2021年02月27日

漱石ファン必見、ドラマ「夏目家の食卓」(本木雅弘、宮沢りえの名コンビが演じる漱石と鏡子夫人の愛情物語)

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 2021年3月2日 (火) 19:00 〜 20:55、BS12で、ホームドラマ「夏目家の食卓」が放送される。

 公式HP情報はこちら

文豪・夏目漱石とその妻・鏡子が繰り広げる明治版ホームドラマ。宮沢りえ&本木雅弘主演でおくる、おかしな夫婦の愛と涙の物語!漱石の孫・半藤末利子が執筆したエッセイ「夏目家の糠みそ」と、悪妻として有名だった妻・鏡子が綴った「漱石の思い出」を基に、愛に支えられた文豪の知られざる半生を描く。
(BS12番組解説より)


■あらすじ
お互いに惚れてはいるものの、かんしゃくもちの漱石(本木雅弘)と勝気な妻・鏡子(宮沢りえ)はその出会いから波瀾万丈だった。漱石に一目惚れした鏡子が押しかけて始まった夫婦生活だったが、鏡子は料理下手に加えて、朝寝坊。大食いの漱石の食欲は満たされることがない。丁々発止の応酬をしながらも幸せな夫婦生活はしばらく続いたが、漱石のロンドン留学で一変する。残された鏡子と娘たちの生活は困窮する一方で、漱石はロンドンで目の当たりにした近代社会に圧倒され、苦悩の日々を送ることになる。
(BS12番組解説より)

 「精神の変調に苦しんだ不機嫌な知識人」と「がさつな悪妻」と言われてきた漱石と鏡子夫人だが、近年、その評価は見直されてきている。

お見合い写真 - コピー.jpg


 「病気の時は仕方がない。病気が起きない時のあの人ほどいい人はいないのだから」

 「いろんな男の人をみてきたけど、あたしゃお父様(漱石)がいちばんいいねえ」

 (出典:「漱石の思い出」解説・孫の半藤末利子さんによる鏡子夫人のことばの回想 p.461,462)

 と、「病めるときも」受け止める覚悟を決めて、漱石を心から愛していた鏡子夫人と、


「おれの様(よう)な不人情なものでも、頻(しき)りに御前が恋しい」
(ロンドン単身留学中、鏡子夫人に宛てた手紙)

「妻(さい)は?」
(吐血し意識不明に陥った「修善寺の大患」で意識を取り戻した直後の言葉)

(出典:佐藤嘉尚「孤高の「国民作家」夏目漱石」p.44,p.80)
 と、気丈で正直な鏡子夫人を、苦悩の嵐の中で、心の錨(いかり)のように必要としていた漱石。


 ドラマは、サントリー伊右衛門CMでもおなじみの本木雅弘、宮沢りえの名コンビ主演、昭和を代表するホームドラマ「寺内貫太郎一家」「時間ですよ」を手掛けた久世光彦監督で、漱石と鏡子夫人の不思議な絆を、ユーモラスなタッチで描いている。

 (ファンの目から見て、本木雅弘さんと漱石は外見が似ているので、そこも観ていて楽しい。)

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夏目家の食卓3(部分) - コピー.jpg


 ドラマ解説に「丁々発止の応酬」とあるが、『漱石の思い出』の中の漱石と鏡子夫人は、確かによく言い合いをしている。

 従順な妻を良しとする当時の人からすると、そういうところが悪妻に見えたのかもしれないが、これだけ遠慮なくものを言えたのは、むしろお互いを信頼していたからではないだろうか。

 (鏡子夫人はそんな漱石を「些細なことでも、その時はぐずぐず申しておりましても、自分が悪いと思えばあとですぐに改める質の人でした(『漱石の思い出』「五六、子供の教育」p.368)」と、振り返っている。鏡子夫人より10歳年上で、ベストセラー作家として名声を得ていた漱石だが、そんなことは関係なく、相手の言葉を受け止めて、行動を変えられる人だったのだ。)

 そして、そういう手ごわい女とのやりとりは、漱石の小説に取り入れられ、作品の時代を超えた魅力になっている。



 ドラマは、久世作品の常連で、本木雅弘の義母でもある樹木希林ほか、岸部一徳、竹中直人、岸田今日子ら、個性的な実力派キャストが勢ぞろいしている。

 漱石ファンには見逃せない作品だ。

ドラマ 夏目家の食卓2 - コピー.jpg







(当ブログ記事参考資料)



posted by pawlu at 21:58| 夏目漱石 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月09日

夏目漱石の娘 愛子さん(「父漱石の霊に捧ぐ」より)

千駄木書斎の漱石(出典追記) - コピー.jpg

 夏目漱石は、その生涯で幾度か精神的危機に見舞われたことで知られています。

 そして漱石が不機嫌を爆発させるたび、家族はそれに悩まされたと夫人や子供たちは語っています。


 そんな中、起きたことは事実だが、「本当はとてもとても優しい人」だったと、心をこめて書き残した人物がいました。

 漱石の四女、仲地愛子さんです。


(愛子さん、満四歳ごろの写真)

漱石の娘、四女愛子さん(出典付) - コピー.jpg

 今回は、愛子さんと、彼女の書いた随筆「父漱石の霊に捧ぐ(『定本 漱石全集・別巻 漱石言行録』2018年2月発行版に収録、岩波書店)」についてご紹介させていただきます。

漱石言行録 (定本 漱石全集 別巻)
漱石言行録 (定本 漱石全集 別巻)



(『漱石の思い出(夏目鏡子著)』の中の愛子さん)  



 愛子さんは、漱石の四女として1905年(明治38)に生まれました。

 鏡子夫人が急に産気づいてしまったため、医師や産婆が間に合わず、漱石が出産の手伝いをしました。

 赤ん坊の顔が汚れないようにと、漱石が脱脂綿で小さな顔を押さえて守ったそうです。

 (この出産時の経験は、小説『道草(1915〈大正4〉)』に取り入れられています。)

道草 (新潮文庫)
道草 (新潮文庫)


 そんな出来事を経て授かった愛子さんが6、7才(満5、6歳頃)になった頃、漱石が、どうも我が子ながら不器量だ、愛子さんはお父さんの子じゃない。お父さんが弁天橋から拾ってきたのだ、と、愛子さんをからかうと、愛子さんは負けずに

 「あらいやだ。わたしが生まれた時に、自分じゃ脱脂綿でわたしをおさえていた癖に」

 そう、まるで覚えているかのように言い返し、

 「こいつつまらないことをいつの間に聞いているんだい」

 と、漱石が笑ってやりこめられたということがあったそうです。(※1)


 (『道草』の出産場面はどことなく陰鬱な気配が漂いますが、漱石自身は、その時生まれた子に、こんなおしゃまな口答えをされるようになっていました。)


 愛子さんと、すぐ上の姉の栄子さんは、漱石の心が一番安定していた時に物心ついたためか、ほかの子供たちと違い、漱石にわだかまりなくよく懐き、反面、今の感覚でも驚くくらい遠慮なく物を言ったそうです。

(三女 栄子さん 満五歳ごろの写真)

漱石の三女栄子さん(出典付) - コピー.jpg

 あるとき、漱石が鏡子夫人の親族にとって不都合な過去の話を随筆『硝子戸の中』に書いて、夏目家にちょっとした抗議が来たことがありました。

硝子戸の中 (新潮文庫)
硝子戸の中 (新潮文庫)


 10歳くらいになっていた愛子さんは、このときの大人たちのやりとりを聞いていたらしく、漱石に、

「お父さんたら、叔父さんのことや人のことばかり書かないで、もう少し頭を働かせなさい。」

と、言いました。


 漱石は笑いながら、

「この奴、生意気なことをいう。そんなことをいうと、こん度はお前のことを書いてやるよ」

と、言い、実際に、同じ『硝子戸の中』に、彼女のことを書き加えてしまいました。

 それが、この、結末部の文章です。

私はしばらく出た事のない裏庭の方へ歩を移した。すると植木屋が物置の中で何か片づけものをしていた。不要の炭俵を重ねた下から威勢の好い火が燃えあがる周囲に、女の子が三人ばかり心持よさそうに煖(だん)を取っている様子が私の注意を惹(ひ)いた。

「そんなに焚火に当ると顔が真黒になるよ」と云ったら、末の子が、「いやあーだ」と答えた。私は石垣の上から遠くに見える屋根瓦の融(と)けつくした霜に濡れて、朝日にきらつく色を眺めたあと、また家(うち)の中へ引き返した。

(『硝子戸の中』39)


 愛子さんは、この文章を見たとき、「あら、いやーだ」と悲鳴を上げたそうです。(※2)



 鏡子夫人によれば、愛子さんはお父さん思いな子だったそうです。

 漱石には始終お菓子をつまみ食いする癖があり、それが胃の病気によくないからと、鏡子夫人はお菓子を隠すようにしていました。

 しかし、愛子さんは鏡子夫人の様子を見ていて、漱石が書斎から出てきて戸棚を漁っていると気の毒がって「お父さん、ここにあってよ」と出してきてしまったそうです。

 漱石は、「おお、いい子だいい子だ。お前はなかなか孝行者だ」などと言いつつ、にやにやしながらお菓子を頬張っていたそうです。


 また、愛子さんはよく栄子さんと二人で、漱石と相撲をとって遊んでおり、愛子さんたちが大人になってから、相撲ばっかりとっていないで、その暇に書や絵でもたくさん書いてもらうんだった、と残念がっていたそうです。(※3)

【出典】
(※1)夏目鏡子『漱石の思い出』「27 生と死」
(※2)同上「56 子供の教育」
(※3)同上


(愛子さんの語る、父、漱石)  

 愛子さんと栄子さん以外の子供たちや鏡子夫人は、漱石が不安定だった時期について語っており、それが、漱石が家族には酷い仕打ちをする人間だった(あるいは悪妻鏡子夫人がそうした狂気の漱石像をでっち上げた)というイメージを残してしまいました。


 愛子さんは、漱石が終始家族に横暴な人物であったかのように思われるのを悲しみ、自分と姉(栄子さん)に文章力があったなら、漱石が人格者で優しい人であったことを記録として残しておきたい。そうでなければ父が哀れだ、と、思っていたそうです。


 そして、愛子さんの娘さんが通う学校から、漱石についての文章を書いてほしいという依頼を受けて書き記したのが、「父漱石の霊に捧ぐ」でした。


 愛子さんは、冒頭で、鏡子夫人や兄弟が語った、漱石が不安定なとき、妻子に酷いふるまいをしたという話は、残念ながら事実だと認めています。


 しかし、それでも、漱石の「人間としての暖かさ、人柄の良さ」もまた事実であるとして、愛子さんの記憶の中の漱石像を語っています。


 雛祭りが近づくと、漱石は娘たちにひな人形を買ってくれたそうです。

 当時、そうしたことは母親がするのが普通でしたが、夏目家では漱石の仕事であり、漱石は、その時期になると、栄子さんと愛子さんを連れておもちゃ屋さんに行っていました。

 店員さんは、お得意様として、漱石たちを愛想よく出迎えてくれたそうです。


「さあ、あれを見せてくれ。これを棚からおろしてくれ。」

と、親子はしばらく時の経つのも忘れて良い品を選ぶ、そんな折の父の顔は幸福そうに輝き、その表情はいかにも満足気だった。三人の胸は知らず知らずのうちにふくれあがり、お互いの心は暖かく互いに通い合った。


 家に帰って子供部屋に人形とお菓子を飾ると、漱石が書斎からやって来て、楽しそうに一つ一つ人形を眺めた後、わざとお菓子をつまんで二人をからかいました。


 「いやだ、おとう様。そんなことをして私達のお菓子を食べては」

 そう言われると、漱石はニヤニヤしながら書斎に戻っていったそうです。



 愛子さんは幼い頃よく拗ねて泣く子で、畳に突っ伏してお尻だけつきだした不思議な恰好で、いつまでもぐずっていたそうです。


 鏡子夫人もお手伝いの女性も、愛子さんのそういう癖には慣れているので、少しだけ構ってそれでも機嫌を直さないと、そのままどこかに行ってしまうのが常でした。


 それでも、誰かに慰めてもらえないうちは後には引けないと、子供なりに意地を張って愛子さんがその格好のままでぐずっていると、読書の合間に茶の間に出てきた漱石が愛子さんに声をかけてくれました。


 「愛子どうした。またすねているのか?機嫌をお直し。」


 そうして、自分のお召(和服に用いられる絹織物)で出来た財布から小銭を出して愛子さんにお小遣いをくれたそうです。


 「さあ、これを上げるから、機嫌をお直し」



 またある時、愛子さんは何か悪さのおしおきとして、鏡子夫人に風呂場に閉じ込められて、鍵をかけられてしまいました。

(何をしたのかは覚えていないけれど、「勿論私のことだから、何かやらかしたのだ」と、愛子さんは記しています。)


 愛子さんが大声で泣き叫んでいたら、漱石が鍵を開けて助けにきてくれました。


 「どうしたんだね、愛子。叱られたのか?」


 そして、愛子さんが泣き止むように、またこっそりお小遣いをくれたそうです。


普通の神経の状態でいるときの父はいつもこんな風に優しかったから、私とすぐ上の姉の二人は父を友達のように思っていた。言いたい放題のことを父にずけずけと悪びれもせず行ってのけた。今から思うと、何と失礼な、親に対して何という事をと思うほどの事を言った。我々二人は父をちょっとも恐れなかった。父とよく遊んだ。何ひとつ父の顔色など窺わなかった。そんな二人の子を父はこの上なく可愛がってくれた。そこには父を恐れない自然があった。それほど父は真実を愛した人だったと思う。父が私たち姉妹をからかってなんのかのと言うと、私たち二人は

「うるさい」

などと父を決めつけて平気でいた。


 「ずけずけと」の中に、鏡子夫人の言っていた、愛子さんの「もう少し頭を働かせなさい。」という言葉も入って居たと思われますが、漱石はそうした発言で愛子さんを叱ったことはなかったようです。


 そもそも漱石は、明治の日本人男性としては驚くほど老若男女の隔てなく意見を聞き入れる人で、もっともだと思えば、鏡子夫人の意見にも素直に従っていました。


 不安定でないときの漱石は、女だから、子供だから、そんなことで人を差別する人ではなかった。

 むしろ礼儀作法の点では、現在の感覚でもひやりとするような言動でも、それが本心から、漱石に心を許しているために発されたものであれば、その「真実」を愛した。そういう人だった。と、愛子さんは振り返っています。


 ある日、愛子さんは部屋から出てきた漱石を捕まえて、体操ごっこをしたそうです。


 私は先生、父は生徒。私は背が小さいので炬燵の上に乗ると先生らしくなる。そして、私は炬燵の上から父に向って

「夏目さん、手を上げて、そう、手を下ろして」

と叫んだ。私は、父をつかまえて――一二三――そうよろしい!などと得意気に号令をかけた。私の号令の儘(まま)に動いて、父は私の目の前で柔順に手を上げたり下ろしたり、それで結構自分も愉快そうに見えた。したくもない体操を娘のためにさせられて嬉しがった。重苦くるしい書斎の空気から一時でも解き離されて、案外こんな事が父の気分転換に役立ったかもしれないと今私は思うのだ。父を恐れずしたいままをした。その気持が父には嬉しかったのかもしれない。


 愛子さんがこういう言動をとるのは、おそらく四〜十歳頃(明治42〈1909〉〜大正5〈1916〉)のどこか。


 この時期に書かれたのは、『それから』、『門』、『彼岸過迄』、『こころ』、『行人』、『硝子戸の中』、『道草』、『明暗』(未完)。


 漱石不朽の名作が次々と花開いたこの時期、書斎から出てきた漱石が、幼い愛子さんに捕まって、言われるがまま、体操の生徒として腕を振り上げていた姿を思い浮かべると、ほのぼのとします。



 愛子さんは、よく、漱石と一緒に眠り、おなかを蹴ったり、蒲団を占領したりしてしまっていたこともあったそうです。


 愛子さんと栄子さんがおはじきをしていたら、「入れておくれ」とも言わずに傍に座って、器用とは言えない手つきで参加する漱石。


 子供たちと相撲をとった挙句、帯はほどけ、着物がはだけた姿で、笑いながら書斎に帰っていく漱石。


 あんなに優しかった漱石が、どうしてああも険しく変わってしまうのか。


 普段の漱石は、本を読んでいても、思索にふけっていても、廊下や庭を騒いで駆けずり回る子供たちに小言一つ言ったことが無い、穏やかな人だったのに。


 愛子さんは、栄子さん以外の姉弟が、常に漱石を恐れていたと語っていることに心を痛めていました。


 私には病気が起こっているときの父と、普通の折の父とでは、其の声音、態度などでよく読み取れる。父から其の日受ける感じだけでさえ、すぐそれと解った。(中略)怖れる事なくいつもの様に振舞うべきか否か判断できたのは、案外姉栄子と私だけだったのか?姉と私にはピンとくる何かがあったのかもしれない。



 愛子さんは、ほかの兄弟たちには、漱石が常に恐ろしい人物のように見えた理由(そして漱石がそのような振舞いをした理由)についても分析しています。


 「父は全部の子供達を可愛がっていたのだとは思う」

 しかし、最初に生まれた女の子二人には、教育家の漱石はどう育てるべきか、希望も緊張ももって臨み、また女の子ばかり四人生まれた後の男の子二人の誕生には、大いに喜び、期待もかけて厳しく接した。

(「昔の男の子、まして長男と云うものの概念と、今の時代のそれとは凡(およ)そ違っている」と、愛子さんは補足しています。)

 だから、上の二人の女の子と息子たちにとっては、「教育熱心であるがゆえに厳しい漱石」と、「不安定な漱石」の印象が強く、普段の優しい漱石がほとんど記憶に残らなかったのかもしれない。


 一方、三人目、四人目の女の子であった栄子さんと愛子さんには、多分、漱石は良くも悪くも、何の期待も理想も持たず、ただ自然に育てばそれでいい、そんな考えだったのではないか。

(ちなみに、愛子さんの生まれた時の名前「アイ」は、愛子さんをとりあげた産婆さんからとったらしく、愛子さんはこれを漱石の手抜きと考え、後に「愛子」に改名してしまいました。)



 皮肉にも、漱石が真剣に教育を考えた子供たちほど、漱石を、いつも恐ろしい、怒る父、と感じ、彼らには愛子さんたちのように、漱石の不安定な時期を見分けることができず、「心の底におびえている何ものかを隠している不自然な態度でしか父親に接することが出来なかったのではあるまいか。ここに悲劇の根元があったと私には思われてならない。」と、愛子さんは考察しています。


(そして、弟たちに漱石の真の愛情を汲み取ってもらえないことが悲しく寂しいが、幼い頃は、恐怖の記憶のほうが色濃く残ってしまうのかもしれない、と、弟さんたちの気持ちも慮っています。)


 愛子さんの弟、伸六さんは、随筆「父を語る」(『父・夏目漱石』収録)の中で、漱石に射的場に連れて行ってもらったとき、癇癪を起した漱石にステッキで殴られた話を書いています。

父・夏目漱石 (文春文庫)
父・夏目漱石 (文春文庫)


 愛子さんは、この話についても、書きたくないが書かないわけにはいかないと前置きをしながら、その時の様子を詳細に記しています。


 その日、愛子さんは、出かける前から、漱石の異変に気付いていました。


 「気難しい顔の表情、血走った鋭い目、きっと結んだ皮肉な口、全てに病気が起こっているのがまざまざと私には見て取れた」


 不吉なものを感じつつも、こういうときの漱石に「行きたくない」などとは言えないことがわかっていた愛子さんは、重い気持ちを抱えながら、弟二人と家を出ました。


 弟たちも、漱石の今にも爆発しそうな気配を感じ取っていたのか、射的場に行って、漱石に勧められても、長男の純一さんはもぞもぞとしり込みをし、弟の伸六さんも、兄の真似をして「嫌だ」とはにかみ笑いを浮かべるだけでした。

 その様子にかっとなった漱石が、ステッキで伸六さんを打ったのでした。

(なぜ伸六さんだけが打たれたのかについては、「兄の猿真似をしたのが癪に障ったのかもしれない」と伸六さんは語っています。)


 愛子さんは、この時、怖い思いをした伸六さんと同時に、彼を打ってしまった漱石の気持ちを思うと悲しかったそうです。


私は父が恐ろしくまた同時に子供心にも哀れに思えてならなかった。親子四人が共に言い様もないほど惨めであった。父は父でいくら神経衰弱の折りで、頭が変であったとは云え、自分の子を打って癇癪まぎれな行為をしてしまった自分を救い難い気持ちで眺めねばならなかったであろう。普段暖かい優しい父であったから、頭が変だったとは云え、打った後では気がついて暗然としたろうに。(中略)

 然し父は何故子供達を楽しく遊ばせてやりたいなどと、そんな頭の時に考えたのか。こうなってみると、父の優しい意図も却って子供達にとっては恨めしい。こんな悲しい結末になるのだったら、却ってそっと家においてくれればよかったのに。


 それでも、自分が親になってみれば、大人の、しかも体調の悪い漱石自身があのとき浅草に行きたかったわけはなく、ただ、子供たちを喜ばせたかったに違いないことも、せっかく遊びに連れて行ったのにうじうじしている子供を見ていらいらしたであろう気持ちもわかる。


 ただ、あそこまで非常識な行動に出てしまったのは、(弟たちには気の毒なことだが)ひとえにその時の漱石が極度の神経衰弱に陥ってしまっていたからだ、と、愛子さんは漱石に同情を寄せ、敢えてこう語っています。


 然し最後に私は言いたい。結果より原因だ。書斎で本でも読んで静かに勉強していたかったろう胃病の父が、子供を楽しましてやりたいばかりに浅草くんだり迄私たちを連れて行った気持!そうした優しい父の気持ちを私は買いたい。そして買うべきではないだろうか?





(漱石の「神経衰弱」について、愛子さんの分析)  

 普段はとても優しい漱石に周期的に起きた危険な神経衰弱。


 漱石は自身に不安定な時期があることは認めており、鏡子夫人に、そうしたときの自分の様子をこう語っていたそうです。


 (なお、精神の変調について漱石に自覚があり、その自己分析を夫人に語っていたというのは、ほかの人々からはほとんど語られていない話です。)


 父がこういう周期的な強度の神経衰弱症状に陥る寸前、「自分は一寸(ちょっと)変だな、いつもと変わっているな。」とそう思うそうである。(中略)然(しか)しその内に「自分(漱石自身)が何が何だか解らなくなってしまうのだ。」と自分の強度の神経衰弱症状について父は母にこう打ち明けたそうだ。


 はじめは自分自身がこれは変だなと反省できる程度なのだが次第に自分がそうした原因を作り出すのではなく、総ては他人が原因を作り、自分を怒らせいらだたせ、間違ったことをしかけてくる様に思い込んでしまうのだ。小説「猫」を書いていた頃がそうした症状は一番激しかったらしい。幸いにして私はその頃まだ生まれていなかったから何のかの云う資格はない。


 「猫」とは『吾輩は猫である』のことで、あのユーモラスながら複雑な構成の文章を書いているときの漱石が一番ナーバスだったとは意外な話ですが、この時期に物心ついてしまった上の二人の娘は、その後、漱石が安定しても、生涯距離を感じたままだったようです。


 漱石の弟子の一人は、愛子さんに、漱石の精神の変調は、小説を生み出すための苦悩や緊張が神経を極度にすり減らすために起きるのだと言ったことがあるそうです。


 裕福な家の出である妻と七人の子供を不自由なく養い、教育するだけでも、責任感の強い漱石には大変なプレッシャーだったはずなのに、さらに小説に心血を注いだとき、その神経が限界を迎えてしまったのではないか。愛子さんは弟子の方の意見に同意しています。


 (そして、小説で頭が疲れることが、神経を刺激し、神経性胃炎が悪化し、胃が悪いと苛立ってますます具合が悪くなるという悪循環に陥っていたのかもしれない、と、付け加えています。)


 実際、漱石の不安定な時期は小説執筆期とほぼ一致しており、小説が書き上がってしまえば、もとの穏やかな漱石に戻っていたそうです。


 (しかし、どんなに不安定でも毎日朝からきっちり決まった枚数の原稿を書き上げて出版社に送っており、愛子さんにはその几帳面さが逆に気の毒に思われたそうです。)





(漱石と家族のすれ違い)  

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 漱石が不安定な時期、それに気づいた鏡子夫人はもめ事を避けるために、子供や手伝いの人にも注意を言い渡し、家中が静まりかえりました。

 とたんに始まる、誰もがすり足で歩き、子供達はおびえたように漱石を盗み見る日々。


 「普段と同じに何故できないのか。誰も彼も、子供達迄が無邪気さをなくし己(〈おれ〉父)の様子を伺う。」そうした作られた不自然さが、真実を此の上なく愛した父には又たまらなかったのだろう。(中略)

 とげとげしい自分の表情が廻りの者達をおびやかしている事に父は気づかない。父を怒らせるな、父がいつ癇癪を起し、何をするか解らないから、と云う必要以上の母の注意とそれを裏書きでもするかの様な父の険しい顔、気難しく皮肉な口もと、赤く充血した鋭い目、それ等のものがごっちゃになって家の者は益々父を恐れずにはいられない。


 愛子さんには、優しい漱石と不安定な時の漱石の見分けがつき、優しいときの漱石には言いたい放題だったのに、漱石はそんな自分を、自然で正直だと思ってくれ、かわいがってくれたという実感がありました。


 漱石が根は優しく、人の本音を愛した人だという確信がある愛子さんは、その揺るぎない視点から、父と母それぞれの問題を正確に捉えています。


 自分の態度が周囲をおびえさせているとも気づけずに、家中が不自然な態度に沈むことにますます苛立つ漱石。


 愛子さんのように漱石の状況を察することができない者達に過度の警告をして、結果として家族と漱石の溝を深めてしまった鏡子夫人。


 病気の漱石と、トラブルを避けようとした鏡子夫人の間には、確かに不幸な行き違いがあり、それは、原因がわかっても、互いに容易には歩み寄れない性質のものでした。


 ちなみに、鏡子夫人は、愛子さん同様、漱石の顔色で、事前に異変に気づくことが出来たようです。


(だからこそ優しい漱石もきちんと認識しており、漱石の死後も彼に愛情を持っていました。)


 ただ鏡子夫人は、もう一人の家庭の責任者として家の者たちを守らなければならないという立場に加え、元来竹を割ったようにさばさばと率直な性格の持ち主でもありました。


 この立場と性格故に、漱石の不安定について、愛子さんのように、その思いを深く分析し、理解を示すより、現状起きている危機に対処することに集中してしまったのかもしれません。


(彼女のこういう性質が、がさつな悪妻と批判される所以ですが、子や孫たちはむしろ彼女だから漱石を支えられたのだと反論をしています。)



(「いいよいいよ、泣いてもいいよ」(漱石臨終のとき))  

 漱石は49歳(数えで50才)の若さで、胃潰瘍を悪化させて亡くなりました。


 愛子さんは10歳頃の自分が、死の床にあった漱石の前に座ったときの思いを記しています。

臨終直前の漱石、出典解説付 - コピー.jpg


 母と子供六人は父の枕部に坐って父を見守っていた。その頬には白い髭がのび、まくらの上のしなびた顔はひどく黄ばんで、何故か其の憐れな様子が私に晩秋のすすきを思わせた。私は子供ながらにあたりの様子にひどく胸打たれ、悲しさがこみあげてきて泣きじゃくった。

 「泣くんじゃないのよ。」

という母の言葉を受けるように

 「いいよいいよ泣いてもいいよ。」

父の声が細々と私の耳に聞えた。其声音は小さくいかにも力が無かったが、しーんと静まりかえった室の中に優しく響いた。「愛子は泣きたいのだ。泣きたいだけ泣かしておやり」そう父は言っているようだった。ひと廻りも小さくなってしまった父は白いシーツの上に身体を横たえ静かに目をつぶっていた。


 愛子さんには、その時の漱石の言葉に、漱石が描いたある達磨の絵が重なって思えたそうです。

漱石作「達磨渡江図」出典付 - コピー.jpg

 その絵は墨のように暗い夜に、手も足もない達磨が唯一人小舟に乗って、何処から来て何処へ行くのか、流れの儘に身を任せていく、これを滅し身を小舟に託し波のまにまにあてなく流れていく、そんな絵であった。自我、自意識を捨て、天意の儘に生きているこの達磨の絵、これこそ彼の理想ではなかったか?晩年父が達せんとして達し得なかった境地が此処にあったのではないかと思う。自然に逆らわず、有るがままの姿で生きていく。そうした澄み切った心境こそ晩年の父漱石が憧れていた境地ではなかったろうか。父の「泣いてもいいんだよ」と言ってくれた死に際の言葉と、此の絵には何か一脈相通ずるものがあるように思えてならない。可愛がっていた子供が自分の死を悲しんで泣いている、漱石は此の末娘が泣くのが自分にはつらくていやなのだ。しかし愛子が泣きたいなら泣かしてやっておくれ、泣くのはおよしと云う代りに、お前の気がすむならそうおし。お父様はかまわないのだ。父は臨終の苦しみの内にさえ、己を去り娘の涙を自然のままに流させてやりたいと思ってくれたのではないだろうか。



 空との境目があいまいな川に、ぽつんと浮かぶ小舟に乗り、赤い衣を着た達磨が流れてゆく。

 素朴な筆致で描かれた、さみしさとぬくもりの入り混じるその絵を、鏡子夫人は亡くなるまで応接間に掛けていたそうです。

 (※「父漱石の霊に捧ぐ」p.589より)

 愛子さんが、自分の絵をこんなにも丁寧に美しく語り、自分の最期の言葉をこんなにも深く受け止めてくれたことを知ったら、漱石は喜んだでしょう。




 愛子さんの「父漱石の霊に捧ぐ」は、2018年2月発行の漱石全集に増補収録されました。

漱石言行録 (定本 漱石全集 別巻)
漱石言行録 (定本 漱石全集 別巻)


 偉大な文豪ながら、精神の不調に悩まされ、妻子に理不尽な態度をとったとされる漱石。

 しかし、愛子さんは、娘たちと遊び、むしろ明治の父親としては珍しいほどおおらかに笑って、娘たちの率直な言葉を受け入れる漱石の姿を書き残しています。

 誠実であるがゆえに自他のエゴを見過ごせずに苦しむ、危うく透き通った人々を描いた漱石が、その驚異的な創造の没入の合間に、愛子さんに言われるがままに生徒役となり、結構楽しそうに体操をしていたということ。

 一緒にひな人形を眺め、わざとお菓子をつまんだり、おはじきに興じたりしていたということ。

 愛子さんが泣いていたら、そっと助けにきてくれたこと。

 そして、死を前に、「いいよいいよ泣いてもいいよ」と言い、愛子さんの「泣きたい」という気持ちをあるがままにしてくれたこと。

 流れにあらがわずにゆく小舟の達磨のように、漱石が、人の心を含めたすべてのあるがままの自然を、静かに受け入れ、愛していたということが、この文章を通じ、より広く知られてほしいと思います。

 そして、漱石に「父がとても優しかったことを知ってほしい」と涙し、愛情と洞察を併せ持つ文章を書き残した愛子さんという家族がいたことも。

 新しく魅力的な漱石像を紹介しているだけでなく、愛子さんの人柄と聡明さがにじみ出ており、優しさも欠点もある家族の姿を描き出しているという点でも、大変すぐれた文章です。是非、お読みになってみてください。

 読んでくださってありがとうございました。


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2018年07月15日

夏目漱石とうなぎ(胃潰瘍で入院中の漱石、見舞いに来た弟子の失言に激怒〈夏目鏡子『漱石の思い出』より〉)


夏目漱石、鏡子夫人 -.png



本日は、夏目漱石のうなぎにまつわるお話をご紹介させていただきます。




漱石は明治四十三(1910)年八月、四十三歳のときに、胃潰瘍を悪化させ、療養先の修善寺温泉で大量吐血をし、危篤状態に陥りました。


有名な「修善寺の大患」です。


約三十分間の意識不明を経て、奇跡的に一命をとりとめた漱石は、容体が落ち着くまで引き続き修善寺で安静にしていました。1)


療養中は、アイスクリームやおかゆなどをほんの少しだけ食べる日々でしたが、ついこの間死にかけたというのに、漱石の食欲はすさまじく、食事が足りないと抗議をして、医者や鏡子夫人を困らせたそうです。(危篤から三日後には、もうある程度食欲が復活していた模様。)



自分ではねながらいろいろ献立を頭の中でこさえて、やれ西洋料理だ、今度は鰻(うなぎ)だという風に想像の中でごちそうをならべて見るのだと申して居りました。(鏡子夫人談 2)(一部仮名遣いを改めてあります。)



あんまり文句を言われるので、かかりつけの医師が食事時になると病室から逃げだすほどだったという状況下、ようやく移動に耐えられる体力がついたとのことで(それでも寝台に乗せて寝たまま馬車や汽車で運ばれるような状況)、十月になってから、漱石は東京に戻り、そのまま入院しました。


漱石がだいぶ歩けるようになったころ、弟子の小宮豊隆と東新が見舞いに訪ねてきました。


そして、この二人が、漱石の前で、鏡子夫人に「奥さん、帰りに鰻をおごって下さい」と言ったのが、漱石の逆鱗に触れました。



「俺が病院に入って居るのに、料理屋へ行こうなんて細君を誘う奴があるか」

 と偉い剣幕で苦い言葉を浴びせかけたので、這々の態(てい)で外へ出て、やがて東さんが、

 「先生もあんなにいわなくったっていいのに、大人気ないな。これから何を食べたって不味(まず)くなる。」

 と、不平をならべて、二人とも悄気(しょげ)て、その儘(まま)どこへも行かず、おわかれして了(しま)いました。すると翌日病院に参りますと、機嫌よく昨日はあれからどうしたいと尋ねますから、どこへも行かずにすぐかえりましたと申しますと、そうかそりゃ気の毒だった。小宮の奴、いつもあんまり呑気で贅沢なもんだから、ついあんなに強くいって見たのだと申して居りました。3)



青年二人は「大人気ない」と、漱石が悪いような言いようですが、


1、日ごろすごくお世話になっている

2、ついこの間胃が悪くて危篤になった人を前に、

3、本人が食べたくて病床で妄想までしていた食べ物を、

4、見舞いに来たその場で、

5、その人の奥さん(この人にもお世話になっている)に、

6、「おごって下さい」と言った


……のですから、それは怒られて当然というか、現代の感覚なら、出入り禁止や、フェードアウトされてもおかしくない問題発言です。


むしろ、翌日には「そりゃ気の毒だった」と笑っている漱石は大変寛大な気がします。




小宮豊隆は後に漱石研究の大家となり、東北帝国大学教授も務めた人物です。


Toyotaka_Komiya_01 -.jpg

(画像出典:Wikipedia)小宮豊隆60代の頃の写真


しかし、弟子時代は夏目家と最も密接な付き合いだった裏返しに、ちゃっかりしたところもあったようで、学生時代、高級な下駄が買いたいからと、夏目家の財政を管理する鏡子夫人に「奥さん、僕に二円下さいませんか」と丁寧な言い回しで随分なことを言い、漱石から学生がそんな贅沢品をと却下されても食い下がって、とうとう二円の下駄を買わせてしまったというエピソードさえあります。4)


ただし、この時代は、裕福な人物が他人に金銭や物を提供するのは珍しいことではなく、朝日新聞の看板作家だった漱石は、ほとんど交流が無かった歌人石川啄木にも病気の見舞金として10円(明治三十年代の一円は現代の金銭価値で二万円程度)を贈ったりしています5)


また、作家の内田百閨iひゃっけん)は、湯河原で療養中の漱石を訪ねて行ってまで、百円から二百円もの大金を借りに行ったそうです(大金なのに正確な額を覚えていないところがいかにも借金慣れした百閧轤オい)。


百閧ゥら話を聞いた漱石は即座に「いいよ」と引き受け、ここには持ち合わせがないから、東京にいる鏡子夫人に借りに行け、と言って、帰りの電車賃とお小遣いの数円をその場で渡し(百閧ヘ片道の旅費しか持っていなかったから)、その日は同じ宿に泊めてくれたという話も残されています。6)


そんな漱石が怒ったのですから、弟子二人の「鰻をおごって下さい事件」は、よほど腹に据えかねた(あるいは鰻が食べたかった)のでしょう。




しかし、ここで、もう一つ興味深いのは、漱石の怒り方です。


「俺が病院に入って居るのに、料理屋へ行こうなんて細君を誘う奴があるか」


青年たちが、「奥さん、鰻をおごってください」と言ったのを、「細君を料理屋に誘う」と言い換えています。


「鰻をおごってください」では鏡子夫人の立ち位置は財布と大して変わりませんが、「料理屋に誘われる細君」だと大分聞こえが違ってきます。


漱石がどこまで意識して言ったのかはわかりませんが、自身の憤懣とともに、さりげなく鏡子夫人を財布から格上げしているのです。


これが、「俺が病院に入って居るのに、料理屋へ行くなんて」なら、「鰻食べたい、具合が悪いのにないがしろにされて悔しい」という抗議のみで、おごらされる鏡子夫人は眼中にないことになりますし、良い先生面して「良いよ言っておいで」などと言おうものなら、重病人の看病疲れの上、家に帰れば大勢の子供の世話が待っている鏡子夫人は、(しかも支払いまで持たされて)もっと面白くないでしょう。


以前、修善寺の大患で、漱石が意識を取り戻した際、すぐに「妻(さい)はどこですか」と言ったというエピソードをご紹介しましたが、こういうところが漱石の「いざというとき外さない」ところだと思います。


複雑な生い立ちが影響してか、あるいは鋭敏すぎる頭脳のためか、生涯で幾度か精神に変調をきたし、その時期には鏡子夫人に理不尽な八つ当たりをしていたという漱石を、それでも鏡子夫人は深く愛し、「いろんな男の人を見てきたけれど、あたしゃやっぱりお父様(漱石)が一番いいねえ」と、亡くなった後も目を細めて懐かしんでいたそうです。7)


確かに、漱石には、欠点があったとしても、要所要所で伴侶を尊重し、愛情を枯渇させないところがあったように思われます。


鏡子夫人も、この時の漱石の叱り方がまんざらでもなかったので、わざわざ台詞を丁寧に再現して聞かせたのではないでしょうか。

『漱石の思い出』は、鏡子夫人の語りを、娘婿の作家松岡譲が口述筆記したもの。)



個人的な話ですが、このエピソードを読むたびに、私の祖父母のあるもめ事を思い出します。


祖父母が新しい町に引っ越したてで荷ほどきも済まない時期に、祖父が旅行に来た後輩たちを祖母の了解も得ずに何日も泊めてしまい(勿論三食提供)、祖母はそのときの大変さをずっと後になっても繰り返し私に話していました。


祖母は鏡子夫人に勝るとも劣らない、竹を割ったようなさばさばとした人(というか私が鏡子夫人を好きなのはこの祖母に似ているから。)なのですが、忙しい時期に、祖父がてんやわんやの妻より後輩にいい顔をしたのがよほど面白くなかったのでしょう。


長年連れ添った夫婦なら、かならず互いに失敗することもあり、不満もいくつも出るものですが、それでも、漱石のように「いざというときに外さない」ようにしておけば、愛情はひっそりと、でもしっかりと、長持ちするものなのかもしれません。


(逆に相手が大変な時に配慮を欠くと、日ごろは竹を割ったような人でも数十年根に持って、その憤懣を孫の代にまで語り継ぐから要注意です。)




ところで、この「鰻をおごって下さい事件」の後日談らしき話があります。


漱石が入院してから約3ヶ月後の明治四十四(1911)年121日、小宮豊隆が、漱石が熊本で高校教師をしていた時代の教え子で、修善寺でも漱石に付き添っていた坂元雪鳥(さかもとせっちょう)を連れて見舞いに来ました。


漱石は二人に鰻丼の出前をとってご馳走してあげたそうです。8)


漱石は2月に退院していますし、「おごってください事件」の頃の漱石はようやく散歩ができるようになった時期のようなので、これは、漱石が小宮たちを怒鳴りつけた後の出来事と考えて間違いなさそうです。


あの時は療養生活がつらかったせいもあって、つい言い過ぎた。


漱石はそんな風に思って、小宮達に罪滅ぼしとして鰻を食べさせてあげたのかもしれません。


鏡子夫人の「病気が起きない(精神状態が悪くない)ときのあの人ほど良い人はいない」9)という言葉を思い出させる。ちょっと人が良すぎるくらいの漱石の優しい一面が現れているエピソードです。





当ブログ、そのほかの漱石関連の記事一覧です。よろしければ併せてごらんください。






【出典】

1)『漱石の思い出』(夏目鏡子著、松岡譲筆記)三十七〜三十八章 岩波書店20169月発行

漱石の思い出 (文春文庫)
漱石の思い出 (文春文庫)

(2)同上 三十九章「経過」

(3)同上 四十一章「病院生活」

(4)同上 二十八章「木曜会」

(5)『サライ.jp』「日めくり漱石」矢島裕紀彦「夏目漱石、貧しくも才あふれる若き歌人・石川啄木に永遠の別れを告げる」 2016415日 https://serai.jp/hobby/53985

(6)『私の「漱石」と龍之介』「飢ゑ死に」〜「残り鬼」 内田百閨@ちくま文庫 1993年八月 発行

私の「漱石」と「龍之介」 (ちくま文庫)
私の「漱石」と「龍之介」 (ちくま文庫)

(7)、(9)『漱石の思い出』あとがき 孫の半藤末利子さんの文 随筆『夏目家の糠みそ』にも「祖母のこと、母のこと」として収録されている。)

 夏目家の糠みそ (PHP文庫)
夏目家の糠みそ (PHP文庫)


(8)『サライ.jp』「日めくり漱石」「大量吐血で入院中の夏目漱石、見舞いに来た門弟に鰻丼をご馳走する2016121日 https://serai.jp/hobby/39056

posted by pawlu at 06:59| 夏目漱石 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月03日

没後100年、NHK漱石関連番組一覧

取り急ぎご連絡まで

夏目漱石の命日と没後100年にちなんで、NHKEテレと BSプレミアムで漱石関連の番組がいくつか放送されるので、見つけた範囲でネット情報をご紹介させていただきます。
(Eテレ)
・2016年12月3日 午後11時00分〜 午前0時30分(10日0時〜再放送
 ETV特集「漱石が見つめた近代〜没後100年 姜尚中がゆく〜」
http://www4.nhk.or.jp/etv21c/x/2016-12-03/31/1576/2259555/

 漱石を深く敬愛する政治学者姜尚中さんが、新発見の資料をもとに、ロンドンから韓国までの都市をめぐり、漱石の見据えた近代の姿を読み解いていく作品です。

(ご本人の、あの象徴性を感じさせる静かな語りと言葉選び、深奥を探すようなまっすぐな視線は、漱石作品の登場人物によく似ていらっしゃると思います。)

 姜さんが漱石を思い入れ深く分析した著書がいくつか存在し、いずれも読みごたえがありましたので、併せてお手にとってみてはいかがでしょうか。

漱石のことば (集英社新書) -
漱石のことば (集英社新書) -

悩む力 (集英社新書 444C) -
悩む力 (集英社新書 444C) -

(BSプレミアム)
・2016年12月6日 午前9時00分〜 午前10時26分
「プレミアムカフェ ロンドン 1900年 漱石“霧の街”見聞録」
http://www4.nhk.or.jp/pcafe/x/2016-12-06/10/3248/2315706/
 漱石が留学したころのロンドンを紹介する番組です。

・同12月7日 午前9時00分〜 午前11時01分
「プレミアムカフェ シリーズ恋物語 “虞美人草”殺人事件 漱石 百年の恋物語」
 http://www4.nhk.or.jp/pcafe/x/2016-12-07/10/3675/2315709/
三角関係を描き、当時熱狂的反響を巻き起こした小説『虞美人草』について、「ヒロインの死を巡る三角関係の謎を徹底議論する」番組だそうです。

・同12月8日 午前9時00分〜 午前11時10分
「食は文学にあり 漱石と鴎外▽猫を愛した芸術家の物語 夏目漱石」
 http://www4.nhk.or.jp/pcafe/x/2016-12-08/10/4411/2315714/
 胃弱なのに食い意地の非常に張っていた漱石と、彼と並び称される明治の文豪森鴎外の食をテーマとした「食は文学にあり 漱石と鴎外・文豪の食卓」と、「吾輩は猫である」に代表される、漱石と猫の関わりをテーマとした「おまえなしでは生きていけない〜猫を愛した芸術家の物語〜夏目漱石 吾輩は福猫である」の二作品を一挙放送。

 ※ちなみに、漱石は猫をテーマに大いに名声を博しましたが、本人はどちらかというと犬派らしいということがわかる資料が残されているので、近々ご紹介させていただきます。

・同12月10日 後7:30〜9:00
スーパープレミアム「漱石悶々(もんもん)」
 http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=07831
 ※祇園の茶屋の女将、磯田多佳と漱石の書簡を基にしたドラマです。豊川悦司、宮沢りえ主演。

 以上になります。次の記事では、「虞美人草殺人事件」にちなんで、小説『虞美人草』の私的おススメポイントをご紹介させていただきますので、よろしければまたお立ち寄りください。

 読んでくださってありがとうございました。

posted by pawlu at 09:44| 夏目漱石 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月19日

ドラマ「夏目漱石の妻」放送お知らせ

 取り急ぎお知らせまで。

 NHK総合2016年9月24日(土)夜9時からドラマ「夏目漱石の妻」が放送されるそうです。(全4回)

 かつては文豪の妻に不似合いな、文学的素養の無い、夫をないがしろにする悪妻と言われた夏目鏡子夫人。
 
 しかし、親族の証言から、実際には、時に精神的変調から家族に暴力すら振るったという漱石の不安定な部分を支えた、気丈で裏表の無い、魅力的な人物であったことが明らかになっています。

 今回のドラマは、こうした鏡子夫人と漱石の関係を、鏡子夫人の手記『漱石の思い出』を下敷きに描いているそうです。(大変素敵な本です。)

 漱石の思い出 (文春文庫) -
漱石の思い出 (文春文庫) -

 番組公式HPはこちらです。
  ・TVドラマ「夏目漱石の妻」

   http://www.nhk.or.jp/dodra/souseki/index.html
 
 番組スピンオフのショートドラマ「漱石先生を待ちながら」の動画ページはこちらです。
 (漱石の家で、出入りする門下生たち〈スピードワゴンの小沢一敬さん、井戸田潤さん、カルマラインの柳原聖さん〉が、不在の漱石の噂話をする、という内容だそうです。)
  ・漱石先生を待ちながら 第一話「先生と悪妻」

   http://www3.nhk.or.jp/d-station/episode/souseki/6266/
 
 「ダ・ヴィンチニュース」のドラマ評はこちらです。
 ・TVドラマ「夏目漱石の妻」で長谷川博己・尾野真千子が夫婦役に! 文豪・夏目漱石のユニークな夫婦生活を描く

  http://ddnavi.com/news/296027/a/
  

 「いろんな男の人を見てきたけど、あたしゃお父様(漱石)が一番いいねぇ」
 そう、晩年に孫の半藤末利子さんに語ったという鏡子夫人。

 「病気の(精神的変調が起きている)ときは仕方がない、病気でないときのあの人ほど優しい人はいないのだから」
 そう割り切って、漱石の理不尽な言動を、その嵐が過ぎるまでは、子供たちの盾となりながら耐え、それでも普段の漱石の優しい部分を、決して忘れなかった鏡子夫人の生きざまは、普段一緒にいるからこそおろそかにしがちな、夫婦や家族の愛し方を思い出させてくれます。

 私はこの鏡子夫人の手記から、鏡子夫人の頼もしくて暖かい人柄とともに、むしろ我々が知らなかった、非常に優しくて、ときに愛すべき欠点のある漱石像を知ることができ、あのあまりにも偉大な文豪をますます敬愛するようになりました。

 漱石と鏡子夫人のドラマといえば、かつて本木雅弘・宮沢りえの強力タッグで「夏目家の食卓」(2005・TBS)という非常に魅力的なドラマがあり、鏡子夫人悪妻説の真実を広く知らしめるきっかけとなったのですが、今回のドラマでも、この夫婦の愛のある部分を描き出してくれると思うのでとても楽しみにしています。

 ご覧になり、そしてできれば「夏目漱石の思い出」もお手にとってみてください。

 当ブログでもこのドラマ、および漱石没後100年にちなんで、漱石関連のエピソードを随時ご紹介させていただく予定ですので、よろしければお立ち寄りください。

 当ブログ、これまでの漱石関連記事は以下のとおりです。併せてご覧いただければ幸いです。

あなた、私は、ちゃんとここにいますよ」(夏目漱石と鏡子夫人)
「いいよいいよ、泣いてもいいよ」(夏目漱石の命日)
月がきれいですね。(中秋の名月と夏目漱石)
ミレイの「オフィーリア」と夏目漱石の『草枕』
「兄さんは死ぬまで、奥さんを御持ちになりゃしますまいね」(随筆『硝子戸の中』と小説『行人』)

 読んでくださってありがとうございました。


posted by pawlu at 23:58| 夏目漱石 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月06日

ミレイの「オフィーリア」と夏目漱石の『草枕』

 本日も現在公開中の「ラファエル前派展」で来日中の「オフィーリア」について、書かせていただきます。

オフィーリア.jpg


 「オフィーリア」についての過去記事はコチラです。 


 この絵は夏目漱石の小説『草枕』の中で、主人公である画家の「余」が、「あのような絵を自分の持ち味で描いてみたい」と思い浮かべる存在となっており、作品の重要な役割を果たしています。




 以下、あらすじと、「オフィーリア」にまつわる部分をご紹介させていただきます。


 『草枕』は主人公の「余(=「私」の意味)」が、創作のために尋ねた温泉地で、離婚して家に戻ってきている「御那美さん」に出会い、彼女の美しさや謎めいた言動、その地の自然や人間模様を見つめるうちに自分の描くべき「画」を見出していくという筋立てです。


 いや、筋立てというか、そういう気分と光景が展開する作品とも言えます。



「草枕」の中のオフィーリア描写は以下の通りです。


  余(=「私」)は湯槽(ゆぶね)のふちに仰向(あおむけ)の頭を支えて、透き通る湯のなかの軽き身体を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わして見た。ふわり、ふわりと魂がくらげのように浮いている。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前を開けて、執着の栓張(しんばり)をはずす。どうともせよと、湯泉(ゆ)のなかで、湯泉と同化してしまう。流れるものほど生きるに苦は入らぬ。流れるもののなかに、魂まで流していれば、基督(キリスト)の御弟子となったよりありがたい。なるほどこの調子で考えると、土左衛門(どざえもん)は風流である。スウィンバーンの何とか云う詩に、女が水の底で往生して嬉しがっている感じを書いてあったと思う。余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリヤも、こう観察するとだいぶ美しくなる。何であんな不愉快な所を択(えら)んだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはり画になるのだ。水に浮んだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮んだりしたまま、ただそのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。それで両岸にいろいろな草花をあしらって、水の色と流れて行く人の顔の色と、衣服の色に、落ちついた調和をとったなら、きっと画になるに相違ない。しかし流れて行く人の表情が、まるで平和ではほとんど神話か比喩になってしまう。痙攣的な苦悶はもとより、全幅の精神をうち壊こわすが、全然色気ない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレーのオフェリヤは成功かも知れないが、彼の精神は余と同じところに存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以(もっ)て、一つ風流な土左衛門をかいて見たい。しかし思うような顔はそうたやすく心に浮んで来そうもない。


「オフィーリア」の顔は画として素晴らしいが、しかし、同じようなものを描いても意味がない。芸術家として、これに対抗しうる顔を見つけて描いてみたい。それが「余」の考えであり、筋らしい筋の無い「草枕」の中で数少ない、「テーマ」と思しき要素です。


オフィーリア 顔.png


またこんなくだりもあります。(以下引用)


すやすやと寝入る。夢に。

 長良(ながら)の乙女(※二人の男に想われたことを苦にして川に身を投げたというその地の伝説の女性)が振袖を着て、青馬(あお)に乗って、峠を越すと、いきなり、ささだ男と、ささべ男(※ともに長良の乙女に恋をした男)が飛び出して両方から引っ張る。女が急にオフェリヤになって、柳の枝へ上のぼって、河の中を流れながら、うつくしい声で歌をうたう。救ってやろうと思って、長い竿を持って、向島を追懸(おっかけ)て行く。女は苦しい様子もなく、笑いながら、うたいながら、行末(ゆくえ)も知らず流れを下る。余は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ。


どうもミレーの「オフィーリア」のイメージから離れられない「余」に対し、あるとき「御那美さん」はこんなことを言います。


(以下引用)

「その(名所と聞く)鏡の池へ、わたし(余)も行きたいんだが……」

「行って御覧なさい」

「画(え)にかくに好い所ですか」

「身を投げるに好い所です」

「身はまだなかなか投げないつもりです」

「私は近々(きんきん)投げるかも知れません」

 余りに女としては思い切った冗談だから、余はふと顔を上げた。女は存外たしかである。

「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」

「え?」

「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」

 女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧みてにこりと笑った。


……こんなふうに一事が万事、刃のような柳のような、人をひやりとさせながらゆらゆらとつかみどころのない御那美さん。


しかし、周囲からは変わり者と陰口を言われる彼女の突飛な言動を「余」はきらいではありません。彼女はなるほど画にしたら面白い女かもしれないと思います。が、しかし、それには何かが足りない。美しさも神秘性も十分ではあるのだけれど……。


(以下引用)

あの(御那美さんの)顔を種にして、あの椿の下に浮かせて、上から椿を幾輪も落とす。椿が長(とこしな)えに落ちて、女が長えに水に浮いている感じをあらわしたいが、それが画(え)でかけるだろうか。(中略)しかし何だか物足らない。物足らないとまでは気がつくが、どこが物足らないかが、吾(われ)ながら不明である。したがって自己の想像でいい加減に作り易(か)える訳に行かない。あれに嫉妬を加えたら、どうだろう。嫉妬では不安の感が多過ぎる。憎悪はどうだろう。憎悪は烈(はげ)し過ぎる。怒(いかり)? 怒では全然調和を破る。恨(うらみ)? 恨でも春恨(しゅんこん)とか云う、詩的のものならば格別、ただの恨では余り俗である。いろいろに考えた末、しまいにようやくこれだと気がついた。多くある情緒のうちで、憐(あわれ)と云う字のあるのを忘れていた。憐れは神の知らぬ情で、しかも神にもっとも近き人間の情である。御那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。そこが物足らぬのである。ある咄嗟(とっさ)の衝動で、この情があの女の眉宇(びう)にひらめいた瞬時に、わが画は成就するであろう。しかし――いつそれが見られるか解らない。あの女の顔に普段充満しているものは、人を馬鹿にする微笑(うすわらい)と、勝とう、勝とうと焦せる八の字のみである。あれだけでは、とても物にならない。


 自分がミレイの「オフィーリア」の向こうを張るには、「御那美さん」をモデルに、その顔に「憐れ」の情が浮かんだ時を描くしかない。


 そう思った「余」ですが、しかし、彼女の性格からいってそんな機会がはたしてめぐってくるものだろうか……危ぶんでいた「余」は、しかし、ある瞬間に目にします。



弟の戦争への出征時、停車場で家族ともども見送りに出た御那美さんは「死んでおいで」と彼女らしい一言を言い放ちますが、停車場を離れる汽車の窓から、ふいに、この地を去る彼女の元の夫が顔を出しました。

(以下引用)


茶色のはげた中折帽の下から、髯だらけな野武士(元夫)が名残(なご)り惜気(おしげ)に首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合わせた。鉄車はごとりごとりと運転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐(あわれ)」が一面に浮いている。

「それだ! それだ! それが出れば画(え)になりますよ」と余は那美さんの肩を叩たたきながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟(とっさ)の際に成就したのである。


 ハムレットに突き放され、絶望の中で心を病んで、全てを投げ出して花に囲まれて歌いながら死んだ乙女。


 それがミレイのオフィーリアでした。


 「美しい女が、花と水の中にたゆたって命を終わらせてゆく」という画題はそのままに、あの乙女の美に一歩も譲らぬ、しかし、異質な個性を持つ美とは、そのとき女が浮かべるべき表情とはなんだろう。


「余」の答えは「憐れ」でした。


「憐れ」こそ人の持ちうる神に近い情。


 「余」の言う「憐れ」が人を気の毒に思う気持ちか、それとも人との別れに自分の胸が痛む心地は判然としません。


 しかし、「人が、誰か他の人を思ったときに湧く感情」です。


 完全に自分の勝手に生きているような、他の人に対する感情は「勝とう」以外にないような美しい女が、過去の男ゆえに、その顔にあらがえず浮かべる「憐れ」。


 それこそが、「オフィーリア」の美に対抗できる美だと、「余」は思ったのでした。


 こういう、作中のほとんど唯一のテーマといえる、「『画』の(あるいは「芸術」、「美」の)発見」の過程で、「立ち向かうべき強敵」として、「オフィーリア」が登場しています。


 何が起こるというわけではないですが、このような発見の過程や、そこここに見られる美意識、風景や人の描写がすぐれた作品です。



 「オフィーリア」を側に、御那美さんの「憐れ」の表情や、ついに「画」を得た「余」の描く、「椿散る水面に浮かぶ女の絵」を思い浮かべるのもまた一興かと。


 このご紹介がご鑑賞の一助になれば幸いです。


当ブログ、これまでの関連記事は以下のとおりです。併せてご覧いただければ幸いです。


(絵画「オフィーリア」関連)




 ※「オフィーリア」のモデルになった女性の生涯についての記事



 ※ミレイの作品と、ミレイと妻エフィの関係についての記事



(漱石関連)













 読んでくださってありがとうございました。

posted by pawlu at 21:30| 夏目漱石 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月27日

「兄さんは死ぬまで、奥さんを御持ちになりゃしますまいね」(漱石の兄と「硝子戸の中」「行人」)

 今日は明治の文豪夏目漱石のお兄さんにまつわるエピソードついて、少しご紹介させていただきます。


 漱石の一番上の兄大助氏は、漱石より十歳ほど上で、一度養子に出て9歳まで離れて暮らしていた漱石は、兄と弟というより「大人と子供」のような気持ちで彼を見上げていたそうです。


 いつも険しい顔をしたこの長兄は、父母であっても少し近寄りがたいような空気を醸しており、漱石のことも厳しく躾けたそうです。


 しかし、真面目で利発な漱石に期待をかけて、勉強をするようにと強く勧めたのはこの兄であり、漱石は複雑な生い立ちや性質の違いからあまり馴染めなかった生家の中で、この兄と母のことだけは、慕っていたようです。


 漱石の随筆『硝子戸の中』に、この長兄についての描写・逸話があります。




 漱石いわくこの長兄は色白の端正な美男子でしたが、険しい顔の無口な人で、重い病気にかかってからはなおのこと、暗い様子でほとんど外出しなくなってしまったそうです。


 しかし、いつのまにかその表情も人柄もやわらかになったかと思うと、よい着物に角帯をしめて、夕方からふらりと出かけるようになりました。


 かと思えば、声色(役者の声音などをまねる芸事)をしたり、弟(漱石からすると三番目の兄)を呼び出して藤八拳(じゃんけんの一種)の練習をしてみたり……。


 まだ二十歳前の漱石は、ただこの兄の変化を真顔で傍観していましたが、そのうち症状が悪化し、兄は帰らぬ人となりました(看病は勉強をしながら主に漱石が行ったそうです)。


 すると、葬式がすんでしばらくして一人の女性が、夏目家を訪ねてきました。


(以下引用)

三番目の兄が出て応接して見ると、その女は彼にこんな事を訊きいた。

「兄さんは死ぬまで、奥さんを御持ちになりゃしますまいね」

 兄は病気のため、生涯妻帯しなかった。

「いいえしまいまで独身で暮らしていました」

「それを聞いてやっと安心しました。わたくしのようなものは、どうせ旦那がなくっちゃ生きて行かれないから、仕方がありませんけれども、……」

 兄の遺骨の埋うめられた寺の名を教わって帰って行ったこの女は、わざわざ甲州から出て来たのであるが、元柳橋の芸者をしている頃、兄と関係があったのだという話を、私はその時始めて聞いた。

 私は時々この女に会って兄の事などを物語って見たい気がしないでもない。しかし会ったら定めし御婆さんになって、昔とはまるで違った顔をしていはしまいかと考える。そうしてその心もその顔同様に皺が寄って、からからに乾いていはしまいかとも考える。もしそうだとすると、彼女(かのおんな)が今になって兄の弟の私に会うのは、彼女にとってかえって辛い悲しい事かも知れない。


 この話について、息子の夏目伸六さんが随筆『猫の墓』の中でこのような文を書いています。


 (以下引用)


(長兄から「自分は妻を持たない」と聞かされ)その言葉をせめてもの慰めとして、好きでもない客にいやいや身をひかされていったこの女は、兄の死を知って、生前の言葉をたしかめたい一心から、上京したのに違いなく、それと同時に、そんな自分に、約束通り心中立てして、独身のまま世を去った男の幻影を、一生に一度の思い出として、じっと自分の胸に、抱きしめて帰りたかったのに違いない。

(中略)父(補:漱石)はこの時初めて、彼女が生前の兄と深い関係にあった女だという事を聞かされたのだと云って居るが、その後三十年の歳月を経た後(補:「硝子戸の中」は漱石47歳のときの作品)までも、この哀れな女の執念は、根強く父の脳裏に刻みこまれて居たのだろう。




 病気のために、長くは生きられないであろうことを知っていたから、長兄はこの女性に一緒にはなれないと告げたのでしょう。そして、それが嘘ではなかったことを知って、彼女は、自分の人生も愛した人の死も悲しいなりに、一筋の救いを得た。


 おそらくいやでも手練手管の中に生きざるを得ず、またたくさんの嘘をつかれた中でも、あるいは今も自分に嘘をついて生きている中でも、片方が死ぬまで本当の約束があったということが、彼女には必要だったのでしょう。


 その寂しさ、情の濃さは、どことなく小泉八雲が描いた短編や波津彬子さんの漫画(※)に出てくる男と女の愛の形を彷彿とさせます。



(※)波津彬子さん……端正な絵と情感ある物語が特色の漫画家。大正・明治頃を舞台にした作品も多く、特に「雨柳堂夢噺」という骨董店にまつわるシリーズでは、しばしば花柳界に生きる女性と客の男の恋の話が登場する。



 ところで、この長兄の話をきっかけにして書いたのではというくだりが、小説『行人』の中にあります。




 『行人』は、あまりにも鋭敏すぎる頭脳を持った兄が、自分の妻の愛情を疑い、やがては語り手である彼の弟「私」や、家族に対しても不信感を抱いて苦悩するというという物語です。


 この中で、兄弟の父が、客人や家族を前に、こんな話を聞かせます。

 ある良家の子息が、まだ二十歳程度のころに、使用人の娘と深い仲になり、その時は勢いに任せて彼女をいずれ妻にすると約束した。

 しかし、一週間もしないうちに意気地がなくなり、彼女にこの話はいったん破談にしてほしいと言ってしまう。

 しかも男は、女に悪く思われたくないがために、

「まだ学生の身だし、自分は今後も勉学を続けるつもりだから、三十五、六にならないと妻帯しないから」

と付け加えてしまった。

 だが、しょせん実は怖気づいただけのこと、男は、学校を卒業すると同時に結婚をしてしまう。


 それから約二十年後、男は家族を連れて行った劇場で偶然女と席が隣り合わせになる。

 男は非常に驚いたが、女は反応が無い。実は彼女は目が見えなくなっていた。

 いったい、あれからどう暮らしていたのか、なぜ目が見えなくなったのか。

 気にはなったが、あっさりと約束を破った身、自分で行くことはできず、男は(「私」と「兄」の)「父」に、いきさつを尋ねてきてほしいと頼み込む。


 「父」が彼女を訪ねていくと、彼女は夫に先立たれながらも、子供を二人育て、まず不自由のない暮らしをしていた。

 「父」が彼女に、男から託された金を渡そうとすると、彼女はきっぱりと拒否した後、自分の境遇について(夫の死後間もなく病気で失明したこと)、「父」に話した。

 そして、「父」が劇場で、男が彼女の席に隣り合わせたということを聞くと、彼女は見えない目から涙を流した。

 彼女に、男の今を聞かれ、今は結婚していること、娘は十二、三であることを話すと、女が、ふいに黙って指を折り、何かを数えていた。

 その時「父」は自分が言ってはならないことを言ったことに気づいた。

 娘の年頃は、男が「自分はこの年より前に妻を持てない」と女に告げたその年齢よりも、ずっと前に結婚したことを示していた。

 「父」は息をのんだが、少しの間の後、女は「結構でございます」と言って寂しく笑った。泣きも怒りもしなかったのが、むしろ妙な感じを「父」に与えた。

 「父」は、女に、一度男に会いに行くといいと勧めるが、女は断り、しかし、思いつめた様子で、ためらいがちに父にこう言った

(以下、一部不適切な表現が見られますが、原文のまま引用いたします)


「しかしただ一つ一生の御願に伺っておきたい事がございます。こうして御目にかかれるのももう二度とない御縁だろうと思いますから、どうぞそれだけ聞かして頂いた上心持よく御別れが致したいと存じます」

 (中略)

「この眼は潰れてもさほど苦しいとは存じません。ただ両方の眼が満足に開いている癖に、他(ひと)の料簡方(りょうけんがた〈補:内心思っていること〉)が解らないのが一番苦しゅうございます」


 女はそう言うと「父」に胸の内をさらけだします。(以下引用)


 ○○(補:婚約を破棄した男)が結婚の約束をしながら一週間経たつか経たないのに、それを取り消す気になったのは、周囲の事情から圧迫を受けてやむをえず断ったのか、あるいは別に何か気に入らないところでもできて、その気に入らないところを、結婚の約束後急に見つけたため断ったのか、その有体(ありてい)の本当が聞きたいのだと云うのが、女の何より知りたいところであった。

 女は二十年以上○○の胸の底に隠れているこの秘密を掘り出したくってたまらなかったのである。彼女には天下の人がことごとく持っている二つの眼を失って、ほとんど他(ひと)から片輪(かたわ)扱いにされるよりも、いったん契(ちぎ)った人の心を確実に手に握れない方が遥かに苦痛なのであった。

「御父さんはどういう返事をしておやりでしたか」とその時兄が突然聞いた。その顔には普通の興味というよりも、異状の同情が籠こもっているらしかった。




 しかし「父」は、「兄」のそんな異変には気付かずに、「男には軽薄なところなどなかった」というようなことを、自分で色々勝手に脚色して話し、ついには女を納得させたことを、むしろ自慢げに答えてしまいます。



 周囲は「父」に「女にとっていいことをしてやった(本当はただ冷めただけだなどと聞かされるよりはるかに幸せだ)」と褒めますが、兄は怒りを秘めた顔をして一人部屋を出て行ってしまいます。


 そして、これが「兄」が周囲のあらゆる人間に不信感を抱くきっかけとなってしまうのです。


 この「兄」の怒りは、私にはもっともだと思いますし、なんとしても、ただ本当のことが聞きたかったというこの女の人の気持ちも痛いほどわかります。


 姿は見えていたとしても、こちらが知りたい気持ちは何も見えない。頼んでも教えてもらえない。



 他人の気持ちは外からはわからないのが普通で当たり前で、疑えばきりがなく、突き詰めていけば『行人』の兄のように精神の健康が蝕まれていってしまう。だから基本は諦めたほうがいい。


 でも、生涯に一つは、これだけは、本当のことを知っておきたい。それがどんな残酷な事実でも、知った「本当」を土台に自分で立ち上がるからそれでいい。


 踏みしめても踏みしめても、もしやという希望と疑いの泥沼の中から抜け出せないよりは。


 そんな気持ちになることだってあるはずです。特に恋ならなおのこと。



 しかし、そんな苦しみを抱える人がいる一方で、世間において、恋の約束が真面目に交わされることや、真剣な問いに本当の答えが返ってくることは、心細いほどに少ないものなのかもしれません。


 『行人』のような話を書き、世間に実際にはびこる身勝手や、自分自身の精神の不調からくる他人への疑惑に苦しめられ続けた漱石にとって、長兄と、それを訪ねてきた女の話は、確かに忘れがたいものであったのでしょう。


 兄が本当は何を思っていたかを、漱石もその女の人もついに知ることはできませんでしたが、しかし、確かに彼が死ぬとき、妻は無く、女の人は兄が彼女に言った通りの光景を、訪ねてきた家に見たのですから。


 気の毒とも怖いとも思わされるような話ですが、しかし、そこには『行人』の兄が怒りを感じたような濁りや誤魔化しはありません。


 長兄が彼らしく、約束の形を保ったままに死に、その約束をした女の愛情がまた、兄に注がれるにふさわしい真剣なものであったこと。


 女が「それを聞いて安心しました」と言ったのと同じように、漱石もまた、その事実に、救われた気がしたのでしょう。


 女の人が尋ねてきたとき、そして、若い漱石がその女の人の話を聞いたときのことを思い浮かべると、そこには、漱石の作品の美意識によく似た、寂しく苦しいけれど一途な透明感が漂っているような気がします。



 漱石はこの長兄と母について、同じ『硝子戸の中』でこんな場面を描いています。

 二人は時折縁側に出て、碁を打っていたそうです。


「それは彼ら二人を組み合わせた図柄として、私の胸に収めてある唯一の記念(かたみ)」である、と。


 この部分を読むたびに、しゃんとした中に情のある中年の女性と、真面目で寡黙な美しい青年という、少しかしこまった母子の画が、それこそ硝子の向こうのような、思い出の逆光のかすかに浴びているような、すこしひんやりとしたほの白さの中に浮かびあがってくるのです。


 そして、二人の姿を一幅の絵のように遠い「記念(かたみ)」として胸におさめ、思いかえす、弟であり息子である人の思いも。



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2013年12月25日

「あなた、私は、ちゃんとここにいますよ」(夏目漱石と鏡子夫人)


夏目漱石、鏡子夫人 -.png

 今回は、漱石と妻鏡子夫人とのエピソードをご紹介いたします。


 聡明で繊細な文豪に不似合いな、がさつで無神経な悪妻と長年言われ続けてきた鏡子夫人ですが、近年になり親族(とくに漱石のお孫さんたち)の文章などから随分そのイメージが払しょくされて来たようです。


 小泉八雲・節子夫妻のように、作品創作までほぼ共同でおこない(※)、子供の目にもわかりやすくむつまじかったとは言えませんが、私にはとても立派な女性に思えます。漱石がかくし持つあやうさを、彼女の胆の座りがのみこんで支えたと言っても過言では無い気がいたします。


(※)小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)……明治の作家。日本研究家。「雪女」「耳なし芳一」などをおさめた「怪談」の作者として有名。アイルランド人の父とギリシャ人の母を持つが、後に日本国籍を取得した。彼の作品には、節子夫人が日本の昔話を口述で八雲に伝え、八雲がそれを脚色・文章化したものが数多く見られる。

(八雲とご家族の関係についても過去記事でご紹介しましたので、よろしければお読みになってみてください)




 @お見合い


 漱石と鏡子夫人は漱石28歳、鏡子夫人18歳のときにお見合いで結婚しました。


 最初のころの印象はというと、漱石の見合い写真をみた鏡子夫人は、


「上品でゆったりとしていて、いかにもおだやかなしっかりした顔立ちで、ほかのをどっさり見てきた目にはことのほか好もしく思われた」


と語り、漱石は顔合わせ後に


「(鏡子夫人の)歯並びがよくないのにそれをしいて隠そうともせずに平気でいるところが大変気に入った」

と言っていたそうですから、一応お互いの第一印象も良かったようです。


 鏡子夫人がそんな褒められ方をして嬉しいかどうかは微妙ですが、もともと漱石ははかなげなほっそりしたタイプの女性(鏡子夫人には「幽霊みたいに影の薄い女」と悪態をつかれるような)が好きだそうですから、(橋口五葉の描く女性の雰囲気。五葉は漱石作品の挿絵作家としても活躍しました。)丸顔で強いまなざしをした鏡子夫人は、だいぶ好みからかけはなれています。


(橋口五葉作「髪梳ける女」 画像出典:Wikipedia
Goyo_Kamisuki.jpg


 しかし、鏡子夫人の細かいことにはこだわらず、物怖じしないという内面的な長所を、こんなところから漱石は見抜いたのかもしれません。

 ちなみに、若い頃の漱石は相当な美青年で(昔、本木正弘がしばしば漱石役を演じていましたが、実物も決してひけをとりません)実力も加味すると、日本文学史史上屈指と言っても過言ではありません。




 A手紙


 漱石は33歳のときに、夫人と長女筆子さんを残し、公費で2年間のロンドンに留学します。


 この留学は漱石にとって非常に不愉快なものだったそうです。


 イギリスが不親切だったというよりは、まだこの国に比べると近代化の立ち遅れていた日本への懸念や、他の留学生たちとのそりの合わなさ(※中には良い出会いもあって、後に「味の素」を開発した池田菊苗の人柄は絶賛しています。)、そして勉強のしすぎなどが原因であったようです(下宿の大家さんがたまには外に出るようにと心配して声をかけたくらいだそうですし、このとき漱石はすさまじい量の本を買い込んでいます)


 孤独感がつのった漱石は鏡子夫人にこんな手紙を書き送っています。(仮名遣いは現代のものに改めてあります。)


「俺のような不人情の者でもしきりにお前が恋しい。これだけは奇特と言ってほめてもらわねばならぬ」

 それに対して鏡子夫人は

「わたしもあなたのことを恋しいと思いつづけていることは負けないつもりです」

 と返しています。


 さらに、政府の資金で留学しておきながら遊びまわる他の学生を苦々しく思っていた漱石は

「俺は謹直方正だ(女遊びなどしていない)。安心するが良い」

 と、鏡子夫人に言い、夫人は、

「わざわざのご披露、あなたのことですものそんなことは無しと安心しています。またあっても何とも思うものですか。ただ丈夫でいてくださればそれが何より安心です。しかし私のことをお忘れになってはいやですよ」

 と書き送りました。


 いわゆる甘い雰囲気ではないけれども、互いに随分思い切ったことをきっぱりと書いていて、信頼し合っていることが伝わるやりとりです。


 ところで、こうして手紙の文では全体的におうようながらしゃんとした様子の鏡子夫人ですが、お孫さんの半藤末利子さんは、もしも漱石が乗った船が沈没して彼が帰ってこなかったら、「あたしも身投げでもして死んじまうつもりでいたんだよ」と夫人が何気なく語っていたのを聞いたことがあるそうです。


 そこには確かに彼と生死をともにするというほどの真剣な想いがあったのでしょう。


 しかし帰国後、それまでの孤独と無理がたたった漱石は、精神の変調に見舞われます。


 そして、夫婦の関係に危機が訪れます。



B危機と覚悟


 漱石の変調は家の人間にだけ出たそうで、ささいなきっかけで急に自分が馬鹿にされていると思い込んで手を上げる、物を投げるなどの行動が、このときからしばしば出てきたそうです。


 どうも様子が前とは違いすぎる、自分が気に食わないのならと、一度は仕方なしに別居をしたと鏡子夫人ですが、その間に漱石の状況について医師に相談します。


 その医師から今の漱石は病気で、ああいう病気は治りきるということがないと聞かされた鏡子夫人は、そのときこう思います。


 「病気なら病気ときまってみれば、その覚悟で安心していける。」

 彼女は家に戻ることにします。


 当時の彼女は身重で、今の漱石のもとに彼女を置いておくわけにはいかないと考えた周囲は、鏡子夫人に離婚を勧めますが(既に漱石が彼女の実家に何度もその希望を伝えていました。)夫人は、きっぱりと自分の母親にこう告げます。


「病気ときまれば、そばにおって及ばずながら看病するのが妻の役目ではありませんか。(略)どうせこうなったからには私はもうどうなってもようございます。私がここにいれば、嫌われようとぶたれようと、とにかくいざという時にはみんなのためになることができるのです。私一人が安全になるばかりに、みんなはどんなに困るかしれやしません。それを思ったら私は一歩もここを動きません。」


 この、彼女の言う、自分がいなくなれば困るであろう「みんな」には、親権が取れなかった場合残される子供だけでなく、漱石本人が入っているのです。


 他の人が妻になれば病気が治るわけでもないし、その人が彼を自分以上に支えぬいてくれるとは到底思えないから。


 小説でも映画でも漫画でも、わたしはここまでの妻の覚悟の台詞というのをほとんど目にしたことがありません。


 こういう状況はケースバイケースでしょうから、以後意地でも別居しなかった鏡子夫人のような対応が常に正しいとは言えないかもしれませんが、しかし彼女の腹の座りようは見事です。


 この武士のような覚悟と、母のような無私の情が彼女の凄いところであり、後に悪妻説が流れたあとも、子や孫は彼女をかばいつづけた理由なのでしょう。




C夫婦喧嘩と「三四郎」


 彼女が覚悟を決めて、表面上は涼しい顔で漱石の側に居座り続けても、変調が続く漱石は難癖をつけて彼女を家から追い出そうとします。


 鏡子夫人の実家にも相変わらず彼女を引き取れと催促しますが、鏡子夫人は何があろうと漱石の妻をやめない気だと知っている父親は「そんなことを言わずに置いてやってくれ」と本当は下げたくもない頭を下げに来ました。


 適当に流されたと漱石は気分を害しながらも、そう言われたからしばらく「試験的に」置いてやるが、俺はお前が気に食わないから、そのうちには出て行ってもらう、大人しく帰らなければ追い出す、というようなことを鏡子夫人に言ったそうです。


 それまで極力彼を逆撫でしないようにしていた鏡子夫人も、この言いぐさには黙っていられず、

「私は悪いことをしないのだから追い出される理由はありません。それに子供を残してなんでおめおめと出ていきますものですか。私だってこのとおり足もあることだから、追い出したってまた帰ってくるまでのことです。」

 と、言い返したそうです。

(個人的な話になってしまいますが、どうもこの物の言い方が私の祖母に非常に似ています。もちろん状況は違いますが、一歩も引き下がらないのに、どこか第三者からはユーモラスに聞こえる言い方でかえしてしまうところが。気丈で淡々としているけれど面倒見のいいところも似ています。)


 こうしたやりとりは漱石に変調が起こるたびに繰り返されていたそうですが、そんな鏡子夫人の述懐の中に、漱石作品読者をおやと思わせる箇所があります。


 鏡子夫人の父親が没した後、もう実家で彼女を引き取れないので、漱石はこう言うようになったそうです。


「今お前に出ていけと言っても、行く家もないだろうから、別居しろ、お前が別居するのがいやなら、おれが出ていく」


 これに対して夫人は、

「別居なんかいやです、どこでもあなたの行くところへついて行きますから」

 と、言い返したそうです。


 実はこれに似た話が、小説「三四郎」にあります。以下その引用です。



「(略)細君のお尻が離縁するにはあまり重くあったものだから、友人が細君に向かって、こう言ったんだとさ。出るのがいやなら、出ないでもいい。いつまでも家にいるがいい。その代りおれのほうが出るから。(略)細君が、私が家におっても、あなたが出ておしまいになれば、後が困るじゃありませんかと言うと、なにかまわないさ、お前はかってに入夫(補:家に新しい夫を住まわせること)でもしたらよかろうと答えたんだって」

「それから、どうなりました」と三四郎が聞いた。原口さんは、語るに足りないと思ったものか、まだあとをつけた。

「どうもならないのさ。だから結婚は考え物だよ。離合集散、ともに自由にならない。(略)」

 これはおそらく鏡子夫人との口論のときのやりとりを小説の参考にしたのでしょう。


 あるいはしょっちゅうこの手の応酬があったということですから、夫人が本当に三四郎の中の妻のように言ってしまったこともあるかもしれません。


 しかし、「後が困る」ではなく、「どこでもあなたの行くところについていきますから」と返されたときは、さすがの漱石も正直言葉に詰まったのではないでしょうか。


 この瞬間は、漱石の発言より、なみなみならぬ覚悟の上で、どこふく風の彼女の返事の方が明らかに上手です。


「だから結婚は考え物だよ」なんてシニカルなセリフではまとめきれない、鏡子夫人の、人としての大きさがよく出ている一言だと思います。




 D「あなた、私は、ちゃんとここにいますよ」(修善寺の大患)


 漱石は小説家としての成功と引き換えに次第に胃の調子を悪くし、その療養のために滞在した修善寺温泉で吐血しました。鏡子夫人が東京から駆け付けた後再度大量の吐血、意識不明の重体となります。これがのちに、「修善寺の大患」と呼ばれる出来事です。


 三十分間危篤状態となった漱石でしたが、その後、奇跡的に意識を取り戻し、こうつぶやいたそうです。


 「妻(さい)は……?」


 鏡子夫人は漱石の耳元に口を近づけ、


 「あなたっ、私は、ちゃんとここにいますよ」

 と、応えます。


 「……大丈夫?」


 何がかははっきりわかりませんでしたが、鏡子夫人はもう一人の付き添い(当時漱石が小説を連載していた朝日新聞の記者)と一緒に


 「大丈夫ですよ!」


 と、大きな声で言いました。


 漱石はうなずいて目を閉じたそうです。


 こうして漱石は死の淵から戻ってきました。


 鏡子夫人は、意識を取り戻して最初に自分を探してくれたことが嬉しくて、しみじみと泣いたそうです。


 ところで、全く状況も語り口も異なるのですが、この話を聞いたとき、エッセイストの椎名誠さんに、親友でイラストレーターの沢野ひとしさんのエピソードを思い出しました。

(すみません、以下、とてもうろおぼえです)


 登山家でもある沢野さんが、スイスの山で300メートルも滑落、しかし、崖の一歩手前で体が止まって助かったという出来事があったそうです。


 なすすべもなく滑落しているときは、よく言われるように、それまでの人生が走馬灯のように思い出され、色々な人の顔を思い出し、そして、奥さんの顔が脳裏によぎったときに、体がひっかかって、滑落が止まった。


 確かそのような話だったと記憶しております。


 で、もしこの後、うっかりよそのおねーちゃんの顔でも浮かんでいたら、やっぱりまた滑ってしまい、崖の下まで落ちていたんじゃないか、


 と、沢野さんがどこまで真面目なんだかわからない一言でこの話をしめくくっていたような……。


 それはともかく、人が生きるか死ぬかというとき、誰を思い出すか、つまり、誰が自分の人生にとって大切な人なのか、そして支えてくれていたのか、それをきちんと思い出せるかどうかで、続きの人生に戻ってこられるかどうかが決まるということは、もしかしてあるのかもしれないなと、このふたつの話を読んで思ったのです。


 漱石も、普段色々な行き違いがあろうとも、自分の側から離れなかった鏡子夫人のありがたさを、心の底ではわかっていたのではないでしょうか。


 そして、複雑な生い立ちや、自身の精神の変調に悩まされ、そのせいなのか、作品のなかでたびたび、自他のエゴに苦しみ悩む人間を描き続けた漱石の耳に、生還して最初の、夫人の言葉はどう響いたのでしょうか。


 あなた、私、ちゃんとここにいますよ


 大丈夫ですよ!




 私が文学作品のなかで最も美しくもの悲しいと思い、くりかえし思い返してきたこの「こころ」の文章と、鏡子夫人の漱石に対する思いは、どこか深い部分で呼び合い、響きあっているような気がします。



「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。

「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人でいいから、他(ひと)を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」


 「こころ」の「先生」が探し求めた、きっと漱石も、そして今を生きる私たちの多くもまた探し求める、「信用できる、あまりにも単純な、腹の底から真面目な他人」


 私には、その美点が鏡子夫人にあったように思われます。


 随分喧嘩もしたようですが、鏡子夫人という、信用して死んでも裏切らないであろう「他(ひと)」がちゃんと自分の側にいるということを、漱石はわかっていたのでしょうか。


 日常や、一緒に暮らす家族というものの良さというのは、甘えやうっとうしさもあって、つい見落としがちになってしまうものですが、漱石なら、せめて片鱗だけでも見出していたのでは、そうならいいと思います。


 聡明で繊細で、だから、おそらくとても孤独であったろう彼のためにも、鏡子夫人のためにも。


 「病気の時は仕方がない。病気が起きないときのあの人ほど良い人はいないのだから」


 そう思って、竹を割ったようにさっぱりと、苦労はそれとして、彼女が漱石の優しさを愛していたということを。


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 読んでくださってありがとうございました。


(主要参考文献)
・『孤高の「国民作家」夏目漱石」


(ビジュアル偉人伝シリーズ近代日本を作った人たち)孤高の国民作家「夏目漱石」佐藤嘉尚 生活情報センター

※写真も多く、今回ご紹介させていただいたような、漱石たちの生のやりとりが臨場感のある文で描写されていて魅力的な本です。今回ご紹介させていただいた、エピソードのほとんどは最初にここで読んだものです。漱石好きならオススメの一冊です。


・夏目鏡子述『漱石の思い出』

夏目鏡子述「漱石の思い出」文春文庫

漱石の長女、筆子さんの夫松岡譲氏が筆記した本、巻末に半藤末利子さんによる鏡子夫人の回想文が収められています。

・サライ2005年6月2日号
posted by pawlu at 21:53| 夏目漱石 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月09日

「いいよいいよ、泣いてもいいよ」(夏目漱石の命日)

 今日(2013年12月9日)は明治の小説家、夏目漱石の命日です。

 偉大なる文豪を偲んで少し彼の臨終、そしてその周辺についてご紹介させていただこうと思います。


 1916年の今日、漱石は胃潰瘍が原因で亡くなりました。その作品の質量と重々しい風貌からもっと生きたように誤解してしまいがちですが、まだ49歳の若さでした。


 11月の末に大量に内出血を起こし、その後徐々に容体が悪化、9日には医師が近しい人を呼ぶようにと告げます。


 一度は学校に行っていた子供たちも、もう昼までもたないかもしれないと言われ、戻ってきました。

 枕元に座った四女の愛子さん(当時10歳)がやつれはてた漱石の顔を見て泣き出してしまい、鏡子夫人が「泣くんじゃありません」とたしなめたところ、漱石は目を閉じたままこう言ったそうです。

「いいよいいよ、泣いてもいいよ」


 その後愛子さんとは離れた学校に通っていた子供たちも戻ってきました。すると漱石は目を開いてにこっと笑いました。

 それから、「泣くんじゃない。いい子だから」と慰めたそうです。


 漱石の次男の伸六さんは、なぜ愛子さんだけに「泣いてもいいよ」と言ったのだろうとそのときのことを思い返しています。


 漱石は、厳格さの上に癇癪を押さえられない性質があったために、子供たちからは非常に恐れられていたのですが、この愛子さんだけは漱石に素直になついていたそうで、彼女が自分のために泣いていることが、しみじみとありがたかったのではないか、伸六さんはこう書いています。


 確かに愛子さんは子供たちの中でも特に漱石と仲が良かったようで、こんなエピソードもあります。


 漱石は亡くなる以前からかなり胃が悪く、修善寺温泉での療養中に生死の境をさまよったことさえあるのですが、それでも食欲はおさまらなかったようで(私見ですが、おそらく頭の使いすぎでストレス性の空腹に見舞われていたのではないかと思います。私も一度胃を悪くしたことがあるのでうっすらわかりますが、血を吐くほど胃を痛めて危篤になったのにまだ食べようとするってすさまじい食い意地ですよ……。)胃に良くないからと鏡子夫人が羊羹などを隠しておいても、執筆の合間につまもうと勝手に戸棚を探し回ります。


 すると、愛子さんが鏡子夫人の隠していたのをしっかり見ていて「お父様、ここにあってよ」と気の毒がって出してきてしまう、で、漱石が「おおいい子だ。お前はなかなか孝行者だ」とにやにやしながらお菓子をつまんでしまう……ということがあったそうです。

(漱石は相当な甘党だったみたいで、この他にもジャムを勝手に舐めすぎると夫人に怒られていることがあり、このときのやりとりを下敷きにしている場面が「吾輩は猫である」にも登場します。面白い場面ですよ。)


 こんなふうに、他の子供たちよりも愛子さんとのやりとりが気さくだったというのは事実でしょう。

 ですが、だからかける言葉が違ったのかどうかというのはわかりません。


 それよりも私には大切に思われるのが、漱石が亡くなる前に、子供たちを慰めていたということです。


 実の子の伸六さんには、兄弟に向けられた親の一言一句の違いが気にかかるのは当然のことですが、私には「泣いてもいいよ」も「泣くんじゃないよ」も「もうじき自分が死ぬということをわかっていて、それでも泣いている子供のほうを思いやっている」という点において同じものに思えます。


 端正で孤独な作風でよく知られ、不世出の知識人、また、精神の変調に悩まされた不機嫌の人とも言われがちな漱石ですが、このエピソードを読んだとき、鏡子夫人が言っていたというこの言葉を思い出します。

「病気のとき(精神の変調が起きたとき)は仕方がない。病気が起きないときのあの人ほど良い人はいないのだから」


 癇癪が抑えられないときは、夫人に暴言はおろか、かなりの暴力も振るったという漱石ですが(古い時代の夫・父というのは今より概して乱暴なものですからある程度はさしひいて考える必要もありますが)、相当の理不尽な言動があっても、なお夫人にこう言わしめた漱石は、確かに本質的にはとても優しい人だったのではないか。


 あの漱石作品だけが持つ、人間の心の闇を描きながら、一抹漂う透明な気品や染み入る情は、この死を間際にしても失われなかった、他者へのいたわりや思いやりから生まれているのではないか。そんな気がします。


 死期を悟りながらほほ笑んで、泣いている誰かをいたわる。

 わが身に置き換えてみると、どうもなかなか出来ないことです。

 そして、この精神力と優しさもまた、彼の作品を永遠の名作にした、あの美しさ、あの奥行きを成す、ひとつの大切な要素のような気がするのです。


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 読んでくださってありがとうございました。


(参考文献)

孤高の国民作家「夏目漱石」(ビジュアル偉人伝シリーズ近代日本を作った人たち1 文 佐藤嘉尚 生活情報センター)


「猫の墓 父・夏目漱石の思い出」夏目伸六 河出文庫


「漱石の思い出」夏目鏡子述 松岡譲筆録 文春文庫

posted by pawlu at 21:33| 夏目漱石 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月19日

月がきれいですね。(中秋の名月と夏目漱石)

今日(2013年9月19日)は中秋の名月(旧暦8月15日ごろの満月)。天気の良いところではくっきりと鏡のような月が見られます。今夜はいわゆるお月見に興じる人も多いかと。


で、今日は、そのきれいな月のこうこうと輝く空の下、ある受信メール、あるいは未送信メールのこうこうと灯る携帯を抱きかかえて、ゴロゴロと煩悶する人も多いかと。


「月がきれいですね」

ネットで検索かけてみてください。「夏目漱石」とセットで情報が出てきます。

なんでも明治の文豪にして僕的世界最強の小説家夏目漱石(否定意見不受理)が、教師時代に「I love you」をどう日本語に訳すかを生徒に説いたときの言葉だとか。

「私はあなたを愛します」なんて日本人は言わない。「月がきれいですね」と訳しておけ、と学生に言ったそうです。

このゆかしくも鮮やかな名意訳が、活字離れと言われて久しい若い世代にも驚くほどに知れ渡り、異性に「月がきれいですね」と言えばそれが遠回しの告白になるという状況を生んだのです。

 ただこの話が具体的に作品に出ているか、あるいは本当に漱石が言ったのかということになると非常にあいまいだそうです。

 しかし、私この話がネットの伝説的恋愛フレーズになる前からどこかで確かに読んだことがありました。それもなんか宿題か何かでシブシブ読んだお堅い活字のどこかで。

まだ漱石の偉大さに気づかず、シブシブだった私の頭でも「……む……これは……」と思うほどなあでやかな切り替えしだったので、そのときのはっとした感覚はよく覚えています。確かになにかきちんとしたオベンキョウ本にも載っていた話です。

 以下完全におぼろげな記憶の話ですが。確か「あなたといると月がいっそうきれいに見える」というようなニュアンスを含む言葉として読んだ覚えがあり、この一行に、世界が温かく輝きを増す高揚感や、ささやかなことでも、好きな人とわかちあいたくなるという、溢れる思い、そしてその控えめな言葉づかいから伝わる、想う人と自分との神聖で謎めいた距離という、恋だけが持つ心のありようが凝縮されていると驚嘆させられたのです。

都市伝説ではないと思います。恋の形にもいろいろありますが、この種の恋を描いた、描きえた文学者といえばおそらく漱石しかいない。

 私は小説「三四郎」の中の台詞と思っていましたが、違うそうです。「三四郎」の英文名訳として名高いのは「Pity is akin to love(ことわざ「憐みは恋のはじまり」直訳「憐みは愛に類似する」)」を「可哀想だた惚れたってことよ」と訳した一文だそうです。.

 「月がきれいですね」に話を戻しますが、わたしは実際に電車の中でとても可愛らしいお嬢さんがたがその話で盛り上がっているのを聞いたことがあります。

「『日本人はそんなふうに言わん『月がきれいですね』とでも訳しとけ』って言ったんだってー。私この話すごい好きなのー!」

「えー、なにそれいいー!そういうセンスいいねー!」

「かっこいー!言われたいー!」

「でしょー?」

 ほんとこういう感じで女子大生とおぼしきキレイさんたちが3人均等に盛り上がってましたよ。


 花をまき散らすように嬉しそうに話すその方たちを見て、すこしばかり難解とも思われるこのフレーズでも、明治の感性でも、良いものというのはこんなに易々に時代を超え、そしてイケメン同様に人の心をかなりストレートにときめかせるもんなんだなとそのとき知りました。あれは良い光景でしたよ。


 ま、そんなわけで毎年中秋の名月の時期にはおそらく、「月がきれいですね(by夏目漱石【推定】)」派と「月がきれいですね。中秋の名月ですからね(byとか無い。時候の挨拶)」派の間で、行き違いが大量に発生し、その文面を憧れの人から貰った人は「こっ!!……これはもしかしてひょっとしてもしかして……×100(ガクブル)」となり、「ななな……『夏目漱石』……って書くべき?でも違ったらでも恥ずかしいし、でも流しちゃってたら勿体ないし×1000」となり、あるいは「つつつ……『月がきれいですね』って送っちゃおうかな……気づかれないかな。気づかれても気づいてないフリされるとか『メールで言う(告白する)なよバカ』と思われるかな。でもせっかくさりげなく脈さぐるチャンスだし……×1000」とか携帯抱きしめてゴロゴロすることになるんでしょおね……。


 ま、要は実体験なんですけどね……。

(ちなみに相手は勿論「時候の挨拶」派。

 微妙に文面も違ったのに、無理やり脳内で語順等を校正して『漱石』にしようとした甘酸っぱくも明後日な僕の熱情……〈遠い目〉。)




 当ブログ、漱石関連の記事は以下の通りです。よろしければ併せてごらんください。


posted by pawlu at 21:26| 夏目漱石 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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