現在NHKのミニ番組「365日の献立」で、改めて注目されている名女優、沢村貞子さん。
黒澤明監督作品の常連役者、加東大介さんは、沢村貞子さんの弟で、二人は仲の良い姉弟だった。
沢村さんは名文家としても知られているが、加東さんも『南の島に雪が降る』という、実体験を題材にした本を世に送り出しており、二人の作品は、強い絆とともに育ち、戦争をくぐりぬけた家族の姿を、お互いに描き出している。
(加東大介さんの本が原作の映画版)
【芝居漬けの家に生まれた姉と弟】
沢村家の父で座付き作家だった伝太郎は、役者になる夢を親族の反対で断たれた人だった。
実際、伝太郎は非常に男ぶりがよく、芝居を観にきた女たちが、楽屋口で役者よりも伝太郎が出てくるのを待ちかねていたほどだったという。
そんな父は、自分の悲願を継いで役者になってくれる男の子を熱望していて、自分似の端正な顔立ちの長男、国太郎さんが生まれたときは、小躍りして喜んだ。
しかし、女の子には全くの無関心で、国太郎の前に生れた長女せい子さんは産まれて一ヶ月もたたないうちに自分の妹に里子に出してしまい、その後生まれた沢村さんにも不満気だった。
それから三年して生まれたのが加東大介さんだったが、その顔を見るなり、「なんだ、鼻が低いじゃねえか。俺にまるきり似てねえぜ。もし役者になれなかったらどうするんだ」と、お産直後の妻マツをなじったという。(※1)
しかし、加東さんは、子役としてすぐに頭角を現した。
彼はどうやら生まれつきの役者だったらしく、いかにも自然な台詞やしぐさは、初日から客の涙をしぼり、たちまち、名子役と評判された。(※2)
沢村さんは小学二年生になると、母に代わって加東さんの付き人役を果たした。
学校から帰ると、弟のためにお弁当を作って持っていき、それまで付き添っていた母と交代して、芝居の出番までの間、幼い弟の面倒を見た。
(沢村さんは兄弟の世話に追われる母に仕込まれ、小学校に上がる前には夕飯の支度をこなしていた。)
(沢村さんは兄弟の世話に追われる母に仕込まれ、小学校に上がる前には夕飯の支度をこなしていた。)
根っからの芝居好きとはいえ、まだやんちゃ盛りの加東さんは、楽屋ではしばしば沢村さんを困らせたが、沢村さんが途方に暮れてしまうと、
「おれ、大きくなったらいい役者になって、姉ちゃんの好きな果物、毎日食べさせてやるからさ――泣くなよ、な、な」
と、よく言っていたという。(※3)
(※1)『貝のうた』「おいたち」
(※2)『南の島に雪が降る』「後記」沢村貞子
(※3)『私の浅草』「役者バカ」沢村貞子
【役者として苦悩した加東さんと、弟を支えた沢村さん】
才能も熱意もあった加東さんだったが、歌舞伎の世界では家柄がものを言う。
名門の役者の子でなければ、決していい役はもらえないという「門閥」の壁が、加東さんにも、兄の国太郎さんにも立ちはだかった。
悩んだ末、後に国太郎さんは映画の道へと進んだが、兄のようには容姿に恵まれなかった加東さんは、子役の年齢を過ぎると、とたんに出番を無くし、ふさぎこむようになる。
行く末を案じた沢村さんは、役者にも学問は必要だと言って、加東さんを中学に入れるよう、両親を説きふせた。
兄の名題試験に奔走する両親に代わって、受験から入学手続き、父兄会まで、女学生の沢村さんがかわりに出るのを、教師たちは不思議そうに見ていた。
加東さんも必死だった。黒子をしながら、舞台袖で、先輩たちの芝居を食い入るように見つめ、日本舞踊を学び、またたくまに上達した。しかし、それでも、役はまわってこなかった。
「姉ちゃん、おれ、役者をやめるよ」
そう、沢村さんの手を握って、悔し涙を流したこともあったという。
手の付けられないわんぱく者だった少年は、こうした苦労を経て、「たいていのことはじっと我慢する、おとなしい人間」になっていた。(※1)
そんな加東さんの苦労と人柄が報われる出来事が、ようやく一つ、訪れた。妻、真砂子さんとの結婚だ。
松竹少女歌劇のスター、「京町みち代」だった真砂子さんとは、「初恋のまま結ばれ、以来、片時も離れたことのない、おしどり夫婦」だった。(※2)
「勝気で利口な下町娘」だった真砂子さんは、沢村さんや義母と肉親のように気が合い、弟夫婦は、その頃には既に女優になっていた沢村さんの家に、両親と一緒に住むことになった。
沢村さんは自身の結婚では繰り返し失望を味わっていたが、それでも後に最後の恋を実らせるまで、誰かを心から愛したいという願いを、決して捨てなかった。
それは、加東さんと真砂子さんという睦まじい一対の夫婦を、間近に見たからなのかもしれなかった。
(※1)『私の浅草』「役者バカ」
(※2)『貝のうた』「戦争がはじまる」
【加東さんの出征】
1943年、加東さんが役者として軌道にのりはじめた矢先、第二次大戦で召集令状がきた。
楽屋で召集を知った加東さんは、自分でも意外なほど冷静にその話を受け止めたが、舞台に出て、花道で役の道具であるマトイ(江戸の町火消しが持った飾りのついた竿)をトーンとついた瞬間、その衝撃が電流のように指先から胸に突き刺さり、こみあげるものがあったという。
ああ、「板(舞台)」の上で芝居をするのも、この一瞬で、もうおしまいなんだ……!
(中略)
舞台は、役者にとって血のかよった地面だ。その「板」とも別れなくてはならない。(※1)
加東さんは、涙をこらえ、走って舞台から引っ込んだという。
加東さんは、興行をしていた大阪から、東京の沢村さんの家に戻ってきた。
頭を刈る前に、ひとさし舞ってくれないか、と言われ、加東さんは真砂子さんと日本舞踊の「鶴亀」を舞った。
舞が終わると、沢村さんは、あらたまった顔で、加東さんに言った。
「これ、あたしが大事にしている扇子なんだけど、あなたにあげます。いいものだから、なにかになるでしょう」
女房と踊った記念に――とは言わなかったが、姉の気持ちはそうだったに違いない。ありがたく舞扇をちょうだいすることにした。(※2)
出征の日、加東さんは沢村さんに黙って深く頭を下げた。
何にもいわなくても、その声は私にハッキリきこえていた。
(中略)
愛妻は、大きな目からこぼれる涙をふきもせず、じっと夫によりそっていた。下町娘らしい勝気さで、歯をくいしばって声も立てないこの妹が、私はいとしくて、弟が帰るまで、どんなことをしても守ってやりたいと思った。
あの日の母の姿も忘れない。豪徳寺の集合所まで弟を送って帰ると、いきなりもろ肌をぬいで、庭の隅に造った小さな家庭菜園の真ん中に素足で立ち、黙って鍬をふり上げた。打ち下ろすたびに、ごぼうのような細い大根がポロポロとちぎれてあたりに飛びちった。いつまでたっても、母はその姿勢を変えなかった。どうしようもない相手に対する怒りが母をかり立てているようだった。父はただ、おろおろと家の中を歩き回っていた。(※3)
加東さんは南方に行ったという知らせの後、まもなく消息がわからなくなった。
妹の首すじは日増しに細くなっていった。それでもこの人は泣き声を立てなかった。
「こんな思いをさせられているのは私ひとりじゃないんだから……でも、どんなことをしても生きて帰ってもらいたいわ……片脚、片目がなくなっても……」
台所で、うすいおかゆを作りながら、妹はひくい強い声で、そっと私にささやいた。(※4)
(※1、2)『南の島に雪が降る』「さようなら日本」
(※3、4)『貝のうた』戦争がはじまる
【ジャングルに生まれた演芸分隊】
加東さんたちは、ニューギニアのマノクワリにいた。
西部ニューギニアに位置するマノクワリは、当初、日本軍の防衛の要所となるはずだったが、アメリカ軍は、東部を制圧すると、そのままフィリピンへの進行をはじめた。
結果、マノクワリにいた兵士たちは、直接戦闘を避けられたが、日本軍からの援軍も満足な補給もなく、定期的な空襲と飢えとマラリアに苦しめられることになる。
仲間たちが次々死んでゆき、いつ戦闘がはじまるかもわからない。そして、「勝っても負けても決着には百年かかる」と信じられていた状況下、どんな形にしても、自分も生きて帰れないことは決まっている。そう考えた兵士たちは荒んでいった。
兵士たちの心を少しでも明るくするために、結成されたのが「演芸部隊」だった。
加東さんらを中心に、芝居や音楽に携わっていたプロ、アマを集めて生まれた「マノクワリ歌舞伎座」は、衣装やセットも乏しい物資の中から作り上げ、公演を始めた。
娯楽に飢えていた兵士たちは、三味線の音色に胸を熱くし、女形の姿に妻や母を重ねて涙を流した。
「なにいってやがんでぇ、どうせ死ぬんじゃねぇか」
そう言ってあらゆることでいがみあっていた兵士たちは、舞台の上に、彼らが引き離された日本の平和な日常を見た。芝居に宿る故郷の面影が、あともう少しで壊れそうなほど深く走った心の亀裂に染みわたり、痛みを癒した。
加東さんは食糧確保の農作業、劇場の建設作業、芝居の稽古と、一日中働いた。プロの役者は加東さん一人、事実上の座長だったので、休む暇はない。
しかし、劇場が完成間近となったとき、加東さんは呼び出しを受けた。上官の転属に付いて、マノクワリを離れてはどうかという話だった
どこへ行くのかという話は聞かされなかったが、加東さんはうすうす、申し出を受けたほうが生き残れる可能性が高そうだと気づいていた。(実際、赴任先は仙台だった。)
しかし、自分がいなくなれば、演芸分隊はどうなるのか、そして、あれほど次の公演を待ちわびてくれている兵士たちは……。
加東さんは、その夜、完成間近の劇場の中を一人歩いた。静まり返った舞台には、加東さんたっての願いで、既に花道もつけられていた。
その花道の七三(花道のなかで、役者が見せ場の演技をする位置)のあたりに差し掛かった時、加東さんの脳裏に、召集を受けた日の記憶がまざまざと蘇った。
あの日、まさに舞台のこの位置でマトイを突き、その手ごたえとともに、「板」に立つのはこれが最後なのだと覚悟した。
少なくとも、ここには「板」がある。
とっさに気持ちはきまっていた。
よし、芝居をやろう。(※1)
「わたしは、残ることにしました」
加東さんが決意を伝えると、それまでも加東さんたちの活動を支えてくれていた苦労人の老大尉は、優しい目をまたたかせた。
「よかった、ありがとう。きみのことだから、残ってくれるとは思っていたんだが……。残れ――と、たのめるものではなし、祈っていたのだよ」(※2)
完成した劇場には、兵士たちが詰めかけた。
病で余命僅かと思われた兵士も、次の芝居を見ずに死ぬ気かと励まされて持ちこたえ、やせ衰えた兵士たちも、数日前から体力づくりをしてジャングルの川を泳いでまでも芝居を観にきた。月替わりの演目が、いつ終わるともしれない苦しい日々を送る人々の「生きるためのカレンダー」になっていた。
加東さんたちは、高熱が出ようが、ケガをしようが、体の動く限り、声の出る限り、休まず公演をした。公演中、空襲警報が鳴り響けば避難し、危険が去れば、演者も客も劇場に戻ってきて、芝居を続けた。
(※1、2)『南の島に雪が降る』「別れの〈そうらん節〉」
【大阪空襲】
沢村さんが公演で大阪に滞在していた時、大規模な空襲があった。
宿から一人で避難した沢村さんは、どこへ逃げたらわからないまま走った。なぜか、火にまつわる芝居の場面がいくつも頭をよぎった。
この炎は、本物である。運動靴の裏も、頭巾の中の髪の毛も、焦げそうに熱くなってきた。どうやら、私の一生もこれで終わりらしい。なんだか、ウロウロして、おかしな一生だった。でも、私としては一生懸命生きてきたのだから、あきらめなくちゃ……それにしても、人間はなぜ、戦争をしなければならないのだろうか。戦争をする、と決めた人たちは、ひとりも、こんな死に方はしないのだろうな……。(※1)
気が付くと、沢村さんの目の前に十人あまりの人が立っていた。
道の先にガソリンスタンドがあり、そこには、七、八個の重油入りのドラム缶が積み上げられている。あたりの熱気で、ドラム缶がひとつずつ破裂して、火の雨をまき散らしながら重油が道に流れ出すのが見えた。
火がまわれば、このあたり一面は火の海になる。
立ちすくむ人の中、沢村さんは、ドラム缶が一つずつ破裂するのに、間があることに気づいた。
一つ破裂してすぐに飛び出せば、油を浴びずに、ガソリンスタンドの前を抜けられるかもしれない。
次のドラム缶が爆発した瞬間、沢村さんは、「この間に逃げましょう!」と叫んで、隣の女性の手を掴んだ。熱い油に足を取られながら走り、彼女たちに何人続いたかはわからない、振り向くと、ガソリンスタンドに火が回り、大きな火柱が上がるのが見えた。
焼け残っていた電車で京都まで帰ってきた沢村さんは、なじみの宿にたどりつくと、糸が切れたように倒れて眠ってしまった。
夜、ようやく目をさまして、京都に住んでいる兄の国太郎さんに電話をすると、国太郎さんは、なぜすぐに無事を知らせなかったのかと、泣きながら怒っていた。
空襲を知った国太郎さんは、大阪に駆け付け、沢村さんを必死で探した。そして、妹は助からなかったのだと、ついに諦めて帰ってきていた。
「おれの気持ちも知らないで、寝てるなんて……バカヤロー……」
国太郎さんの取り乱した声が、受話器越しにいつまでも聞こえていた。
【陰膳と終戦】
東京も空襲が相次いだため、沢村さんたちは、京都に移住した。父は国太郎さんのもとに行ったため、沢村さんは母と義妹真砂子さんの女三人暮らしとなった。
真砂子さんのもとには、加東さん戦死の噂が届いたが、真砂子さんは何も言わなかった。
沢村さんは、その知らせを聞いた夜、隣の布団にいる真砂子さんが、ただ、大きな目で、じっと、天井を見つめているのを見た。
母もまた、乏しい食材ですいとんを作り、加東さんへの陰膳を供え続けた。彼女たちは、加東さんが生きて戻ってくる望みを捨てなかった。
八月、沢村さんたちは、近所のラジオで敗戦を知った。
呆然とする人々の中、真砂子さんの目はパッと輝いた。
沢村さんたちは家に駆け戻った。
「終わったのよ、終わったのよ、私の旦那様が帰ってくるのよ」
私と義妹は手を握って家の中をぐるぐると踊り回った。
(中略)
「……でも、日本が敗けたんじゃ、これからがたいへんだろう」がっくりすわりこんでいた母が、心配そうに声をひそめた。
「そりゃあ、たいへんよ、きっと……でもいくらたいへんでも、戦争して殺しあっているよりましでしょ」
「そうよ、私もそう思うわ」そう言いながら、義妹は、いきなりバケツをもち出して掃除をはじめた。私も勢いよく、廊下の雑巾がけをはじめた。母までが「よいしょ」と立ち上がって、窓のガラスを、グイグイふき出した。みんな、なんとなく、からだをうごかさずにはいられなかった。(※)
青い顔で駆けつけた国太郎さんは、三人の様子にあっけにとられた。
「日本が敗けたっていうのに、何してるんだ……。」
敗戦をラジオで知った国太郎さんは、部屋にあった器を全部庭にたたきつけて号泣し、青酸カリを飲んで死ぬ覚悟をした。
しかし、最期に母たちの様子を見に来たつもりが、三人がいそいそ掃除をしているので、死ぬ気がそがれてしまったという。
母とお茶を飲んで話し込み、今後のことはよく相談しよう、と、立ち上がったときには、いつもの優しい国太郎さんに戻っていた。
(※)『貝のうた』「一生懸命生きてみたい」
【イギリス人隊長と沢村さんの舞扇】
ニューギニアの加東さんたちは、数日遅れで敗戦を知った。
生きて帰れる望みはでてきたが、敗戦の打撃と、いつ帰れるのか、あるいはどこかに連れて行かれるのではという不安が、兵士たちに重くのしかかった。
上陸した連合国軍のイギリス軍隊長が、劇場の存在に気づいた。
「マノクワリ歌舞伎座は興行を続行すべし、ただし、連合国軍将兵の観覧を妨げざること」
隊長は、今の日本兵たちには演芸が必要であるという、加東さんたちの説明に理解を示してくれた。
それからは、他国の兵士たちも劇場に来た。
パプワ兵たちは手品に湧き、イギリス兵は三味線で奏でられるイングランド民謡の「埴生の宿」に大合唱した。
「マノクワリ歌舞伎座」が、ついこの間まで敵同士だった兵士たちを、劇場に集う人と人へと戻していった。
加東さんたちの帰国が決まってから、イギリス軍の任務を引き継いだシラジ大尉という人物も、加東さんたちを尊重してくれた。
「君たちは捕虜ではない、日本へ帰すために、ここにあずかっているだけだ。筋の通らない使役には応じなくてよろしい」
それよりも、帰国の前に、もう一度演芸をやってほしい。日本兵と、パプア兵のために。
シラジ大尉はそう言って、帰国前の苦労から演芸分隊をかばってくれた。
恩人であるシラジ大尉になにかお礼をしたい。
加東さんたちは話し合い、出征前の加東さんに沢村さんがくれた舞扇を贈ることにした。
「いいものだから、なにかになるでしょう」
沢村さんが弟を思って持たせた舞扇が、演芸分隊の気持ちを乗せて、イギリス人隊長のもとへと渡っていった。
「そんなに感謝してもらえるとは、わたしはしあわせである。ありがたくいただく」
大尉は目を輝かせて扇を受け取ったという。
【加東さんの帰国】
終戦から約一年後、ようやく京都にたどりついた加東さんはその晩倒れた。戦地で感染したマラリアの再発だった。
一週間、生死の境をさまよい、加東さんはようやく意識をとりもどした。
やっと目をあけたとき、なにか黒いボンヤリとしたものが正面に浮いていた。長い時間かかって、どうやらピントが合ったと思ったら、家内がわたしの顔をのぞきこんでいた。
結婚してから今日まで、あのときくらい、女房がきれいに見えたことは、ちょっとなかったような気がする。
「お帰んなさい」
ポツンと妻がいった。
「ウン、ただいま」
これが二人の第一声だった。(※1)
片目、片脚を失ってでも生きて帰ってきてほしい、そう願い続け、戦死の噂を信じず、敗戦の日にも、「私の旦那さまが帰ってくる」と明るい目をして家を磨き上げた真砂子さんが、初恋の男、加東さんを、しっかりと取り戻した瞬間だった。
知らせを聞いて、沢村さんたちも加東さんの枕元に集まってきた。
彼は、のぞき込む家族たちに、嬉しそうな声で言った。
「ボク……ニューギニアで、芝居してた」
まだ、熱があるらしい――と皆、顔見合わせて不安だったが――日がたつにつれて元気を取り戻した彼は、戦地の飢えの辛さより「マノクワリ歌舞伎座」の話に夢中だった。私たちは感動して――声も出なかった。
「ボクは、しあわせだよ、あれほど皆に喜んで貰える芝居ができたんだから……」
それはもう、生死を越えていた。〈これだけの観客を捨てて……役者が舞台から逃げ出せるか……〉たった一度の内地送還のチャンスも、彼は自分から捨てた。(※2)
どんなに努力をしても役が貰えないつらさに、もう役者をやめると姉の手をとって泣いた加東さんは、戦地の芝居で、人々の心と命をつなぎとめるという、どんな役者にも生涯まわってこないような大役を果たした。
その幸せを噛み締める弟の姿を描く沢村さんの文章からも、静かに湧き上がる誇りがにじみでている。
沢村さん、加東さん、国太郎さんは、「オレの目の黒いうちに、一度でもいいから、きょうだい三人そろった舞台をみせてもらいたいなあ」という父の願いを叶えるため、京都で芝居をした。
演目は「瞼の母」。加東さんが、マノクワリで故郷の家族を思う兵士たちのために演じた作品だった。
はじめは家の中にも男女の差、兄弟の差があった。
世の中に出てからは、役者としての家柄など、もっと冷たく理不尽な壁がいくつも立ちはだかった。そして、戦争という最悪の暴力に見舞われた。
情熱があっても、努力しても、人生は平等でも平和でもなかった。
それでも沢村さんも加東さんも、家族を思い、一生懸命生きることをやめなかった。
沢村さんの『貝のうた』、加東さんの『南の島に雪が降る』。
二つの作品を併せて読むと、姉と弟が、それぞれの人生の苦難と真剣に戦いながら、支え合って生き抜いた姿が浮かび上がってくる。
その誠実さと聡明さに裏打ちされた名文で、人生と時代を描いた二つの作品は、どちらも一歩もひかない傑作の迫力を持っている。
そして、互いの目に映る姉と弟の姿は、まなざしをそそぐ者からの、感謝と、家族としての誇りに暖かく縁取られ、優しい輝きを、放ち続けている。
(※1)『南の島に雪が降る』「七千人の戦友」
(※2)同上、「後記」
(参考文献、映画)
(映画版、加東さんご本人のほか、伴淳三郎、森繁久彌、西村晃、渥美清ら、名優揃いで笑いあり涙ありの傑作)