2019年12月28日

沢村貞子さんと献立日記

 沢村貞子の献立日記 (とんぼの本)
沢村貞子の献立日記 (とんぼの本)


 現在NHKで女優沢村貞子さんの献立帳を紹介するミニ番組「365日の献立」が放送されている。

 名脇役として女優業をこなしながら、最愛の夫、大橋さんのために心づくしの料理を作り続けた沢村貞子さん。

 彼女の料理は、沢村さんの、悲しみも愛情も深かった人生と、分かちがたく結びついていた。




【5才のころからはじめた料理】


 沢村貞子さんは、1908(明治41)年、浅草に生まれた。

 親類の反対で役者になれなかった父伝太郎は、座付きの作家をしつつ、自分の子供はみんな歌舞伎役者にするという夢にとりつかれた人だった。

 そんな父は、生まれたばかりの沢村さんの性別を知るなり、「チェッ、女か」「フン、がっかりさせやがる」と言ったという。


 兄(沢村国太郎、津川雅彦の父)と弟(加東大介)が子役として劇場に通うようになると、その付き添いで忙しい母マツは、まだ5才の沢村さんに徹底的に家事を仕込んだ。

 幼い沢村さんは、小さな体で苦心しながら釜の米をとぎ、小学校一年のころにはもう、家族5人分の食事いっさいを作れるようになっていたという。(※1)

 悪い人ではなかったものの、妻と娘を家政婦のように見なす父と、愛情深かったが兄弟の世話に追われ、女の子の沢村さんにだけ家の仕事を任せる母のもと、沢村さんは自分を「いわばおまけ」(※2)と感じるようになっていた。

 女優の仕事がどんなに忙しくても、様々な料理を作り続けることができた沢村さんの腕前は、こうした子供時代を経て磨かれたものだった。


(※1)『貝のうた』「おいたち」

(※2)『老いの道連れ』「女優の仕事と献立日記」




【三度目の結婚でめぐりあった「半身」】

沢村さんと大橋さん -.png

 沢村さんは最愛の夫、大橋さんに巡り合うまでに、二度、結婚に失敗している。

 大橋さんと出会ったときには互いに既婚者だったが、大橋さんは、仕事を辞め、京都から東京まで、沢村さんを追いかけてきた。

 (二人が夫婦として入籍したのは、大橋さん側の離婚が正式に成立した、約二十年後、沢村さん60歳の時のことだった。)


 父のたび重なる浮気に耐える母の姿や、芝居の世界と花柳界の近かった浅草での、男女の愛憎を見てきた沢村さんだったが、彼女のうちには深い愛情があり、苦い経験を経てもなお、それを捧げられる相手を探し求めていた。

 ハマグリは二枚に分けても、元の貝同士以外、ほかのどの貝ともぴったりと合わせることができない。そのため、昔からむつまじい一対の伴侶になぞらえられてきた。沢村さんは、その話を噛みしめ、自分の半身であるもう片方の貝が、この世のどこかにいるはずだと信じていた。



 ほとんどの人が、その半身にめぐりあわずに、一生を終わってゆく。

 もし、「この人こそ、私の半身、私の地貝だ」と思う人を見つけられたら、どんなに幸福だろう。私は一生その人を愛し、その人に仕えよう……。その人がもし、許してくれるなら……

 私が可愛げのない女だということは、自分でもわかっている。理屈っぽくて潔癖で……自分にも人にもきびしすぎて……。でも、もし、私の地貝にめぐりあえれば、そのときこそ、私は、女らしい女になれるような気がする。素直でやさしく、可愛い女に……。私の白く硬く冷たい心のすぐ下に、うすく色づいた弾力のあるやわらかい心があることを、私は自分で感じている。好きな人にあいたい、恋をしたい、もう三十代も終わりに近いというのに、女の喜びを何も知らなかった胸をかきあわせて、ひとり、しきりに求めた。

   (『貝のうた』「一生懸命生きてみたい」)      

                      

 そう、沢村さんが、まだ見ぬ半身に焦がれたのは、戦争ただ中の時。

 恋はおろか、生きのびることすらあきらめかけ、空襲と敗戦をくぐりぬけた果てに、沢村さんはようやく「半身」大橋さんを見つけた。




【沢村さんの献立日記】

沢村さんの献立日記 -.png

 東京に出てからの大橋さんの収入は不安定なもので、稼ぎ頭は沢村さんのほうだった。

 大橋さんの家族にお金を送るためにも、仕事は数をこなさなければならない。しかし、体の弱い大橋さんのために、変化に富んだ、栄養のある料理を作ってあげたい。

 多忙な中で、日々の献立に苦労をした沢村さんが考え出したのが「献立日記」だった。

 紙切れにその日の献立のメモをつけることからはじまり、それはやがて、大学ノートに清書されるようになった。



 一頁ごとに横四段にしきって四日分とし、縦三本の筋をひいて、左は日付、天候、温度、来客その他、食事に関係のある出来ごと、真中はわが家の一番重い食事――つまり夕食の献立を書きこんだ。右のかこみの中は朝の献立、その下には、昼食代わりの軽いおやつも忘れないように……

(中略)今夜は何にしようか……といい考えが浮かばないとき……去年の今日、おととしの今日は何を食べたかしら、とその中の一冊をひきぬいてページを繰れば、

「あーもう蕗(ふき)が出ているはず……

 とか、

「そろそろ鰤も脂がのっている頃」

 などと、夕方市場へ行けない私に季節の野菜や魚をそっと教えてくれる。(※1)

                 


 この日記は「せめてものおしゃれ心」で芹沢_介の民芸カレンダーのカバーがつけられ、沢村さん57歳から84歳までの27年間、一日もかかさず、36冊書き続けられた。そして、そのほとんどの表紙には、達筆で知られた大橋さんが題箋を付けている。(※2)



(※1)『わたしの台所』「献立日記」

(※2)『沢村貞子の献立日記』(とんぼの本)





【「女優」として「妻」としての沢村貞子】

 こうした沢村さんの奮闘に、現代の人々は違和感を覚えるかもしれない。

 沢村さんが稼ぎ頭なら、家のことでまでこんなに苦労するのはおかしい。大橋さんがするべきだ、と。

 たが、一つには時代が違った。「男子厨房に入らず」という言葉があった時代、ほとんど何の経験もない大橋さんと、小学生から家族全員の食事を作っていた沢村さんの家事能力には雲泥の差があった。

 (沢村さんのマネージャーである山崎洋子さんが、大橋さんから、「わしの鯛茶をご馳走しよう」と言われたが、全て沢村さんたちが下ごしらえしたものに、大橋さんがただ厳かに湯を注いだだけだったという話がある。(※1)


 そして、何よりも大きかったのは、沢村さんの「女優」と「妻」としての心構えの違いであった。

 今も語り継がれる名女優としての地位を築いた沢村さんだが、沢村さんにとって女優という仕事は、どれほど充実していても、成功を収めても、生涯、生計を立てる手段のままだった。

 沢村さんは、彼女を「母さん」と呼んで慕っていた黒柳徹子さんに「私は、父さん(大橋さん)がいるから、仕事30%、家のことは70%でやっているのよ。」と打ち明けたことがあるそうだ。(※2)

 手を抜いていたわけではない。時間を守り、台詞を完ぺきに暗記し、NGを決して出さず、沢村さんは女優の鏡というほどプロに徹していた。

 それでも、沢村さんの中には常に、「女優であることは途中でやめるかもしれないけれど、あの人の妻であることはやめない」という強い思いがあった。(※3)


 沢村さんは女優としての自分を生涯「脇役」と思っており(本人は、自分の容姿に限界を感じていたから、とだけ語っているが)そこには、おそらく様々な理由があった。

 最初の夫とは、演劇の世界に足を踏み入れたときに出会い、半ば強制される形で結婚した。そして、沢村さんは彼らに巻き込まれるようにして、社会運動にも参加することになる(当時は犯罪行為とみなされた)。

 しかし、その夫は自身の逮捕後、あっけなく沢村さんの居場所を警察に知らせてしまい、逮捕された沢村さんは、過酷な拷問の果てに刑務所に入れられた。

 ようやく釈放され、離婚した沢村さんを、兄、国太郎が手助けし、映画女優として生きることになったが、その世界でも、当時、異例の高学歴女性であった沢村さんは、周囲からしばしば疎まれた。

 また、沢村さんは、幼いころから芝居を熱愛し、努力を重ねていた兄、国太郎と弟、加東大介が、役者の家の生まれでないことを理由に、良い役をもらえず、悔し涙を流す姿も近くで見ていた。

 こうした経験が、沢村さんを、女優に没頭する道から遠ざけたのではないだろうか。

 素晴らしい仕事だし、やるからには真剣に臨むが、自分の全身全霊をひたむきに捧げる相手はほかにある、そういう人生を沢村さんは選び、その相手が大橋さんだった。


 マネージャーの山崎さんは、外で真剣に撮影に臨む沢村さんを間近に見ており、その沢村さんが帰ってもなお、甲斐甲斐しく大橋さんに尽くし、仕事の面でも大橋さんの意向を尊重する姿を見ると、大橋さんに意見をしたくなることもあったようだが、そんな山崎さんの気持ちを察してか、沢村さんはよく彼女にこう言っていたという。


「あたしがわがままにしちゃったのよね。だけどね、大橋が、仕事もなにも、みんな捨てて、あたしのところに来てくれたことを、とてもありがたいと思っているの。だからどんなことをしてでも、大橋の気持ちにむくいたいのね」(※4)

    


 また、はた目はわかりにくくとも、大橋さんも沢村さんを大切に思っていた。

 珍しく沢村さんが体調を崩した時には、大橋さんのほうが動揺してしまい、これならば食べられるのではと山崎さんが用意したお刺身を、山崎さんの制止も聞かず、沢村さんのお皿いっぱいに積み上げてしまうような人だった。

 そんな大橋さんは、沢村さんの帰りが遅くなる日は、電話を受けると、車が家に着くよりずっと前から外に出て、沢村さんのことを待っていたという。


(※1)山崎洋子著『沢村貞子という人』「わしの鯛茶」

(※2)『沢村貞子の献立日記」黒柳徹子「初心を貫いた人――わたしの『母さん』」

(※3)『老いの道連れ』「〈対談〉父さん 母さん 黒柳徹子/沢村貞子」 

(※4)山崎洋子著『沢村貞子という人』「仕事を決める話』




【大橋さんの死と、残された原稿】


 大橋さんは84歳で突然世を去った。

 体調不良を感じてから一ヶ月半も断たないうちのことだった。

 死の直後、集中治療室を出た沢村さんは、椅子に崩れ落ちて泣いた。共に付き添っていた山崎さんはそう記している。


私は、慟哭という言葉を知ってはいたが、はじめてその姿を見た。(※1)

             

 この時期、共に文筆家であった沢村さんと大橋さんは、結婚50年を迎える前に、夫婦としての道のりを二人で書いてみようと約束していたが、その第一回目を書き始めた矢先の出来事だった。

 黒柳さんは、そのときの沢村さんの悲しみを目の当たりにした。

母さん(沢村さん)は、「もう、何も書けない」と泣きじゃくった。私が「母さんが死んだら、父さんに会える?」と聞くと、母さんは「そりゃ、会えるよ」と、心から信じている顔で肯(うなず)いた。「なら、次に父さんに会った時、『あの一回目の続きは?』って聞かれたら、何て言うの?」。母さんは気を取り直し、一年後、『老いの道連れ 二人で歩いた五十年』という本を書き上げた。(※2)                 



 この本を書くために、大橋さんの戸棚から原稿用紙を借りようとした沢村さんは、その間に、何気なくはさまれていた大橋さんの原稿を見つけた。

 「別れの言葉」と題されたその原稿には、大橋さんから、沢村さんへの思いがつづられていた。



わたしに、こんな楽しい老後があるとはおもっていなかった。あなたに巡り遭えたということ、そして、二人で寄り添って生きてきたこと、いろいろな苦労があったけれど、わたしは幸せだった。あなたも幸せだった、と思う。(中略)「どちらが先になるかはわからないけれど、先立った者が待っていて、来世も一緒に暮らしましょ、来世もこうしておしゃべりをして、おいしいものを食べて、楽しく暮らしましょ」貞子は最近この言葉をよく口にするようになった。暗記している台詞を正確におもい出すように、ひとことの狂いもなかった。

 (中略)

 二人のうちの一人が、生きる張り合いを失い、泣きながら「永い間お世話になりました。ありがとう。さようなら」を言わなければならない。その日は、二人がどうもがいても、叫んでも避けられはしない。

(中略)

 そして、その葬送の日のたった一つの心の寄りどころは(来世)という想像もつかない虚空の一点で、今日と同じ笑顔で、今日と同じやさしい眼で、今日と同じ見慣れた着物を着て待っていてくれる人がいることを、信じるほかはないのだ。

(中略)

 生来、愚鈍な上に学も無い、貧しくて小心な落ちこぼれ人間でしかなかった私が、戦後、無一文のどん底から、なんとか生きのびてこられたのは、唯ひとり、貞子という心やさしく、聡明な女性にめぐり遭えたからである。

 その意味で、これは、一人のハンパ人間が、思いもかけぬ幸運に恵まれた(ある果報者の軌跡)といえるかも知れない。……ありがとう。(※3)

                                       

 見てもらえるかも定かでない形で、照れ屋の大橋さんがそっと忍ばせ遺しておいたその言葉に、沢村さんは涙が止まらなかったという。


 若い頃「一生懸命働いている人たちがみんな幸せになれるように」という思いから身を投じた社会運動は、最初の夫の裏切りによる逮捕という苦い結末を迎え、挫折してしまった。



 でも――一人だけ、しあわせにすることができたのですよね、あなた、一人だけ……うれしいわ、お閻魔さまに、そう言わなけりゃあ……(※4)


 大橋さんは、社会的成功という意味では、生涯沢村さんの陰にいた。

 身内に名声や経済力がある場合、周囲の嘲笑や嫉妬は常に付きまとう。

 まして、妻が経済的支柱であることが今以上に珍しかった当時、大橋さんの精神的重圧は大変なものであったはずだ。(実際、大橋さんは何度も友人達から心無い言葉をかけられていた。)


 しかし、大橋さんは卑屈になることなく、沢村さんの熱烈な愛を堂々と一身に受け、のびのびと甘えた。生来の不器用なまでの生真面目さと、沢村さんへの愛は決して失わずに。

 これもまた一つの愛情の覚悟であり、できる人間は少ない。

 そして、大橋さんは、沢村さんを「心優しく聡明な女性」と称え、深い感謝の言葉をしたためた恋文をしのばせ、先立った。

 その言葉は、幼いころから「おまけ者」「脇役」と思い生きてきた沢村さんの、苦労の多かった人生の、全ての時間に報いた。

 「うれしいわ」

 それが、大橋さんからの恋文を抱きしめた、沢村さんの万感の思いだった。


(※1)『沢村貞子という人』「大橋さん逝く」
(※2)『沢村貞子の献立日記』黒柳徹子「初心を貫いた人――私の「母さん」)

(※3)(※4)『老いの道連れ』「別れの言葉」



【「献立日記」の終わりと双眼鏡】


 大橋さんの死後、沢村さんは80年近く続けてきた料理をやめてしまった。


 『老いの道づれ』を出版した沢村さんは、「徹子の部屋」にゲスト出演をし、大橋さんとの思い出について語った。

 その帰りの車中で、沢村さんは、長年彼女の運転手を勤めていた人に言った。


「ああ、これで全部、終わったね……二週間も食べなければ、死ねるかね?」(※1)


 半年後、大橋さんの三回忌を済ませた直後、沢村さんは床に臥せった。駆けつけた黒柳さんのために起きあがってスープを飲んだのを最後に、彼女は一切の食事をとらなくなった。



 父さんの没後、母さんが新しく買ったものはたった一つ。ドイツ製の大きな双眼鏡だけ。ベランダに面したリビングの一隅に三脚を立て、その上に双眼鏡を乗せて、二人の骨を撒くのはどのへんがいいかと、相模灘をしょっちゅう眺めていた。(※2)

                       

 双眼鏡で海を眺める沢村さん -.png

  1996年、沢村さんは87歳で亡くなった。


 死顔は、本当に満足そのものの顔つきだった。母さんの甥の津川雅彦さんが、「これは、もう会えた顔だなあ」と、私につぶやいた。母さんも父さんも信じたように、二人は会えたのだ。(※3)


 二人の遺骨は、黒柳さん、津川さん、山崎さんらの手で海に散骨された。

 船から、波に花を散らし、二つの骨壺の遺灰を撒いたときの様子を、山崎さんは、こう記している。

 骨は両手の間から落ちるとき美しく光ったが、海面に届くと、ほんの少しの間波に揺れると、花々の間をすりぬけて沈んでいった。

(中略)

 二つの壺に入って居たのが、今、二人はまじり合い、たわむれあい、そそくさと恥ずかしげに花の陰に隠れてしまう。

「さ、早く行きましょう」

 沢村さんが、大橋さんの手を引っ張っているようだ。

「そんなに急がなくてもいいじゃありませんか」

 と、私は言った。

「これでいいのよ」

 と、沢村さんの声が聞こえた。(※4)


 黒柳さんは、形見として、沢村さんの双眼鏡をもらい受けた。



 幼いころから「おまけ者」の思いを片隅に、家族のために料理を作り続けた沢村さんは、ようやく巡り合えた「半身」大橋さんのために、忙しいながらも幸せな気持ちで、献立日記をしたため、料理の腕を振るった。

 そして、大橋さんの死とともに、それは終わった。

 料理を作ることからも、食べることからさえも遠ざかり、ただ、約束通りもう一度大橋さんに会える日を待ち続け、旅立った。


 沢村さんの料理は、沢村さんの人生そのものであり、大橋さんへの愛情そのものであった。

 36冊の「献立日記」もまた、沢村さんの、大橋さんへの、日々書きつらねられていった、「恋文」だったのだ。


 私も「千秋楽」をむかえて、あなたの傍へ行ったら……またせいぜい、おいしいものをこしらえてあげますよ、あなたの好きな、うなぎの蒲焼、車えびの天ぷら、鯛茶もね。(※5)



(※1〜3)『沢村貞子の献立日記』黒柳徹子「初心を貫いた人――私の「母さん」」

(※4)『沢村貞子という人』「散骨の日」

(※5)老いの道づれ「女優の仕事と献立日記」







【参考資料・文献】

NHKアーカイブス「あの人に会いたい」沢村貞子

(ご自身の人生を語る沢村貞子さんの映像が観られます。声もたたずまいもとても美しいので是非ご覧ください。)

https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0016010092_00000


沢村貞子の献立日記 (とんぼの本)
沢村貞子の献立日記 (とんぼの本)


貝のうた (河出文庫)
貝のうた (河出文庫)


老いの道づれ: 二人で歩いた五十年 (ちくま文庫)
老いの道づれ: 二人で歩いた五十年 (ちくま文庫)


わたしの台所 (光文社文庫)
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沢村貞子という人 (新潮文庫)
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posted by pawlu at 13:24| おすすめ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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