2016年07月28日

「野火」(大岡昇平作の戦争文学)


野火 (新潮文庫) -
野火 (新潮文庫) -

明日(2016年7月29日〈金〉13:00〜14:45)BSプレミアムで大岡昇平の小説「野火」の映画版が放送されるそうです。(監督は巨匠、市川崑監督)
参照 http://www.nhk.or.jp/bs/t_cinema/calendar.html?next

野火 [DVD] -
野火 [DVD] -
第二次大戦時のフィリピン、日本軍敗戦を目前とし、食糧や薬が欠乏する中、病気のために切り捨てられた兵士「私(田村)」が、病院に入ることも許されずに、米軍や地元民から逃れて、孤独にさまよう中で、飢えと病、そして「私」と同じように絶望的な状況に陥った果てに、もはや仲間の肉体すらも生き延びるための食糧とみなすようになった日本兵同士の殺し合いを目の当たりにするという作品です。
(「野火」のウィキペディア記事はコチラ

映画版は、今回放送される市川崑監督版(1959)と、塚本晋也監督版(2015)があるそうですが、後者は、そのあまりの凄惨さに、映画祭出品時、作品途中で席を立つ人が続出したそうです。(参照AFP記事 http://www.afpbb.com/articles/-/3024845

野火 -
野火 -

ここで、監督の異なる映画版二作についてネット上の批評を引用させていただきます。

市川崑の『野火』ではカニバリズム(補、人肉食)を拒絶し、人とケダモノの境をぎりぎりの理性で線引きしてみせた田村は、人が普通の人間らしい暮らしをしているはずの野火のありかを目指して仏のように歩み出て銃弾に倒れる。戦時の記憶が国民の多くにまだ鮮やかであった時代、そんな美しい表現に託さなければこの主題は重すぎて観るにたえないものになったかもしれない。だが、世紀をまたいで戦争の記憶を継承する人々もいなくなり、やおら社会がきな臭くなってきている今、塚本晋也は逆に戦争の残酷さ、残虐さを真っ向から突きつけてくる。塚本監督がかねて露悪的に描いてきたグロテスクな、もしくはスプラッタ的なイメージが、本作ではその遊戯性抜きに正視が難しいほどの陰惨さで動員される。

(「樋口尚文の千夜千本 第17夜「野火」(塚本晋也監督)」より)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/higuchinaofumi/20141123-00040926/

通常、戦争映画は実際に戦場で起こるその悲惨さや残酷さを伝え、観客は映画館という安全な場所でその非日常的な現実を体験する。しかし『野火』はそうした悲惨さや残酷さより、実際の戦場で兵士が何を思い感じているのかということに焦点が置かれている。観客は映画館で、ちょっとしたことで現地人を銃殺するだろうこと、挙げ句は「猿の肉」を人肉と知りつつ喰らうだろうことに適応していくのだ。いわゆる戦争映画とは別の視点で戦争がどんなものかを伝えてくれる

そしてそれが、1959年に市川崑により映画化された『野火』との大きな違いでもある。


(映画紹介ページ「Lucky Now」内「【野火】これは、いわゆる戦争映画ではない(執筆者 今川 幸緒)」より http://luckynow.pics/nobi/ )

「まだ戦争の記憶が生々しかった時代に、原作とは異なり、主人公「私」が人肉食というタブーを最後まで拒絶する姿を通じ、極限状態の中に残された『人間の理性』を表現した市川版」と、
「戦争の記憶が薄れた今、観客たちに向けて、『戦争は人間の心を完膚なきまでに崩壊させる』ということを表現した(そのため、原作通り「私」は人間の肉を口にする)塚本版」
という違いがあるようです。

どちらが正解ということもないのですが、個人的には、映画鑑賞を検討している方も、是非先に小説を読んでいただきたいと思います。

そこには、小説という表現方法でなければ描けない、また別の、戦争と人の心が描かれているからです。

著者自身が戦地に赴いて体験したことと、それまで学んできた知識、おそるべき冷静さを秘めた精神力、文学的才能を融合させることによって生まれた、おそらくは世界的にも類を見ない、「極限状態におかれた、ある特異な一個人の魂」がそこにある。

「人間」全般ではなく、遭遇した出来事と、個人の思考によって姿を変えていった魂。

いわゆる社会的な善悪とは既に切り離された人々のうちの、ある男が思い、感じること、その心に写る世界のありようが。

私は最初にこの小説を読んだとき、内容のあまりの惨さにうちのめされ、「一度は知識として知っておくべき戦争と人間の暗部を学んだ。でも、繰り返し読まなくてもいい」と思っただけで、何年も放置していましたが、なにかのきっかけで、もう一度読んだとき、今度は、「私」の、地獄にあってすら、(いっそ現実離れしているほどの)静かで知的な視点や語り、そして、病に蝕まれて、正気を失った末に、死の間際に澄んだ目で「私」に語りかけてきた兵士、その男の言葉によって変容してしまった「私」の葛藤に、心をゆさぶられました。

この小説は戦いを描いています。

国籍の異なる者たちの戦争、同じ国の、生き延びるために互いの肉を奪い合おうとする者たちの争い。そして、

死の前にどうかすると病人を訪れることのある、あの意識の鮮明な瞬間、彼は警官のような澄んだ目で、私を見凝めて(みつめて)言った。
「なんだお前、まだいたのかい、可哀想に。俺が死んだら、ここを食べてもいいよ」


餓死したくない、しかし、「食べるために仲間を殺す」というタブーを避けたいがために、命が尽きる寸前の病人を見張っていた「私」に対し、そう言って、自分の痩せ衰えた腕を示して死んだ男。

「食べてもいいよ」と言われたがために、誰も見ていない、誰も助けてくれるはずもない、誰からも、食べようとしているその男からも責められない状況になってすら、「私」はその男を食べられなくなりました。

彼の意識が過ぎ去ってしまえば、これは既に人間ではない。それは普段我々がなんの良心の呵責なく、採り殺している動物や植物と変わりもないはずである。
この物体は「食べてもいいよ」と言った魂とは別のものである。


そう自分に言い聞かせ、「食べてもいいよ」と言われたその腕から、肉を切り取ろうと剣を振り下ろす「私」。しかし、


その時、変なことが起こった。剣を持った私の右の手首を、左手が握ったのである。


地上の誰も「私」を見ていない、裁かない。死んだ男は既に許している。それでも、完全に孤立した「私」の中で起こった、剣を下そうとした右手と、それを掴んだ左手の間に生まれた戦い。

人の心は環境の変化で数日で崩壊する。
それは、人の肉体が重い岩をどうしても背負えずに潰されていくのと全く同じように、人間の限界がもうそこにあるから。

それを感じさせる世の中の出来事をさんざん見聞きし、自らの心にもそのきしみ、ゆがみ、くずれを見た後に、この作品を読むと、そのたびに、「『食べてもいいよ』と言われたがために、「私」の右手と左手の間に起った戦い」が、既に失望を刻み込んだ心臓に、何か異なる温度をもって突き刺さります。

「野火」という文学は、国家と人間同士の戦いの他に、その渦中にあってすら、孤独な個人が自身の中で激しく葛藤した、その戦いを描いているために、稀有な作品なのだと思います。

是非、小説を手にとって、この心の動き、読み手を圧倒する「私」の左手の確かな手ごたえを実感していただきたいと思います。

いずれ、この小説の優れている点について、もう少し書かせていただきたいと思いますので、よろしければご覧ください。

読んでくださってありがとうございました。









posted by Palum at 04:40| おすすめ日本文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする