2018年04月12日

象のインディラと落合さん(中川志郎作『もどれ インディラ!」より ※結末部あり)

(ゾウ舎から脱走したインディラと、駆け付けた飼育員の落合さん)
上野動物園Twitter -.png








 本日は上野動物園にいた象のインディラと飼育員の落合さんのお話を、中川志郎さんの中高生向け書籍『もどれ インディラ!』をもとに、ご紹介させていただきます。




 象のインディラが上野動物園にやってきたのは1949年。


 日本がようやく敗戦から立ち直りはじめた時のことでした。


 戦中に、空襲で檻が壊れ、象が暴れるかもしれないという理由で、都の命令に従い、三頭の象を殺処分せざるをえなかった動物園にとって、象の来日は特別な出来事でした。

 (この戦時中の悲劇は絵本『かわいそうなぞう』や、ドラえもんの「ぞうとおじさん」の原案になりました。)


 インディラはインドのネール首相から贈られた象で、日本に来る前は材木運びをしており、穏やかで賢く、インドで縁起の良い象とされる容姿の特徴を全て備えていました。 

 (『インディラとともに』川口幸男作 p.59より)




 はるばる日本まで来てくれたインディラを、落合さんは大切にし、インディラも落合さんによくなつきました。


 インディラが重度の便秘になったときは、皆でやぐらを組んでインディラに浣腸をし、結果、苦しがるインディラのお尻を必死でおさえていた落合さんが、頭から大量のフンをかぶったことがありました。


 それでも、落合さんはその姿のまま、「良かった良かった、ホントに良かった」と、インディラに笑い、インディラは鼻で落合さんを引き寄せ、お礼のように甘えていたそうです。



「「よかったなあ、インディラ……」


 鼻をだくようにして、インディラに話しかけている落合さんの顔は、たしかに真っ黒によごれているのですけれど、でも、美しい光にみちているように見えます」


 (※『もどれ インディラ!』中川志郎作 p.37)





 この出来事以来、インディラと落合さんはさらに結びつきを強めましたが、落合さんとインディラが出会ってから約18年後、落合さんが癌をわずらい、療養のために休職することになりました。


 そして落合さんが休職してから七ヶ月後、1967年の三月に、事件が起こりました。


 一緒に暮らしていた象のジャンボとインディラが喧嘩をし、ジャンボに堀に突き落とされたインディラが、鼻で手すりを掴んで壁をよじのぼり、ゾウ舎から脱走してしまったのです。


 急いで見学者を遠ざけ、インディラの足に鎖を巻いてゾウ舎に連れ戻そうとしましたが、インディラはびくともしません。


 そのうち、騒ぎを聞きつけたマスコミのヘリコプターが上空を飛び始め、その音に驚いたインディラが興奮しはじめました。


 飼育員二十三人がかりで鎖を引きますが、インディラの力はすさまじく、全員手や膝が擦り傷だらけになって鎖をつかんでも、インディラを動かすことができませんでした。


 困り果てた動物園は、自宅で療養中だった落合さんに、どうすればインディラをなだめられるか聞くために、車を走らせました。


 ところが、その知らせを聞いた落合さんは、「よし!すぐ行く!」とベッドから飛び起きました。


 体重が四十キロほどまで減り、立ち上がってもよろけるほどでしたが、むしろ、動物園の人たちをうながすようにして、車に乗り込んでしまいました。




 インディラのもとに駆けつけた落合さん。


 寝巻着姿のままで、ひどくやせて、動物園の職員たちですら、あれが落合さんだろうかと思うほどの変わりようだったそうです。


 インディラも、歩み寄ってきた落合さんに、はじめは誰だか気づけなかったようでした。


 インディラが今にも落合さんに背を向けて、走り出しそうに見えたその時、落合さんが口を開きました。


 「インディラ、俺だよ!」


 周囲も驚くような、病人とは思えない力強い声。


 そして、インディラにとっては、いつも自分を呼んでくれた声。




 「インディラのうごきがぴたりととまりました。



  目をしばたくようにせわしなくうごかし、じっと落合さんをたしかめるように見ます。



 たちまちインディラのぜんしんからきんちょうがきえていくのがわかります。


 聞きおぼえのある声でした。


 なつかしい落合さんの声――。


 大きな耳がくずれるようにたおれ、おどろきとなつかしさがいっしょになってインディラの心をみたします。


 あの大きなからだをちぢこめるようにして落合さんのそばによっていきます。


 ぐるぐる、ぐぐぐ……。


 インディラののどのおくで不思議な音が起こりました。


 あまえ声です。


 インディラが落合さんにあまえる時、いつもだすふしぎな声でした。


 (中略)


 インディラは頭をさげ、いつもそうしていたように落合さんにほおをすりよせます。


 あまえたかったのです。


 しばらくぶりでお母さんに会った子供のようにあどけないしぐさでした。


 そのとき、落合さんの体重はわずか四十キロ、インディラの体重は四トン。


 奇妙なとりあわせでしたけれど、インディラと落合さんにとって、そんなことはぜんぜん問題ではなかったのです。


 「そうか、そうか、よしよし、かわいそうにな……」


 落合さんのやせた手がインディラの鼻をなで、そっとからだをよせてやります。


『もどれ インディラ!』再会 -.png


 じっと立ち尽くすインディラ。


 「さあ帰ろう、もどるんだインディラ、おうちにもどるんだよ、インディラ……」


 落合さんの右手がインディラの耳をとらえ、ゆっくりと歩き始めます」


 (同著p.68〜72)




 インディラが歩きました。


 二十三人の男性が、鎖で引いてもびくともしなかったインディラが、細い体の落合さんと一緒に、静かにゾウ舎に帰って行きました。


 落合さんが動物園に駆けつけてから、わずか十分足らずのできごとでした。 


 見物人、警察官、職員たちにわき起こる歓声の中、戻ってきた落合さんは、皆に頭を下げました。



 「ホントにめいわくかけちゃって!うちのむすめがこんなにめいわくかけるなんて……」



 家へ帰る車に乗り込もうとしたとき、疲れが出たのか、落合さんの体が大きくよろめきました。


 車が走り出そうとしたとき、インディラが大きな声で鳴きました。


 落合さんは少し窓を開け、目を閉じたまま、しばらくじっとその声を聞いていました。


 やがて落合さんは、両手で耳をふさぐようにして、車を出してくれるように頼みました。




 その後、インディラは元通りジャンボと仲良く暮らし始めました。


 しかし、脱走の日以来、ただひとつ、変わったことがありました。




 「午後二時ごろになると、インディラがきまってそわそわしはじめるのです。


 からだをのりだすようにのばし、じっと飼育事務所の方を見ているのです。


 目をこらし、耳をそばだてるようにしながらじっとうごかない時間をすごすのです。」


 (同著 p.83)





 インディラは、あの日、落合さんがインディラを助けにきた時間、歩いてきた方角を見つめて、落合さんを待っていたのでした。


 落合さんの後輩でゾウ係である中井さんは、インディラの思いに気づいて彼女の鼻を撫でてやりました。


 きっと落合さんはまた来てくれるから……。


 実際、動物園が脱走事件の翌日にかけたお見舞いの電話に対し、落合さんの奥さんは、落合さんは元気にしているから心配はいらないと言ってくれていました。


 その時の奥さんの明るい声と、あの日の落合さんの力強い活躍を見ていた中井さんは、その言葉を信じていました。





 脱走事件から八日後の朝。


 飼育事務所に入ってきた人たちは、事務所の黒板を見て、言葉を失いました。


 そこには、落合さん逝去の知らせが記されていました。


 座り込む人、涙する人、やり場のない思いに机を叩く人……。




 落合さんは、動物園からの帰宅後、もうほとんど動けなくなりながら、奥さんに頼み事をしていました。


 動物園から電話がかかってきたら、自分は元気にしていると言ってほしい。


 そう言わないと、みんなが心配するから。


 そして、みんなが心配すると、インディラにもわかってしまうから……。


 落合さんの奥さんはその気持ちを受けて、動物園からの電話に、つとめて明るい様子で落合さんの無事を伝えたのでした。




 亡くなる前、落合さんは奥さんの手を握って言いました。


「俺はしあわせ者だよ。さいごにインディラのめんどうをみてやれたもの、ほんとうにしあわせ者さ……」


 奥さんの目にも、落合さんは心から幸せそうに映ったそうです。



 「あんなにこうふんし、目を血ばしらせていたインディラが、落合さんのことばをすなおに聞き、ことばどおり部屋にもどってくれたということが、落合さんの心をとてもゆたかにしてくれていたにちがいありません。


 それは、二十年近くにわたっていっしょに生き、よろこびもくるしみも共にしてきた人と動物の、心のむすびつきが、どんなにつよいか、をよくあらわしていたからです。


 桃の花がちっていました。


 落合さんの家にある一本の桃の木の花が、かぜもないのにヒラヒラとちっています。


 ゆっくりとまいながら、大地にすいこまれるようにおちていきます。


 それは、生まれてやくめをおえ、しぜんにかえっていくいのちのすがたでした。


 その夜、いしきのうすれていく落合さんのくちびるがかすかにうごきます。


 奥さんがその口もとに耳をよせますと、かすかなつぶやきが聞こえました。


 「インディラ……」


 「インディラのやつ……」


 「ほら、こっちだよ、インディラ……」


 それが、落合さんのさいごのことばだったそうです。


 桃の花びらだけが、音もなくちりつづけています――。」



『もどれ インディラ!』結末部 -.png



  (同著p.91〜結末)




 2017年3月、上野動物園の公式Twitter上で、50年前の出来事として、このインディラの脱走事件が紹介され、インディラと落合さんの結びつきが、再び話題になりました。


 写真の中の落合さんは、時代を感じさせる着物の寝間着に草履で、痩せた体ながらしっかりとした足取りで、インディラに歩み寄っています。


 落合さんと気づいた後らしく、インディラも穏やかな目をしています。



 残りわずかな命となってもインディラを気遣い、最後にインディラを呼びながら世を去った落合さん。



 脱走後、落合さんが来てくれた時間になると、その方角を見つめて耳を澄まし、じっと落合さんを待っていたインディラ。


 離れていても、落合さんとインディラはお互いに深い絆で結ばれていました。


 そして、そんなインディラを慰める後輩飼育員の中井さんと、落合さんの気持ちを汲んで、気丈に明るく振舞った奥さん。


 インディラと落合さんには、彼らの絆に心を打たれ、支えてくれる人たちがいました。




 この、インディラの脱走事件について記された絵本、『もどれ、インディラ!』の作者、中川志郎さんは、元上野動物園園長だった方です。


 ご自身が、初来日したパンダの飼育にあたった優秀な飼育員でもあった中川さんの文章は、落合さんの飼育員としての情熱と、落合さんに心を開くインディラのしぐさを生き生きと描いています。


 専門家がその分野について、愛情を込めて記した文には、どんな物書きも及ばない特別な魅力がありますが、この『もどれ、インディラ!』も、子供向けの優しい語り口の中に、同じ飼育員経験者ならではの観察眼と、彼らへの敬愛の念がにじみ出ています。


 中川さんは、「この出来事を通じて『本当の愛情は、人と動物の垣根さえ超えさせてしまうものだ』ということを学びました。」と語っています。

 (絵本「ありがとう、インディラ」あとがき部より)


 中川さんの目を通して描かれた落合さんの、インディラのフンを全身にかぶりながら、インディラの回復を喜ぶ笑顔も、桃の花の散る季節に、インディラの名を呼びながらこの世を去る姿も、深い絆をはぐくんだ者を守り、愛した人の「美しい光」に満ちています。


 特に、生まれ、精一杯生き、死んでゆく命のめぐりを、舞い落ちる花びらに重ね合わせた、落合さんの死の場面は、静けさの中に神々しさの漂う名文です。


 ひらがながやさしいたたずまいを醸す文と、温かみのあるタッチで描かれた挿絵の、思い出の中でインディラの背に揺られながら、奥さんに見守られ、微笑んで世を去る落合さんの姿が調和した、結末の見開きページには、心を打たれずにはいられません。




 名著ながら現在絶版中なのが惜しまれますが、図書館などではまだ比較的目にできると思われますので、是非ご覧ください。


 読んでくださってありがとうございました。


(補足)当ブログの象にまつわる記事








 (参考文献)

・「もどれ、インディラ!」中川志郎 作・金沢佑光 絵 佼成出版社 1992年




・『ありがとう インディラ』香山美子 文・田中秀幸 絵 チャイルド本社 1999年

(『もどれ、インディラ!』を元に作られた低学年向け絵本。中川さんがあとがきを寄せている。落合さんの休職中に、寂しくてふさぎこむインディラの表情が切ない。)



・「インディラとともに」川口幸男著 大日本図書株式会社 1983年

(落合さんの後輩で、インディラの飼育係となった川口幸男さんの著書。インディラ来日時の様子や、落合さんの川口さんに対する指導、その後のインディラの生涯など、現場の話が数多く記されている。インディラは、川口さんらの手厚い飼育のもと過ごし、この本が出版される直前、四十九歳で世を去った。)


【参照WEBページ】

 (上野動物園公式ツイッター2017年3月13日〜14日記事)







posted by pawlu at 20:08| おすすめ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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