
お久しぶりです。間が空いてしまいましたが、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)についての記事を書かせていただきたいと思います。
前回までの小泉八雲関連の記事は以下の通りです
@小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) ※「生神様」をご紹介しています。
A小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) おすすめ作品2「草ひばり」
B小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) おすすめ作品3「停車場にて」
本日は、小泉八雲の奥さん、小泉節子さんが書かれた「思ひ出の記」という本の一部をご紹介いたします。
八雲の執筆を支え、彼のために日本の物語を探し出してきては彼に話して聞かせた節子さんの、言葉と芸術に対する鋭いセンスと、八雲への尽きない愛情のにじむ隠れた名作です。(ご紹介にあたり、一部仮名遣いを改めさせていただいております)
小泉八雲が日本に来たあと、日本をこよなく愛してその美と幻想の世界を書き記したのは既にご紹介したとおりですが、彼の物語収集は、節子さんの力添えがあってなされたものでした。
本を読んで筋を理解した後は、それを節子さんの言葉で聞かせてほしいと頼む八雲に、部屋で二人頭を突き合わせて(はたから見たらどう思われるだろうと節子さんは思ったそうですが)、そのときの登場人物たちの声の様子や、履物の音まで節子さんに聞き、一緒に想像したというのですから、執筆は共同作業だったといえなくもありません。
八雲はそのことをよく理解していて、自分の本ができたのは節子さんのおかげだと彼女に感謝をしていたそうです。(※)
生真面目で繊細で情の深いゆえに、人の見落とすことにも傷つき苦しみ、また、世渡りは不器用だった八雲ですが、彼女は彼の最大の理解者で、味方でした。
二人は「へるん語」という八雲独特の文法の日本語(「へるん」は「ハーン」の意味)でいつも話し、八雲が執筆に熱中するあまり、うわの空になったり、神経質になっても、節子さんは愛情と彼の仕事に対する敬意をもってそれを受け止めていました。
あるとき、八雲が節子さんに、あなたがタンスの開け閉めする音が、わたしの考えを壊しました。と言ったそうですが、もとから気遣っていた上に言われたその一言に、
「こんなときには私はいつも、あの美しいシャボン玉をこわさぬようにと思いました。」
と、節子さんは素直に音ひとつ立てないようにしたそうです(和箪笥でしょうからずいぶん大変だったはずですが)。八雲がつづる夢や思いを守るためだから、彼女はそんな難しい注文にも、腹を立てずに応じていました。
また、誰かの態度に対して、納得がいかないことがあると本気で怒ってしまう八雲は、真っ向からずいぶん厳しい文句の手紙を書いて、出しておいてくれと頼んでくるのですが、節子さんは、黙ってそれを留めておいたそうです。
そうすると、二、三日後には八雲の気が鎮まって、「ママさん、あの手紙出しましたか」と聞いてきます。
わざと、「ハイ」と答えると、本当にしょげて反省している様子なので、手紙を見せると、とても喜んで
「だから、ママさんに限る」
と、いそいそ少し柔らかい言い回しに書き直したりしていたそうです。
あの完璧ともいえる、美と理性と情の調和した美しい文章を書く人だけあって、八雲の集中力は相当なものだったようですが、(私事ですが、あの明治日本の芸術独特のピンと張りつめた気概と品がうらやましくてなりません。頭や手先の能力はともかく、生きているからにはあのくらい無心に何かに打ち込めないものだろうか。)そのせいで、実生活の注意力はかなりアブなっかしかったようで、執筆中にランプから煙を吹いていても気づかずに、部屋にたちこめる黒煙の中で原稿とにらみあっていたとか、食事中に、子供たちにパンを渡すつもりで自分で食べてしまったとか、コーヒーに塩を入れてしまったとかいう話も書かれています。
注意されると、
「本当です。なんぼパパ馬鹿ですね」
とは言うのですが、また創作に思いを馳せてしまうので、
「パパさんもう、夢から醒めてくだされ」と奥さんが何度も頼んでいたそうです。
「へるん語」のおかげもあるでしょうが、こんなやりとりの中にも、なんとなし温もりが通っていいて、「伴侶」という、優しい、美しい言葉が、読んでいて自然に思い出されます。
八雲が亡くなったのは、彼が五十四歳のときでした。心臓の病だったそうです。
そのときの出来事を読んだとき、そんなことがあるのだろうかと思わされたものですが、日本の自然と美を愛し、この世ならぬものをいつも見据えていた八雲だから、あのように世を去ったのかもしれません。
身内の人はどんなにか驚き、悲しかったでしょうが、まるで、八雲の作品世界の中の出来事のようでした。
亡くなる一週間ほど前には、八雲は自分の心臓の異変に気づいていて、節子さんが安静にするようにと言っても聞かずに、知人に後のことを頼む手紙を書きました。
このとき彼が、節子さんに残した言葉を以下にすべて引用させていただきます。
「この痛みも、もう大きいの参りますならば、多分私、死にましょう。そのあとで、私死にますとも、泣く、決していけません。小さい瓶、買いましょう。三銭あるいは四銭位のです。私の骨、入れるのために。そして、田舎の淋しい小寺に埋めて下さい。悲しむ、私喜ぶないです。あなた。子供とカルタして遊んで下さい。いかに私それを喜ぶ。私死にましたの知らせ、要りません。もし人が尋ねましたならば、ハア、あれは先頃なくなりました。それでよいです。」
節子さんは
「そのような哀れな話、して下さるな、そのような事決してないです」
と八雲に言いましたが、八雲は、これは冗談ではないです。と真面目に言ったそうです。
その日は、しばらくして、発作が消え、無事におさまりました。
そして亡くなる二、三日前のこと、八雲の書斎の前の桜が秋だというのに返り咲きをしました。
庭の自然の小さな変化を愛した八雲のために、節子さんはそれを伝えますと、八雲は喜んで縁側に出て「ハロー」と声をかけて桜を眺めました。
「春のように暖かいから、桜思いました、アア、今私の世界となりました、で、咲きました、しかし…」
そう言って少し考えこんだ八雲は、
「可哀相です、今に寒くなります、驚いてしぼみましょう」
といったそうです。
この桜は八雲に可愛がられ、ほめられていたから、お別れを言いに来たのだろうと、節子さんは回想しています。
亡くなった日の朝、八雲は珍しい夢を見たそうです。
「大層遠い、遠い旅をしました。今ここにこうして煙草をふかして居ます。旅をしたのが本当ですか、夢の世の中」
西洋でも日本でもない、珍しいところだったと面白そうに節子さんに話したそうです。
八雲は亡くなる直前まで、子供たちと冗談を言い合ったりして笑っていたそうですが、しばらくして、一人で節子さんのそばに来て、発作が起きたことを淋しそうに告げた後、節子さんのすすめで横になり、そして、亡くなったそうです。
「少しの苦痛もないように、口のほとりに少し笑みを含んで居りました。」
長く看病をして、あきらめのつくまで居てほしかった、あまりにはかない別れの無念を、節子さんはそう語っています。
「思ひ出の記」にはこのほかにも、八雲と節子さんの仲の良いやりとりや、八雲のチャーミングな人柄、亡くなる前の神秘的な出来事が記されています。
また、「へるん語」で語られる、八雲の日本や親しい人に向けられた言葉の響きの優しさ、そのひとつひとつが、心の中の淡雪を踏みしめられるような、不思議な感触を読み手に残します。
それは、八雲自身の、繊細な工芸品のように、凛と完成された端正な文章とはまた別の魅力です。
文庫本ではちくま書房の小泉八雲コレクション「妖怪・妖精譚」に収録されていますが、ヒヨコ舎の本も、切り紙の表紙がとても作品の雰囲気にあっていてお勧めです。こういう本が家の本棚にあるというのはなんとなく心豊かになります。
ところで、八雲の急死は、彼に大変かわいがられていた息子の一雄さんにとっても大きな衝撃でした。息子さんから見た八雲の姿を描いた文章もあるので、こちらも次回ご紹介させていただきたいと思います。
当ブログ小泉八雲関連の記事は以下の通りです。
@小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) ※「生神様」をご紹介しています。
A小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) おすすめ作品2「草ひばり」
B小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) おすすめ作品3「停車場にて」
「思ひ出の記」(小泉八雲【ラフカディオ・ハーン】の妻節子さんの本)
「父『八雲』を憶ふ(おもう)」(小泉八雲【ラフカディオ・ハーン】の息子一雄さんの本)
(※)小泉一雄 著「父八雲を憶ふ」警醒社 参照
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