アニメ映画「この世界の片隅に」が高い評価を受け(※)、各地で上演が拡大されているそうです。
(同じくアニメ映画の「君の名は」が歴史的メガヒットを飛ばした中ですから、この地道な作りの戦争映画がここまで支持されているのは大変な偉業と言っていいのではないでしょうか。)
(※)『キネマ旬報』2016年日本映画作品賞受賞
(参照:ハフィントンポスト記事 URL http://www.huffingtonpost.jp/2017/01/10/konosekai_n_14074146.html)
映画「この世界の片隅に」公式HP URL http://konosekai.jp/
戦時中、広島から呉に嫁いだ、絵を描くほかは不器用だけれど、素直な人柄の女性、すずさん。彼女の夫になった周作さんや二人の家族、そして、すずさんの友人となった遊郭の女性リンさんたちの物語です。
原作はこうの史代さんの同名漫画。
戦争の被害のみを描くのではなく、当時の人々の暮らしが、こうのさん独特のぬくもりある絵柄で丁寧に描かれています。
映画も、原作を丁寧に踏襲し、また、膨大な資料から、呉や広島の街並み、すずさんの故郷である江波の海辺の景色などが、さらに色彩豊かで広がりのある画面で再現されています。
(観にいってきたのですが、映画の幕開け、柔らかい音楽とともに、この街並みと海の景色が姿を現したとき、もう、わけのわからない涙が目の奥にツンときました。ああ、きれいだな、と思い、たしかに人がここに暮らしていたんだなと思い、だけど、ここに爆弾は落ちたんだなと思ったのかもしれません。)
ちなみに声優初挑戦というのんさん(能年玲奈さん)の声はおっとりとして可愛らしく、ちょっと天然なすずさんによく合っていました。(個人的には周作さんの声も、イメージまんまでびっくりしました。)
原作ファンとしても、映画に感動しましたし、是非できるだけ多くの人に観ていただきたいと思います。
(色が付き、日々の暮らしにも爆撃にも音があり、等身大のように思わされる大画面だからこそ伝わる空気感がある。)
ですが、一方で、色々な事情で映画では描かれなかった名場面が原作にあるので、今回から何回かに分けてその場面について書かせていただきます。
(注)かなりネタバレなので、先に原作をお読みの上、ご覧ください。この場面以外にも映画とは別の良さがあり、コマの隅々まで行き届いた傑作中の傑作です。
漫画にあって、映画ではほとんど触れられていないもの、それは、遊郭の女性リンさんの存在です。
すずさんは闇市に行った帰りに、遊郭が立ち並ぶ界隈に迷い込んでしまいます。
お白粉の匂いのする女性たちの誰に聞いても道がわからず、途方に暮れてしゃがみこんで絵を描いていたすずさんを、店前の掃除に出てきた美しい女性、リンさんが助けてくれました。
皆が道を知らないのは、よそからきた(売られた)後は、ここ(遊郭内)からめったに出ないから。リンさんにそう聞かされて、ようやく事情のわかったすずさんは、リンさんに頼まれ、彼女の好きな食べ物(アイスクリームや果物など)をお礼に描いてあげる約束をしました。
ここまでが映画でも描かれている部分です。そして、ここからが原作にだけ存在するお話。
(※)以下ネタバレになります。
客になりそうな男を追うために、絵を描いてもらう途中で、別れを告げたリンさん。
すずさんは彼女にお礼をするため、後日、絵を仕上げてリンさんを訪ねていきます。
スイカ、はっか糖、わらび餅、アイスクリーム。
すずさんは描いた物に名前を書き添えていましたが、貧しさのため小学校を途中でやめたリンさんは、ほとんど字が読めませんでした。
それじゃ、名札を書くのもヤネコイ(困る)でしょう、そう聞いたすずさんに、リンさんは、そりゃ大丈夫、と、胸元から首に下げた小さな袋を出して、中の紙切れを見せます。
それは大学ノートの裏表紙の切れ端に書かれた、彼女の名前と住所。
「白木リン 二葉館従業員 呉市朝日町朝日遊郭内 A型』
漢字一字一字に、丁寧にカタカナでフリガナをふってあるその紙をすずさんに見せ、「ええお客さんが書いてくれんさった、これ写しゃええん」と、リンさんは笑います。
では、自分も自己紹介を、と、すずさんは、道に絵を描きます。
「鳴くフクロウ(ホー)」「鍵(ジョー)」「鈴(スズ)」
謎かけ絵をといたリンさんは、「ありがとうすずさん」と、貰った絵を嬉しそうに胸元の袋にしまいます。
そんな彼女にふと打ち明け話をしたくなったすずさん。
今日は、妊娠したかと思って病院にいった帰りだったのだけれど、ただ、栄養不足で月のものが止まっただけだった、と、つぶやきます。
羨ましいわー、と、生理用品の不足をあっけらかんと嘆くリンさんに、たしかに……と口ごもったすずさんは、でも、周作さんも楽しみにしていたのに、と、やはりしょんぼりします。
「……周作さん……?」
夫です。
それを聞いたあとの、リンさんのしばしの沈黙に、すずさんは気づきませんでした。
やがて、口を開いたリンさん。
産み、生まれれば、母にも子にも、人生ままならないことがある。そして子を産んで育てる以外にも、生きていく道はある。
リンさんの、かすかに今までの人生を感じさせる言葉。
「子供でも売られてもそれなりに生きとる。誰でも何かが足らんくらいで、この世界に居場所はそうそう無くなりゃせんよ。すずさん。」
そう、リンさんは彼女を励まします。
この言葉は後々まですずさんの支えになりますが、深々と頭を下げて戻るすずさんを、笑って見送ったあと、リンさんはゆるくまとめた黒髪を風になびかせ、「いいお客さん」の描いた名札と、すずさんの絵の入った小さな袋を、そっと握りしめ、胸元に押し当てます。
自分の心臓に言い聞かせるように。
それから一月後、周作さんの伯母夫婦が、家の家財を空襲から守るために、すずさんたちの家を頼って尋ねてきます。
伯母夫婦の家財をおさめるために、納屋を整理していたすずさんは、その片隅に、布にくるまれ無造作に転がされていたお茶碗を見つけます。
リンドウの花が描かれたきれいなお茶碗。
誰のものか、縁側で小休止していた、姑、義姉、伯母に聞いてもわからず、むしろ、すずさんのお嫁道具のひとつでは?と言われて、自分のぼんやりをはにかみ笑うすずさんを見て、周作さんの伯母は、すずさんは明るくてええ嫁じゃね、と、ほめたあと、こんな言葉を漏らします。
「好き嫌いと、合う合わんは別じゃけえね、一時の気の迷いで、変な子に決めんでほんまに良かった」
姑も、ふだん、すずさんにすかさず憎まれ口を言う義姉も、なぜか黙り込みます。
しかし、すずさんはこの沈黙にも気づかず、照れながら、屋根に干した布団を裏返しに上がります。
そこに周作さんがいました。
自分の話をされていると気づいて、降りられなくなった。
そう語る周作さんは、その茶碗がリンドウの柄であることを確かめると、それは嫁に来てくれる人にあげようと思って自分が買ったものだから、すずさんにやる、と、彼女の顔を見ずに言います。
勿体ないみたいだからしまっておいていいですか?そう聞いたすずさんに、周作さんは、そうしてくれ、と、屋根の上に寝そべります。
「どうも見るにたえん」
それからしばらくしたある日、すずさんは義理の姪の晴美さんと一緒に、竹を切りに行きます。
藪のすみにひっそりと咲いたリンドウを、きれいなねえ、と見とれながら、鉈で小枝を落とす、すずさん。
リンさんの着物のすそにも、名前にちなんでか、リンドウの柄が咲いていたことを思い出します。
そして、この間、周作さんからもらった、お茶碗にも。
嫁に来てくれる人にやろうと思って、昔、買った。
リンさんの懐に入っていた、「いいお客さん」がノートの切れ端に書いた彼女の名札。
周作さんが忘れたノートを仕事場に届けに行った日、橋からの風景を見ながら、周作さんが言っていたこと。
「過ぎたこと、選ばんかった道」
身を起こし、カバンからノートを取り出す、若い男の背中。
彼のぬくもりが残る床の中で肘をつき、そのしぐさを淡く微笑んで見つめるリンさん。
ノートの裏表紙に、何かを書こうとして止まった手が、きつく鉛筆をにぎりしめ、毛入りの紙に、字より先に、ぽつりと落ちた、涙。
「みな、醒めた夢と変わりやせんな」
橋のたもとに足をかけ、そう言っていたときの周作さんの、少し遠い目。
晴美さんが手をのばすと、ふっと空へ飛び去って行くとんぼ。
『白木リン 二葉館従業員 呉市朝日町朝日遊郭内 A型』
リンさんの手元にのこされた、ノートの裏表紙のきれはし。
すずさんの、竹を切る手が止まります。
ばらばらの記憶が一つになり、現れた、事実の姿。
家に戻り、そっと、周作さんの机の引き出しをあけると、中にあったのは、すずさんが周作さんにとどけたあのノート。
裏表紙の片隅の、切り取られた。
すずさんは、ノートを手に、ぼうぜんと立ちすくみました。
「…………そりゃあ、もともと知らん人じゃし、四つも上じゃし、色々あってもおかしゅうない。ほいでもなんで、知らんでええことかどうかは、知ってしまうまで判らんのかね」
自分は周作さんを好きで、周作さんはすずさんを大切にしてしてくれ、過去はもう取り返しがつかない。
わかっていても、苦い。リンさんの美しさや人柄を知っているから、なおさら。
……これが、映画では語られることのなかった場面の一つです。
この場面では「絵」と「コマ割り」という、漫画の表現形式の特色を活かし、縦横に12等分に配置された正方形の中で、「すずさんが見た周作さんとリンさんの回想」、「すずさんは見ていないけれど想像しうる過去の出来事」に挟まれる形で、「現在労働をするすずさん」の姿が展開していきます。
そして、すずさんが、ノートの裏表紙に身許票が書かれたときを想像し、ノートの切れ端に書かれたリンさんの身許票と、周作さんのノートの欠けが指し示す事実に気づいた瞬間。
横に三分割されたコマに描かれた「涙の落ちたノートの裏表紙(想像しうる過去)」、「飛び去るとんぼ(現在〈そして掴めなかった過去の隠喩〉)」、「リンさんの身許票(回想)」が、横長ひとつのコマの中の、手を止め、眼を見開いたすずさんの姿に収束します。
日本の漫画は、コマ割りの仕方によって、原則右から左、上から下に展開し、どちらに読み進めるべきかは、コマ割りの大小や配置によって作者によって誘導されますが、このシーンでは、コマを均等に割ることで、意図的にその誘導があいまいなものにされており、さらに、どう読み進めるかがはっきりしないために、読者の視点がコマだけでなく、ページ全体に広がっていく構成になっています。
一場面を例にとると、
(右から左に読み進めた場合)
「リンドウのお茶碗」→「竹を切るすずさん」→「身許票を懐から出すリンさん」、
(上から下に読み進めた場合)
「リンドウのお茶碗」
↓
「茶碗を未来の妻のために真面目な顔で手にする周作さん」
↓
「すずさんが持ってきたノートを笑顔でカバンにしまう周作さん(橋のたもとで周作さんがつぶやいた「過ぎたこと」というセリフが重なる)」
↓
「屋根の上に寝そべっていた真顔で空を見ていた周作さん」
(ページ全体の印象)
「(右端縦4コマ)周作さん」「(中央縦4コマ)すずさん」「(左端4コマ)リンさん」
(つながりあった三人の関係性)
……という印象を与える画面構成になっています。
しかも、この均等なコマ割り、上記のような効果を含みつつ、同時に、どう読み進めるべきかがあいまいであるために、「働きながら、リンドウをきっかけに、とりとめなく回想や想像をしている」というすずさんの思考の流れのあいまいさや、「もはや未来へ積み重なることはできずに、リンさんと周作さんの過去は、ただ、過去として、つかみどころなくたゆたっている」といった空気感も醸しています。
そしてそれゆえに、際立つ、すずさんが二人の過去に気づいた時の表情(上3コマを明確に受け止めて広がる横長のコマ)への動き。
あいまいにさまよっていた読者の視点がこのコマに着地するという流れと、回想や想像が過去を浮かび上がらせるというすずさんの思考の流れが一致して、読者にすずさんの動揺を追体験させる構成になっています。
この作品には、数々の名場面がありますが、漫画という表現形式を極限まで活かしたという点では、この見開きの二ページが圧巻だと思います。
そして内容それ自体も印象的です。
リンさんは「ええお客さんが書いてくれんさった」と、さらりと見せている身許票。
周作さんがそれを書いているとき、どんな思いだったか。
『二葉館従業員 呉市朝日町朝日遊郭内』
そう記したとき、周作さんは、リンさんを妻にして、ともに暮らすことができないという失恋の痛みと、貧しさゆえに売られ、娼婦となった彼女を、愛する人を、遊郭から連れ出すことができないという、二重の無念を抱えていたことでしょう。
彼を責めることなく、ただ微笑んで、身許票を書く周作さんを見つめているリンさん。
しかし、ただ、きっと周作さんの若い熱情が周囲の人間から許されることはないだろうと、諦めていただけではなく、彼女もまた、そういう周作さんを愛していたことは、すずさんを見送った後、身許票をじっとにぎりしめるしぐさにあらわれています。
映画ではほとんど描かれることのなかった要素(※)ですが、この漫画を傑作とした重要な場面のひとつなので、是非原作も改めてご鑑賞いただきたいと思います。
(※)映画でも周作さんのノートの裏表紙が欠けていることと、リンさんの幼い頃から娼婦としての生活が描かれています(後者はエンドロールの一部として展開)。
おそらくは「娼婦であるために、周囲に反対されて周作さんの妻になれなかった」という要素が、青少年向けでなかったために削らざるをえなかったのでしょうが、映画としてのわかりやすさを犠牲にしても、これらを盛り込んだことに、原作と原作ファンに対する誠意を感じました。リンさんの登場シーンが少ないのは残念ですが、こういう誠実さが作品作りの根底にあるからこそ、映画もまた、これほど多くの人の心をゆさぶったのだと思います。
(2018年7月27日追記)2018年12月に、アニメ映画に30分の新たなシーンを追加した、「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」が公開されるそうです。予告映像は、すずさんが紅で描いたリンさんの横顔で、ライブドアの記事によると、すずさんとリンさんの交流や、枕崎台風のことなどが登場するそうです。もしかしたら、この記事でご紹介したシーンがアニメでも観られるかもしれません。
次回も、この漫画の重要な場面について、ご紹介させていただく予定ですので、よろしければまたご覧ください。
(補足)
当ブログ こうの史代作品関連記事。
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