2014年02月06日

ミレイの「オフィーリア」と夏目漱石の『草枕』

 本日も現在公開中の「ラファエル前派展」で来日中の「オフィーリア」について、書かせていただきます。
オフィーリア.jpg

 「オフィーリア」についての過去記事はコチラです。 

 この絵は夏目漱石の小説『草枕』の中で、主人公である画家の「余」が、「あのような絵を自分の持ち味で描いてみたい」と思い浮かべる存在となっており、作品の重要な役割を果たしています。

草枕 (新潮文庫) -
草枕 (新潮文庫) -

 以下、あらすじと、「オフィーリア」にまつわる部分をご紹介させていただきます。

 『草枕』は主人公の「余(=「私」の意味)」が、創作のために尋ねた温泉地で、離婚して家に戻ってきている「御那美さん」に出会い、彼女の美しさや謎めいた言動、その地の自然や人間模様を見つめるうちに自分の描くべき「画」を見出していくという筋立てです。

 いや、筋立てというか、そういう気分と光景が展開する作品とも言えます。
 
「草枕」の中のオフィーリア描写は以下の通りです。

  余(=「私」)は湯槽(ゆぶね)のふちに仰向(あおむけ)の頭を支えて、透き通る湯のなかの軽き身体を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わして見た。ふわり、ふわりと魂がくらげのように浮いている。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前を開けて、執着の栓張(しんばり)をはずす。どうともせよと、湯泉(ゆ)のなかで、湯泉と同化してしまう。流れるものほど生きるに苦は入らぬ。流れるもののなかに、魂まで流していれば、基督(キリスト)の御弟子となったよりありがたい。なるほどこの調子で考えると、土左衛門(どざえもん)は風流である。スウィンバーンの何とか云う詩に、女が水の底で往生して嬉しがっている感じを書いてあったと思う。余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリヤも、こう観察するとだいぶ美しくなる。何であんな不愉快な所を択(えら)んだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはり画になるのだ。水に浮んだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮んだりしたまま、ただそのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。それで両岸にいろいろな草花をあしらって、水の色と流れて行く人の顔の色と、衣服の色に、落ちついた調和をとったなら、きっと画になるに相違ない。しかし流れて行く人の表情が、まるで平和ではほとんど神話か比喩になってしまう。痙攣的な苦悶はもとより、全幅の精神をうち壊こわすが、全然色気ない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレーのオフェリヤは成功かも知れないが、彼の精神は余と同じところに存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以(もっ)て、一つ風流な土左衛門をかいて見たい。しかし思うような顔はそうたやすく心に浮んで来そうもない。

「オフィーリア」の顔は画として素晴らしいが、しかし、同じようなものを描いても意味がない。芸術家として、これに対抗しうる顔を見つけて描いてみたい。それが「余」の考えであり、筋らしい筋の無い「草枕」の中で数少ない、「テーマ」と思しき要素です。

オフィーリア 顔.png

またこんなくだりもあります。(以下引用)

すやすやと寝入る。夢に。
 長良(ながら)の乙女(※二人の男に想われたことを苦にして川に身を投げたというその地の伝説の女性)が振袖を着て、青馬(あお)に乗って、峠を越すと、いきなり、ささだ男と、ささべ男(※ともに長良の乙女に恋をした男)が飛び出して両方から引っ張る。女が急にオフェリヤになって、柳の枝へ上のぼって、河の中を流れながら、うつくしい声で歌をうたう。救ってやろうと思って、長い竿を持って、向島を追懸(おっかけ)て行く。女は苦しい様子もなく、笑いながら、うたいながら、行末(ゆくえ)も知らず流れを下る。余は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ。


どうもミレーの「オフィーリア」のイメージから離れられない「余」に対し、あるとき「御那美さん」はこんなことを言います。

(以下引用)
「その(名所と聞く)鏡の池へ、わたし(余)も行きたいんだが……」
「行って御覧なさい」
「画(え)にかくに好い所ですか」
「身を投げるに好い所です」
「身はまだなかなか投げないつもりです」
「私は近々(きんきん)投げるかも知れません」
 余りに女としては思い切った冗談だから、余はふと顔を上げた。女は存外たしかである。
「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」
「え?」
「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」
 女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧みてにこりと笑った。


……こんなふうに一事が万事、刃のような柳のような、人をひやりとさせながらゆらゆらとつかみどころのない御那美さん。

しかし、周囲からは変わり者と陰口を言われる彼女の突飛な言動を「余」はきらいではありません。彼女はなるほど画にしたら面白い女かもしれないと思います。が、しかし、それには何かが足りない。美しさも神秘性も十分ではあるのだけれど……。

(以下引用)
あの(御那美さんの)顔を種にして、あの椿の下に浮かせて、上から椿を幾輪も落とす。椿が長(とこしな)えに落ちて、女が長えに水に浮いている感じをあらわしたいが、それが画(え)でかけるだろうか。(中略)しかし何だか物足らない。物足らないとまでは気がつくが、どこが物足らないかが、吾(われ)ながら不明である。したがって自己の想像でいい加減に作り易(か)える訳に行かない。あれに嫉妬を加えたら、どうだろう。嫉妬では不安の感が多過ぎる。憎悪はどうだろう。憎悪は烈(はげ)し過ぎる。怒(いかり)? 怒では全然調和を破る。恨(うらみ)? 恨でも春恨(しゅんこん)とか云う、詩的のものならば格別、ただの恨では余り俗である。いろいろに考えた末、しまいにようやくこれだと気がついた。多くある情緒のうちで、憐(あわれ)と云う字のあるのを忘れていた。憐れは神の知らぬ情で、しかも神にもっとも近き人間の情である。御那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。そこが物足らぬのである。ある咄嗟(とっさ)の衝動で、この情があの女の眉宇(びう)にひらめいた瞬時に、わが画は成就するであろう。しかし――いつそれが見られるか解らない。あの女の顔に普段充満しているものは、人を馬鹿にする微笑(うすわらい)と、勝とう、勝とうと焦せる八の字のみである。あれだけでは、とても物にならない。

 自分がミレイの「オフィーリア」の向こうを張るには、「御那美さん」をモデルに、その顔に「憐れ」の情が浮かんだ時を描くしかない。

 そう思った「余」ですが、しかし、彼女の性格からいってそんな機会がはたしてめぐってくるものだろうか……危ぶんでいた「余」は、しかし、ある瞬間に目にします。


弟の戦争への出征時、停車場で家族ともども見送りに出た御那美さんは「死んでおいで」と彼女らしい一言を言い放ちますが、停車場を離れる汽車の窓から、ふいに、この地を去る彼女の元の夫が顔を出しました。
(以下引用)

茶色のはげた中折帽の下から、髯だらけな野武士(元夫)が名残(なご)り惜気(おしげ)に首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合わせた。鉄車はごとりごとりと運転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐(あわれ)」が一面に浮いている。
「それだ! それだ! それが出れば画(え)になりますよ」と余は那美さんの肩を叩たたきながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟(とっさ)の際に成就したのである。


 ハムレットに突き放され、絶望の中で心を病んで、全てを投げ出して花に囲まれて歌いながら死んだ乙女。

 それがミレイのオフィーリアでした。

 「美しい女が、花と水の中にたゆたって命を終わらせてゆく」という画題はそのままに、あの乙女の美に一歩も譲らぬ、しかし、異質な個性を持つ美とは、そのとき女が浮かべるべき表情とはなんだろう。

「余」の答えは「憐れ」でした。

「憐れ」こそ人の持ちうる神に近い情。

 「余」の言う「憐れ」が人を気の毒に思う気持ちか、それとも人との別れに自分の胸が痛む心地は判然としません。

 しかし、「人が、誰か他の人を思ったときに湧く感情」です。

 完全に自分の勝手に生きているような、他の人に対する感情は「勝とう」以外にないような美しい女が、過去の男ゆえに、その顔にあらがえず浮かべる「憐れ」。

 それこそが、「オフィーリア」の美に対抗できる美だと、「余」は思ったのでした。

 こういう、作中のほとんど唯一のテーマといえる、「『画』の(あるいは「芸術」、「美」の)発見」の過程で、「立ち向かうべき強敵」として、「オフィーリア」が登場しています。

 何が起こるというわけではないですが、このような発見の過程や、そこここに見られる美意識、風景や人の描写がすぐれた作品です。
 
 「オフィーリア」を側に、御那美さんの「憐れ」の表情や、ついに「画」を得た「余」の描く、「椿散る水面に浮かぶ女の絵」を思い浮かべるのもまた一興かと。

 このご紹介がご鑑賞の一助になれば幸いです。

当ブログ、これまでの漱石関連記事は以下のとおりです。併せてご覧いただければ幸いです。

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 読んでくださってありがとうございました。

posted by Palum at 21:30| 夏目漱石 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする