2021年06月10日

フレディ・マーキュリーの母親、ジャーさんの語る思い出

(映画『ボヘミアン・ラプソディ』オープニング。フレディ・マーキュリーの家族と当時の家が登場する)
(フレディ・マーキュリーの母親、ジャー・バルサラさん)
笑顔のジャーさん - コピー.jpg
(Image Credit:Youtube

 ロックバンド「クイーン」のボーカリスト、フレディ・マーキュリー。

 映画『ボヘミアン・ラプソディ』にも登場する、フレディの両親は、敬虔なゾロアスター教徒で、堅実な暮らしを営む人々だった。

 それは、ロックシンガーとして華々しく、ときに刹那的だったフレディの生き方とは大きく異なっていたが、それでも家族は互いに愛し合っていた。(前回記事「フレディ・マーキュリーの素顔」はこちら

1,ライブ・エイドの思い出


(映画『ボヘミアン・ラプソディ』の中のフレディと父ボミさん、二人の様子を見つめるジャーさん)

フレディーと父親(映画) - コピー - コピー.jpg

フレディーの母親(映画) - コピー - コピー.jpg

(Image Credit:Youtube

 映画の中で、フレディと父親のボミさんは、ライブ・エイド直前まで対立があったように描かれている。

 しかし、母親のジャーさんによれば、両親はライブ・エイド前のほとんどのフレディのコンサートを観に行っていた。

 ライブ・エイドのとき、会場に行かずにテレビで観ていた(映画でも描かれているシーン)理由は、あまりにも大きなイベントで、行けば大変なことになると思ったからだと、母親のジャーさんは語っている。

(ライブ・エイドに登場したクイーン〈一部〉。圧巻のパフォーマンスで、それまで低迷していたクイーン復活のきっかけとなった。)

「(ライブ・エイドをテレビを観ていた時)私はとても誇らしかったです。夫は私に振り返って、「私たちの息子が、ついにやったな」と言いました。」(註1)

 クイーンのギタリスト、ブライアン・メイは、信仰心の篤いボミさんは、ロックスターであるフレディの生きざまの全てを理解していたとは言えないが、それでも彼をサポートしていたし、ジャーさんのほうは、彼らが駆け出しのころからコンサートに来ていて、声援を送ってくれていた、と語っている。(註2)


2,フレディとジャーさんの関係


 ジャーさんはフレディに似た、瞳に強い輝きのある、心温かな母親で、夫と子供たち(フレディと妹のカシミラさん)に献身的に愛情を注ぐ、独立心とユーモアある人だった。そして、フレディとジャーさんはとても仲の良い親子だった。

 ブライアン・メイは、ジャーさんの思い出をそう振り返っている。(註3)

 ジャーさんは2006年9月、83歳のときに、インタビューで家族の歴史と思い出について語った。(註4)

 ジャーさんとボミさんは、インド出身のパールシー(ゾロアスター教徒のペルシア系インド人)で、1946年、フレディが生まれた時には、ザンジバル(アフリカ大陸東岸、インド洋上の島)に住んでいた。

 海の見晴らせる家で、暮らしは快適だったという。

 1964年、一家はザンジバルで起きた革命の動乱を逃れ、ほとんど身一つでヒースロー空港にほど近いロンドン西部のフェルトナムへ移住した。

 17歳のフレディは最初イギリスに来られることを喜んでいたが、生活は苦しくなり、ジャーさんはイギリスのスーパーマーケットチェーン「M&S(マークスアンドスペンサー)」のスタッフとして働いた。

 ジャーさんはフレディたちの最初のパフォーマンスを観に行ったとき、ブライアン・メイの母親と、息子たちが成功するかどうか心配していたそうだ。

 でも、ジャーさんは、その夜の彼らを観て、「大丈夫」と、確信した。

 実際その通りになった。だが、ジャーさんは、フレディの成功後もスーパーでの仕事を続けていたという。

 ジャーさんは、ステージ上での破天荒なフレディを、パフォーマーが観客を楽しませるためのものととらえ、彼がロンドンで開くパーティーや、漏れ聞こえる快楽主義については、「親として心配していたけれど、子供には自分の人生を生きさせてやらなければ」と思っていたという。

 (このインタビューに同席していたロジャー氏〈フレディの妹カシミラさんの夫〉は、「フレディは「仕事」、「社会的交際」、「(ジャーさんたち)家族」と、人生をきっちり分けて考える人で、それを混同させることはなかった」と付け加えている。)

 イギリスにいるときのフレディは、週に一度は実家に帰り、好物のパールシー料理の「ダンサク(豆や野菜ベースのカレー)」)を食べ、ごく当たり前の家族の会話をしていた。

 そんなときの彼は、ただの現実的なフレディで、ロックスターとして振る舞う彼とは違っていたという。

 フレディは自分のセクシュアリティについて、両親に話したことはなかった。

 フレディは自分たちを心配させたくなかったのだろう。あの頃の社会は今とは違った。今ならもっとオープンにできたかもしれない。ジャーさんはそう語っている。

 このインタビューの間、ジャーさんはティッシュを握りしめ、時折涙をぬぐっていた。

 1991年、フレディがHIVの合併症で亡くなる数日前、両親とカシミラさん夫婦とその子供たちが、療養中のフレディに会いに行った。(註5)

 この時、フレディは超人的な気力を振り絞って、ジャーさんたちを楽しませ、心配させまいとしていた。

 「ママ、大丈夫?マスコミに困らされてない?」

 「うちは大丈夫よ」

 フレディは、死の間際まで、家族を思いやっていたという。

 フレディはそんなふうにいつも優しかった。だからジャーさんも彼を安心させようとした。

 だが、彼が深刻な状態なのはわかっていた。

 家族がもう一度フレディに会いに行こうとしたとき、フレディはそれを断った。

 これ以上弱った自分を見せることを避けたがっていた。最期まで病名も家族に告げなかった。

 ジャーさんは、フレディが当時の世間から、ジャーさんたちを守ろうとして、何も言わないことに気づいていた。ジャーさんは、その思いを尊重した。

 仲の良い家族でも話し合えないことがいくつもある時代だった。相手のことを一生懸命考えたからこそ、その時の自分に考えられる最善の道として、沈黙を選ばざるを得ないような。

 その沈黙の中で、フレディはジャーさんを、ジャーさんはフレディを愛していた。



3,ジャーさんのフレディへの思いと願い



 2011年9月、ジャーさんは、カシミラさんと一緒にイギリスのテレビ番組「One Show」に出演し、フレディの思い出を語った。

(ジャーさんとカシミラさん)
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(実家にいた頃のフレディ、ジミ・ヘンドリックスを意識した帽子を被っている)
ジミ・ヘンドリックスをまねるフレディ - コピー.jpg
(Image Credit:Youtube

 既に音楽に憧れのあったフレディは、歌詞を書き、それを枕の下にこっそりしまっていて、学校に行くときは、ジャーさんに部屋を掃除されることを心配して「枕の下のものは捨てないで」と、念押ししてから出かけていたそうだ。


Freddie Mercury's Mum Jer and Sister Kash The One Show 160911 - YouTube

 ジャーさんは、番組の中で、若い頃のフレディの写真や、フレディのシャツや帽子、服飾デザインを学んでいた頃の彼が描いたデザイン画や作品のコートなどを見せ、いつかこれらを博物館で展示してほしいと語った。

人々に、できる限り長い間フレディのことを記憶してもらうために。

(フレディが写真の中で着ているシャツを見せるジャーさん)

フレディのシャツを見せるジャーさん - コピー.jpg

(Image Credit:Youtube

(このシャツが大のお気に入りで、ジャーさんにいい加減捨てなさいと言われても着続けていたという。)

(フレディのデザイン画とデザインしたコート)

フレディのデザイン画 - コピー.jpg

フレディのデザインしたコート - コピー.jpg

(Image Credit:Youtube

(コートは学校の服飾デザインの課題で作ったもので、提出した後の作品はカシミラさんにあげていた。)

 ジャーさんとボミさんはフレディの成功後も、ヒースロー空港近くの、ごく普通の家に住み続けた。

 友人達にまで気前よく家や車を贈っていたフレディは、両親にも家をプレゼントしたがっていたのだが、長年慣れ親しんだ場所から離れたくなかったようだ。(註6)

(映画にも登場した、ヒースロー空港近くのフレディの実家)

フレディの実家のブループラーク - コピー.jpg

(Image Credit:Youtube

 その家には、2016年9月、偉大な功績を残した人物ゆかりの場所であることを示す青い銘板、「ブルー・プラーク」が贈られた。

 2003年、夫ボミさんの死後、ジャーさんはこの家から、カシミラさんの住むノッティンガムへと移り住んだ。(註7)

 やはりこじんまりした、家庭的で手入れの行き届いたその家は「フレデミラ(「フレディ」と「カシミラ」を合わせた名前)」と呼ばれ、ジャーさんは、この家にフレディの写真や受賞記念品、少年時代にフレディが描いた絵など、彼にまつわる思い出を飾っていた。

 ジャーさんは、フレディの人生についてこう語っている。

 フレディがこの世を去った日は、本当に悲しかったです。

 でも、私たちの信仰では、人は誰も、この世から旅立つべきその日を、自分で変えることはできないと言われています。

 神様はフレディをとても愛し、共に在ることを望まれたのだと、私は自分の心に刻み込んでいます。

 息子の死に直面したい母親はいません。ですが、フレディは短い生涯の間に、他の人が100年かかってできる以上のことを、この世界のためにやり遂げたのです。(註8)

 2016年11月13日、94歳のジャーさんは、就寝中に静かに世を去った。(註9)

 ジャーさんが「フレディのことをできる限り記憶にとどめておいてほしい」と語っていた2011年の「One Show」のYoutube動画には、こんな感想が書き込まれている。

 「もしフレディのお母さん(Mother Mercury)がここを観ることがあったらお伝えしたい。『どうぞ心配しないでください。私たちはフレディを永遠に忘れません』」

 そして、この数年前のコメントに、映画『ボヘミアン・ラプソディ』公開後、たくさんの賛同コメントが寄せられている。


ウォード兄弟チャールズー re - コピー.jpg

(註)

,Freddie Mercury’s parents: ‘We thought he’d go on for ever’Freddie-Mercury-my-son-page-1.pdf (timteeman.com)bTim Teeman,  2006/9/2 The Times

2,Jer Bulsara, Freddie Mercury's Mother, Dies at 94 | Billboard by Ashley Iasimone,2016/ 11/ 20

3,Jer Bulsara, Freddie Mercury's Mother, Dies at 94 | Billboard 

4,Freddie-Mercury-my-son-page-1.pdf (timteeman.com)2006/9/2 The Times

5,Freddie Mercury: Mother Jer remembers heartbreaking last time she saw him | Music | Entertainment | Express.co.uk

6,『フレディー・マーキュリー/華やかな孤独』「第6章 使え!使え!使え!」p.133 リック・スカイ

7,Freddie Mercury: Why his parents DIDN'T go to Live Aid – Their feelings afterwards | Music | Entertainment | Express.co.uk

8,Freddie Mercury: Mother Jer remembers heartbreaking last time she saw him | Music | Entertainment | Express.co.uk

9,Jer Bulsara, Freddie Mercury's Mother, Dies at 94 | Billboard 


【参照ブログ】

https://jcsfan.exblog.jp/4225679/

「★Jesus Christ Superstar★ファンの日記  jcsfan.exblog.jp 「Freddie Mercury (September 5, 1946 – November 24, 1991)」」

上掲、The Timesの記事「Freddie Mercury’s parents: ‘We thought he’d go on for ever’」の全訳をしてくださっているページ



posted by pawlu at 21:27| おすすめ動画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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