2013年06月18日

ターナー「金枝」とターナー作品ご紹介(夏目漱石の美術世界展2)

Aターナー「金枝」
 ローマの詩「アエイネス」の一場面と実在のイタリアの風景を混在させた作品。だそうです。(図録受け売り)
湖のほとりに踊る白い肌の女神たち、背高く佇み、細い枝の上方にだけ緑を真横に広げた松、幻想的な風景がけむるような靄と光の中に広がっています。
 この絵の画家、ウィリアム・ターナーは、柔らかい光と潤った空気の漂う独特な画風が有名で、後にその奔放な色彩表現がモネなどフランスの印象派に影響を与えたとも言われています。

漱石作品と絵のかかわりの中で最も有名なのが、「坊っちゃん」に登場する「ターナー島」でしょう。
「坊っちゃん」は東京生まれの若者が、四国松山に中学校の教師として赴任して過ごした日々を描いた作品です。
その中に、行きたくもないのに教頭の「赤シャツ」と美術教師の「野だ」といういけすかない先輩たちに釣りに誘われた「坊っちゃん」が、船の上でこんなやり取りを耳にするという場面があります。(以下仮名遣いを直してご紹介)
(赤シャツ)あの(島の)松を見給え、幹が真っ直ぐで、上が傘のように開いてターナーの絵にありそうだね。
(野だ)全くターナーですね。あの曲がり具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ。(中略)どうです教頭、これからあの島をターナー島と名付けようじゃありませんか。
(赤シャツ)そいつは面白い。我々はこれからそう言おう。
 このやり取りを読んだだけでも、実にいけ好かない、くだらない、かたや威張り、かたや媚びる、本当は仲が良くない人々であろうことがよく伝わってきますが。加えて人として卑劣なので、このときは「(ターナー島などと勝手に名づける)その『我々』に俺も入っているなら迷惑だ」と、ただヒヤヤカに聞き流していた坊っちゃんにその後ボコボコにされることとなります。
私は子供の時に「坊っちゃん」を読み(いや、学校で読まされ)、このときはじめてターナーの名を知りました。
子供心にもどうも感じの良くないおじさんたちだと思ったので、どうせこんな人たちが好きなら、そのターナーとやらの絵もどうということはないのだろうと思っていましたが、実はターナーに罪は無く、きれいだったので、あれと思った記憶があります。松もすっきりと優しげなたたずまいで、濁った性根の人々の目にも焼付くだけのことはあります(酷い言いぐさ)。
 ところで、ターナーと言えば、「画面全体ボワンボワンしてどこに何があるのか、どこまで地面でどっから空だかすらわかりゃしない、そもそもこれで出来上がりなのと言ってしまえばそんな感じの作品」が多いのですが(今回展示されている「金枝」はそうでもないです。ですがこんなのが有名。)、実は様々な画風を駆使することができる人で、あるときは重厚な作品、あるときは緻密で端正な作品といった感じで実に多彩です。
中でも唯一無二の個性として花開いたのが、その眩しく柔らかい幻想的な作品だったけれど、別にそのほかの作風も手掛けられるだけの技量を持っていた方だったようです。
 また、多彩なだけでなく、地道な観察者でもあり、どこまで本当かわかりませんが、ウィキペディア記事いわく、船のマストに自分を括り付けて荒れ狂う波を観察したなんて逸話があるそうです。
 それであの行き着いた先があのボワボワなのかとか素人は考えたくなりますが、言われてみればあのボワボワの中には「昔、こんな景色を見たことがある気がする。そして、とてもきれいだと目を細めたような……」という手ごたえがあります。本当は、こんな不思議なものをこの眼球が目にしたことは、生涯一度も無いはずなのですが。
あの霧と光を噴き付けただけのような絵の中にそうした具体的な印象を込めようとしたら、まず一度必死で現物を見ないといけないのかもしれません。(ピカソも本当は物凄くリアルに描くことができたそうですし)。
 また、研究熱心な人でもあり、チラ見しただけで私の脳は理解を断念するというくらいにややこしい図式のようなものを書き連ねたものの残されています。
こうした彼の圧倒的な技量と努力が、正確で清楚という点では既に数多くの名作が生まれていた風景画の世界を、より鮮烈で奥行きあるものとし、絵画表現の新しい領域を切り開いたとすら言えるのではないでしょうか。
 つい最近まで個人的には「イギリスの中では有名な人」としか思っていなかったのですが、「ビフォアターナー」「アフターターナー」と形容してもいいくらいに、全世界規模で、絵画芸術に大きな変革を起こした人ではという気がしてきました。
 
まあ、そんな大仰な話はともかく、彼の作品のいくつかは、なんかちょっと見てると泣けてくる感じです
(彼の代表作のひとつ「Norham Castle, Sunrise」イギリス、テートギャラリーの記事はコチラ)
その眩しさと揺らぎが、胸の奥底まで染み渡り、遠い昔の思い出や夢をそっと撫でていくような。
 完全なる素人考えですが、「現実にあるものの造形を緻密に描くより、それを見ている人間の印象を再現するような風景画」という点は共通していても、モネピサロスーラといった人たちの風景画は「人間の眼が現実の色彩をどう認識するか」ということを追及し、ターナーの絵はそれよりも「人間の心が現実の風景の何を覚え、何を美しいと感じるか」というところに重点を置いて描いたものが多い気がします。
 上記の画家たちの絵が「眼が見た風景」で、ターナーの絵が「心が覚えた、あるいは夢見た風景」と言ったところでしょうか。勿論どちらにも互いの要素が含まれているわけですが。(フランス印象派の中でも、ルノアールは人の記憶や心理の感触を風景に取り入れた画家だと思います。)
 それにしても、ターナーってこんなに斬新で巧くてあからさまにきれえなのに、それこそ「『坊っちゃん』で感じの悪い人々が感じ悪く喋っているセリフに出てくる人」という以外には日本での知名度がさほどでもない(モネ・ゴッホ・ダヴィンチ的にカレンダーとかで勝手に目に入るみたいな感じではない)のは、生きているうちに名声を得て、イギリスのお金持ちが買って国外に出さなかったからとかかな……。
とか、描いていたら、日本で10月に「ターナー展」が大々的に開催されるという情報を入手いたしました。
 HPを見る限り、美しく、また彼の才能の幅がうかがえる多彩な作品が数多く来日するようなので、ぜひお出かけになってみてください。(個人的にはこのきれいな虹の絵を観るのが楽しみです)

次回記事では漱石作品自体に目を移し、「吾輩は猫である」「坊ちゃん」のご紹介をさせていただこうと思います。よろしければご覧ください。
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posted by Palum at 07:01| 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする