「花吹雪」(太宰治短編ご紹介2)
「哀蚊(あわれが)」(太宰治短編ご紹介3)

読んでくださってありがとうございました。
posted by pawlu at 05:00| 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月19日

太宰治「花吹雪」(太宰治短編ご紹介2 「桜桃忌」によせて)

 6月19日は作家太宰治の命日「桜桃忌」です。

 人間への恐怖から破滅した青年の生涯を綴った『人間失格』の作者で、自身も破滅的な生涯を送り女性と心中した作家。

 ……というイメージが強く、実際そうでもあるのですが、私は『人間失格』も非常に優れていると思いつつ(夏目漱石の『こころ』の次に染みる作品です)、太宰治の短編小説家としての手腕とユーモアセンスが好きなので、今回はそういう作品のひとつをご紹介させていただきます。

 「花吹雪」

 「黄村先生(おうそんせんせい)」という大学の教師(しかし世間的知略でいうと、むしろ不器用でとんちんかんなところが多い)がいらして、ときおり物書きの「私」や学生たちを自宅に招集して持論を披露するのだが(大迷惑)、この回では「男子たる者、腕っぷしが強くなければならぬ。腕に覚えさえあれば、知的な仕事にも自然と風格が出るものだ」という論説をぶり、その説にのっとって、普段自分を馬鹿にする近所の同年代の画家をぶんなぐろうとする……という話です。

 太宰と言えば「生まれてすみません」とか、「恥の多い生涯を送ってまいりました」というフレーズで有名ですが、こんな話もあるのです。

 この「黄村先生」は三部作になっていて、あるときは「オオサンショウウオ」の美にうたれて、飼いたい買いたいと騒ぎ出し、あるときは茶の湯に凝って強制的に茶会を催す(……といっても別にわびた茶釜も器も持っていない)、というように、大体、先生が突如熱情に浮かされて「私」たちを巻き込んで行動に移すけれど、御気の毒ながらうまくいかない(けど懲りない)というパターンです。(作品名、順に「黄村先生言行録」と「不審庵」)

 三作ともそれぞれ面白いのですが、とくに「花吹雪」で興味深いのは、まず
「男たるもの腕っぷしが強くあれ、あれば作物に重みが出る」
というお説それ自体です。

 語り手の「私」も「大山椒魚こそ古代の美やまとの美ほしいほしいよう」みたいなのに付き合わされた時は、とてもうんざりした感じだったのですが(先生が水族館で大山椒魚にひとめぼれしたとき「さかな、いやおっとせいの仲間」とか口走って、その愛がいかにも即席だったから)、この説には感じ入るところがあり、反省したりしています。
以下黄村先生お説原文

文学と武術とは、甚だ縁の遠いもので、青白く、細長い顔こそ文学者に似つかわしいと思っているらしい人もあるようだが、とんでもない。柔道七段にでもなって見なさい。諸君の作品の悪口を言うものは、ひとりも無くなります。あとで殴られる事を恐れて悪口を言わないのではない。諸君の作品が立派だからである。そこにいらっしゃる先生(と、またもや、ぐいと速記者(補、語り手「私」のこと)のほうを顎でしゃくって、)その先生の作品などは、時たま新聞の文芸欄で、愚痴といやみだけじゃないか、と嘲笑せられているようで、お気の毒に思っていますが、それもまたやむを得ない事で、今まで三十何年間、武術を怠り、精神に確固たる自信が無く、きょうは左あすは右、ふらりふらりと千鳥足の生活から、どんな文芸が生れるかおよそわかり切っている事です。

 そして「私」のような文学者の対極として明治の文豪森鷗外と夏目漱石の武勇伝が紹介されます。これが第二の見どころ。

 森鷗外(代表作『舞姫』)といえば、軍医でもあり、実際に戦地に赴任していますから、考えてみれば何の心得もないわけはありませんが、50歳を目前にした時期に、彼に宴席で嫌味を言った記者と取っ組み合いの大立ち回りを繰り広げたことがあったそうです。

 聞こえよがしに鷗外にけちをつけてきたその男に対し、鷗外は「何故今遣(や)らないのか(補、「俺と闘って決着をつけないのか」の意)」とたんかを切り、「うむ、遣る」と言った記者と組み合って庭まで転げ落ち、周囲があわてて引き離したという話があったとか。

 「あのひとなどは、さすがに武術のたしなみがあったので、その文章にも凜乎(りんこ)たる気韻がありましたね」とは黄村先生の評ですが、「何故、今やらないのか」という発言は、確かにそれなりに鍛錬した人間でなければ、なかなか出てこない台詞です。

 一方「私」は、かつて酔っぱらった学生に喧嘩を売られたときに、こんな対応をしていまい、鷗外とわが身を比べてかなしくなりました。(以下引用)

私はその時、高下駄をはいていたのであるが、黙って立っていてもその高下駄がカタカタカタと鳴るのである。正直に白状するより他は無いと思った。
「わからんか。僕はこんなに震えているのだ。高下駄がこんなにカタカタと鳴っているのが、君にはわからんか。」
 大学生もこれには張合いが抜けた様子で、「君、すまないが、火を貸してくれ。」と言って私の煙草から彼の煙草に火を移して、そのまま立去ったのである。けれども流石に、それから二、三日、私は面白くなかった。私が柔道五段か何かであったなら、あんな無礼者は、ゆるして置かんのだが、としきりに口惜しく思ったものだ。
(中略)
私は、おのれの意気地の無い日常をかえりみて、つくづく恥ずかしく淋しく思った。かなわぬまでも、やってみたらどうだ。お前にも憎い敵が二人や三人あった筈ではないか。しかるに、お前はいつも泣き寝入りだ。敢然とやったらどうだ。右の頬を打たれたなら左の頬を、というのは、あれは勝ち得べき腕力を持っていても忍んで左の頬を差出せ、という意味のようでもあるが、お前の場合は、まるで、へどもどして、どうか右も左も思うぞんぶん、えへへ、それでお気がすみます事ならどうか、あ、いてえ、痛え、と財布だけは、しっかり握って、左右の頬をさんざん殴らせているような図と似ているではないか。そうして、ひとりで、ぶつぶつ言いながら泣き寝入りだ。キリストだって、いざという時には、やったのだ。「われ地に平和を投ぜんために来れりと思うな、平和にあらず、反って剣を投ぜん為に来れり。」とさえ言っているではないか。あるいは剣術の心得のあった人かも知れない。怒った時には、縄切を振りまわしてエルサレムの宮の商人たちを打擲(ちょうちゃく)したほどの人である。決して、色白の、やさ男ではない。やさ男どころか、或る神学者の説に依ると、筋骨たくましく堂々たる偉丈夫だったそうではないか。


……確かにイエス・キリストは生家が大工で30歳ごろまでその生業で働いていたようなので(参考資料「聖☆おにいさん」〈←?〉)、鷗外同様、体を鍛えていないという事はなさそうです。

 「私」はさらに、鷗外と並び称せられる文豪夏目漱石も腕に覚えがあったに違いない、として、次のようなエピソードを紹介しています。
(以下引用)

漱石だって銭湯で、無礼な職人をつかまえて、馬鹿野郎! と呶鳴って、その職人にあやまらせた事があるそうだ。なんでも、その職人が、うっかり水だか湯だかを漱石にひっかけたので、漱石は霹靂(へきれき)の如き一喝を浴びせたのだそうである。まっぱだかで呶鳴ったのである。全裸で戦うのは、よほど腕力に自信のある人でなければ出来る芸当でない。漱石には、いささか武術の心得があったのだと断じても、あながち軽忽(けいこつ)の罪に当る事がないようにも思われる。漱石は、その己の銭湯の逸事を龍之介に語り、龍之介は、おそれおののいて之(これ)を世間に公表したようであるが、龍之介は漱石の晩年の弟子であるから、この銭湯の一件も、漱石がよっぽど、いいとしをしてからの逸事らしい。立派な口髭をはやしていたのだ。


 ……「全裸で戦うのは、よほど腕力に自信のある人でなければ出来る芸当でない」という分析は、なるほどなあと思わされます。相撲だってまわしいっちょうのなのも、取り組みの前に両手を広げるのも「武器を持っていません」というアピールだと聞きましたし(参考資料「パタリロ」)。

 ちなみに漱石というと胃が弱くて痩せて怒ってばかりというイメージが一般的でしょうが、学生時代はボートに器械体操に野球に……とスポーツ万能で、実はひととおり体を鍛えていた人なのです。

 持ち前の癇癪で後先考えずに怒鳴りつけた可能性も否定できませんが、喧嘩で勝つかどうかは別として、人より身体能力に覚えがあったのは確かでしょう。

 そして、確かにあの明治の二大文豪の文章には、まさしく「凜乎たる気韻(うまい表現です。さすが太宰。これよりふさわしい表現は無い)」と呼ぶべき、何やら独特の侵しがたい硬質な質感と品があります。

 もちろん言葉づかいが古いからなんとなくカッコイく見える……というのもあるだろうし、鷗外も漱石もそれぞれドイツ語と英語が抜群に出来て、鷗外は医学を修め、漱石は漢詩・俳句も一流、と、ちょっと特異体質と言ってもいいほどの頭脳の持ち主なので、別に文が良いのが腕っぷし由来とは限らないじゃないかと言われればそうなのですが……。

 しかし、この二人の文豪のエピソードと共に思い出される話があります。

 明治の七宝作家、並河靖之
 昨今話題の超絶技巧の明治工芸の達人の中でも最も評価の高い作家です。そしてこれからもっと内外での評価が上がるでしょう。日本を代表する美の作り手として。
 私はこの人の作品を見るたびに、その清澄な静けさの奥から醸される、絶対的な存在感に圧倒されてきましたが、(並河作品を観たら、「きれいねえ」を通り越してオーラに気圧される人は多い。日本画家平松礼二氏はNHKの極上美の饗宴の中で、「本当に…心臓が…どきどきする…」といい、イギリスの某紳士は「気絶しそうになった」といい、私は「鼻血を噴きそうになる」と形容して知人の失笑を買った〈何故前の方たちのように言えなかったのか〉)ともあれ、その「澄み静かながら完璧さゆえに人を圧倒する美」のたたずまいは漱石の文章に似ているとつねづね思っていました。

 そしてこの並河靖之、元々馬術の名人で、その腕を見込まれて宮家の方々にてほどきをしたという話が残っています。七宝を手掛け出したのは実はそれより後のこと(物心ついたころから「七宝バカ一代」みたいな生き方をしていないとあんな作品はとうていできないと思っていたのですが、実は結構遅咲き)。

 鷗外、漱石の文、そして並河靖之の作品に共通する「凛呼たる気韻」と、彼らがそれぞれ何らかの形で鍛錬していたというエピソードをつなぎあわせてみると、その美の根っこのひとつは確かに「日々精進し、実際に体をきしませ、意思と技術の力でわが身を操ることができる」という能力のような気がするのです。

 その身体的な実感と自負が、いわゆる腹の座りとも、観察眼とも他者に対する説得力ともなり、彼らの作物に、どうにも馬鹿に出来ない重みと品を与えている。これはどうも事実なのではないでしょうか。

 別にそれが無ければなんにもできないということはない、違う才能でなければたどり着けない高みもあるのですが(実際鷗外には絶対に『人間失格』を物にできないでしょう、漱石もあの題材では太宰にかなわないと思います)、明治以後の人間が明治の人間に対し、どうもけむったいというか、かなわないような気がしてしまうのは、この「いざというときのためにそれなりにわが身を鍛えておけ、その上で物を言え」という凄味が無い時代に暮らし、頭だけで、我が頭にのみぶんぶんと振り回されて生きているようなところがあるからのような気がします。

精神に確固たる自信が無く、きょうは左あすは右、ふらりふらりと千鳥足の生活から、どんな文芸が生れるかおよそわかり切っている事です。

 ……痛い!痛い!耳が痛い!!
 ただし、この警句を見出し、読者の耳が痛むほどのフレーズにできたのは、太宰だけの才能です。(なんか棚に上げてないか。)

 ……ともあれ、このとおり、語り手「私」も読者もうなだれつつも染みるところのある黄村先生のお説でしたが、それにのっとって行動した結果、黄村先生はいつも通り災難に見舞われます。

 言ったからには老骨にムチ売ってでも体を鍛えねばと思った黄村先生、弓道を習いに行って、自ら引き絞った弓の弦で頬をしたたかはじいて(初心者はよくやるらしい。「こち亀」にも似た話があった)泣くほど痛い思いをしたりしたのですが、それでもその精神はある程度会得したと思い、武者震いしている最中に、普段から折り合いの悪かった同年代の画伯に屋台飲んでる最中に嫌味を言われます。

 いつもならそれこそ「右の頬をなぐられたら、さからってはならぬ、お金をとられないように、左の頬もさしだせ」と間違ったキリスト精神で泣き寝入りしていたはずですが、弓道で(数時間程度)鍛えた先生は、老画伯を敢然と呼び止めて、決着をつけようとします。
 
 ……その心意気は良かったのですが、相手に殴りかえされたときに備えて、うっかりたんかを切る前に入れ歯を外してしまい(壊されたら困るから、高いから)、その売り言葉も文字通りはなはだ歯切れの悪いものとなってしまいましたが、それでもひるまず画伯の顔を張り倒しました。

 これで溜飲を下げたと意気揚々と立ち去ろうとしたのですが、季節は春、先生が外して地面に置いた入れ歯は絶え間なく散る桜の花吹雪に埋もれ、所在がわからなくなってしまいます。

 いきなり殴られて茫然としていた画伯ですが、黄村先生のうろたえはいずる様子を見て、一緒に入れ歯を探し始めます。

 (以下引用)
老生(補、黄村先生)と共に四つ這いになり、たしかに、この辺なのですか、三百円(補、作品発表当時1940年代で1円=270円という説があるので現在の貨幣価値で10万円近辺かと思われます)とは、高いものですね、などと言いつつ桜の花びらの吹溜りのここかしこに手をつっこみ、素直にお捜し下さる次第と相成申候。ありがとうございます、という老生の声は、獣の呻き声にも似て憂愁やるかた無く、あの入歯を失わば、われはまた二箇月間、歯医者に通い、その間、一物も噛む事かなわず、わずかにお粥をすすって生きのび、またわが面貌も歯の無き時はいたく面変りてさらに二十年も老け込み、笑顔の醜怪なる事無類なり、ああ、明日よりの我が人生は地獄の如し、と泣くにも泣けぬせつない気持になり申候いき。杉田老画伯は心利きたる人なれば、やがて屋台店より一本の小さき箒を借り来り、尚も間断なく散り乱れ積る花びらを、この辺ですか、この辺ですか、と言いつつさっさっと左右に掃きわけ、突如、あ! ありましたあ! と歓喜の声を上げ申候。たったいま己の頬をパンパンパンと三つも殴った男の入歯が見つかったとて、邪念無くしんから喜んで下さる老画伯の心意気の程が、老生には何にもまして嬉しく有難く、入歯なんかどうでもいいというような気持にさえ相成り、然れども入歯もまた見つかってわるい筈は無之、老生は二重にも三重にも嬉しく、杉田老画伯よりその入歯を受取り直ちに口中に含み申候いしが、入歯には桜の花びらおびただしく附着致し居る様子にて、噛みしめると幽かに渋い味が感ぜられ申候。杉田さん、どうか老生を殴って下さい、と笑いながら頬を差出申候ところ、老画伯もさるもの、よし来た、と言い掌に唾して、ぐゎんと老生の左の頬を撃ちのめし、意気揚々と引上げ行き申候。も少し加減してくれるかと思いのほか、かの松の木の怪腕の力の限りを発揮して殴りつけたるものの如く、老生の両眼より小さき星あまた飛散致し、一時、失神の思いに御座候。かれもまた、なかなかの馬鹿者に候。 

 ……殴った相手に箒で花びらを掃きわけ見つけてもらった入れ歯。「ありましたあ!」と素直に喜ぶ心意気を嬉しく思いながらはめた入れ歯は桜の花びらが入ってほろ苦かったけれども、お詫びに殴り返してくださいと頼んだら、その殴られても邪心なく入れ歯を一緒に探してくれる単純さゆえに、案外手加減なく殴り倒され、目から星が出る心地がした……という顛末です。
 体を鍛えておくことはやはり大切だけれども、その拳は同胞に向けるべきものではありませんね……という実感を「私」に書き送って、黄村先生のお話は結ばれています。

 腕に覚えがあればその作物に重みが出るものだ、という発想。
 鷗外、漱石のいい加減重鎮となってからの武勇伝。
 そして、桜の花びらがたえまなく散る中で、さっきまで互いにいけすかない奴だと思っていたいい年の男同士が、殴った男の入れ歯を花びらをかき分け一生懸命探す姿と、「あ、ありましたあ!」という殴られた男の素直な歓声。
 きまり悪さと嬉しさの中で口中に広がる、入れ歯に挟まったほろにがい桜の花びらの味、ぶん殴られて飛ぶ星。

 思いっきりのユーモアの中にえもいわれぬ、それこそアンパンの上の桜の花の塩漬けのような、不思議な、しかしそれがあるがゆえに、末永く突出する妙味を持つ作品です。

 太宰の文に鷗外や漱石のたたずまいはありませんが、この真理を巧みにすくう感性と複雑な味わいは他の誰にもない太宰だけが持つ魅力です。

 青空文庫でも読めますが、太宰の名短編を多く集めた「津軽通信」(新潮文庫)にも収録されていますので、よろしければお手に取ってみてください。

津軽通信 (新潮文庫) -
津軽通信 (新潮文庫) -

当ブログ太宰治関連記事は以下の通りです。併せてお読みいただければ幸いです。
「黄金風景」(太宰治短編ご紹介1)
「花吹雪」(太宰治短編ご紹介2)
「哀蚊(あわれが)」(太宰治短編ご紹介3)

読んでくださってありがとうございました。

参照URL
青空文庫 「花吹雪」 http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1582_15079.html
posted by pawlu at 20:53| 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月24日

「黄金風景」(太宰治作短編ご紹介1)

 先日イギリスの海辺町クローマの記事を書かせていただきましたが、あの場所の景色を見ていて思い出した短編がありますので、少しご紹介させていただきます。

 太宰治作「黄金風景」(新潮文庫『きりぎりす』収録)。

きりぎりす (新潮文庫) -
きりぎりす (新潮文庫) -

青空文庫版はコチラ

 太宰治といえば、『人間失格』のような、人を信じられない人間の悲劇的な生涯を描いた作品を残し、作品そのままのような波乱の生涯を送った人物、というイメージがありますが、中には祈るような優しいせつないまなざしで人々を描いた名短編もあります。これはそうしたもののひとつ。

 とても短い作品なので、以下結末部まで簡単にご説明をさせていただきます。(あ、つまりはネタバレなんで、大丈夫な方だけお読みください。でも、原文を先にお読みになることをおすすめいたします。)

 太宰治本人を思わせる作家「私」は、非常に裕福な家庭に生まれましたが、後に勘当され(作品には書かれていないので、余計なことかもしれませんが、太宰本人の勘当の経緯としては、政治家の家に生まれながら反体制的な社会運動に加担した、自殺未遂を繰り返したなどがあったそうです。)、細々と文筆で身を立て始めたころに重い病気にかかり、息も絶え絶えな思いで、海辺の町でひっそりと療養生活と執筆を続けていました。(以下引用)

毎朝々々のつめたい一合の牛乳だけが、ただそれだけが、奇妙に生きているよろこびとして感じられ、庭の隅の夾竹桃(きょうちくとう)の花が咲いたのを、めらめら火が燃えているようにしか感じられなかったほど、私の頭もほとほと痛み疲れていた。

 そんな「私」のもとに、ある日、戸籍調査のために警官がやってきます。

 「私」の名前と顔を見て、彼の身元に気づいた警官は、自分も同じ土地の出であるということを彼に言います。

 触れられたくない過去を思い出させる、故郷の人間との思わぬ再会。

 憮然と聞いていた「私」でしたが、警官は屈託なく話を続けます。

「ところで、お慶(けい)がいつもあなたのお噂をしています。」

 誰のことやら一瞬思い出せなかった「私」でしたが、そのお慶という女性(今は警官の妻)が、かつて「私」の家の女中であったということを聞かされ、「私」は思わずうめきます。(以下引用)

 私は子供のときには、余り質(たち)のいい方ではなかった。女中をいじめた。私は、のろくさいことは嫌いで、それゆえ、のろくさい女中を殊(こと)にもいじめた。
 
 
 この幼い「私」にとっての「のろくさい女中」こそ「お慶」でした。

 子供だった「私」は、彼女が仕事の手を止めていれば冷ややかな嫌味を言い、それでも足らずに、一度は、絵本にあった何百人という兵隊の絵を切り抜かせるという嫌がらせをした上、彼女が手こずっているのにいらついて、彼女を蹴ったことさえありました。

 そのとき、肩を蹴ったつもりだったのに、彼女は「親にすら顔を踏まれたことはない。一生おぼえております」と泣き伏したのですが、それに多少嫌な気がしてもなお、「私」は彼女をいびることをやめませんでした。

 今になって、幼かった自分が彼女に何をしたかをまざまざと思い出した「私」は、ほとんど逃げ出したいような衝動にかられますが、警官はそんな様子に気づかず、こう言いました。(以下引用)

「かまいませんでしょうか。こんどあれを連れて、いちどゆっくりお礼にあがりましょう」
私は飛び上るほど、ぎょっとした。いいえ、もう、それには、とはげしく拒否して、私は言い知れぬ屈辱感に身悶え(みもだえ)していた


 しかし、「私」の思いを知る由もない警官は、朗らかながら律儀な様子で、きっとうかがいます、どうぞお大事に、と言うと、帰ってしまいました。

 数日後、気のふさいだ「私」は、家に居ても煮詰まるばかりだからと、海に散歩に行こうとします。しかし。

(以下引用)
玄関の戸をがらがらあけたら、外に三人、浴衣(ゆかた)着た父と母と、赤い洋服着た女の子と、絵のように美しく並んで立っていた。お慶の家族である。
 私は自分でも意外なほどの、おそろしく大きな怒声を発した。
「来たのですか。きょう、私これから用事があって出かけなければなりません。お気の毒ですが、またの日においで下さい」
 お慶は、品のいい中年の奥さんになっていた。八つの子は、女中のころのお慶によく似た顔をしていて、うすのろらしい濁った眼でぼんやり私を見上げていた。私はかなしく、お慶がまだひとことも言い出さぬうち、逃げるように、海浜へ飛び出した。


 「私」は、いらいらと手にしたステッキで雑草を薙ぎ払いながら、あてもなく町を歩き回ります。

 幸せそうな家族。

 独り。過去の間違いを謝ることも出来ずに飛び出していった自分。
(以下引用)

ちえっちえっと舌打ちしては、心のどこかの隅で、負けた、負けた、と囁く声が聞えて、これはならぬと烈しく(はげしく)からだをゆすぶっては、また歩き、三十分ほどそうしていたろうか、私はふたたび私の家へとって返した。
うみぎしに出て、私は立止った。見よ、前方に平和の図がある。お慶親子三人、のどかに海に石の投げっこしては笑い興じている。声がここまで聞えて来る。
「なかなか」お巡りは、うんと力こめて石をほうって、「頭のよさそうな方じゃないか。あのひとは、いまに偉くなるぞ」
「そうですとも、そうですとも」お慶の誇らしげな高い声である。「あのかたは、お小さいときからひとり変って居られた。目下のものにもそれは親切に、目をかけて下すった」
私は立ったまま泣いていた。けわしい興奮が、涙で、まるで気持よく溶け去ってしまうのだ。
負けた。これは、いいことだ。そうなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える。


(完)

 結末部の文章は、太宰作品の中でも名文として挙げる人が多いと思います。

 「私」は負けた。

 しかし、それは、彼が裕福でなくなったからでも、お慶さんと警官が家庭をもち、生活が順調だからでもありません。

 過去の「私」の悪意、現在の「私」の逃避を、そうと受け取らなかった心。

 それどころか、子供のころの「私」は親切で、今の「私」は頭がよく、未来はきっと偉くなると思う心。

 それに、「私」の人生を覆うもろもろの怒りや悔恨が負けたのです。

 なぜ、お慶さんが、泣き伏すほどの経験を持ちながら「私」を親切と思ったのか。

 また、警官は、せっかく尋ねていったのに乱暴に出て行ってしまった「私」に気を悪くしなかったのか。

 その気持ちは、よくわかりません。

 言ってしまえばあまりにもお人よしがすぎる気もします。
 そんな調子じゃいいように踏みつけにされたり、騙されたりするよとも。

 でも、そういう人たちが、結ばれて、家庭を持ち、案外穏やかに生活を営んでいけている。
 「平和の図」の中に生きている。

 「そうなければならないのだ」

 「私」はそう思ったのです。

 そういう人たちが、屈託なさげに幸せであるということ。世の中にはまだそういう優しい部分もあるということ。


 そしてそういう人たちに、「許す」という過程すらなく、自分を好ましく思ってもらえているということ。

 それは確かに、人生に打ちのめされていた人間が、立ち上がるための力となることでしょう。

クローマに行ったとき、海辺で笑いさざめく人々の姿を観て、この作品を思い出しました。

もしこの文を読んだ方が、光る海を見たとき、そして、そこで楽しそうにしている人たちをみたとき、この作品を思い出して、それを「黄金風景」と思ってくださったら。

そして、その光景とあの小説を、自分の「あしたの出発」の力にしてくださったら。

そのきっかけを、このご紹介文が少しでもお手伝いできたら。

大変光栄に思います。


当ブログ太宰治関連記事は以下の通りです。併せてお読みいただければ幸いです。
「黄金風景」(太宰治短編ご紹介1)
「花吹雪」(太宰治短編ご紹介2)
「哀蚊(あわれが)」(太宰治短編ご紹介3)


読んでくださってありがとうございました。
posted by pawlu at 06:03| 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
カテゴリ