【ストーリー】
雪の降る夜の戦場。
塹壕の中にも雪がちらつく中、若いイギリス兵ジムは、缶の中に一枚だけ残された、配給の薄く堅いパンを、さびしく見つめていた。
ふいに次々に名前が呼ばれ、故郷からの小包が手渡された。
包み紙を開いたジム、その顔にほほ笑みが広がった。
中には、愛する恋人ローズの写真。そして水色の包み紙に銀色の文字の、一枚のチョコレート。
光輝くようなクリスマスプレゼントだった。
そのとき、ドイツ軍側の塹壕から歌声が聞こえてきた。
「きよしこの夜」
イギリス兵たちとまったく同じように塹壕で寒さをこらえながら、白い息とともにクリスマスを祝って歌う兵士たちの中に、ジムと同じ年頃の兵士、オットーがいた。

歌詞はドイツ語だったけれど、メロディはイギリス兵にもおなじみのクリスマスの歌。
やがて、イギリス側の兵士たちも、英語で同じ歌を歌いだした。

敵軍から聞こえてきた歌声に、オットーは驚きながらも笑顔で歌い続け、両軍の兵士たちはいつしかお互いの塹壕に向かって歌声を大きくし、それは、英語とドイツ語の合唱になって、深く掘られた塹壕に、雪の冷たさを忘れさせる音楽が降り注ぎ、広がっていった。
翌朝。
雪がやみ、鉄条網に、イギリス人が愛する「ロビン(コマドリ)」が小枝のように止まっていた。ふるさとではクリスマスの象徴でもある胸の赤い可愛らしい小鳥は、やがて軽やかに飛び立っていった。
塹壕の壁にもたれて休んでいたジムは、それを見つめたあと、両手をきつくにぎりしめ、それから立ち上がった。
塹壕を超えて歌い合った「きよしこの夜」、鉄条網から飛んでいったロビン。
ジムはゆっくりと塹壕のはしごを登っていった。
できるかもしれない。叶うかもしれない。
今日はクリスマスなのだから。
まずそうっと帽子をかかげ、それから両手を挙げ、ゆっくりと、ジムは塹壕から顔を出した。
イギリス側の塹壕から人影が。
突撃してくるつもりなのか。ドイツ兵たちはいっせいに殺気立ち、休んでいた者たちも急いで臨戦態勢に入った。
ジムのそばでうとうとと眠っていたイギリス兵は、物音に目を覚まし、それからその目を疑った。ジムが塹壕から身を乗り出している。
「ジム!?やめろ!!」
ドイツ兵たちが一斉に銃を構える中、オットーは塹壕潜望鏡に駆け寄った。彼の目が、両手を挙げたジムの姿を捕えた。
「撃つな!!」
あのイギリス兵は武装していない。
それなのに、塹壕から這い出て、両手を挙げたまま、薄雪を踏みしめて、中間地帯(ノーマンズランド)に向かって歩いてくる。
オットーの頭の中に、音楽が響いた。
「きよしこの夜」。
あの兵士は、きのうの歌声の中の、誰か。
「オットー!?やめろ!!」
顔を真っ青にこわばらせて、だがオットーも塹壕から身を乗り出した。

あのイギリス兵は敵ではない、少なくとも今この瞬間は。
でも、ドイツ軍があのイギリス兵を撃てば、あっという間に殺し合いが始まるだろう。
撃たせないためには、見せるしかない。
自分がイギリス軍に撃たれない姿を。
ジムとオットーは、両手を挙げ、緊張と覚悟に大きく見開かれた目を、お互いの心の支えとしてしっかりと見つめ合いながら、一歩、また一歩と足を進めた。
昨日歌い合った「きよしこの夜」のメロディの記憶が、二人の若者の、命をかけた歩み寄りの距離を縮めていく。
二つの塹壕の兵士たちは、息を呑んでその様子を見つめていた。
戦友は、撃たれずに進んでいく。彼を撃たない敵軍、戦友と同じ危険を冒して、こちらに歩いてくる敵軍の若者……。
やがてジムの後ろにイギリス兵たちが、オットーの後ろにドイツ兵たちが、続いた。
雲の切れ目から薄紅色の光がのぞく空の下、クリスマスの朝に、人々が集った。
最初の一歩を踏み出した勇気のある若者同士が、しっかりと握手を交わした。
「ぼくはジム」
「ぼくはオットー」
少しぎこちない英語でオットーは言った。
「オットー、会えて嬉しいよ」
「ぼくも嬉しい」
それはドイツ語だったが、ジムには伝わった。
それからの彼らは、まるで古くからの仲間のように過ごした。
握手をし、お互いの帽子を交換し、両国入り混じっての記念撮影をする人さえいた。
ただ着ている服と言葉が違うだけで、一緒に笑い合っていた。
(クリスマス休戦で実際に撮影された写真、左から二番目の人物はドイツ軍兵士)※Imperial War Museums動画より
ジムはオットーに大切な写真を見せた。
「ローズ、恋人なんだ」
「素敵な人だ」
オットーはドイツ語と身振りで、そう思っていることを伝えた。
やがて周囲から歓声が上がった、誰かがサッカーを始めたのだ。
行こう。
ジムはオットーの肩を叩いてゲームに加わった。
サッカーの試合は白熱し、選手たちは思い切りぶつかり合っていたが、倒れても、誰も血を流していなかった。笑いながらすぐ立ち上がった。
観ている者たちも自軍を応援しながら、互いの良いプレーにも拍手を送っていた。

だが、温かなにぎわいを、遠くの鋭い音が断ち切った。
砲撃の音。
どこかで戦いが激しさを増している。
それは、こちらに向かってくるかもしれない。
あわただしく荷物をまとめ、兵士たちは自分たちの塹壕に戻る準備をした。それでも、別れの握手を交わすことは忘れずに。
ジムは、試合中にオットーが脱いでいたコートを手渡した。
「ありがとう」
二人は真面目な顔で、もう一度しっかりと握手をした。
「…よいクリスマスを」
ジムはそう言い、オットーもドイツ語で同じ言葉を返した。
やるせない思いで塹壕に降りてきたオットー。
コートのポケットに入れた手が何かに触れた。
中に入っていたのは、水色の包み紙に銀色の文字のチョコレート。
ジムから、オットーへ。
命がけで塹壕から出てきてくれたことへの感謝をこめた、クリスマスプレゼントだった。
オットーは塹壕の向こうを見上げた。
塹壕に戻ったジム。
今、彼が持っている食べ物は、缶の中の一枚の薄く堅いパンだけ。
それでもパンを見つめるジムの目には、満ち足りた温かい光が宿っていた。
今、このパンだけになったのは、チョコレートを贈り物にしたから。
あの宝石のように光り輝いていたチョコレートは、オットーを笑顔にしてくれているはずだから。
「Christmas is for sharing(クリスマスは分かち合うために)」
このメッセージとともに、真剣に作られた映画の、一番大切な場面を凝縮したような、心揺さぶられる、そして深く考えさせられる映像は、今も名作として語り継がれている。
当初は、クリスマスのコマーシャルとしては不適切ではないか(実際の戦争のエピソードを、企業がCMに使っていいのかなど)とも言われ、賛否両論があった作品だったそうだ。(※The Guardian記事より)
しかし、こうして10年の月日も国も超えて、映像を観た私たちに、こんな人たちが互いに殺し合わなければならなかった戦争の残酷さと、人が「兵士」ではなく、人間同士として向き合ったときの心の交流の温かさを教えてくれた功績は計り知れない。
(それに現実問題として、企業の後押しがなければ、作品の配給で利益を得ることはできない、たった3分の映像に、これだけの人材を集め、セットや衣装などを準備することはできなかっただろう)
この作品は、ジムとオットーが、両手になにも武器を持たずに歩み寄ったように、国や時代や政治的思惑を切り離して、人と人との物語として考えたい。
歌、サッカー、チョコレート。
なにかで感情を分かち合えるなら、その人たち同士が殺し合う必要など、本当は無い。
もし、この日、彼ら自身が決めることができたなら、きっともう戦わなくて済んだ。
そこにいる人たちには感情を分かち合える可能性があるのに、そこにいない人間のプランに基づいて、分かち合うことの代わりに殺し合いを強制させられる、それが戦争。
けれど、そんな戦争の中でも、戦うのは生きた人間同士だったから、押し殺された心と心が、クリスマスをきっかけに解き放たれ、温かい交流につながった瞬間が、かつて本当に存在した。
❝重要なのは、この出来事(クリスマス休戦)全体が伝えるメッセージです。それは、戦争の真っ最中の、最も困難な時期や、最も恐ろしい状況においてさえ、偉大な人間性が存在する可能性があるということです。
(アラン・クレーヴァ― 作家・第一次世界大戦研究者)CMメイキング動画解説より
この出来事は「110年前、第一次大戦中の戦線の一部で起きたこと」、「時間や場所が遠く離れた状況での話」、そんなふうには思わずに、こうした「人と人同士の真実の物語」として、今を生きる私たち自身の心の中に刻みたい。
一緒にサッカーをしながらみんなで大笑いした時間や、ジムがオットーにチョコレートを贈ったあとの満ち足りた笑顔のように、「誰かとなにかを分かち合えること」が、一番楽しく、心を豊かにしてくれる素晴らしいことだと誰もが思えたら、それをいつも忘れないでいられたら、あるいは、せめてそう思える人たちが自分たちで決めることができる世界なら、人は初めから戦争という選択をしないで済むのかもしれない。
そういう、平和への道筋が、つかのまでも本当に、垣間見えた瞬間だったのだから。
10年の月日が経ち、社会情勢が変わり、この作品にも、「偉大な人間性が存在する可能性」という言葉にも、10年前よりはるかに価値を感じる一方で、それだけ本当は心細くなっている今、もう一度放送してくれたら、そして、今度はこの作品に込められた思いとともに、世界中に広まってくれたらと思わずにはいられない作品だ。
Visitor Centre Assistant)