2017年03月29日

室生犀星と猫のカメチョロ

 先日、金沢出身の文豪室生犀星と、火鉢に手をかざす猫ジイノについてご紹介しましたが、引き続いて、犀星の娘朝子さんが書かれたエッセイ「うち猫、そと猫」より、犀星と彼が最も愛した猫カメチョロのエピソードを少し書かせていただきます。

 『室生犀星作品集・57作品⇒1冊』 -
『室生犀星作品集・57作品⇒1冊』 -

うち猫そと猫 (1982年) -
うち猫そと猫 (1982年) -


「ふるさとは遠くにありて思うもの」という詩で有名な室生犀星は、小説や詩で名を成してから、東京大田区の馬込と軽井沢に家を持ち、行き来をしましたが、その縁で、ある猫と出会いました。

軽井沢の家を建てた大工の棟梁が、避暑に訪れた犀星に、自宅の三毛が産んだ子猫を「夏の間寂しいでしょうからこの猫と遊んでください」と連れてきたのが、犀星と猫のカメチョロの出会いでした。

カメチョロはその日の午後にはもう犀星に懐き、軽井沢の家を、生まれながらの自宅のようにゆったりと歩き回り、犀星が庭に出れば後をついて歩いたそうです。

犀星は家や庭に、自身の高い美意識を反映させた人でしたが、この子猫には、彼が顔が映り込むほどに磨き上げた紫檀の仕事机の上や、手づから世話をする庭を歩くのを許したそうです。

(ちなみにカメチョロという不思議な名前は、信州の言葉で「トカゲ」を意味し、この子猫が庭を好きに飛び回る姿が、同じく庭を闊歩する、美しく銀青色に光るトカゲに似ているからという理由で名づけられたそうです。)

こうして、1年目は避暑の間だけ犀星と過ごしたカメチョロは、2年目の犀星の軽井沢訪問時も彼をよく覚えていて、大工さんがカメチョロを入れていた箱を飛び出すと、すぐに犀星に身をこすりつけて懐き、夏が終わるころ、ついに犀星の猫となって東京に連れてこられました。

カメチョロは母に似ず、大きくなってからはペルシャ猫の血を引くことを感じさせる雉虎柄の長毛で、目が大きく、犀星好みの長くふさふさとした尾を持つ雄猫でした。

「うち猫そと猫」にはカメチョロの写真がありますが、畳に優雅にねそべるカメチョロは、黒目がちで、モノクロの写真であっても、淡いピンクであったのではと思わせる愛嬌のある口元が、微笑んでいるようにふんわりと上がった、大変可愛らしく美しい猫です。

個人的には、一目見て、手塚治虫の描く、まつ毛の長い大きな目の、情深く妖艶ですらある美猫を思い出しました(カメチョロは男の子ですが、ブラックジャックの名作「猫と庄三と」の牝猫にちょっと似てる。)。

ブラック・ジャック 7 -
ブラック・ジャック 7 -


美貌でゆったりとした性格のカメチョロは、犀星に「わしの猫だからわしが世話をする」と宣言させた、おそらく数多くいた室生家の猫の中でも、犀星に最も素直になつき、犀星も溺愛した猫であったようです。

 「うち猫、そと猫」の中には、帽子をかぶり羽織姿の背筋の伸びた犀星を、笹の垣根づたいに追い、やがて寂しそうに見送るカメチョロや、犀星が丁寧に掃き清めて世話をする庭を悠々と歩くカメチョロと、自身はしゃがみこんでせっせと庭の手入れをしながらも、そういうカメチョロを好きにさせている犀星の写真が載せられています。

 朝子さんによると、犀星はブラシ代わりに軍手をはめて撫でることで、長毛のカメチョロの毛並みを整えてやっていたそうで、はじめはいやがっていたカメチョロもすぐに犀星の意を汲み、天気の良い日に犀星が軍手を持って出てくると、「犀星より先に縁台にとびのり、ごろりと寝るようになっていた」そうです。

しかし、このカメチョロは、冬のある日、伝染病にかかり、急死してしまいました。

その夜、犀星の部屋には遅くまで灯りがともっていたそうです。

朝子さんは他の飼っていた動物たちのように、カメチョロをお寺に葬るつもりでしたが、犀星は、「カメチョロをそんな遠くに葬るわけにはいかないよ。庭の杏の木の下に埋めなさい」と、朝子さんに頼みました。

 朝子さんたちが、埋葬の穴を掘っていた時、犀星はふいに庭に出てきて、彼女にカメチョロの遺髪を切ってほしい、と言いました。

 朝子さんにとっても非常につらい作業でしたが、犀星はカメチョロの埋葬を見ることすらできなかったようで、書斎にこもってしまい、朝子さんが持ってきた遺髪を黙って受け取ったそうです。

  東京に連れてこなければ、空気のきれいな軽井沢にいれば、カメチョロがこんなに早く死ぬことはなかったかもしれない。そう思ったのか、犀星は「ほんとに可哀想なことをした」と、悲しそうに言っていたそうです。

 カメチョロの死んだ前年の昭和34年に、長く療養していた妻のとみ子さんを亡くした犀星は、軽井沢に自分で「室生犀星文学碑」を建て、奥さんの遺骨の一部を、文学碑の傍らに置いた俑人(死者とともに副葬する人形)の下に埋葬していました。

(参照、「避暑地の散歩道 室生犀星文学碑&俑人像」軽井沢life http://karuizawa-style.net/kyukaruizawa/muroosaisei/)

 そして、朝子さんを連れて、散歩で文学碑を訪れたとき、なにげないふうに、
「わしが死んだら、ここに骨を埋めてほしい、そのために穴も大きく作っておいたからね」と、言いました。

 昭和37年3月26日、72歳で犀星は世を去りました。

 色々な片付けが済んだころ、朝子さんは、犀星が手元にのこしていたはずのカメチョロの毛を探しましたが、几帳面に整理されていた引き出しのどこからも見つかりませんでした。

 その年の夏、犀星の遺言に沿って、朝子さんは、犀星の分骨を携え、軽井沢の文学碑へと赴きました。

 大工の棟梁(最初にカメチョロを連れてきた人)に手伝ってもらい納骨を終えた朝子さんは、俑人の後ろに植えられたかんぞうの葉陰に、石燈籠の宝珠がおかれているのに気づきました。

 本当なら灯篭の一番上に置かれている石が……、と不思議がる朝子さんに、棟梁が、
「去年、先生があそこになにかを埋めて、その目印のためにあの石を置いたのですよ。先生はいったい何を埋められたのでしょうね」と、言いました。

「犀星が埋めたものは、あれほど軽井沢に返してやればよかったと言っていた、カメチョロの遺髪だったのだ。誰にも言わずに、わざわざ目印に宝珠まで置いたのは、愛した小さな生命に対しての、犀星の最大の供養だったのである。」

 朝子さんは見つからなかったカメチョロの遺髪と、棟梁の話とを結び合わせて、そう父の思いを振り返っていました。

 複雑な生い立ち、幼い我が子の死、愛妻の病など、波乱の多い人生を送り、厳格で気性の激しいところもありながら、年代を問わず多くの才能ある詩人たちとその家族に慕われ、心のこもった交流をしていた犀星。

 彼の文章からは、類まれな美意識や観察眼だけでなく、こうした人柄の奥行きがありありと感じられます。

 なぜこう強靭で、それでいて優しいのか。

数多くの文学者が鋭敏さと引き換えに傷つきやすく生きづらい精神を持っていたのに比べると、圧巻の文才と、優しさと、率直さの全てを持っていた犀星の存在は謎ですらあります。

 どうして苦労の連続ながら、それにのまれずに、人としても文学者としてもこういう境地に辿り着いただろうか、その過程を、私は、まだよく知りませんが、愛妻の死後、妻と自分が眠る場所を静かに整え、カメチョロの魂の一部も、カメチョロのふるさとであり、やがて犀星も眠る場所へ連れて行ったという話は、まさにこうした犀星の強靭さと優しさを物語っていると思いました。

 ジイノとカメチョロの話のおかげで、もともと稀代の名文家と思っていた犀星をますます好きになりましたので、また折をみて、彼の作品についてもご紹介させていただきたいと思います。

 読んでくださってありがとうございました。

posted by Palum. at 22:31| おすすめ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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