2017年03月17日

(※ネタバレあり)「この世界の片隅に」映画で語られなかった場面(2) 雪に描かれた絵と、桜の花びらの舞い降りた紅


先日の記事に引き続き、映画「この世界の片隅に」では語られなかった、原作漫画のエピソードをご紹介させていただきます。(ややネタバレなのでご了承ください。)

1, 雪に描かれた南の島の絵

 主人公すずさんの夫、周作さんは、かつて娼婦のリンさんという女性を愛し、真剣に結婚を考えていましたが、おそらくは周囲の反対のために、それがかないませんでした。

 偶然リンさんと知り合ったすずさんは、さまざまなきっかけを経て、リンさんと周作さんがかつて愛し合っていたということに気づいてしまいます。

 すずさんはリンさんのとの過去を、周作さんに問いませんでしたが、自分はりんさんにの代用品のように嫁に来た女なのかという思いはつきまといました。

 それでも、家事をこなす日々や、初恋の男性で、今は海軍兵となった水原さんとの再会という出来事を経て、 自分の人生や、周作さんへの愛情を見つめなおしたすずさん。


 雪のつもったある日、すずさんは、リンドウの柄のお茶碗を持って、リンさんに会いに行きました。

 その美しいお茶碗は、周作さんがかつてリンさんにあげようと思って買ったものであり、すずさんが、周作さんとリンさんの過去に気づくきっかけとなった品でした。

 リンさんを探すすずさんに、リンさんはまだ、泊りの将校さんについている。赤毛の若い女性が、遊郭の窓のむこうから、そう教えてくれました。

 あどけなさの残る素朴な優しい表情で、ふるさとが南であることを感じさせる言葉遣い。

 しかし、その言葉が、ひどくせき込んで途切れたため、すずさんは、お茶碗に雪を盛って彼女に渡します。

 熱っぽい顔で微笑んで、雪を口にふくむ女性に、すずさんはそのまま茶碗を託すことにしました。

「リンさんによう似合うてじゃけえあげます、言うて伝えてください」

 様々な思いを自分なりに消化した様子で、すずさんは、お茶碗を差し出します。

 「よかよ!きれいかお茶碗たい」
 茶碗を受けとってくれた女性の細い両手首には、包帯が巻かれていました。

「好きっちゃ好き、知らんちゃ知らん人」だった若い水兵に手をくくられ、一緒に川に飛び込んだ。

 こともなげにそう話した女性。

 飛び込む前から、あんな小さな川で死ねるわけはないと、うすうすわかっていた。

 やっぱり自分もあの人も死ねなかった。もともと自分は、死にたかったわけでもない。ただ、
 「なんや切羽つまって気の毒やったと」

 せめて夏なら川の水も気持ちよかったのに、暖かな外地に渡ればよかった……。

 そんな話を聞き、すずさんは杖がわりに持ってきた竹槍で、雪に絵を描きました。

 椰子の木のある砂浜、そこをのんびりと歩くカニ。水平線の上の入道雲とカモメ、波間を跳ねるイルカ。

 「ああ!そげん感じ。そげん南の島がよか!」
 
この世界の片隅に 雪の上の絵.png

 さて、夜までに風邪を治さないと、と、気を取り直した女性。

 ほいじゃお大事に、と窓を閉めて立ち去るすずさんの背中越しに、まだ絵を見ている女性の、「よかねー」という楽しげな声が、聞こえてきました。



 雪道の南国の絵に下駄あとを少し残し、遊郭をあとにするすずさん。

 このカーテンの閉じられた建物のどこかで、まだ客とともに過ごしているリンさん。
 
 格子窓の向こうから、すずさんの絵を眺める、好きとも知らぬともつかない男と身をなげた赤毛の人。

 おそらくは売られ、それでも微笑んで日々ここで働いて生きる女性たち。

 (「すず、お前べっぴんになったで。」)

 初恋の水原さんにかけてもらった言葉。

 けれど、いまだに苦い。

「周作さん、うちは何ひとつ、リンさんにかなわん気がするよ」

 降る雪に目を上げ、すずさんはぽつりとつぶやきました。




2、桜の花びらの舞い降りた紅

 満開の桜の頃になり、すずさんは、周作さんと義実家の人々と一緒に、公園に花見に訪れました。

 春のはじめに呉にも空襲があり、誰の心にも、これが最後の花見になるかもしれないという思いがよぎるのか、いつもにもまして人の多い公園。

 周作さんたちと手分けをして場所を探していたすずさんの腕が、ふいと引かれました。

 「ひさしぶり、すずさん」

 リンさんが、立っていました。

 額脇の髪を一筋長くたらした日本髪、リンドウの柄の着物を、胸元をくつろげて着付け、良い帯と、華やかな帯留めで細く締めた立ち姿の、しっとりとした風情。 

 お客さんに連れられて、皆で遊びに来た。そう話してくれているのに、頭から爪先までつくづくと見とれているすずさんに、リンさんは「聞いとるん?」と、顔をのぞきこんできます。

 「あ、あの、うちも家族と来とるん」
 そう、言いかけましたが、リンさんと周作さんが再会したら……と、はっとしたすずさんの頭の中に、そのときの二人の様子がぐるぐると回り、どうしよう……、と、固まってしまいます。

 「すずさんも登って来…、ありゃ、また聞いとらん!」
 頭上から声がして振り向くと、すずさんがぐるぐるしていた間も、「この格好でも細袴を履いているから非常時も木登りも大丈夫」、と、おしゃべりしていたリンさんが、いつのまにか桜の枝に腰をかけていました。

 「お茶碗くれたんすずさんじゃろ、雪に描いた絵見てわかったわ。ありがとうね」

 らんまんと咲き誇り、ほのかなそよぎに花びらをたゆたわせる桜の上、リンさんは、やってきたすずさんに言いました。

 少し言葉を探した後、すずさんはおずおずと口を開きました。
 「お……夫が昔買うたお茶碗なん、あれ……なんかリンさんに似合う気がしたけえ……」

 そう言って、桜の枝ごしに、そっとリンさんの様子をうかがいましたが、白いうなじを見せてうつむくリンさんからは、何の言葉も返ってきません。

 「ほらー、知らん顔されたらいやじゃろ!?」
 にっこり笑って振り向いたリンさんが、ぽん!とすずさんの背中を叩きました。

 それで、それ以上この話をできなくなったすずさんは、お茶碗を預かってくれた、赤毛の女性はどうしているかを尋ねました。

 「ああ、テルちゃんね」

 テルちゃんは死んだよ、あの後肺炎を起こして。
 雪も解けんうちよ。
 ずーっと笑っとったよ。すずさんの絵を見て。

 そう言うと、リンさんは蓋つきの小さな器を取り出しました。
 「会えて良かった。すずさんこれ使うたって」

 テルちゃんの口紅。

 リンさんは、掌の器の紅を、薬指につけると、言葉を失っているすずさんの唇に、塗り始めました。

 皆言うとる、空襲に遭うたら、きれいな死体から早う片付けてもらえるそうな。
 いつのまにか死が珍しいものではなくなってしまった、この町の人々の噂話をして。

 「……ありがとう」
 脳裏に、瓦礫に押し潰され、野ざらしとなっていた人の背中がよぎり、すずさんは、そうつぶやいていました。
 でも、まだ、ほかに伝えたいこと、聞きたいことが、心のどこかをさ迷っている目をして。

 「ねえ、すずさん、人が死んだら、記憶も消えて無うなる」
 長いまつげをふせ、口紅を指でなぞるリンさん。

 「秘密も無かったことになる。」
 すずさんの唇にそっと押し当てられた、紅の染まった白い指。

 すずさんの瞳をのぞきこみ、リンさんは、穏やかに笑っていました。


この世界の片隅に 紅を塗るリンさん.png


 「それはそれでゼイタクなことかも知れんよ。自分専用のお茶碗と同じくらいにね」

 そして、ただ、すずさんの手に紅の器を置くと、リンさんは桜の木を降り、すずさんを見上げました。

「さて、もう、行かんと!逃げた思われるわい」

 すずさんは木の上から、ええ、またね、と、答えました。

 枝の影から垣間見える日本髪のリンさんの後ろ姿。

 開いた器の中の紅。

 病床でも、楽しそうに笑っていた、テルさんの顔。

さらさらと流れてゆく桜の花びら。

 すずさんの掌の紅。

 桜の枝の陰に、遠ざかりつつあったリンドウ柄のすその足元が、ふっと動きを止め。

 すぐそばに、ゲートルを巻いた男の足。

 二人の姿を覆って秘める、満開の桜の花。

 向かい合う足先から、二つ延びた人影。

 すずさんの掌の紅に、流れてきた花びら。

 こちらに向かってくる、男の足先。

 ひとひらの花びらが、紅の中心にふわりと舞い降り。
 
 すずさんは、音もなく漂う花びらの中、目を上げ。

 やがて包み込むように、紅の蓋を閉じました。

 桜を内に秘めたまま。
 


 「すずさん、そこにおったんか」

 周作さんがすずさんを見上げていました。

 友達を見つけたもので。

 そう、はぐれた理由を話したすずさん。

 やっぱり、みんな今生の別れかと思って花見にくるんかのう、と、桜を眺めながら歩き出した周作さん。

 「おかげでわしもさっき知り合いに会うた」

 笑うとったんで安心した。

 「……なんじゃ?」

 すずさんが、周作さんの顔を見つめていました。

 「……うちも、周作さんが笑っとって安心しました」

 そう言うすずさんの目も、やわらかに笑っていました。 



 周作さんが、リンさんを妻にするつもりで買ったお茶碗を、彼女に届けたすずさん。

 すずさんが周作さんの妻であることに、すでに気づいていたリンさん。

 リンさんはお茶碗を受けとりましたが、それ以上何も聞かず、何も話そうとせず、すずさんの唇に、紅を塗るしぐさで、指をあてました。

 人が死んだら記憶も消えて無うなる。
 秘密はなかったことになる。
 それはそれでゼイタクなことかもしれんよ。
 自分専用のお茶碗と同じくらいにね。

 好きだった人に真剣に好かれ、自分だけの物をその人が選んでくれていたこと。
 その記憶を自分だけのものとして、胸に秘めて生きて死んでいくこと。
 それで十分、贅沢だと感じられる。
 だから、好きだった人にも、その人の妻にも、もう、何も話さないし、求めない。
 でも、好きだった人の妻になった人が、自分も好きだと思える人で良かった。
 好きだった人のためにも。自分のためにも。
 
 いつ、町が焼かれるかもしれない時代、貧しさゆえに売られ、娼婦として生きる人生。

 同じ立場にいた人は、他人の死の不安によりそって、死にたいとも思わないうちに死んだ。

 そういう日々を送りながら、それでも、自分の人生を「居場所がある」と思って生きることのできるリンさんは、周作さんがお茶碗を贈りたいと思ってくれたこと、周作さんの妻であるすずさんが、そのお茶碗を届けてくれたことが、お茶碗そのもののように、美しくなめらかな、ぬくもりのあるものに思えたのでしょう。

 そして、すずさんは、周作さんとすずさんのこれからに立ち入ろうとしないリンさんの笑顔を見て、自分も周作さんとリンさんのこれまでを、ただ、二人の秘密として閉じ、それを懐に、周作さんを愛していこうと思えたのでしょう。

 セリフもなく、桜の上にいるすずさんの見つめるものだけで、すずさんが、胸に切なさを感じながらも、周作さんとリンさんの過去を受け入れていく心理を描いているシーンは特に印象的です。


この世界の片隅に 桜の舞い降りた紅.png


 周作さんとリンさんが互いに気づいた瞬間、二人がどんな表情をしたのか、何かを語ったのかは、満開の桜の枝に覆われ、すずさんの位置からは見えません。ただ、垣間見える二人の足元と影が、二人が向き合ったことをほのめかすだけです。

 二人を覆い隠した桜は、その美しさやはかなさとともに、この場面では周作さんとリンさんの「秘密」の象徴となり、すずさんは、行き遭った二人の姿を見ようとせず、逆に視線をあげて、桜の花びらという「秘密」が舞い降りた紅の蓋を、そのまま閉じて、「秘密」を封じ込めます。

 この仕草が、すずさんが二人の過去を「秘密」のまま、二人のどちらにも問わずに自分の心におさめるという思いを表しているのだと思われます。
(蓋を閉じるときの、包み込むような手の動きだけで、それが、自分は触れることができないけれど大切なものだと思っているすずさんの内面を描く、作者こうのさんの画力が見事です。)
 
 そして周作さんの「(リンさんが)笑っとったんで安心した」という言葉。

 リンさんの笑みは桜に隠され、すずさん同様、我々読者にも見えませんが、その笑顔は目に浮かぶような気がします。

 今も周作さんと、彼との思い出を愛し、そして周作さんの妻がすずさんだからこそ、リンさんは笑うことができたのでしょう。


 すずさんにとって、この紅に降りた、「秘密」を意味する桜の花びらは大切な意味を持っていたようで、すずさんはその後も、桜の花びらを収めたまま、その紅を使っています。

 この紅とはなびらは、この年の夏(1945年7月)、すずさんが機銃掃射に狙われたときに、初恋の人、水原さんにもらった水鳥の羽と共に、ずたずたに撃ち抜かれて失われます。

 これより前、すずさんは空襲で落ちた時限爆弾により、心身深く傷ついており、実家の広島に戻ることすら考えているのですが、ここで、羽と花びらの入った紅がすずさんから消えるという展開は、様々なことを読者に想像させます。

 すずさんは周作さんのもとを去る気持ちになっていましたが、この機銃掃射からすずさんを救ったのは、他ならぬ周作さんであり、二人それぞれの恋の過去が飛散する中、すずさんに覆い被さって彼女を守る周作さんの姿は、これより先、すずさんと共に生きていくのはこの人である。あるいは、すずさんにとって周作さんは諦められる人ではないという印象を読者に与えます。

 また一方で、紅と羽が銃弾に吹き飛ばされる姿は、この、呉への徹底的な攻撃があった時期に、水原さんとリンさんが命を落としたことを暗示しているのかもしれません。
(以後、二人は登場せず、水原さんの所属していた戦艦青葉と、リンさんのいた二葉館の戦後の姿が描かれるのみです。) 

 現実には銃弾によって失われてしまった紅でしたが、すずさんの心にはその存在が留まり、物語の後半部では、幻の中で、すずさんの手が、吹き飛ばされたはずの紅から、桜の花びらをそっとよけ、指に染めた紅で、リンさんの語ることのなかった幼い日からの人生、そして、周作さんとの「秘密」をついに描き出します。

 かすれた温かみのある線で描かれて、優しい風情がありますが、リンさんの苦労の多かった人生や、彼女のその後を暗示させる、胸に迫る場面です。

 こうしたリンさんとの関係は映画ではあまり描かれていませんが(紅で描かれた場面は、エンドロールで一部観ることができます。) 特に桜の木の上の場面は、前回ご紹介した、リンドウのお茶碗とノートの切れはしから、すずさんが真相に気づく場面と並んで、多くの感情を秘めながら、抑制で語られた圧巻の名場面だと思います。

(映画には映画の素晴らしさがあるのですが、本当にいい場面だと思うので、これだけ作品がヒットしたのだから、たとえばディスク発売の際に完全版ということで付け加えることはできないのかな……と考えてしまうほどに。)

 このほかあらゆる場面に情緒があり、漫画ならではの多彩な表現も読みごたえがあるので、是非原作もご覧になってください。

 読んでくださってありがとうございました。

posted by Palum. at 18:00| おすすめ漫画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする