2017年08月26日

大岡昇平作『野火』小説あらすじご紹介(※結末部あり)




 『野火』は、第二次大戦時、敗戦を目前としたフィリピンの地で、病のために孤立した兵士田村が、飢餓の中で、兵士たちが互いを食うため殺し合うという、極限状態に直面する物語です。


 目を覆う惨状を題材としながら、極限状態でも「思考する人」であり続ける田村を通じて描かれる世界は、独特の静けさと重厚さを持ち、「人間を食べない自分」を保とうとする田村の葛藤や、彼が偶然出会った瀕死の日本兵の、彼に対する赦しの言葉が、人間に残された最後の魂の力を感じさせます。


 最初に読んだときは、その惨禍に衝撃を受けましたが、思考することをやめず、状況に抗い、他者からの赦しを忘れられない一人の人間のありようが描かれていることに気づいてから、光景への恐怖よりも、その心の動きに胸を打たれました。


 以下、あらすじをご紹介させていただきます。


(結末部まで書かせていただいていますので、あらかじめご了承ください。また、一部現代には不適切な表現がありますが、作中の言葉を使用させていただいています。)




 第二次大戦時、日本の敗北が決定的となったフィリピン戦線で、「私」田村一等兵は、肺を病みながら、数本の芋だけを食料として渡され、隊から追放される。


 入院しろ、断られたら、手持ちの手榴弾で死ね。


 それが、隊長からの命令だった。


 病院の外には、「私」と同じように栄養失調で消耗しながら、物資不足と患者の多さから、入院を断られ、死を待つしかない人々が大勢いた。



 病院がアメリカ軍に攻撃されたので、「私」は熱帯の山の中に逃げ込んだ。


 自分の死を確信しながら、「私」が逃げたのは、死が決まっている自分の、孤独と絶望を見極めようという、暗い好奇心のためだった。




 独り、山をさまよっていた「私」は、自分が生きているのか死んでいるのか、時折わからなくなったが、現地の住人の畑を見つけ、そこで、つかの間、食料に不自由しない日々を過ごす。


 畑近くの海を見に行った「私」は、林の向こうに教会の十字架を見つけた。


 そこへ行ってみたいという気持ちをおさえられなかった「私」は、村人に見つかる危険を承知で、十字架のある場所へ行った。


 村は既に無人で、食料を奪おうとして殺されたのであろう日本兵たちの朽ち果てた死体だけが残されていた。


 教会に入り、イエスの処刑の絵と、十字架上のキリスト像を見た「私」は泣いた。


 救いを求めて教会まで来た自分の見たものは、日本兵の死体と出来の悪いキリストの絵だった。


 少年時代に教わった、聖書の言葉が口をついて出たが、答えは無かった。


 自分の救いを呼ぶ声に応える者は無い、と、あきらめた「私」は、この時、自分と外界の関係が断ち切られたのを感じた。




 村に残された食料を探していた「私」は、塩をとりに戻ってきた若い男女に出くわし、騒がれたので、女を撃ってしまった。男は逃げた。


 「私」は、銃を持っていたために反射的に女を撃ったが、銃は、国家が兵士としての「私」に持たせたものであり、もはや、兵士として用の無い人間になった自分が、罪の無い人を撃つために持つべきものではない。そう気づいた「私」は、銃を捨てた。




 畑に戻った「私」は、退却中の日本兵たちに会った。彼らの中には、病院の外で話した日本兵たちも混じっていた。


 彼らとともにパロンポンまで退却できれば、軍に戻り、生き延びられる可能性がある。


 「私」は再び銃を支給され、彼らとともにジャングルを進んだ。


 ゲリラの攻撃、食糧難など、その道のりは非常に過酷なものであり、アメリカ兵に降伏したくても、それは上官によって固く禁じられていた。


 その途中、「私」は、仲間の一人が、過去に別の戦場で、食料が無かった時に、人の肉を食べたらしいといううわさを聞く。


 アメリカ軍の攻撃を受け、隊からはぐれ、再び銃も失くしてしまった「私」は、アメリカ兵を見つけ、いっそ降伏しようかと考えたが、彼の隣にいたフィリピン人の女が、自分が村で殺した女に似ていたため、降伏をためらう。


 その間に別の日本兵が降伏しようと出て行ったが、彼は女に撃ち殺された。


 「私」は、村の女を殺した自分は、やはり誰かに救われることは無いのだと思って、その場を引き返す。




 持っていた食料も塩も無くなり、本格的な飢えが「私」を襲い始めた。


 日本兵の死体はいたるところに転がっている。


 いっそ、話に聞いたように、自分も人を……という考えが浮かんだが、「私」には、人類の歴史で、厳しく禁じられているその行為をすることは、どうしてもためらわれた。


 その時から、「私」は、死体を見るたびに、自分が「見られている」という意識にとらわれるようになる。


 その意識が、「私」の行動を支配し、「私」は、日本兵の死体に手をかけることができなかった。




 飢えもいよいよ限界となった「私」は、死にかけている一人の将校を見つける。


 丘の頂上の木にもたれかかって座り、空を仰いでいる彼は、栄養失調から重い病気にかかり、意識ももうろうとして、「私」にもほとんど気づかないように、あるときは笑い、あるときは「俺は仏だ」、「日本に帰りたい」と、うわごとを言い続けていた。


 「私」は、彼のそばに座り、彼が眠っていた間も、「待っていた」。


 夜明けがきたとき、ふいに彼ははっきりとした意識を取り戻した。


 そして、警官のような澄んだ目で、「私」を見つめて、言った。


「何だ、お前まだいたのかい。可哀そうに。俺が死んだら、ここを食べてもいいよ」


 彼は、左手で右腕を叩いて示した。




 「私」は、息をひきとったその将校の死体を、草木に覆われた陰に運んだ。


 そこでようやく、誰にも見られていない、と、思うことができたが、「私」は、瀕死の将校を見つけたときから計画していた、彼を食うという行為を、どうしても実行できなかった。


 「食べてもいいよ」


 あの、死の間際の、恩寵的な許可が、却って「私」を縛っていた。


 将校が食べることを許した腕に、あの村で見た、十字架上のキリストの腕が重なった。


 自分は罪の無い人間を既に殺していて、もう、人間の世界に帰ることはできない。


 だが、この将校は病のために死んだのであって、自分には責任がない。そして、死んでしまえば、残された体は、「食べてもいいよ」と言った魂とは別のものである。


 そう考えた「私」は、彼の腕にナイフを突き立てようとしたが、そのとき、「私」のナイフを持った右手を、左手が掴んで止めた。


 「汝の右手のなすことを、左手をして知らしむるなかれ」


 「私」には、そう言う声が聞こえた。


 「起(た)てよ、いざ起て……」


 「私」は、死体を置いて、その場を離れた。


 死体から離れるとともに、右手を抑える左手の指が、一本ずつ離れていった。


 歩く「私」を、雨上がりの野の万物が見ていた。「私」は、故郷で見た谷に酷似した場所へやってきた。「帰りつつある」という感覚が「私」の中に育っていった。


 花びらを広げかけた南の花が、ふいに、「私」に言った。


 「あたし、食べてもいいわよ」


 「私」は飢えに気づいたが、また、左手が右手を掴んだ。手だけではなく、右半身と左半身が別物のように感じられた。飢えは、右半身だけが感じていた。


 左半身は理解した。今まで、生きている植物や動物を食べてきたが、それは、死んだ人間よりも食べてはいけなかった。


 「私」の目には、空からも、同じ花が光りながら降ってくるのが見えた。


 野の百合は何もせずとも生き、神によって華やかに彩られる。人間は野の百合以上に、神から必要なものは与えられている。


 そんな聖書の教えが、花の上に声となって立ち上っていた。「私」は、これが神であると思ったが、祈りの言葉を発せなかった。体が二つに分かれていることが、それを阻んだ。


 「私」は、自分の体が変わらなければいけないと思った。



 ある日、「私」は、白鷺が飛び立つのを見て、自分の魂も、一緒に飛び去るのを感じた。分かたれた右半身の自由を感じ、飢えながら駆けていった「私」は、将校に出会った窪地で、再び「彼」を見た。


 彼は巨人となっていた。


 腐敗して膨れ上がった彼は、もはや食えなかった。


 神が、飢えた「私」がここに来る前に、彼を変えていた。


 彼は神に愛されていた。おそらくまた「私」も。




 餓死が迫り、ただ、河原で横たわっていた「私」は、人の足が一本、そこに転がっているのに気づいた。


 この足は「彼」のものではない、切ったのは「私」ではない。


 そう思っている「私」に、足が近づいてきた。


 自分が足に向かって這っている。そう気づいたとき、「私」は、また、誰かが見ている。と感じた。


 「私」は力を込めて、自分の体を繰り返し転がし、足から遠ざかろうとした。


 そのとき、「私」は、実際に自分を見ている目と、向けられていた銃口に気づいた。


 目の主は「田村じゃないか」と「私」を呼んだ。


 病院に入れずにいたときに、言葉を交わしたことのあった若い日本兵、永松だった。


 永松は、動けない「私」に水を与え、何かの干し肉を口に押し込んだ。


 「私」は、己に禁じたはずの肉を口にした自分に悲しみを覚えながら、同時に、分かたれた左右の体が、一つに戻っていくのを感じた。


 「猿」の肉だ。


 撃った奴を、干しておいた。永松は横を向いてそう言った。


 永松は、病院で親しくなった、安田という年上の兵士と、今も行動を共にしていた。


 「私」を寝起きする場所に迎えた二人は、なぜか離れて寝ていた。安田は銃を失くしており、永松は、その銃を安田にとられることを恐れていた。「私」は、自分も永松に気をつけなければいけないような気がしたが、何に気を付けなければいけないのか、よくわからなかった。


 しばらく続いた雨がようやく止んだある日、永松は、食料が尽きたからと猿を撃ちに行った。


 病気で足が不自由になったという安田とともに、残された「私」は、自分は銃を失くしたが、まだ手榴弾を持っていることを口にする。


 安田は手榴弾がまだ使い物になるか見てやる、と、言ってそれを手にした後、「私」にそれを返さなかった。返せ、と、手を伸ばすと、剣を抜かれた。「私」には、安田がそんなことをする理由がわからなかった。


 銃声が響き、安田が「やった」と叫んだ。


 「私」が、銃声の方角に走ると、弾から逃れて駆けてゆく日本兵が見えた。


 これが「猿」だった。


 「私」は、それを予期していた。


 「私」が、かつて足首を見た場所に行くと、いくつもの足首や、体の様々な部分が、捨てられていた。


 「私」は、驚かなかった。神を感じていた。ただ、自分の体が変わらなければいけなかった。


 永松が「私」を銃で狙っていた。


 永松は、「猿」を見た「私」を、お前も食べたんだ、と言った。「私」は、「知っていた」と答えた。


 永松は、「私」が、安田に手榴弾を盗られたことを知ると、安田に殺される前に、二人で安田を殺し、彼を食料にして、投降できる場所まで行こう、と、持ちかけた。


 「私」は、助かろうとは思っていないことを告げたが、永松とともに、安田のいる林へ向かった。


 永松の呼ぶ声を聴いた安田は、確かに手榴弾を投げてきた。「私」は破片で飛ばされた、自分の肩の肉を食べた。


 その後、三日間、「私」たちは安田を見つけられなかったが、水場で待ち伏せていた時、安田が姿を現した。


 永松は安田を撃ち、彼の両手足首を素早く切り落とした。


 「私」は、その光景を予期していたが、それを目の当たりにしたとき、吐いた。そして怒りを感じた。


 人が飢えた果てに食い合う生き物なら、吐き、怒ることができる自分は、天使だ。ならば、神の怒りを代行しなければいけない。


 「私」は、永松が銃を置いた場所まで走り、「私」を笑いながら追ってきた永松に銃を向けた。


 「私」の記憶はそこで途切れた。


 撃ったかどうかは思い出せない。しかし、確かに食べなかった。




 あれから6年後、「私」は東京郊外の精神病院にいた。


 戦場で記憶を失っている間、「私」は後頭部を何者かに殴られ、アメリカ軍の野戦病院に収容され、やがて日本に帰ってきた。


 フィリピンの野戦病院にいる間「私」は、与えられた、かつて生きていた食物に、頭を下げて詫びるという行為をし続けた。それは、「私」以外の力がそうさせていた。


 日本に戻った「私」は、妻と再会したが、戦場で経験したことの記憶が、彼女と自分を隔て、愛情を感じることができなくなっていた。


 「私」は孤独を求めるようになり、一度は止まった、食べ物に詫びるという行為は、やがて、あらゆる食物を食べないという事態に至った。


 こうして精神病院に収容された「私」は、医者の勧めで、自分に起きたことを振り返る手記を書いている。


 世間は、再び戦争に向けて動き出しているようにも見える。


 かつてのように、戦争を操る少数の人間たちに騙された者たちは、「私」のような目に遭うしかない。戦争を知らない人間は、半分は子供である。


 妻は、「私」を見舞うことをやめた後も、「私」を担当する医師と関係を持っている。


 その医師は、「私」の手記を、「大変よく書けている」と言って、媚びるように笑う。


 「私」の感情はそのどちらにも動かされなかった。




 「私」の中で、記憶の空白が蘇り始めた。


 あの日、「私」は、草やもみ殻を焼く、野火の煙の立ち上るのを見て、そこへ向かって行った。


 そこには、神を苦しめる人間たちがいるはずだった。


 だが、天使であるはずの「私」は、悲しみと、何かを間違えているかもしれないという不安と恐怖を感じていた。


 野火の側に、確かに人間がいた。「私」はそれを撃った。


 弾は外れ、人間は逃げて行った。


 ほかの人間たちの姿を見て、「私」は再び狙いを定めた。


 この時、「私」の後頭部を誰かが打った。




 そうして、「私」は今、東京の病院にいる。


 あの打撃で、自分は死んだと「私」は思う。


 夢と現実の狭間で、「私」は死者の世界に行き、「私」が殺したフィリピン人の女や、永松や安田が「私」に近づいてきた。


 彼らは「私」に向かって笑っていた。それは、恐ろしい笑いであったが、笑っていた。


 「私」は思い出した。彼らが笑っているのは、「私」が彼らを食べなかったからだ。


 戦争や、神や、偶然といった、「私」以外の力が作用して「私」は彼らを殺したが、「私」の意志では食べなかった。だから今こうして、共に死者の国にいられる。




 しかし、もしかしたら、野火に向かって人間を探しに行った「私」は、天使として人間を裁くつもりで、本当は彼らを食べたかったのかもしれなかった。


 もしも、「私」が傲慢によって、その罪を犯す前に、誰かが「私」を打って止めたのなら、そして、その何者かが、自分を食べてもいいと言った、あの巨人となった日本兵で、彼が「私」のために、神から遣わされた、キリストの化身であるなら。


「私」は、思う。


「神に栄えあれ」




  (完)










(補足)

以前、当ブログで、戦争を題材にした舞台「War Horse」と併せて、大岡昇平の『俘虜記』を一部ご紹介させていただいた記事はこちらです。
「ロンドンの舞台「War horse」A ある名場面と、その他のおすすめ作品。」


(参考文献)

posted by pawlu at 03:04| おすすめ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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