この間の記事で、文豪夏目漱石の命日にちなんで、彼の亡くなる前の様子をご紹介いたしましたが、今回これに、漱石と妻鏡子夫人とのエピソードをつけくわえさせていただきます。
聡明で繊細な文豪に不似合いな、がさつで無神経な悪妻と長年言われ続けてきた鏡子夫人ですが、近年になり親族(とくに漱石のお孫さんたち)の文章などから随分そのイメージが払しょくされて来たようです。
小泉八雲・節子夫妻のように、作品創作までほぼ共同でおこない(※)、子供の目にもわかりやすくむつまじかったとは言えませんが、私にはとても立派な女性に思えます。漱石がかくし持つあやうさを、彼女の胆の座りがのみこんで支えたと言っても過言では無い気がいたします。
(※)小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)……明治の作家。日本研究家。「雪女」「耳なし芳一」などをおさめた「怪談」の作者として有名。アイルランド人の父とギリシャ人の母を持つが、後に日本国籍を取得した。彼の作品には、節子夫人が日本の昔話を口述で八雲に伝え、八雲がそれを脚色・文章化したものが数多く見られる。
(八雲とご家族の関係についても過去記事でご紹介しましたので、よろしければお読みになってみてください)
@お見合い
漱石と鏡子夫人は漱石28歳、鏡子夫人18歳のときにお見合いで結婚しました。
最初のころの印象はというと、漱石の見合い写真をみた鏡子夫人は、
「上品でゆったりとしていて、いかにもおだやかなしっかりした顔立ちで、ほかのをどっさり見てきた目にはことのほか好もしく思われた」
と語り、漱石は顔合わせ後に
「(鏡子夫人の)歯並びがよくないのにそれをしいて隠そうともせずに平気でいるところが大変気に入った」
と言っていたそうですから、まあ、お互いの第一印象も良かったようです。
鏡子夫人がそんな褒められ方をして嬉しいかどうかは微妙ですが、もともと漱石ははかなげなほっそりしたタイプの女性(鏡子夫人には「幽霊みたいに影の薄い女」と悪態をつかれるような〈笑〉)が好きだそうですから、(橋口五葉の描く女性の雰囲気かと。彼が漱石の作品の装丁や挿絵を多くてがけていますから)丸顔で強いまなざしをした鏡子夫人は外見的にはだいぶ好みからかけはなれています。
しかし、鏡子夫人の細かいことにはこだわらず、物怖じしないという内面的な長所を、こんなところから漱石は見抜いたのかもしれません。
ちなみに、若い頃の漱石は相当な美青年で(昔、本木正弘がしばしば漱石役を演じていましたが、実物も決してひけをとりません。なんでしたらちょっとググってみてください。実力も加味すると、日本文学史史上屈指のイケメンと言っても過言では無いのではないかと思います)
ぶっちゃけ見合い写真であれが出てきたら、鏡子夫人でなくても女性ならたいてい内心相当テンション上がると思われます(今ならフォトショップ加工か、結婚するなりやたら高額の保険金をかけられないか心配になりそう)。
A手紙
漱石は33歳のときに、夫人と長女筆子さんを残し、公費で2年間のロンドンに留学します。
この留学は漱石にとって非常に不愉快なものだったそうです。
イギリスが不親切だったというよりは、まだこの国に比べると近代化の立ち遅れていた日本への懸念や、他の留学生たちとのそりの合わなさ(※中には良い出会いもあって、後に「味の素」を開発した池田菊苗の人柄は絶賛しています。)、そして勉強のしすぎなどが原因であったようです(下宿の大家さんがたまには外に出るようにと心配して声をかけたくらいだそうですし、このとき漱石はすさまじい量の本を買い込んでいます)
孤独感がつのった漱石は鏡子夫人にこんな手紙を書き送っています。(仮名遣いは現代のものに改めてあります。)
「俺のような不人情の者でもしきりにお前が恋しい。これだけは奇特と言ってほめてもらわねばならぬ」
それに対して鏡子夫人は
「わたしもあなたのことを恋しいと思いつづけていることは負けないつもりです」
と返しています。
さらに、政府の資金で留学しておきながら遊びまわる他の学生を苦々しく思っていた漱石は
「俺は謹直方正だ(女遊びなどしていない)。安心するが良い」
と、鏡子夫人に言い、夫人は、
「わざわざのご披露、あなたのことですものそんなことは無しと安心しています。またあっても何とも思うものですか。ただ丈夫でいてくださればそれが何より安心です。しかし私のことをお忘れになってはいやですよ」
と書き送りました。
いわゆる甘い雰囲気ではないけれども、互いに随分思い切ったことをきっぱりと書いていて、信頼し合っていることが伝わるやりとりです。
ところで、こうして手紙の文では全体的におうようながらしゃんとした様子の鏡子夫人ですが、お孫さんの半藤末利子さんは、もしも漱石が乗った船が沈没して彼が帰ってこなかったら、「あたしも身投げでもして死んじまうつもりでいたんだよ」と夫人が何気なく語っていたのを聞いたことがあるそうです。
そこには確かに彼と生死をともにするというほどの真剣な想いがあったのでしょう。
しかし帰国後、それまでの孤独と無理がたたった漱石は、精神の変調に見舞われます。
そして、夫婦の関係に危機が訪れます。
B危機と覚悟
漱石の変調は家の人間にだけ出たそうで、ささいなきっかけで急に自分が馬鹿にされていると思い込んで手を上げる、物を投げるなどの行動が、このときからしばしば出てきたそうです。
どうも様子が前とは違いすぎる、自分が気に食わないのならと、一度は仕方なしに別居をしたと鏡子夫人ですが、その間に漱石の状況について医師に相談します。
その医師から今の漱石は病気で、ああいう病気は治りきるということがないと聞かされた鏡子夫人は、そのときこう思います。
「病気なら病気ときまってみれば、その覚悟で安心していける。」
彼女は家に戻ることにします。
当時の彼女は身重で、今の漱石のもとに彼女を置いておくわけにはいかないと考えた周囲は、鏡子夫人に離婚を勧めますが(既に漱石が彼女の実家に何度もその希望を伝えていました。)夫人は、きっぱりと自分の母親にこう告げます。
「病気ときまれば、そばにおって及ばずながら看病するのが妻の役目ではありませんか。(略)どうせこうなったからには私はもうどうなってもようございます。私がここにいれば、嫌われようとぶたれようと、とにかくいざという時にはみんなのためになることができるのです。私一人が安全になるばかりに、みんなはどんなに困るかしれやしません。それを思ったら私は一歩もここを動きません。」
この、彼女の言う、自分がいなくなれば困るであろう「みんな」には、親権が取れなかった場合残される子供だけでなく、漱石本人が入っているのです。
他の人が妻になれば病気が治るわけでもないし、その人が彼を自分以上に支えぬいてくれるとは到底思えないから。
小説でも映画でも漫画でも、わたしはここまでの妻の覚悟の台詞というのをほとんど目にしたことがありません。
こういう状況はケースバイケースでしょうから、以後意地でも別居しなかった鏡子夫人のような対応が常に正しいとは言えないかもしれませんが、しかし彼女の腹の座りようは見事です。
この武士のような覚悟と、母のような無私の情が彼女の凄いところであり、後に悪妻説が流れたあとも、子や孫は彼女をかばいつづけた理由なのでしょう。
C夫婦喧嘩と「三四郎」
彼女が覚悟を決めて、表面上は涼しい顔で漱石の側に居座り続けても、変調が続く漱石は難癖をつけて彼女を家から追い出そうとします。
鏡子夫人の実家にも相変わらず彼女を引き取れと催促しますが、鏡子夫人は何があろうと漱石の妻をやめない気だと知っている父親は「そんなことを言わずに置いてやってくれ」と本当は下げたくもない頭を下げに来ました。
適当に流されたと漱石は気分を害しながらも、そう言われたからしばらく「試験的に」置いてやるが、俺はお前が気に食わないから、そのうちには出て行ってもらう、大人しく帰らなければ追い出す、というようなことを鏡子夫人に言ったそうです。
それまで極力彼を逆撫でしないようにしていた鏡子夫人も、この言いぐさには黙っていられず、
「私は悪いことをしないのだから追い出される理由はありません。それに子供を残してなんでおめおめと出ていきますものですか。私だってこのとおり足もあることだから、追い出したってまた帰ってくるまでのことです。」と言い返します。
(個人的な話になってしまいますが、どうもこの物の言い方が私の祖母に非常に似ています。もちろん状況は違いますが、一歩も引き下がらないのに、どこか第三者からはユーモラスに聞こえる言い方でかえしてしまうところが。気丈で淡々としているけれど面倒見のいいところも似ています。)
こうしたやりとりは漱石に変調が起こるたびに繰り返されていたそうですが、そんな鏡子夫人の述懐の中に、漱石作品読者をおやと思わせる箇所があります。
鏡子夫人の父親が没した後、もう実家で彼女を引き取れないので、漱石はこう言うようになったそうです。
「今お前に出ていけと言っても、行く家もないだろうから、別居しろ、お前が別居するのがいやなら、おれが出ていく」
これに対して夫人は、
「別居なんかいやです、どこでもあなたの行くところへついて行きますから」
と、言い返したそうです。
実はこれに似た話が、小説「三四郎」にあります。以下その引用です。
「(略)細君のお尻が離縁するにはあまり重くあったものだから、友人が細君に向かって、こう言ったんだとさ。出るのがいやなら、出ないでもいい。いつまでも家にいるがいい。その代りおれのほうが出るから。(略)細君が、私が家におっても、あなたが出ておしまいになれば、後が困るじゃありませんかと言うと、なにかまわないさ、お前はかってに入夫(補:家に新しい夫を住まわせること)でもしたらよかろうと答えたんだって」
「それから、どうなりました」と三四郎が聞いた。原口さんは、語るに足りないと思ったものか、まだあとをつけた。
「どうもならないのさ。だから結婚は考え物だよ。離合集散、ともに自由にならない。(略)」
これはおそらく鏡子夫人との口論のときのやりとりを小説の参考にしたのでしょう。
あるいはしょっちゅうこの手の応酬があったということですから、夫人が本当に三四郎の中の妻のように言ってしまったこともあるかもしれません。
しかし、「後が困る」ではなく、「どこでもあなたの行くところについていきますから」と返されたときは、さすがの漱石も正直言葉に詰まったのではないでしょうか。
この瞬間は、漱石の発言より、なみなみならぬ覚悟の上で、どこふく風の彼女の返事の方が明らかに上手です。
「だから結婚は考え物だよ」なんてシニカルなセリフではまとめきれない、鏡子夫人の、人としての大きさがよく出ている一言だと思います。
D「あなた、私は、ちゃんとここにいますよ」(修善寺の大患)
漱石は小説家としての成功と引き換えに次第に胃の調子を悪くし、その療養のために滞在した修善寺温泉で吐血しました。鏡子夫人が東京から駆け付けた後再度大量の吐血、意識不明の重体となります。これがのちに、「修善寺の大患」と呼ばれる出来事です。
三十分間危篤状態となった漱石でしたが、その後、奇跡的に意識を取り戻し、こうつぶやいたそうです。
「妻(さい)は……?」
鏡子夫人は漱石の耳元に口を近づけ、
「あなたっ、私は、ちゃんとここにいますよ」
と応えます。
「……大丈夫?」
何がかははっきりわかりませんでしたが、鏡子夫人はもう一人の付き添い(当時漱石が小説を連載していた朝日新聞の記者)と一緒に
「大丈夫ですよ!」
と大きな声で言いました。
漱石はうなずいて目を閉じたそうです。
こうして漱石は死の淵から戻ってきました。
鏡子夫人は、意識を取り戻して最初に自分を探してくれたことが嬉しくて、しみじみと泣いたそうです。
ところで、全く状況も語り口も異なるのですが、この話を聞いたとき、エッセイストの椎名誠さんに、親友でイラストレーターの沢野ひとしさんのエピソードを思い出しました。
(すみません、以下、とてもうろおぼえです)
登山家でもある沢野さんが、スイスの山で300メートルも滑落、しかし、崖の一歩手前で体が止まって助かったという出来事があったそうです。
なすすべもなく滑落しているときは、よく言われるように、それまでの人生が走馬灯のように思い出され、色々な人の顔を思い出し、そして、奥さんの顔が脳裏によぎったときに、体がひっかかって、滑落が止まった。
確かそのような話だったと記憶しております。
で、もしこの後、うっかりよそのおねーちゃんの顔でも浮かんでいたら、やっぱりまた滑ってしまい、崖の下まで落ちていたんじゃないか、
と、沢野さんがどこまで真面目なんだかわからない一言でこの話をしめくくっていたような……。
それはともかく、人が生きるか死ぬかというとき、誰を思い出すか、つまり、誰が自分の人生にとって大切な人なのか、そして支えてくれていたのか、それをきちんと思い出せるかどうかで、続きの人生に戻ってこられるかどうかが決まるということは、もしかしてあるのかもしれないなと、このふたつの話を読んで思ったのです。
漱石も、普段色々な行き違いがあろうとも、自分の側から離れなかった鏡子夫人のありがたさを、心の底ではわかっていたのではないでしょうか。
そして、複雑な生い立ちや、自身の精神の変調に悩まされ、そのせいなのか、作品のなかでたびたび、自他のエゴに苦しみ悩む人間を描き続けた漱石の耳に、生還して最初の、夫人の言葉はどう響いたのでしょうか。
あなた、私、ちゃんとここにいますよ
大丈夫ですよ!
私が漱石作品のなかで、いや、もしかしたらあらゆる文学の中で、最も悲しい思いで愛し、くりかえし思い返してきたこの「こころ」の文章と、さきの鏡子夫人と漱石のやりとりを考えあわせると、なんだかときおり勝手に目頭が熱くなるときがあるのです。
「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。
「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人でいいから、他(ひと)を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」
「こころ」の「先生」が探し求めた、きっと漱石も、そして今を生きる私たちの多くもまた探し求める、「信用できる、あまりにも単純な、腹の底から真面目な他人」
私には、その美点が鏡子夫人にきちんとあったように思われます。
随分喧嘩もしたようですが、鏡子夫人という、信用して死んでも裏切らないであろう「他(ひと)」がちゃんと自分の側にいるということを、漱石はわかっていたのでしょうか。
日常や、一緒に暮らす家族というものの良さというのは、甘えやうっとうしさもあって、つい見落としがちになってしまうものですが、漱石なら、せめて片鱗だけでも見出していたのでは、そうならいいと思います。
聡明で繊細で、だから、おそらくとても孤独であったろう彼のためにも、鏡子夫人のためにも。
「病気の時は仕方がない。病気が起きないときのあの人ほど良い人はいないのだから」
そう思って、竹を割ったようにさっぱりと、苦労はそれとして、彼女が漱石の優しさを愛していたということを。
当ブログ、これまでの漱石関連記事は以下のとおりです。併せてご覧いただければ幸いです。
・あなた、私は、ちゃんとここにいますよ」(夏目漱石と鏡子夫人)
・「いいよいいよ、泣いてもいいよ」(夏目漱石の命日)
・月がきれいですね。(中秋の名月と夏目漱石)
・ミレイの「オフィーリア」と夏目漱石の『草枕』
・「兄さんは死ぬまで、奥さんを御持ちになりゃしますまいね」(随筆『硝子戸の中』と小説『行人』)
読んでくださってありがとうございました。
(参考文献)
孤高の「国民作家」 夏目漱石 (ビジュアル偉人伝シリーズ 近代日本をつくった人たち) - (ビジュアル偉人伝シリーズ近代日本を作った人たち)孤高の国民作家「夏目漱石」佐藤嘉尚 生活情報センター
※写真も多く、今回ご紹介させていただいたような、漱石たちの生のやりとりが臨場感のある文で描写されていて魅力的な本です。今回ご紹介させていただいた、エピソードのほとんどは最初にここで読んだものです。漱石好きならオススメの一冊です。
漱石の思い出 (文春文庫) - 夏目鏡子述「漱石の思い出」文春文庫
漱石の長女、筆子さんの夫松岡譲氏が筆記した本、巻末に半藤末利子さんによる鏡子夫人の回想文が短いですが収められています。
posted by Palum. at 21:53|
夏目漱石
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