「十戒石板(じっかいせきばん)」は、してはならないきまりを刻むと、それを破った者に裁きの雷が落ちるというドラえもんのひみつ道具。
(てんとう虫コミックス『ドラえもん』39巻収録〈『小学五年生』1983年4月号掲載〉)
ママの家庭内での厳格なルール決めに閉口したのび太が、対抗手段として使い始めるが、絶大な力を手にしたのび太が、わりと早い段階から増長し、単なる横暴な権力者と化してしまう。
誰の心にも秘められた「裁く者の快楽」と、スマートなオチが印象的な名作だ。
【補足】
「十戒」の石板は、旧約聖書の預言者モーセが神から与えられたもの。殺人や盗みの禁止など、十の戒めが記されている。
(ドラえもんのひみつ道具や設定の中には、聖書やギリシャ神話などをもとにした、格調高いものがある。)
ホセ・デ・リベーラ作『モーセ』(1638年):十戒が書かれた石板を持つモーセが描かれている(出典:Wikipedia)
トイレのドアは開けっ放し(スリッパも片方ひっくり返っている)。
電話の受話器も戻さない。
使った道具も戻さない(しかも、はさみを開いたまま床に転がしておくという、かなりダメな行動)。
のび太のあまりのだらしなさに業を煮やしたママが、とうとう厳罰化に乗り出した。
「くつはそろえてぬぎなさい」
玄関にある貼り紙(なかなか美文字)に、靴を脱ぎ散らかしながら気づいたのび太。
「かいだんはしずかに」
「ふすまの開けはなしを禁ず」
家中の貼り紙を見て、ママにわけを尋ねると、「いくらいってもわすれるから。紙にかいておきました。このきまりを一つやぶるごとにおこづかいから十円ひきます。」と罰金制度の発動を申し渡されてしまう。
「むちゃくちゃだ…。」
青ざめうなだれ、力なく部屋に戻ろうとするのび太の背中に「ふすま!(開けっ放し)十円引くわよ」と、ママの容赦ない声が飛んだ。
「ざんこくだ!!あれが親のすることだろうか。」
ほんのちょっとも「自分のせいでこうなった」とは考えずに、厳罰化を嘆くのび太に、ドラえもんは、いいことじゃない、と言った。
「そのうちにはきみもキチンとした人間になるだろう。」(わりと失礼な台詞)
「その前にぼくはスッカラカンになっちゃう。」
さめざめと泣くのび太に
「そういえばそうかも……。」
と、真顔で同意するドラえもん。
(「大丈夫、きっとできるよ」とか「きまりを破らなければいいのだから、そうならないように気を付けよう」とは言わない。)
なんとかやめさせてくれえ!と泣きつかれ、
「きまりにはきまりで対抗するか。」
と、ドラえもんらしくなく、何か大切なことを見落としたまま取り出したのが「十戒石板」。
「戒め」を十まで記すことができ、それを破った者は、雷に撃たれるという石板に、第一のいましめとして
「のび太の小づかいをへらすな」
と、鉄筆(石に文字を刻める道具)らしきペンでカリカリと刻み込む。
もしもおこづかいを減らしたら、ママは雷に撃たれる、と聞いたのび太は、石板を手に、わざと騒がしく階段を下りてみた。
「十円へらすわよ!!」
次の瞬間、ふすまの向こうで、鋭い落雷の音。
「すごい力……」
ママは茶の間で黒焦げになって気絶していた。
「こんな使い方するならかさない!」
「ちょっとテストしただけさ。」
ドラえもんの叱責を(母親をわざと雷に撃たせておきながら)、ごく軽い調子でかわすと、のび太は「第二のいましめ「かした道具を取り返すな」」と刻み始め、邪魔者(ドラえもん)をすみやかに追い払った。
「あと八つ。どんないましめをきめようかな」
石板を手に、いたずらっぽい笑顔で外出したのび太。
おあつらえ向きに、立ち話をしているジャイアンとスネ夫を見かけたので、
「のび太をいじめるべからず」
と、さっそく石板に刻んでみた。
そのまま鼻歌交じりに通過しようとすると、「やい、待て!」と呼び止められる。
「そらきた。」
のび太はひそかにニヤついて舌を出した。
「おまえ、きのうはよくも……」
「うん、うん。」
笑顔で因縁をつけられるがままののび太に、薄気味悪いものを感じた二人は、「いじめてやる!!」と、つかみかかった。
落雷。
「やったあ!!」
効果の再確認と日ごろの復讐を果たしたのび太は、満面の笑みで拳を振り上げた。
その後。
すれ違った後、のび太の学校での失敗を密かに笑ったクラスメート二人に「のび太のわる口をいうな」と書いて制裁。
「ぼくをばかにすると、こうなるんだよ」
ラジコンで遊んでいた少年に、貸してと言って「のび太にかすとこわすから。」と渋られたら「のび太のたのみをことわるな」と書いて制裁。
「いうこときけばいいのに」
(別に落ち度は無いのに黒焦げにされて倒れた少年のつま先と、酷いことを言いながら楽しそうにラジコンを走らせるのび太の落差が怖い。)
いつものび太を噛む犬にうなられ。
「のび太にかみつくな」
と書いて制裁。
「ぼくにさからう者はみなこうなるのだ!!」
昼寝を愛し、おっとりとしたいつもの彼は、もうそこには居ず、某「死神のノート」を手にした某天才青年が暴走したかのような発言とともに、石板を小脇に勝ち誇って去っていく。
「すっかりいい気になって。夜おそくまであそびまわっている」
夜、タケコプターでのび太を探し回るドラえもん。
「あと一つのこっているけど、あしたの楽しみにとっておこう」
「裁きの落雷」を「楽しみ」と言いながらのび太が帰宅すると、野比家の玄関のドアに貼り紙がされていた。
「夜あそびするべからず」
「ママだな!!またこりないできまりを作って!!」
大きな雷を落としてこらしめなくちゃ、と、石板に最後の一文を刻み込む。
「かってなきまりをつくるな」
落雷がのび太に。
石板を刻んでいた手から、衝撃でペンが跳ね飛ばされた。
「わるく思うな。こうでもしなくちゃ、とりかえせなかったからね。」
黒焦げになって気絶しているのび太を前に、石板を回収するドラえもん。
「わるく思うな」と言いつつ、その表情にはうしろめたさも哀れみもなく、ただ、冷静だった。
(完)
「階級ワッペン(てんとう虫コミックス15巻)」「のび太の地底国(同26巻)」など、のび太が絶大な力を手にして暴走する物語は名作が多い。
弁護しておきたいのだが、普段ののび太は、とても人柄がいい。
しずかちゃんのお父さんが、結婚前夜のしずかちゃんに
「のび太君を選んだきみの判断は正しかったと思うよ。あの青年は人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね。」
(「のび太の結婚前夜」〈てんとう虫コミックス25巻)
と、言ってくれたほどで、その心根の優しさは本物だ。
そんなのび太でも、強大な力を手にすると、たやすく自分を見失う。
地底の「のび太国」で首相になった際には、国を豊かにするという名目で「の」印の国旗を振りかざしながら、未来の愛妻しずかちゃんと、最強の恋敵出木杉君を強制的に田植え労働させ、自分は昼寝に行くという暴挙にすら及んでいる。(よく挽回できたものだ。)
そのくらい、「権力」は魅力的な猛毒なのだ。
「こんなにいばったことは生まれてはじめてだもの」(「階級ワッペン」より)
と、すがすがしい笑顔で言っていたことがあるので、のび太の場合はとくに、日ごろ馬鹿にされたりいじめられたりで溜まった鬱屈が、より彼を暴走させてしまうのかもしれない。
「十戒石板」でのび太が手にしたのは「きまりに違反した者を裁く力」だ。
そのきまりには「こづかいをへらすべからず」「いじめるべからず」「かみつくな」など、一応はのび太の財産と安全を確保するためのものもあるが、「かした道具をとり返すな」から、早くも道を踏み外しており、裁きの落雷を受ける直前の石板に至っては「のび太のめいれ(い)」「のび太におやつをや(れ)」などの横暴極まりない文言が垣間見えている。
その他の「のび太暴走回」は、大抵ジャイアンたちの反乱によって報いを受けるが、「十戒石板」の
「人を裁く力に酔って自分を見失い、勝手なきまりで人を裁こうとしたために、それまで自分が裁きに使っていた手段で、自分自身が裁かれる」
という物語は、短編としてきれいにまとまっている上に、今までもこれからも繰り返される人の世の真理を突いている。
(そしてそれは、今やネットで世界中に意見を発信できるようになった私たち全員が陥るかもしれない、危険な落とし穴でもある。)
イエス・キリストは、
「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」
と、戒めている。(新約聖書・マタイ伝第七章1〜2節)
のび太はまさにそのとおりの結末を迎えてしまったのだ。
一方、石板を見事回収したドラえもん。
作中省略されているドラえもんの動きは
- いい気になって夜遊びをしているのび太は、自分の非を認めず、他者が「きまり」でのび太の行動(夜遊び)を制限しようとしたら、それを裁こうとするだろうと予測
- ママに夜遊びを禁止する貼り紙を書いてもらう(あの美文字はママの筆跡。おそらく、「ママに二度目の雷が落ちることはない」と、説明済)
- のび太の自滅まで待機
ということになる。
一種の賭けなのだが、石板を回収するときの、ドラえもんのフラットな表情を見るに、のび太の増長がそのくらい酷いことと、石板が書き手自身も容赦なく裁くことに、全能感に目がくらんでいるから(あとのび太だから)、気づかないだろうということを、100%確信していたようだ。
そして、計画通り、静かに賭けに勝利した。
ドラえもんはコロコロと可愛らしい外見をしていて、のび太の大親友だ。
一緒にはしゃいで遊ぶこともたくさんあるが、一方で、こんな、老練な軍師のように相手の心理を見極め、自滅にいざなう罠を張るという一面も持ち合わせている。
(最初に「きまりにはきまりで対抗するか」と石板を渡してしまったのだけは、らしくないミスだったが。)
優しくのんきなのび太が裁きの力に酔いしれ、ドラえもんは大親友を冷徹な知略で打ち負かす。
この、一見、明るく楽しく夢いっぱいの作品世界に秘められた底知れなさもまた、あるいはこれこそが、生誕50年(2020年は連載開始から50周年記念)を迎えても、『ドラえもん』が圧倒的存在感を放つ理由だ。
(絵に子供向けマンガらしい親しみやすさと暖かみがあり、普段の彼らは仲が良く、原則素直で善良なだけに、そのシニカルなギャップには、ときに現代アート超えのシュールさすら漂う。)
「十戒石板」が収録されたてんとう虫コミックス39巻には、「さとりヘルメット」「ジャイアン殺人事件」などの名作が収録されている。
ドラえもん(39) (てんとう虫コミックス) - 藤子・F・不二雄
また、『コロコロ文庫デラックス ドラえもんテーマ別傑作選ドキリ風刺編』は、「十戒石板」以外にも「階級ワッペン」「Yロウ作戦」など、エスプリに富んだ傑作が数多くまとめられている。とくにおすすめしたい一冊だ。
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