夏目漱石は、その生涯で幾度か精神的危機に見舞われたことで知られています。
そして漱石が不機嫌を爆発させるたび、家族はそれに悩まされたと夫人や子供たちは語っています。
そんな中、起きたことは事実だが、「本当はとてもとても優しい人」だったと、心をこめて書き残した人物がいました。
漱石の四女、仲地愛子さんです。
(愛子さん、満四歳ごろの写真)

今回は、愛子さんと、彼女の書いた随筆「父漱石の霊に捧ぐ(『定本 漱石全集・別巻 漱石言行録』2018年2月発行版に収録、岩波書店)」についてご紹介させていただきます。

漱石言行録 (定本 漱石全集 別巻)
(『漱石の思い出(夏目鏡子著)』の中の愛子さん)
愛子さんは、漱石の四女として1905年(明治38)に生まれました。
鏡子夫人が急に産気づいてしまったため、医師や産婆が間に合わず、漱石が出産の手伝いをしました。
赤ん坊の顔が汚れないようにと、漱石が脱脂綿で小さな顔を押さえて守ったそうです。
(この出産時の経験は、小説『道草(1915〈大正4〉)』に取り入れられています。)

道草 (新潮文庫)
そんな出来事を経て授かった愛子さんが6、7才(満5、6歳頃)になった頃、漱石が、どうも我が子ながら不器量だ、愛子さんはお父さんの子じゃない。お父さんが弁天橋から拾ってきたのだ、と、愛子さんをからかうと、愛子さんは負けずに
「あらいやだ。わたしが生まれた時に、自分じゃ脱脂綿でわたしをおさえていた癖に」
そう、まるで覚えているかのように言い返し、
「こいつつまらないことをいつの間に聞いているんだい」
と、漱石が笑ってやりこめられたということがあったそうです。(※1)
(『道草』の出産場面はどことなく陰鬱な気配が漂いますが、漱石自身は、その時生まれた子に、こんなおしゃまな口答えをされるようになっていました。)
愛子さんと、すぐ上の姉の栄子さんは、漱石の心が一番安定していた時に物心ついたためか、ほかの子供たちと違い、漱石にわだかまりなくよく懐き、反面、今の感覚でも驚くくらい遠慮なく物を言ったそうです。
(三女 栄子さん 満五歳ごろの写真)
あるとき、漱石が鏡子夫人の親族にとって不都合な過去の話を随筆『硝子戸の中』に書いて、夏目家にちょっとした抗議が来たことがありました。

硝子戸の中 (新潮文庫)
10歳くらいになっていた愛子さんは、このときの大人たちのやりとりを聞いていたらしく、漱石に、
「お父さんたら、叔父さんのことや人のことばかり書かないで、もう少し頭を働かせなさい。」
と、言いました。
漱石は笑いながら、
「この奴、生意気なことをいう。そんなことをいうと、こん度はお前のことを書いてやるよ」
と、言い、実際に、同じ『硝子戸の中』に、彼女のことを書き加えてしまいました。
それが、この、結末部の文章です。
私はしばらく出た事のない裏庭の方へ歩を移した。すると植木屋が物置の中で何か片づけものをしていた。不要の炭俵を重ねた下から威勢の好い火が燃えあがる周囲に、女の子が三人ばかり心持よさそうに煖(だん)を取っている様子が私の注意を惹(ひ)いた。
「そんなに焚火に当ると顔が真黒になるよ」と云ったら、末の子が、「いやあーだ」と答えた。私は石垣の上から遠くに見える屋根瓦の融(と)けつくした霜に濡れて、朝日にきらつく色を眺めたあと、また家(うち)の中へ引き返した。
(『硝子戸の中』39)
愛子さんは、この文章を見たとき、「あら、いやーだ」と悲鳴を上げたそうです。(※2)
鏡子夫人によれば、愛子さんはお父さん思いな子だったそうです。
漱石には始終お菓子をつまみ食いする癖があり、それが胃の病気によくないからと、鏡子夫人はお菓子を隠すようにしていました。
しかし、愛子さんは鏡子夫人の様子を見ていて、漱石が書斎から出てきて戸棚を漁っていると気の毒がって「お父さん、ここにあってよ」と出してきてしまったそうです。
漱石は、「おお、いい子だいい子だ。お前はなかなか孝行者だ」などと言いつつ、にやにやしながらお菓子を頬張っていたそうです。
また、愛子さんはよく栄子さんと二人で、漱石と相撲をとって遊んでおり、愛子さんたちが大人になってから、相撲ばっかりとっていないで、その暇に書や絵でもたくさん書いてもらうんだった、と残念がっていたそうです。(※3)
【出典】
(※1)夏目鏡子『漱石の思い出』「27 生と死」
(※2)同上「56 子供の教育」
(※3)同上
(愛子さんの語る、父、漱石)
愛子さんと栄子さん以外の子供たちや鏡子夫人は、漱石が不安定だった時期について語っており、それが、漱石が家族には酷い仕打ちをする人間だった(あるいは悪妻鏡子夫人がそうした狂気の漱石像をでっち上げた)というイメージを残してしまいました。
愛子さんは、漱石が終始家族に横暴な人物であったかのように思われるのを悲しみ、自分と姉(栄子さん)に文章力があったなら、漱石が人格者で優しい人であったことを記録として残しておきたい。そうでなければ父が哀れだ、と、思っていたそうです。
そして、愛子さんの娘さんが通う学校から、漱石についての文章を書いてほしいという依頼を受けて書き記したのが、「父漱石の霊に捧ぐ」でした。
愛子さんは、冒頭で、鏡子夫人や兄弟が語った、漱石が不安定なとき、妻子に酷いふるまいをしたという話は、残念ながら事実だと認めています。
しかし、それでも、漱石の「人間としての暖かさ、人柄の良さ」もまた事実であるとして、愛子さんの記憶の中の漱石像を語っています。
雛祭りが近づくと、漱石は娘たちにひな人形を買ってくれたそうです。
当時、そうしたことは母親がするのが普通でしたが、夏目家では漱石の仕事であり、漱石は、その時期になると、栄子さんと愛子さんを連れておもちゃ屋さんに行っていました。
店員さんは、お得意様として、漱石たちを愛想よく出迎えてくれたそうです。
「さあ、あれを見せてくれ。これを棚からおろしてくれ。」
と、親子はしばらく時の経つのも忘れて良い品を選ぶ、そんな折の父の顔は幸福そうに輝き、その表情はいかにも満足気だった。三人の胸は知らず知らずのうちにふくれあがり、お互いの心は暖かく互いに通い合った。
家に帰って子供部屋に人形とお菓子を飾ると、漱石が書斎からやって来て、楽しそうに一つ一つ人形を眺めた後、わざとお菓子をつまんで二人をからかいました。
「いやだ、おとう様。そんなことをして私達のお菓子を食べては」
そう言われると、漱石はニヤニヤしながら書斎に戻っていったそうです。
愛子さんは幼い頃よく拗ねて泣く子で、畳に突っ伏してお尻だけつきだした不思議な恰好で、いつまでもぐずっていたそうです。
鏡子夫人もお手伝いの女性も、愛子さんのそういう癖には慣れているので、少しだけ構ってそれでも機嫌を直さないと、そのままどこかに行ってしまうのが常でした。
それでも、誰かに慰めてもらえないうちは後には引けないと、子供なりに意地を張って愛子さんがその格好のままでぐずっていると、読書の合間に茶の間に出てきた漱石が愛子さんに声をかけてくれました。
「愛子どうした。またすねているのか?機嫌をお直し。」
そうして、自分のお召(和服に用いられる絹織物)で出来た財布から小銭を出して愛子さんにお小遣いをくれたそうです。
「さあ、これを上げるから、機嫌をお直し」
またある時、愛子さんは何か悪さのおしおきとして、鏡子夫人に風呂場に閉じ込められて、鍵をかけられてしまいました。
(何をしたのかは覚えていないけれど、「勿論私のことだから、何かやらかしたのだ」と、愛子さんは記しています。)
愛子さんが大声で泣き叫んでいたら、漱石が鍵を開けて助けにきてくれました。
「どうしたんだね、愛子。叱られたのか?」
そして、愛子さんが泣き止むように、またこっそりお小遣いをくれたそうです。
普通の神経の状態でいるときの父はいつもこんな風に優しかったから、私とすぐ上の姉の二人は父を友達のように思っていた。言いたい放題のことを父にずけずけと悪びれもせず行ってのけた。今から思うと、何と失礼な、親に対して何という事をと思うほどの事を言った。我々二人は父をちょっとも恐れなかった。父とよく遊んだ。何ひとつ父の顔色など窺わなかった。そんな二人の子を父はこの上なく可愛がってくれた。そこには父を恐れない自然があった。それほど父は真実を愛した人だったと思う。父が私たち姉妹をからかってなんのかのと言うと、私たち二人は
「うるさい」
などと父を決めつけて平気でいた。
「ずけずけと」の中に、鏡子夫人の言っていた、愛子さんの「もう少し頭を働かせなさい。」という言葉も入って居たと思われますが、漱石はそうした発言で愛子さんを叱ったことはなかったようです。
そもそも漱石は、明治の日本人男性としては驚くほど老若男女の隔てなく意見を聞き入れる人で、もっともだと思えば、鏡子夫人の意見にも素直に従っていました。
不安定でないときの漱石は、女だから、子供だから、そんなことで人を差別する人ではなかった。
むしろ礼儀作法の点では、現在の感覚でもひやりとするような言動でも、それが本心から、漱石に心を許しているために発されたものであれば、その「真実」を愛した。そういう人だった。と、愛子さんは振り返っています。
ある日、愛子さんは部屋から出てきた漱石を捕まえて、体操ごっこをしたそうです。
私は先生、父は生徒。私は背が小さいので炬燵の上に乗ると先生らしくなる。そして、私は炬燵の上から父に向って
「夏目さん、手を上げて、そう、手を下ろして」
と叫んだ。私は、父をつかまえて――一二三――そうよろしい!などと得意気に号令をかけた。私の号令の儘(まま)に動いて、父は私の目の前で柔順に手を上げたり下ろしたり、それで結構自分も愉快そうに見えた。したくもない体操を娘のためにさせられて嬉しがった。重苦くるしい書斎の空気から一時でも解き離されて、案外こんな事が父の気分転換に役立ったかもしれないと今私は思うのだ。父を恐れずしたいままをした。その気持が父には嬉しかったのかもしれない。
愛子さんがこういう言動をとるのは、おそらく四〜十歳頃(明治42〈1909〉〜大正5〈1916〉)のどこか。
この時期に書かれたのは、『それから』、『門』、『彼岸過迄』、『こころ』、『行人』、『硝子戸の中』、『道草』、『明暗』(未完)。
漱石不朽の名作が次々と花開いたこの時期、書斎から出てきた漱石が、幼い愛子さんに捕まって、言われるがまま、体操の生徒として腕を振り上げていた姿を思い浮かべると、ほのぼのとします。
愛子さんは、よく、漱石と一緒に眠り、おなかを蹴ったり、蒲団を占領したりしてしまっていたこともあったそうです。
愛子さんと栄子さんがおはじきをしていたら、「入れておくれ」とも言わずに傍に座って、器用とは言えない手つきで参加する漱石。
子供たちと相撲をとった挙句、帯はほどけ、着物がはだけた姿で、笑いながら書斎に帰っていく漱石。
あんなに優しかった漱石が、どうしてああも険しく変わってしまうのか。
普段の漱石は、本を読んでいても、思索にふけっていても、廊下や庭を騒いで駆けずり回る子供たちに小言一つ言ったことが無い、穏やかな人だったのに。
愛子さんは、栄子さん以外の姉弟が、常に漱石を恐れていたと語っていることに心を痛めていました。
私には病気が起こっているときの父と、普通の折の父とでは、其の声音、態度などでよく読み取れる。父から其の日受ける感じだけでさえ、すぐそれと解った。(中略)怖れる事なくいつもの様に振舞うべきか否か判断できたのは、案外姉栄子と私だけだったのか?姉と私にはピンとくる何かがあったのかもしれない。
愛子さんは、ほかの兄弟たちには、漱石が常に恐ろしい人物のように見えた理由(そして漱石がそのような振舞いをした理由)についても分析しています。
「父は全部の子供達を可愛がっていたのだとは思う」
しかし、最初に生まれた女の子二人には、教育家の漱石はどう育てるべきか、希望も緊張ももって臨み、また女の子ばかり四人生まれた後の男の子二人の誕生には、大いに喜び、期待もかけて厳しく接した。
(「昔の男の子、まして長男と云うものの概念と、今の時代のそれとは凡(およ)そ違っている」と、愛子さんは補足しています。)
だから、上の二人の女の子と息子たちにとっては、「教育熱心であるがゆえに厳しい漱石」と、「不安定な漱石」の印象が強く、普段の優しい漱石がほとんど記憶に残らなかったのかもしれない。
一方、三人目、四人目の女の子であった栄子さんと愛子さんには、多分、漱石は良くも悪くも、何の期待も理想も持たず、ただ自然に育てばそれでいい、そんな考えだったのではないか。
(ちなみに、愛子さんの生まれた時の名前「アイ」は、愛子さんをとりあげた産婆さんからとったらしく、愛子さんはこれを漱石の手抜きと考え、後に「愛子」に改名してしまいました。)
皮肉にも、漱石が真剣に教育を考えた子供たちほど、漱石を、いつも恐ろしい、怒る父、と感じ、彼らには愛子さんたちのように、漱石の不安定な時期を見分けることができず、「心の底におびえている何ものかを隠している不自然な態度でしか父親に接することが出来なかったのではあるまいか。ここに悲劇の根元があったと私には思われてならない。」と、愛子さんは考察しています。
(そして、弟たちに漱石の真の愛情を汲み取ってもらえないことが悲しく寂しいが、幼い頃は、恐怖の記憶のほうが色濃く残ってしまうのかもしれない、と、弟さんたちの気持ちも慮っています。)
愛子さんの弟、伸六さんは、随筆「父を語る」(『父・夏目漱石』収録)の中で、漱石に射的場に連れて行ってもらったとき、癇癪を起した漱石にステッキで殴られた話を書いています。

父・夏目漱石 (文春文庫)
愛子さんは、この話についても、書きたくないが書かないわけにはいかないと前置きをしながら、その時の様子を詳細に記しています。
その日、愛子さんは、出かける前から、漱石の異変に気付いていました。
「気難しい顔の表情、血走った鋭い目、きっと結んだ皮肉な口、全てに病気が起こっているのがまざまざと私には見て取れた」
不吉なものを感じつつも、こういうときの漱石に「行きたくない」などとは言えないことがわかっていた愛子さんは、重い気持ちを抱えながら、弟二人と家を出ました。
弟たちも、漱石の今にも爆発しそうな気配を感じ取っていたのか、射的場に行って、漱石に勧められても、長男の純一さんはもぞもぞとしり込みをし、弟の伸六さんも、兄の真似をして「嫌だ」とはにかみ笑いを浮かべるだけでした。
その様子にかっとなった漱石が、ステッキで伸六さんを打ったのでした。
(なぜ伸六さんだけが打たれたのかについては、「兄の猿真似をしたのが癪に障ったのかもしれない」と伸六さんは語っています。)
愛子さんは、この時、怖い思いをした伸六さんと同時に、彼を打ってしまった漱石の気持ちを思うと悲しかったそうです。
私は父が恐ろしくまた同時に子供心にも哀れに思えてならなかった。親子四人が共に言い様もないほど惨めであった。父は父でいくら神経衰弱の折りで、頭が変であったとは云え、自分の子を打って癇癪まぎれな行為をしてしまった自分を救い難い気持ちで眺めねばならなかったであろう。普段暖かい優しい父であったから、頭が変だったとは云え、打った後では気がついて暗然としたろうに。(中略)
然し父は何故子供達を楽しく遊ばせてやりたいなどと、そんな頭の時に考えたのか。こうなってみると、父の優しい意図も却って子供達にとっては恨めしい。こんな悲しい結末になるのだったら、却ってそっと家においてくれればよかったのに。
それでも、自分が親になってみれば、大人の、しかも体調の悪い漱石自身があのとき浅草に行きたかったわけはなく、ただ、子供たちを喜ばせたかったに違いないことも、せっかく遊びに連れて行ったのにうじうじしている子供を見ていらいらしたであろう気持ちもわかる。
ただ、あそこまで非常識な行動に出てしまったのは、(弟たちには気の毒なことだが)ひとえにその時の漱石が極度の神経衰弱に陥ってしまっていたからだ、と、愛子さんは漱石に同情を寄せ、敢えてこう語っています。
然し最後に私は言いたい。結果より原因だ。書斎で本でも読んで静かに勉強していたかったろう胃病の父が、子供を楽しましてやりたいばかりに浅草くんだり迄私たちを連れて行った気持!そうした優しい父の気持ちを私は買いたい。そして買うべきではないだろうか?
(漱石の「神経衰弱」について、愛子さんの分析)
普段はとても優しい漱石に周期的に起きた危険な神経衰弱。
漱石は自身に不安定な時期があることは認めており、鏡子夫人に、そうしたときの自分の様子をこう語っていたそうです。
(なお、精神の変調について漱石に自覚があり、その自己分析を夫人に語っていたというのは、ほかの人々からはほとんど語られていない話です。)
父がこういう周期的な強度の神経衰弱症状に陥る寸前、「自分は一寸(ちょっと)変だな、いつもと変わっているな。」とそう思うそうである。(中略)然(しか)しその内に「自分(漱石自身)が何が何だか解らなくなってしまうのだ。」と自分の強度の神経衰弱症状について父は母にこう打ち明けたそうだ。
はじめは自分自身がこれは変だなと反省できる程度なのだが次第に自分がそうした原因を作り出すのではなく、総ては他人が原因を作り、自分を怒らせいらだたせ、間違ったことをしかけてくる様に思い込んでしまうのだ。小説「猫」を書いていた頃がそうした症状は一番激しかったらしい。幸いにして私はその頃まだ生まれていなかったから何のかの云う資格はない。
「猫」とは『吾輩は猫である』のことで、あのユーモラスながら複雑な構成の文章を書いているときの漱石が一番ナーバスだったとは意外な話ですが、この時期に物心ついてしまった上の二人の娘は、その後、漱石が安定しても、生涯距離を感じたままだったようです。
漱石の弟子の一人は、愛子さんに、漱石の精神の変調は、小説を生み出すための苦悩や緊張が神経を極度にすり減らすために起きるのだと言ったことがあるそうです。
裕福な家の出である妻と七人の子供を不自由なく養い、教育するだけでも、責任感の強い漱石には大変なプレッシャーだったはずなのに、さらに小説に心血を注いだとき、その神経が限界を迎えてしまったのではないか。愛子さんは弟子の方の意見に同意しています。
(そして、小説で頭が疲れることが、神経を刺激し、神経性胃炎が悪化し、胃が悪いと苛立ってますます具合が悪くなるという悪循環に陥っていたのかもしれない、と、付け加えています。)
実際、漱石の不安定な時期は小説執筆期とほぼ一致しており、小説が書き上がってしまえば、もとの穏やかな漱石に戻っていたそうです。
(しかし、どんなに不安定でも毎日朝からきっちり決まった枚数の原稿を書き上げて出版社に送っており、愛子さんにはその几帳面さが逆に気の毒に思われたそうです。)
(漱石と家族のすれ違い)
漱石が不安定な時期、それに気づいた鏡子夫人はもめ事を避けるために、子供や手伝いの人にも注意を言い渡し、家中が静まりかえりました。
とたんに始まる、誰もがすり足で歩き、子供達はおびえたように漱石を盗み見る日々。
「普段と同じに何故できないのか。誰も彼も、子供達迄が無邪気さをなくし己(〈おれ〉父)の様子を伺う。」そうした作られた不自然さが、真実を此の上なく愛した父には又たまらなかったのだろう。(中略)
とげとげしい自分の表情が廻りの者達をおびやかしている事に父は気づかない。父を怒らせるな、父がいつ癇癪を起し、何をするか解らないから、と云う必要以上の母の注意とそれを裏書きでもするかの様な父の険しい顔、気難しく皮肉な口もと、赤く充血した鋭い目、それ等のものがごっちゃになって家の者は益々父を恐れずにはいられない。
愛子さんには、優しい漱石と不安定な時の漱石の見分けがつき、優しいときの漱石には言いたい放題だったのに、漱石はそんな自分を、自然で正直だと思ってくれ、かわいがってくれたという実感がありました。
漱石が根は優しく、人の本音を愛した人だという確信がある愛子さんは、その揺るぎない視点から、父と母それぞれの問題を正確に捉えています。
自分の態度が周囲をおびえさせているとも気づけずに、家中が不自然な態度に沈むことにますます苛立つ漱石。
愛子さんのように漱石の状況を察することができない者達に過度の警告をして、結果として家族と漱石の溝を深めてしまった鏡子夫人。
病気の漱石と、トラブルを避けようとした鏡子夫人の間には、確かに不幸な行き違いがあり、それは、原因がわかっても、互いに容易には歩み寄れない性質のものでした。
ちなみに、鏡子夫人は、愛子さん同様、漱石の顔色で、事前に異変に気づくことが出来たようです。
(だからこそ優しい漱石もきちんと認識しており、漱石の死後も彼に愛情を持っていました。)
ただ鏡子夫人は、もう一人の家庭の責任者として家の者たちを守らなければならないという立場に加え、元来竹を割ったようにさばさばと率直な性格の持ち主でもありました。
この立場と性格故に、漱石の不安定について、愛子さんのように、その思いを深く分析し、理解を示すより、現状起きている危機に対処することに集中してしまったのかもしれません。
(彼女のこういう性質が、がさつな悪妻と批判される所以ですが、子や孫たちはむしろ彼女だから漱石を支えられたのだと反論をしています。)
(「いいよいいよ、泣いてもいいよ」(漱石臨終のとき))
漱石は49歳(数えで50才)の若さで、胃潰瘍を悪化させて亡くなりました。
愛子さんは10歳頃の自分が、死の床にあった漱石の前に座ったときの思いを記しています。

母と子供六人は父の枕部に坐って父を見守っていた。その頬には白い髭がのび、まくらの上のしなびた顔はひどく黄ばんで、何故か其の憐れな様子が私に晩秋のすすきを思わせた。私は子供ながらにあたりの様子にひどく胸打たれ、悲しさがこみあげてきて泣きじゃくった。
「泣くんじゃないのよ。」
という母の言葉を受けるように
「いいよいいよ泣いてもいいよ。」
父の声が細々と私の耳に聞えた。其声音は小さくいかにも力が無かったが、しーんと静まりかえった室の中に優しく響いた。「愛子は泣きたいのだ。泣きたいだけ泣かしておやり」そう父は言っているようだった。ひと廻りも小さくなってしまった父は白いシーツの上に身体を横たえ静かに目をつぶっていた。
愛子さんには、その時の漱石の言葉に、漱石が描いたある達磨の絵が重なって思えたそうです。
その絵は墨のように暗い夜に、手も足もない達磨が唯一人小舟に乗って、何処から来て何処へ行くのか、流れの儘に身を任せていく、これを滅し身を小舟に託し波のまにまにあてなく流れていく、そんな絵であった。自我、自意識を捨て、天意の儘に生きているこの達磨の絵、これこそ彼の理想ではなかったか?晩年父が達せんとして達し得なかった境地が此処にあったのではないかと思う。自然に逆らわず、有るがままの姿で生きていく。そうした澄み切った心境こそ晩年の父漱石が憧れていた境地ではなかったろうか。父の「泣いてもいいんだよ」と言ってくれた死に際の言葉と、此の絵には何か一脈相通ずるものがあるように思えてならない。可愛がっていた子供が自分の死を悲しんで泣いている、漱石は此の末娘が泣くのが自分にはつらくていやなのだ。しかし愛子が泣きたいなら泣かしてやっておくれ、泣くのはおよしと云う代りに、お前の気がすむならそうおし。お父様はかまわないのだ。父は臨終の苦しみの内にさえ、己を去り娘の涙を自然のままに流させてやりたいと思ってくれたのではないだろうか。
空との境目があいまいな川に、ぽつんと浮かぶ小舟に乗り、赤い衣を着た達磨が流れてゆく。
素朴な筆致で描かれた、さみしさとぬくもりの入り混じるその絵を、鏡子夫人は亡くなるまで応接間に掛けていたそうです。
(※「父漱石の霊に捧ぐ」p.589より)
愛子さんが、自分の絵をこんなにも丁寧に美しく語り、自分の最期の言葉をこんなにも深く受け止めてくれたことを知ったら、漱石は喜んだでしょう。
愛子さんの「父漱石の霊に捧ぐ」は、2018年2月発行の漱石全集に増補収録されました。

漱石言行録 (定本 漱石全集 別巻)
偉大な文豪ながら、精神の不調に悩まされ、妻子に理不尽な態度をとったとされる漱石。
しかし、愛子さんは、娘たちと遊び、むしろ明治の父親としては珍しいほどおおらかに笑って、娘たちの率直な言葉を受け入れる漱石の姿を書き残しています。
誠実であるがゆえに自他のエゴを見過ごせずに苦しむ、危うく透き通った人々を描いた漱石が、その驚異的な創造の没入の合間に、愛子さんに言われるがままに生徒役となり、結構楽しそうに体操をしていたということ。
一緒にひな人形を眺め、わざとお菓子をつまんだり、おはじきに興じたりしていたということ。
愛子さんが泣いていたら、そっと助けにきてくれたこと。
そして、死を前に、「いいよいいよ泣いてもいいよ」と言い、愛子さんの「泣きたい」という気持ちをあるがままにしてくれたこと。
流れにあらがわずにゆく小舟の達磨のように、漱石が、人の心を含めたすべてのあるがままの自然を、静かに受け入れ、愛していたということが、この文章を通じ、より広く知られてほしいと思います。
そして、漱石に「父がとても優しかったことを知ってほしい」と涙し、愛情と洞察を併せ持つ文章を書き残した愛子さんという家族がいたことも。
新しく魅力的な漱石像を紹介しているだけでなく、愛子さんの人柄と聡明さがにじみ出ており、優しさも欠点もある家族の姿を描き出しているという点でも、大変すぐれた文章です。是非、お読みになってみてください。
読んでくださってありがとうございました。
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