2019年3月8日から、クリント・イーストウッド監督・主演映画「運び屋」が上映されている。
メキシコの麻薬カルテルに雇われ、大量の麻薬を運んでいた凄腕の運び屋が、実は90才近い老人だったという実話をもとにした作品である。
映画監督として不動の地位を築いていた名優クリント・イーストウッドが、自らこの運び屋アールを演じた。
長年愛した仕事と、家族からの信頼を失った男の悲哀や、麻薬カルテルの非情さ、警察の追及など、シリアスな要素も多い(予告編ではそこが強調されている)が、アメリカ映画ならではの良い意味での軽やかさやユーモア、社会的視点が散りばめられており奥行きが深い。
個人的にイーストウッド監督映画は「人間や社会の業を鋭くえぐり、良質だが重い」と思っていたが、この「運び屋」は「鋭いまなざしはそのままに、アメリカの社会と映画の魅力を取り入れている」、良い意味でそれまでのイメージを裏切ってくれた作品だった。
(あらすじ)
アール・ストーンはデイ・リリー(一日しか咲かない百合)の著名な栽培家だった。
彼の育てる花は、彼自身のチャーミングな魅力も手伝い、各地の品評会で高い人気を集めていた。
しかし、仕事に夢中で家庭を顧みないアールは、妻と離婚。娘の結婚式にすら顔を出さず、家族との間に深い溝を作ってしまう。
さらに花の販売にインターネットを取り入れ損ねたことで、ビジネスも破綻したアールは、花の農場も家も差し押さえられ、すべてを失ってしまう。
孫娘のジニーだけが、家族との架け橋になろうとしてくれていたが、そんな彼女の間近に迫った結婚式に、資金援助をしてやることもできなくなっていた。
惨めさを押し殺してジニーのパーティーに顔を出したアールに、花婿の友人だという男が声をかけてきた。
指示された場所まで、安全に運転できれば、金になる仕事がある。
わけのわからないまま、男に聞いた場所に行ったアール。
待っていたメキシコ系の男たちが、手際よくアールの車にバッグを積み込むと、アールに携帯電話を渡した。
この電話は、応答する意外には使わないこと。
そして、バッグの中身は絶対に見ないこと。
アールが指示されたモーテルに行き、しばしその場を離れると、車の中には報酬として大金が残されていた。
男たちの様子や、金額の大きさに疑問を持ちながらも、アールは仕事を続けた。
しかし、ある日、ささいなきっかけでバッグを開けたアールは、自分が何をやらされているかに気づいてしまう。
一方、シカゴに赴任してきた麻薬取り締まり局の捜査官コリン・ベイツは、地元捜査官トレビノと共に、麻薬取引の証拠を押さえようとする。
ベイツはカルテルの一員を半ば脅して情報提供者に仕立て上げることに成功、盗聴をしながら麻薬の流通方法を突き止めようとしたが、捜査は暗礁に乗り上げてしまう。
(【左から】ベイツ、情報提供者ルイス、トレビノ)
カルテルのメンバーたちに「タタ(メキシコ語で「じいさん」の意)」と呼ばれる凄腕の運び屋がいる。
その存在だけはわかったものの、彼の足取りが全くつかめない。
「タタ」、アールは、自分が運んでいるものが麻薬であると気づいた後も、運び屋を続けていた。
農園を買い戻し、家族に援助をすることで、失った物を取り戻そうとしたアールは、さらに、自分の居場所でもあった退役軍人会にも寄付をし、運び屋の報酬で得た、再びの人生の華やぎに酔っていた。
(アールと元妻のメアリー)
(退役軍人会のパーティーを楽しむアール)
鼻歌交じりで好き勝手に寄り道をし、旅の途中で気軽に人々とコミュニケーションをとる90才のアールを疑う者などなく、易々と捜査の目をかいくぐるアールの逸材ぶりは、麻薬カルテルのボス、ラトンからも一目置かれるようになる。
ラトンは、部下のフリオとサルを、アールのハンドラー(お目付け役)にした上で、アールにより大量の麻薬を運ばせるようになる。
(ラトンとフリオ)
老人のお守り役と、自分の仕事を苦々しく思っていたフリオたちは、苛立ちながらアールのドライブの後を尾けていたが、道中でアールのユーモアや元軍人ならではの度胸を知り、アールに好感を持つようになる。
ついに単独犯としては異例の282kgの麻薬運搬を成功させたアール。
ラトンはメキシコでのパーティーにアールを招き、女性たちに彼をもてなさせる。
それはアールの運び屋としての頂点。
だが、ベイツたちの捜査の輪は次第に狭まり、麻薬カルテルの内部も密かに移り変わり始めていた。
【見所1】アールというキャラクター
予告編では、知らなかったとはいえ、麻薬取引に手を貸してしまったことに動揺し、これまでの人生を悔い、捕まらないよう祈るように運び屋をしている姿がとりあげられているが、これはアールの一面で、すべてではない。
(このシリアスさに気圧されて、観るのをやめてしまっては勿体ない。)
登場時(70代後半)のアールは、パナマ帽に縞のスーツを粋に着こなし、容姿と話術で周囲を惹きつけている。
その魅力は90近くになっても変わらず、女性たちが彼とダンスをするターンを奪い合うほどである。
(ちなみに、アール70代のときの演技や、インタビュー時のイーストウッドの表情、発声、動作を見ると、88才の彼が、ほぼ実年齢のアール役の為に、老いを「演じている」のが見て取れる。)
また、アールは退役軍人という経歴の持ち主だが、彼の軽やかさやユーモアは、戦場を生き抜いたという過酷なイメージからはおよそかけ離れている。
しかし、脚本家によれば、アールのキャラクターは同じく退役軍人が主人公である、イーストウッド主演映画「グラン・トリノ」制作時の取材から生まれたという。
「私はこのアールという人物が『グラン・トリノ』のウォルト・コワルスキーと表裏の関係にあると気づいた。(中略)多くの退役軍人と会ったんだが、彼らの多くはふたつのタイプに分かれているようだった。ひとつはウォルトのように世間に対して怒りを抱えている人たち。もうひとつは、そんな怒りは隠し、チャーミングでほかの人々をすぐにくつろがせるような人たちだ。それが、私にとってのアールの基盤になった。気楽そうな性質、人生を楽しむ様子、そして堂々とした態度……。(後略)」
(出典:「運び屋」映画パンフレット)
アールの元軍人としての能力の高さは、今も長距離を運転できる体力に加え、並外れた度胸と機転にも現れている。
指示に従わないことに腹を立てたハンドラーのフリオに銃を突きつけられても「お前なんぞ怖くない」と言い放ち、警官に話しかけられても、軽口で乗り切ろうとする。
運び屋をしている時、幾度か訪れるピンチでのアールの立ち回りは必見だ。
【見どころ2】アールと家族の関係、イーストウッドの実人生とのリンク
アールの娘アイリス(イーストウッドと最初の妻の間に生まれた実の娘アリソン・イーストウッドが演じている)は、父親として最低だった彼を嫌い、一言も口をきかないが、別れた妻は、アールの憎み切れない性格や、人を惹きつける魅力を忘れかねている。
(アールの別れた妻は、彼女とやり直したいと願うアールに「色々なことがありすぎた」と首を横に振っているが、別れた理由が、単にアールが仕事で不在がちだったからではないことは、女性たちとアールとのやりとりから想像できる。)
アールも、やがて自分が一番大切にしなければならなかったのは家族であったことに気づき、作中で妻に後悔の念を打ち明ける。
これは、自身も仕事と恋愛に生き、よき家庭人とは程遠かった、イーストウッド本人の懺悔ともとれるシーンで、作中のアールと娘アイリスとの確執(および実の娘の起用)は、観客に彼の実人生を想い起こさせる。
アールは運び屋で得た金を家族との関係の修復に使おうとし、「家族を取り戻すため」という大義が、彼を運び屋にのめりこませる最大の原因となってしまう。
アールの運び屋として立場の変化と、家族との関係の変化が絡み合い、作品の厚みとなっている。
【見所3】捜査官ベイツとアールの関係
凄腕の運び屋「タタ」の存在を知ったベイツは、ある場面で、距離的にはアールに肉薄するが、真相を見逃してしまう。
ベイツが捜査官であることを知ったアールは、翌日、持ち前の大胆さで、カフェにいたベイツに声をかける。
パートナーの記念日を忘れてしまっていたベイツに家族の大切さを説いたアールは、しばしベイツと言葉を交わす。
こうした、犯人と警察の人間の奇妙な心の交流には「刑事コロンボ」のような、観る者の心をくすぐるウィットがあった。
コロンボが年配の女性推理作家の殺人を追う「死者のメッセージ」の回に、彼女の講演会に引っ張り出されたコロンボが(すでに彼女が犯人であるとひそかに目星をつけながら)壇上から彼女を見つめてこんな話をするシーンがある。
時には(犯人に)好意を持ち、尊敬さえしました。
やったことにじゃありません。殺しは悪いに決まっています。
しかし、犯人の知性の豊かさやユーモア、人柄にです。
(出典:刑事コロンボ「死者のメッセージ」)
コロンボと違い、ベイツは目の前のアールの正体に気づいていないが、アールの話を心に留め、同時に運び屋「タタ」の腕にも一目置いている。この、追ってはいるが、人としてはかすかに敬意を感じているという構図が、コロンボと名犯人たちの関係を思い出させた。
そして、この時のアールとベイツの何気ないやりとりは、後半部の重要な伏線となっていく。
【見所4】アメリカという国、さまざまな人々
アールの道中、そしてベイツの捜査の中には、様々な人種、個性の人々が登場する。
乗り物の扱いに長けたアールは、ハードなファッションで全身を固めたビアンの女性たちや、黒人の若い親子連れに出会い、彼らの手助けをするし、ベイツの相棒のトレビノはメキシコ系、また情報提供者となったのは、爪を綺麗に整えたフィリピン系の男性である。
彼らはただ画像を通り過ぎるのではなく、展開の中でさりげなく自身の人種や個性について語っている。
(彼らと出会ったアールは、ビアンの女性たちを男性と間違えたり、黒人の若夫婦にうっかり差別表現を使ってしまって、控えめに訂正されたりするが、すぐに「そうか」と態度を改めている。世代の違いから、言動を誤ることはあるが、他者の個性をフラットに受け止めている人物である。)
ハンドラーのフリオをはじめとしたカルテル側の人間すら、アールへの好意や、組織への家族意識や忠誠など、彼ら独自の情とモラルを垣間見せており、決して単純な悪役にはなってない。
こうした慎重で丁寧な配慮の中に、イーストウッドをはじめとする作り手たちの、アメリカ社会の多様性への敬意と愛が息づいている。
【見所5】構成の妙
破産、家族との確執、麻薬犯罪といった、深刻な問題を背景としつつも、アールをはじめとする登場人物の台詞や行動はいい意味でシリアスすぎない。悲劇的な場面の真っただ中に、観客を噴き出させる瞬間すらある。
現実には当然つきまとう重みを削り、代わりに笑いや光を少しだけ混ぜる。
1990年代までの優れたアメリカの映画やドラマには、深刻さの中にも温かみやユーモアが巧みに織り込まれ、それが得難い魅力になっていたが、この映画は、こうしたアメリカ映画独自の秀逸なテイストを踏襲している。
スリルと笑い、残酷と親愛、それらがふいに切り替わるからこそ観る者は虚を突かれ、その虚に印象がさりげなく深く入り込む。
アールの状況が息苦しいものに変わっていく後半は、特にこの構成の妙が光っており、結末部の味わいは、アメリカ映画とともに生きてきたイーストウッドの俳優、監督としての集大成と言える。
題材に真剣に挑んだ創作者たちほど、現実の深刻さに没入してしまい、結果、闇や重さを削り、光や軽みを添えることが難しくなる。
そんなジレンマに陥らず、真剣な没入を経た上で、「現実」との間合いを巧くとり、「作品」として完成させる。
それができるのが、数限りなく作品に関わってきた「手練れ」のイーストウッドらの仕事であり、この構成の妙があるからこそ、この作品には何度も繰り返し見たくなる力がある。
是非、実際にご覧になって、練り上げられた奥深い味わいを堪能していただきたい。
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