2020年7月8日、三浦春馬さんは、NHKの戦後75周年記念ドラマ「太陽の子」の完成会見に柳楽優弥さん、有村架純さんと登場した。(NHKホームページ内動画はこちら)
(映画版「太陽の子」公式HP)
春馬さんは、日本の原爆開発に参加していた科学者の弟で、病気の一時療養のために家族のもとに戻ってきた陸軍下士官、裕之の役を演じていた。
このインタビューの中で、春馬さんは「生きる」ということと、彼らが作り上げてきた「作品」が人々に与える影響について触れていた。
その、真摯な一言一言に、彼の葛藤と、俳優として「作品」の持つ力を信じる思いが宿っていた。
「生きるべきだ」という言葉と、噛みしめられた唇
春馬さんは、ドラマのインタビューの中でこう語っている。
(以下引用:「朝日新聞デジタル」7月10日「柳楽優弥が原爆開発の研究者に 戦後75年、感じた恐怖」)
【役作りについて】
(裕之は)戦地で神風として散っていく仲間を目の当たりにした経験から、自分も散る運命にあることを一瞬たりとも忘れていなかったと思う。
その中で、家族に対して、せっちゃん(世津〈補:裕之が想いを寄せている幼馴染の女性〉)に対して、心配させないように笑顔でいることのつらさ。言葉で言い表せないような苦痛だったと思う。
本当はつらいんだけど、心配させたくない、自分を弱く見せたくないっていう思いが膨張して、破裂する時に、自暴自棄に走るという経験が、少なからず皆さんあると思うんです。
うそをつき続けて自分の心を締めつけるという苦しみを、画面を通して届けられれば。
【演じ終えた後、戦争への思い】
今、僕たちはいろんなことで、人生を諦めたいと思う瞬間もある。
けど、その空しく生きた一日が、当時あれほど生きたいと思っていた一日。
一日は変わらないじゃないですか。そんなことを胸に、生きていきたい。
そして、インタビュー動画「ドラマを通じて伝えたいこと」の中でも、春馬さんは、やはり、「生きる」ということについて触れている。(動画1:26頃)
(柳楽さんたちと撮影の思い出について話すときは、時折いつもの優しい笑顔をのぞかせていたが、このときの春馬さんは、今になってみれば、やはり、非常に思い詰めているように見える。)
僕たち俳優、スタッフができることというのは、(作品を観る人の)想像力を増幅させ、大きな惨事を生まないということ。
どの時代もきっとそのために作られているというのはあると思うんです。
戦争をしないということを心に留めて、みんなが生きるべきだということを、きっとこの作品は伝えられるのではないかと、撮影を通して感じました。
春馬さんは、うつろにも、透き通っても見える、不思議なまなざしで、そう語った。
それから、かすかにうなずき、唇を噛みしめた。
「本当はつらいんだけど、心配させたくない、自分を弱く見せたくないっていう思いが膨張して、破裂する時に、自暴自棄に走る」
「人生を諦めたいと思う瞬間もある。けど、その空しく生きた一日が、当時あれほど生きたいと思っていた一日」
「みんなが生きるべきだ」
これらの言葉の中には、役柄を超え、春馬さんご自身が抱いていた激しい心の痛みと、それでも生きようと必死に自分に言い聞かせている葛藤がにじみ出ている。
「生きるべきだ」と言った後、きつく唇を噛みしめた、その閉ざされた内側にあった思い。
そこに、何度押し殺しても湧き上がる、「うそをつき続けて自分の心を締めつけるという苦しみ」があったのではないだろうか。
あの噛みしめた唇を開いて、「それでも、やはり、本当は、つらい」と言いたかったのではないだろうか。
一体、何が、そこまで彼を苦しめたのか。
そして、一体何が、あの、真剣に生きようとした、作品を通じて人に感動を伝えることに深い意味を感じていた人から、苦しい時には、自分の本当の気持ちを打ち明け、誰かに助けを求めていいという思考を奪ったのか。
唇を、あんなにきつく、噛みしめさせたのか。
それは、わからない。
ただ。
「本当はつらい」と思っていることを隠すこと。
「うそをつき続けて自分の心を締めつけるという苦しみ」。
本心を押し殺すということ。
それは、本当に自分自身の命を奪うほど、危険な、痛みに満ちたものだった。
こういう苦しみは、戦争の無い時代にも存在する。
そして、彼のような、まじめで、他の人に対して思いやりのある人ほど、独りで、その苦しみを背負う。
このときの春馬さんの言葉の中で、もうひとつ、考えさせられたことがある。
本当はつらいんだけど、心配させたくない、自分を弱く見せたくないっていう思いが膨張して、破裂する時に、自暴自棄に走るという経験が、少なからず皆さんあると思うんです。
多くの人は、つらいことがあったとき、「心配させたくない」からと独りで耐えて、自暴自棄になるほど苦しむ前に、重荷を減らして軽くするか、誰かに助けを求める。
逆に、「自分を弱く見せたくない」という思いが、攻撃的な感情に変わり、他人に重荷を背負わせたり、八つ当たりしたりすることで、つらさをまぎらわそうとする人間もいる。
春馬さんの思い描く「皆」は、本当に我慢強く、優しい。
そういう人は、確かに存在すると思う。
(彼がそういう人だったのだから。)
しかし、「皆」ではない。
もしも、春馬さんが、自分自身のように、「皆」も、ただ独りで人生の重荷に必死に耐えているのだから、助けを求めてはいけないと、心のどこかで思っていたのなら、その優しさは素晴らしいが、どれほど寂しく、苦しかっただろう。
こういう、春馬さんの、ご自分を基にイメージする世界と、現実との隔たりもまた、彼を孤独に追いやったのかもしれない。
自分の心の痛みに気づき、それを押し殺さないこと。
それは決して自分勝手ではない。
自分の心の痛みは、自分にしか、一番深い部分はわからない。
休息を必要としているのか、誰かに話せばいいのか、環境を変えればいいのか、あるいは専門家のサポートが必要なのか。
どんな方法をとれば、痛みを軽くできるのか、それを自分自身が知るために、どんな外部の情報も、どんな他人や自分の「べきだ」という思考も、一度、脇に置いて、自分の心が痛み、苦しんでいることを、まず、認める。
そして、自分は、自分自身だけは、自分の助けを求める声を、無視したり、押し殺したりしない。
そうやって、自分の心と体を生き延びさせなければ、誰かを思いやり続けることもできなくなってしまう。
残念ながら、他人は、その人自身が心の痛みを押し殺して笑っているうちは、その人の心の内側にある苦しみに、なかなか気づけない。
それどころか、笑っていることを「余裕がある」と勘違いして、その人に、よりいっそうの重荷を持たせようとすることさえある。
苦しいなら、それを押し殺さずに、一度しっかり向き合い、苦しいと誰かに伝えることは、自分を守るために、必要なことなのだ。
こんなふうに、人間は、時に他者の心の痛みに対して鈍感で残酷だが、一方で、たった一人では生きていけない生き物だ。
だから、誰かの、とくに、他の人を「心配させたくない」と思うような、優しすぎるほど優しい人の苦しみを知ったら、それを悲しく思い、不安になる人もいる。
心に痛みを抱え、それでも思いやりを見失わない人が、誰にも助けを求められず、孤独に沈む。
そういう現実の残酷さを知ると、自分も傷つき、自分たちの生きている世界を、信じられなくなる。
(今回、春馬さんの死と、それに続くようないくつもの悲しい出来事が、私たちにそれを痛烈に教えた。)
自分の苦しみを押し殺さないで、助けをもとめること。
それは、自分自身を守るために必要であり、また同時に、不安や痛みを抱えて生きている、ほかの誰かのためにも、大切なことなのだ。
「作品」と「想像力」の意味
春馬さんは、「太陽の子」について語る際、「想像力」という言葉を、繰り返し使っている。
以前、広島に足を運んだ際に(被爆者の)話を伺って印象深かったのは、人間は想像力を欠如した時にむごいことをする、ということ。「原爆が悪い」と言われるが、一番悪いのはやっぱり戦争。戦争を進めていくうちに人間の想像力が欠如する。僕たちの仕事は、想像力を皆様に届けること。想像力を膨らませていく大きなきっかけになればいいなということで、皆様の元に届けられたらうれしいです。
確かに、戦争は、最も恐ろしい暴力だ。
敵に勝つために、敵の命を奪うために、もともとは思いやりがあっただろう人々からも、想像力を奪って、暴力に参加させる。
春馬さんの「想像力」についての思いを読み、「太陽の子」と同じく、戦争を題材にした、漫画『夕凪の街、桜の国』(こうの史代作)の中の、ある台詞を思い出した。
嬉しい?
10年経ったけれど、原爆を落とした人はわたしを見て、「やった!また一人殺せた」とちゃんと思うてくれとる?
(「夕凪の街」)
原爆投下から10年後、被爆の後遺症で衰弱してゆく女性が、原爆を落とした誰かに対し、心の中で語りかけた言葉。
だが、戦争により、大勢の人間が想像力を失った結果起きた彼女の死に、「嬉しい」という感情は存在しない。
殺したことにも気づかない。
その人が、生きていたことも、知らない。
一人の人が、残酷な暴力を全身に浴び、深く苦しんで命を落とすのに、その人が、生身の人間として、夢を抱き、心の痛みを抱えて、生きようとしていたことを、想像力の欠如した、あるいは奪われた多くの人たちは気づかない。
ただ、そういう状態に陥った人々が、少しずつ動き、その動きが絡まりあって凶暴なうねりの嵐になり、一人の人の存在、それ自体に気づかないまま、命を奪っていく。
それが、戦争。
戦時、個人の思考は様々な圧力でコントロールされる。その、冷酷な計画性、組織的な力の強大さが、戦争の最も恐ろしい一面だ。
しかし、人が無意識に想像力を失うのは、戦争の時だけではない。
外部から圧倒的な操作を受けなくても、人が想像力を失う理由は沢山ある。
今、生きていくうえで避けられないストレス、過去の心の傷。
それらに加えて、現代はネットを介して、他人に関する膨大な数のネガティブなニュースが、絶え間なく押し寄せてくるようになった。
積み重なった暗い記憶と、膨大な情報が織りなす、灰色の鈍い視界の中で、想像力も、苦しみを背負う他者の存在も見失って、不用意に誰かを傷つける。
そうした危険性は、戦争のない現代でも、続いている
この時代、自分の中の「想像力」を守り育てることは、これまで以上に必要なことになっている。
ある出来事や人物について、広く、深く伝え、受け手に、他者の感覚や感情を、想像させる
そうした「想像力を増幅させる」力は、現在進行形で無数に飛び交う短い「情報」よりも、ドラマや舞台、小説や漫画といった、「作品」のほうが、より多く持っていると思う。
(爆発的に発信される「情報」の多くは、ある意味広告宣伝のようなもので、「即座に大勢の目を引き、目を離されない時間内に、鮮烈に印象づける」ことを目的としている。)
丁寧に作り上げれた「作品」は、外から見て明らかな、「記録」や「事件」や「歴史」になる出来事だけではなく、その出来事が起きるまでの、そこに生きている人々の「暮らし」や「心の中」についても描いているからだ。
たとえ、描かれた出来事や、人物が架空のものであっても、「作品」を通じ、様々な時間や感情を追体験することで、受け手は、他の誰かの思いを、自分の心の内側で、感じることができるようになる。
「思いやれる」ようになる。
そして、それは同時に、自分自身の心に気づく瞬間でもある。
自分が何に心を動かされ、何を美しいと思い、何を悲しいと思うのか。
丁寧に作り上げられた「作品」は、触れた人の心に響き、揺さぶり、胸の内を震わす共鳴の感触は、その人自身の心の在り処と形を教える。
集団の中に生き、記憶と情報が錯綜する灰色の視界をさまよう私たちが、普段見失っている、自分の心の奥深い部分にあるもの。
自分が一番大切にしたいものが、本当は何なのかを、教えてくれる。
情報の受信と発信に費やすエネルギーが、膨大になりつつある今、優れた「作品」に触れ、さらに、それを心の深い部分で受け止めて、想像力を育てる時間や心のゆとりは、減ってきているのかもしれない。
だが、人と人が心を通わせ、自分の心に気づき、不用意に他の誰かを傷つけないために、「想像力」は必要だ。
体が生きていくために、食べ物が必要なように、情報が氾濫し、(コロナ問題でいっそう)心が不安になっている今、「作品」と「想像力」は、自分と、ほかの誰かの心を生かすために、本当は、なくてはならないものなのだ。
春馬さんは、ご自身の最後の舞台「ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド」の千秋楽で、「僕はこの(演劇という)産業は、とても血の通った仕事だと自負しています」と語っていらした。
この血の通った仕事がいつか、観る人の気持ちを高めてくれると信じている。
コロナによる非常事態宣言で、公演期間半ばで終わらせなければならなかった舞台。
それでも、春馬さんは演劇の持つ力について、誇りと希望を語っていた。
「作品」には、観る人の心を動かす力がある。
そして、その感動が、自分の心を見つめ、他人の心を「想像」する力を養う。
それが、人々が生きている世界を悲劇から守り、もっと思いやりのある場所に変えていくことにつながる。
それは、遠い、時間のかかる流れだ。
「作品」と「想像力」が、世界をどう変えたかを、目に見える形で証明することもできない。
原因と結果のつながりや利益が、すぐに、はっきり出ることが求められる世界に生きる私たちは、こういう長く遠い流れを信じることができず、「余計なもの」「無いもの」と思いがちだ。
しかし、それは確かに存在する。
そして、とても大切な、必要なものだ。
今回、多くの人が、春馬さんの死に衝撃を受け、悲しんだ。
そして、彼の心の痛みを思い、こんな悲しいことがもう二度とないようにと願い、そのために自分にできることを考えはじめた人もいる。
(残念ながら、その後も悲しい出来事がいくつも続いてしまったが。)
春馬さんと直接言葉を交わしたことはなくても、彼の死は、これほど大きな影響を人々の心に与えた。
それは、春馬さんが、まだ若く、真面目で人柄の良い、美しい人だったからという理由、それだけではない。
今まで、彼が、数々の「作品」を通じて、たくさんの人の心を動かしてきたからだ。
(私自身、春馬さんのミュージカル「キンキーブーツ」を観ていなければ、ここまで彼の死について考えることはなかった。)
ここにも、「作品」と「想像力」が、私たちの生きる世界を、もっと平和で穏やかな場所に変えていくまでの、長く遠い流れが、人々の悲しみを透かして、かすかに、だが確かに、見えている。
春馬さんのような人が、心の痛みを押し殺してしまわないように。
平和を願う、真面目で優しい人が、穏やかな気持ちで生きられる世界に、少しでも近づくように。
そして、理不尽で残酷だが、一方で、彼のような人も確かに存在している、この世界を構成する一人である自分自身が、他の誰かを思いやる人間に、ほんの少しでも近づけるように。
春馬さんが信じていた、「作品」の持つ力と、「想像力」をはぐくみ育てることの大切さを、心に刻み付けておきたい。
(引用元)
・「柳楽優弥、有村架純、三浦春馬 特別インタビュー 3人が語った“ドラマを通して伝えたいこと”」(NHKホームページ 速報・会見 2020/8/7)
・「柳楽優弥が原爆開発の研究者に 戦後75年、感じた恐怖」(朝日新聞デジタル 2020/7/10)
・「この“産業”は、血の通った仕事だと自負しています」三浦春馬が最後の舞台公演で語ったこと 舞台『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド』(CDB「文春オンライン」2020/7/22)
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