2014年01月13日

ポー短編「悪魔に首を賭けるな」(映画『世にも怪奇な物語』「悪魔の首飾り」の補足として)

 前回、エドガー・アラン・ポーの作品を下敷きにしたオムニバス映画「世にも怪奇な物語」(1967年)を紹介させていただきましたが、この中の「悪魔に首をかけるな」(監督:フェデリコ・フェリーニ、主演テレンス・スタンプ)ご鑑賞の際のご参照として、原作であるポーの「悪魔に首をかけるな」のあらすじをご紹介します。

先に映画のご紹介記事(コチラ)をお読みいただけると助かります。


 以下、原作「悪魔に首をかけるな」の結末までのあらすじです。(『創元社推理文庫「ポオ小説全集)」参照)

ポオ小説全集 3

 友人トービー・ダミットは、語り手「私」の古い友人だが、その魂は赤ん坊のころから既に堕落の兆候を見せ始め、そして年を追うごとに悪くなっていった。

 「私」は思う。もともとはダミットが悪徳に染まったのは母親の暴力のせいだと。(彼の母親は、彼がごく小さい時から絶えず彼をしつけと称して殴っていた。)

 「私」はダミットを心配し、大人になっても彼を叱ったり嘆願したり、あらゆる手を尽くしたが、ダミットは聞き入れる様子が無い。

 さらに不幸なことに、ダミットは非常に貧乏だった。賭け事に手を出そうにも、賭ける金が無い。

 そのため、彼は「悪魔にこの首をかけてもいいが」というのが口癖になった。

 「私」は、一度真剣に、心の底から彼にその性質・生活を改めるよう意見をしたときに、彼がいかにも「私」を馬鹿にしたような態度で応じたので、とうとう彼の性質について自分にできることは何もないと諦めることにした。

 その後のある日、「私」とダミットが散歩をしていると(それでも二人はまだ交際を続けていた)、橋にさしかかった。

 その橋は、壁と屋根に覆われたトンネルのようになっていて、外はうららかに晴れているのに、その中は異様に暗かった。

 急に気が滅入る「私」をよそに、ダミットはその暗がりを妙にはしゃぎながらあるいていたが、橋の中程に回転木戸があることに気づいて足をとめた。

 おとなしく扉を押してそこを通った「私」。一方、ダミットはふいに、こんなものは飛び越えてやる、と言い出した。
 しかも、飛び越えたときに両脚の裏を合わせてパンと音を立ててみせる、と。

 そんなことはできない、空いばりはやめておけと諭す「私」に、ダミットは、いや、できる、と、むきにななり、例の「悪魔にこの首をかけてもいい」というセリフを口走る。

 そのとき、橋の暗がりから、咳払いが聞こえた。

 いつからいたのか、小柄な黒い礼服を着こんだ、非常に立派な風采の老紳士が橋の骨組みに腰かけていた。
(しかも、奇妙なことにその老人は黒い前掛けを身に着けていた。)

 老紳士は、その二人の賭けを見届けたいと言い、助走のためにと、ダミットを回転木戸の数歩手前まであとずさりさせると、自分は木戸の向こう側に待ちかまえ、彼に飛び越えるようにと合図をした。

 この短いやりとりの間に「私」は考え、つぶやいた。

「確かに飛び越えられはすると思うが、しかし、できなかったらあの老紳士、どうするというのだろう。それにしても、乗せられてこんなバカな真似をして、自分ならあんなふうに頼まれたってごめんだ。あの老人が誰だろうと悪魔だろうと……」

 悪魔だろうと。

 その「私」のちいさなつぶやきが、トンネルのような暗い橋の中で、やけに大きなこだまとなって響いた。

 「私」は気づいた。

 しかし、そのとき、あわれなダミットは既に勢いよく木戸に向かって飛んでいた。

 「私」は、暗闇の中、ダミットの両脚が、約束した通り、打ち鳴らされるのを確かに見た。

 しかし、ダミットの体は、そこから先に進まず、彼の体は木戸の手前にあおむけに倒れた。

 同じ瞬間、木戸の真上の暗闇から、何かが転がり落ちる。

 待ちかまえていた老人は、その「何か」をあの前掛けに受け止めると、あっという間にその場を走り去っていったしまった。

 驚きながらも、ダミットを助け起こそうとして「私」は気づいた。

 ダミットの首が無い。

 「私」が橋の窓を開けると、木戸の真上に、橋のアーチを補強するために真横に鉄の棒が渡してあった。

 飛び込んだダミットはこれにぶつかって首が落ち、そして、老紳士は、いや悪魔は、飛び越せなかった彼の首を持ち去ってしまったのだ。

(完)

 ……正直に言いますと、この短編自体はあまり面白くありません。

 (ポーの作品は基本凄いと思いますし、とても尊敬しているのですが。)
 本筋だけ(つまり橋の上での悪魔との遭遇とダミットが死ぬまでの描写)に注目すれば、不気味でそれなりに読みごたえがあるのですが、文章が、陰鬱な設定にそぐわぬ、変なユーモアにすぐ脱線して、味がちぐはぐなんですよね……。

 あらすじ紹介ではすべてはしょりましたが、「私」はポー本人を思わせる物書きで、文章のはしばしに当時の文壇の人間たちの作品を引いたり、その才能をあてこするような記述がはさみこまれているのですが、今の私たちにはわかりにくいし(文庫ではちゃんと注釈をつけてくださっていますが)、この筋にそれがあったほうがいいとは思えません。

 たとえば、こんな感じです。
「(ダミットが飛び越そうとしている)木戸(スタイル)はそんなに高くなかった。ロード氏の文体(スタイル)のように(ポーはこのロードという詩人の作品が嫌いだったそうです。)」

 まあ、飛び込んで鉄の棒にぶつかっただけで、首が完全に落ちるということは無いでしょうから、ひとつの寓話で、真剣に怖がる話ではないんでしょうが、かといって、イソップ童話的な心づもりで読むには、ダミットの生い立ちの話が重かったりするから、なんというか、作品の世界観の明暗がつかみづらいです。

 しかし、映画「悪魔の首飾り」を鑑賞する上では、読んでおくと大変興味深いです。

 結局のところ、
 「破滅的な性格な男が、飛んだときに首を落とし、悪魔にその首を持っていかれた」
 という要素だけを、あそこまでふくらませたフェリーニの感性とテレンス・スタンプの演技力は凄い。

 映画の悪魔はマリを持ち、白い服を着た美しい少女。
 酒に身をもちくずした映画スター、ダミット(テレンス・スタンプ)の目の奥に、もうずいぶん前から住み着いている。
 空疎な授賞式から逃げて、フェラーリでやみくもに走るダミットは、崩れ落ちた先に続く道の向こうに彼女が立っているのを見つける。
 ダミットは、長々とせき込むように泣き笑いの声をあげると、彼女に向かってフェラーリで飛び込んでいき、夜道に張ってあったワイヤーが彼の首を断つ。

 この、映画の大筋と原作を比較してみると、
「原作のダミットは完全に騙されて命を落としているが、映画のダミットは、彼女に向かって走れば死ぬとわかっていながら飛び込んだろう。」
 という点が際立ってきます。

 どう死ぬかはわからないけれど、自分はもう終わりだ。
 いや、終わりにしたい。
 逃げた先にいるのが悪魔だとはわかっているけれど、ほかのどこへ逃げても(生きても)、ましな場所が無いのは、もう知っているから。

 映画も決して観ていて心地よい作品ではないのですが(むしろ頭が痛くなる)、しかし、出来栄えとしてはすぐれています。
 
 本当の自殺願望とは別に、人間にはふっと、そんな気がよぎってしまうときがある。
 
 人生の、実際に目のあたりにし、とりくんでいかなければならない現実の、そのあまりにも無意味な様相、乾いた質感に疲れてしまい。

 ふっと、なにか、先の見えない場所に、やみくもに飛び込んでいきたくなる。
 心にいっさいブレーキをかけずに。
 そこは暗ければ、暗いほどいい。
 もう何も見たくない、したくないから。
 そうしてそこで、終わりにしたい。

 映画のダミットの泣き笑い、そして最期には、そういう、多くの人の胸に一瞬よぎる、暗い夢の気配がします。

 そうはいかないこと、そんなことをしたらどれだけの苦痛が待っているかをよくわかっていて、実際には踏みとどまっているからこそ、ときおり目の奥によぎる暗い夢の。

 その暗い夢が、ポーの作品のエッセンスに出会い、監督や役者の実力と合わさって、ああいう「観ていて苦しいけれど不思議な吸引力のある作品」へと変貌を遂げたのだと思います。

 ある優れた芸術家の小さなイメージの種(それ自体はまだ育っているとはいえないもの)を、また別の優れた芸術家が拾うと、自分自身が持っている感性の中で培養させ、突然驚くほど大きな花を咲き誇らせることがある。
 
 そういう実例として、映画・原作の読み比べは面白かったです。

当ブログ『世にも怪奇な物語』関連記事(この記事を含む)は以下の通りです。よろしければ併せてご覧ください。

「世にも怪奇な物語」@「悪魔の首飾り(トビーダミット)」(『アンコール!』のテレンス・スタンプ主演)
ポー短編「悪魔に首を賭けるな」(映画『世にも怪奇な物語』「悪魔の首飾り」の補足として)
「フレデリック……」誰かの呼ぶ声(「世にも怪奇な物語」A「黒馬の哭く館」より)
「メッツェンガーシュタイン」(「世にも怪奇な物語」A「黒馬の哭く館」の原作として)※ネタバレ

 読んでくださってありがとうございました。


 読んでくださってありがとうございました。
 
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posted by Palum. at 05:37| おすすめ映画(英米) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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